毅然
2007年9月12日先日、高校野球の新人戦を観戦していて、北海道の高校野球の公式戦で初めて「ボーク」を見た。
北海道の高校野球は、以前にも書いたとおりの諸般の理由により、審判員制度が特殊である。これは、一年の半分がオフシーズンである北海道の地域性が大きく関わっていると思われるが、それがゆえに閉鎖的となることもあるであろう。万国共通のはずである「Official Baseball Rules」でさえも「日本野球規則」とは一線を画すのである。そこに、野球後進地・北海道の特殊性が加わっても不思議ではない。
しかし、プロ野球では北海道日本ハムファイターズが北海道をフランチャイズに選び、駒大苫小牧高校が全国制覇を成し遂げてからというもの、俄然北海道の野球熱が熱を帯びてきたように感じている。それは、シニア野球でさえも「全国制覇」を目標として、冬季トレーニングに励む姿が当たり前になってきたことからも感じ取れる。
それでも公式戦となると、レベルの甲乙に関わらず「北海道ルール」なる見えない壁が現れる。
または「ここは日本だから、ベースボールのルールではなく、野球の規則に従おう」となるのである。
それが、北海道の高校野球では「ボークルールに甘い」と言われる素地があるように思われていた。
これが大きな転機を迎えたのが、今年の夏の甲子園である。
我らが北海道代表の駒大苫小牧高校が、試合の分水嶺となるべき場面(これは結果論である)で「ボーク」を犯した。おそらくあの投手は、あの牽制球でボークを宣告されたことは無かったのであろう。
まさに「狐につままれた」「晴天の霹靂」ような表情をし、その後明らかに落胆と不安の表情へと変わっていった。
結果はご存知のとおりである。あの事件が直接的な敗戦の要因ではないにせよ、その後のチームのミスの連鎖反応などからも、遠因・誘因になったと十分に考えられる。
さて、あのような場面を作らないために、我々審判員は何をすべきであろうか。
その答えは、北海道の投手の「甘えた投球動作」や「たるみきった牽制動作」を厳格に判定することなのであろう。
トーナメント戦で行われる大会が多い野球は、ある期間の努力の答えが「敗戦」となって出てしまうことが圧倒的に多い。「勝者」としての称号は、勝ち残った1チームにしか与えられないのであるから、他は全て敗者である。問題は、その負け方なのである。
私がまだ審判員になる前に、中学シニアのある大会(公式戦)で、「サヨナラ・ボーク」を見たことがある。投手は泣きじゃくり、野手は呆然と立ちすくむ姿を見て、「負け方」にも色々あると感じたものである。
駒大苫小牧高校が北海道野球に残した功績は大きいが、そのひとつに今回の事件が数えられると思っている。
これはあくまでも審判員である私個人の考え方であるが、あの事件をきっかけにして、北海道の技術の底上げになってくれればと思っている。
あの事件を反映したのか、先日の「ボーク」は、以前までは明らかに宣告していなかった「牽制動作」であった。
あの動作に対して、毅然と「ボーク」を宣告した審判員の勇気に拍手を送りたい。
北海道の高校野球は、以前にも書いたとおりの諸般の理由により、審判員制度が特殊である。これは、一年の半分がオフシーズンである北海道の地域性が大きく関わっていると思われるが、それがゆえに閉鎖的となることもあるであろう。万国共通のはずである「Official Baseball Rules」でさえも「日本野球規則」とは一線を画すのである。そこに、野球後進地・北海道の特殊性が加わっても不思議ではない。
しかし、プロ野球では北海道日本ハムファイターズが北海道をフランチャイズに選び、駒大苫小牧高校が全国制覇を成し遂げてからというもの、俄然北海道の野球熱が熱を帯びてきたように感じている。それは、シニア野球でさえも「全国制覇」を目標として、冬季トレーニングに励む姿が当たり前になってきたことからも感じ取れる。
それでも公式戦となると、レベルの甲乙に関わらず「北海道ルール」なる見えない壁が現れる。
または「ここは日本だから、ベースボールのルールではなく、野球の規則に従おう」となるのである。
それが、北海道の高校野球では「ボークルールに甘い」と言われる素地があるように思われていた。
これが大きな転機を迎えたのが、今年の夏の甲子園である。
我らが北海道代表の駒大苫小牧高校が、試合の分水嶺となるべき場面(これは結果論である)で「ボーク」を犯した。おそらくあの投手は、あの牽制球でボークを宣告されたことは無かったのであろう。
まさに「狐につままれた」「晴天の霹靂」ような表情をし、その後明らかに落胆と不安の表情へと変わっていった。
結果はご存知のとおりである。あの事件が直接的な敗戦の要因ではないにせよ、その後のチームのミスの連鎖反応などからも、遠因・誘因になったと十分に考えられる。
さて、あのような場面を作らないために、我々審判員は何をすべきであろうか。
その答えは、北海道の投手の「甘えた投球動作」や「たるみきった牽制動作」を厳格に判定することなのであろう。
トーナメント戦で行われる大会が多い野球は、ある期間の努力の答えが「敗戦」となって出てしまうことが圧倒的に多い。「勝者」としての称号は、勝ち残った1チームにしか与えられないのであるから、他は全て敗者である。問題は、その負け方なのである。
私がまだ審判員になる前に、中学シニアのある大会(公式戦)で、「サヨナラ・ボーク」を見たことがある。投手は泣きじゃくり、野手は呆然と立ちすくむ姿を見て、「負け方」にも色々あると感じたものである。
駒大苫小牧高校が北海道野球に残した功績は大きいが、そのひとつに今回の事件が数えられると思っている。
これはあくまでも審判員である私個人の考え方であるが、あの事件をきっかけにして、北海道の技術の底上げになってくれればと思っている。
あの事件を反映したのか、先日の「ボーク」は、以前までは明らかに宣告していなかった「牽制動作」であった。
あの動作に対して、毅然と「ボーク」を宣告した審判員の勇気に拍手を送りたい。
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腰痛
2007年9月10日人間は二足歩行をするようになってから、多かれ少なかれ腰痛に悩まされ続けてきた。人間の生活様式や行動パターンが腰痛を引き起こし、悩ませているのであろう。
斯く言う私も腰痛持ちである。今から30年余り前の夏にギックリ腰を発症してから、ずっと腰痛に悩まされ続けている。それでも、若い頃は無理が利いたが、昨今は疲労が「腰痛」という痛みになって現れるようになった。
野球選手にも腰痛持ちは多いと聞く。野球選手の運動機構で多いのが、回旋運動である。ボールを投げる時やバットを振る時に、脊柱を中心とした強い回旋運動を行うことで、早いボールを投げることが出来たり、遠くへボールを打ち返すことが出来るようになる。
野球の基本的なトレーニング方法として、昔から「素振りとキャッチボール」が推奨されてきたが、これらは回旋運動の反復であり、腰への負荷の繰返しである。
特に、右投げ右打ちの選手は左側への強い回旋を繰返し、左投げ左打ちの選手は右側へと、一方通行の運動となるのである。ちょっと考えただけでも、身体のバランス的に問題がありそうなのは素人の私にでも理解できる。これらの一方通行の運動を成長期の小中学生が行うと、骨化が不十分であるために身体が歪む原因となり、骨格が出来上がったころに障害となって現れるのである。
実は、この時期に椎間板ヘルニア症候群の予備軍になる子供たちが多いことは、あまり知られていない。
人間は年齢を重ねるとともに腹筋が弱くなる。お年寄りの腰が曲がった状態となるのは、腹筋が弱ってくるからである。腰痛がひどくなると、椅子から立ち上がるにも腰が伸びない状態となり、まるで20歳も老けたような情けない姿勢となってしまうのは、腹筋が弱体化している証拠なのである。
腰痛予防としては、腹筋を鍛えることが有効であるが、いきなり高校生のクラブ活動のような激しい腹筋は「怖さ」もあり出来ないし、そこまでは必要ない。
私は、毎朝目が覚めると、布団の中で仰向けの状態となり、片足ずつ10回と両足10回、計30回膝を胸に引き寄せる運動をしている。この運動は、かなりひどり腰痛の状態でも可能であり、毎朝やることで腰の痛みが徐々に退いていくことを実感できる。
発毛剤の宣伝ではないが、「一週間続けてごらん」である。
球審をしていると過度なスクワット運動を行うため、姿勢が前屈みになると腰への負担が増すことから、出来るだけ胸を張り、胸が正面を向くように意識している。それにしても、長時間となると腰の張りはそれなりにある。
プロの審判員は、ボールを投手へ投げられなくなったら「引退」が近づくと聞いたことがある。
私も出来る限り、ファウルボールなどの後のボール交換は投手へ投げようと努力しているが、寄る年波には勝てず、肩の衰えはひどいものである。
一度、自信を失うとボールを投げることが「恐怖」となり、いわゆる「イップス状態」となってしまうのである。
最近は、捕手にボールを渡すことが多くなってきたが、何とかして投手へボールを渡したいという思いは強い。
昨日は試合が早く終わり、球場が近かったせいもあり、いつもよりも早く帰宅した。
まだ陽が落ちるまで時間があることから、高校野球を終わった愚息を誘って、近くの小学校のグラウンドに行った。
愚息が野球を始めた頃は、少しでも上手にしてやろうと、少年野球の練習後に寄っては陽が暮れるまでキャッチボールやノックをしたものである。
愚息とキャッチボールをやるのも、久し振りであった。もしかしたら、高校に進学してからは初めてかもしれない。
自身の肩の衰えと、愚息の異常に伸びる球筋に嫉妬感と畏怖の念を抱きながら、わずかな時間だが楽しんだ。
私は、汗だくになりながら必死にボールを捕りボールを投げるが、愚息は涼しいげな顔で汗ひとつ流さずにボールを返してくる。
「父さん、肩良くなったね」と言われ、嬉しくもあり、情けなくもあり。
お陰で、今日は、猛烈に腰が痛い。
斯く言う私も腰痛持ちである。今から30年余り前の夏にギックリ腰を発症してから、ずっと腰痛に悩まされ続けている。それでも、若い頃は無理が利いたが、昨今は疲労が「腰痛」という痛みになって現れるようになった。
野球選手にも腰痛持ちは多いと聞く。野球選手の運動機構で多いのが、回旋運動である。ボールを投げる時やバットを振る時に、脊柱を中心とした強い回旋運動を行うことで、早いボールを投げることが出来たり、遠くへボールを打ち返すことが出来るようになる。
野球の基本的なトレーニング方法として、昔から「素振りとキャッチボール」が推奨されてきたが、これらは回旋運動の反復であり、腰への負荷の繰返しである。
特に、右投げ右打ちの選手は左側への強い回旋を繰返し、左投げ左打ちの選手は右側へと、一方通行の運動となるのである。ちょっと考えただけでも、身体のバランス的に問題がありそうなのは素人の私にでも理解できる。これらの一方通行の運動を成長期の小中学生が行うと、骨化が不十分であるために身体が歪む原因となり、骨格が出来上がったころに障害となって現れるのである。
実は、この時期に椎間板ヘルニア症候群の予備軍になる子供たちが多いことは、あまり知られていない。
人間は年齢を重ねるとともに腹筋が弱くなる。お年寄りの腰が曲がった状態となるのは、腹筋が弱ってくるからである。腰痛がひどくなると、椅子から立ち上がるにも腰が伸びない状態となり、まるで20歳も老けたような情けない姿勢となってしまうのは、腹筋が弱体化している証拠なのである。
腰痛予防としては、腹筋を鍛えることが有効であるが、いきなり高校生のクラブ活動のような激しい腹筋は「怖さ」もあり出来ないし、そこまでは必要ない。
私は、毎朝目が覚めると、布団の中で仰向けの状態となり、片足ずつ10回と両足10回、計30回膝を胸に引き寄せる運動をしている。この運動は、かなりひどり腰痛の状態でも可能であり、毎朝やることで腰の痛みが徐々に退いていくことを実感できる。
発毛剤の宣伝ではないが、「一週間続けてごらん」である。
球審をしていると過度なスクワット運動を行うため、姿勢が前屈みになると腰への負担が増すことから、出来るだけ胸を張り、胸が正面を向くように意識している。それにしても、長時間となると腰の張りはそれなりにある。
プロの審判員は、ボールを投手へ投げられなくなったら「引退」が近づくと聞いたことがある。
私も出来る限り、ファウルボールなどの後のボール交換は投手へ投げようと努力しているが、寄る年波には勝てず、肩の衰えはひどいものである。
一度、自信を失うとボールを投げることが「恐怖」となり、いわゆる「イップス状態」となってしまうのである。
最近は、捕手にボールを渡すことが多くなってきたが、何とかして投手へボールを渡したいという思いは強い。
昨日は試合が早く終わり、球場が近かったせいもあり、いつもよりも早く帰宅した。
まだ陽が落ちるまで時間があることから、高校野球を終わった愚息を誘って、近くの小学校のグラウンドに行った。
愚息が野球を始めた頃は、少しでも上手にしてやろうと、少年野球の練習後に寄っては陽が暮れるまでキャッチボールやノックをしたものである。
愚息とキャッチボールをやるのも、久し振りであった。もしかしたら、高校に進学してからは初めてかもしれない。
自身の肩の衰えと、愚息の異常に伸びる球筋に嫉妬感と畏怖の念を抱きながら、わずかな時間だが楽しんだ。
私は、汗だくになりながら必死にボールを捕りボールを投げるが、愚息は涼しいげな顔で汗ひとつ流さずにボールを返してくる。
「父さん、肩良くなったね」と言われ、嬉しくもあり、情けなくもあり。
お陰で、今日は、猛烈に腰が痛い。
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INTERFERENCE & NOTHING (2)
2007年9月9日先週の土日にあった「妨害」に関するお題の二例目を紹介しましょう。
<事例2>走者が三塁へ走った。捕手は投手からの投球を捕球後、ステップを踏んで三塁へ送球する。「ガツッツ!?」という音と共に、送球は大きくファウルゾーンへ逸れた。右打者のヘルメットに、捕手の投球が当たったのである。
捕手は思わず『邪魔だ』と叫び、守備側ダッグアウトからは『妨害』が叫ばれた。ボールはたまたま三塁コーチャーズボックスの後方まで山なりに飛んで行き、三塁手が捕球した。走者は三塁へ悠々と到達したが、守備機会を失ったと思っている捕手は釈然としない。
この場合は、前記と条件がやや違う。打者はボールを見送り、バッタースボックス内でほとんど動いていないのである。つまり、打者は居るべき場所に只立って居たのである。
この解釈は、走者の狭殺プレイの際に、送球が走者の身体に当たった場合を考えると、状況が同じであることが理解しやすい。
つまり、走者が走路内を走っている分には、送球が当たっても守備妨害とはならず、ボールインプレイである。
腕を回したり、捕球体勢をしている方向へ身体を寄せたりしない限り、問題はない。
この条件を打者に当てはめれば、この事例の場合は「NOTHING;ナッシング」でボールインプレイとなる。
あの送球が、三塁手が捕球不可能な場所へ跳ねたために、三塁へ到達した走者が一気に本塁まで来た場合は、おそらく揉めていたと思われる。
揉めたところで「NOTHING」に変わりはないのだが、説明が必要となったであろう。
<事例2>走者が三塁へ走った。捕手は投手からの投球を捕球後、ステップを踏んで三塁へ送球する。「ガツッツ!?」という音と共に、送球は大きくファウルゾーンへ逸れた。右打者のヘルメットに、捕手の投球が当たったのである。
捕手は思わず『邪魔だ』と叫び、守備側ダッグアウトからは『妨害』が叫ばれた。ボールはたまたま三塁コーチャーズボックスの後方まで山なりに飛んで行き、三塁手が捕球した。走者は三塁へ悠々と到達したが、守備機会を失ったと思っている捕手は釈然としない。
この場合は、前記と条件がやや違う。打者はボールを見送り、バッタースボックス内でほとんど動いていないのである。つまり、打者は居るべき場所に只立って居たのである。
この解釈は、走者の狭殺プレイの際に、送球が走者の身体に当たった場合を考えると、状況が同じであることが理解しやすい。
つまり、走者が走路内を走っている分には、送球が当たっても守備妨害とはならず、ボールインプレイである。
腕を回したり、捕球体勢をしている方向へ身体を寄せたりしない限り、問題はない。
この条件を打者に当てはめれば、この事例の場合は「NOTHING;ナッシング」でボールインプレイとなる。
あの送球が、三塁手が捕球不可能な場所へ跳ねたために、三塁へ到達した走者が一気に本塁まで来た場合は、おそらく揉めていたと思われる。
揉めたところで「NOTHING」に変わりはないのだが、説明が必要となったであろう。
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INTERFERENCE & NOTHING (1)
2007年9月8日先週の土日にあった「妨害」に関する事例を紹介します。
<事例1>走者が二塁へ走った。打者はバントの構えからバットを引いた。捕手は投球を捕球し、二塁へ送球しようとした。その時、「バシッ、バシッ」と音がして、捕手がボールを落とした。打者の「引いたバット」が捕手のミットに当たり、ボールを落としてしまった。
この行為は故意の有無に関わらず、走者が二塁でアウトにならない限り、「守備妨害(インターフェア)」を適用する。
【6.06 次の場合、打者は反則行為でアウトになる】(c)打者がバッタースボックスの外に出るか、あるいはなんらかの動作によって、本塁での捕手のプレイ及び捕手の守備または送球を妨害した場合。しかし例外として、進塁しようとしていた走者がアウトになった場合、及び得点しようとした走者が打者の妨害によってアウトの宣告を受けた場合は、打者はアウトにはならない。
この場面で、「インターフェア・バッターアウト」とやると、大抵の選手および指導者は疑問を差し挟む。そのもっともらしい理由が「故意ではない」である。
確かに、打者がわざと捕手のミットをバットで触れたとは思えない。
しかし「バントの構えからバットを引く」という行為自体、何の目的でやるのであろうか。ましてストライクの投球に対して「バントの構えをしてバットを引く」場合などは、その目的は明確である。
その目的とは「盗塁を助ける」である。何故その行為が盗塁を助けることになるのかを考えると、「捕手の捕球や送球をし難くする」と考えられているからである。
これは、立派な『妨害行為』である。
屁理屈でも構わないから、この行為により「走者が速く走れるようになる」ことでも証明しない限り、判定は「妨害」である。
ゆえに、ルールブックには「故意の有無」を明確にせず、「打者がなんらかの動作によって」としているのであろうと思われる。
では、ヒットエンドランなどで、打者が空振りし、その勢いで捕手の前に出てしまった場合などはどうであろうか。このケースは良くある。これは、【原注】に以下のような記載がある。
【6.06(c)・原注】(前略)打者が空振りし、自然の打撃動作によるスイングの余勢か振りもどしのとき、その所持するバットが、捕手がまだ確捕しない投球に触れるか、または捕手に触れたために、捕手が確捕できなかったと審判員が判断した場合は、打者の妨害とはしないが、ボールデッドとして走者の進塁を許さない。打者については、第一ストライク、第二ストライクにあたるときは、ただストライクを宣告し、第三ストライクにあたるときに打者をアウトにする (2ストライク後の "ファウルチップ" も含む)。
これを読む限りは、攻撃側に猶予はない。
例えば、無死一塁で走者がスタートし、打者が空振りした場合には、「捕手が二塁送球して、走者アウト」になれば、何事も無かったかのように一死走者無しで再開。
走者の盗塁が成功し「捕手の送球を邪魔するような行動」があれば、打者アウトで走者を戻し、一死走者一塁から再開。
打者のバットが不可抗力で捕手に当たった場合は、走者を戻して、無死走者一塁で再開。ただしボールカウントは通常とおり数える。
以上で共通するのは、走者は進塁できないということである。
野球における打者の役割は「走者」になることであり、走者の役割は「進塁」し「得点」することである。
このルールは、「損して得獲れ」的な作戦を許さない項目である。
<事例1>走者が二塁へ走った。打者はバントの構えからバットを引いた。捕手は投球を捕球し、二塁へ送球しようとした。その時、「バシッ、バシッ」と音がして、捕手がボールを落とした。打者の「引いたバット」が捕手のミットに当たり、ボールを落としてしまった。
この行為は故意の有無に関わらず、走者が二塁でアウトにならない限り、「守備妨害(インターフェア)」を適用する。
【6.06 次の場合、打者は反則行為でアウトになる】(c)打者がバッタースボックスの外に出るか、あるいはなんらかの動作によって、本塁での捕手のプレイ及び捕手の守備または送球を妨害した場合。しかし例外として、進塁しようとしていた走者がアウトになった場合、及び得点しようとした走者が打者の妨害によってアウトの宣告を受けた場合は、打者はアウトにはならない。
この場面で、「インターフェア・バッターアウト」とやると、大抵の選手および指導者は疑問を差し挟む。そのもっともらしい理由が「故意ではない」である。
確かに、打者がわざと捕手のミットをバットで触れたとは思えない。
しかし「バントの構えからバットを引く」という行為自体、何の目的でやるのであろうか。ましてストライクの投球に対して「バントの構えをしてバットを引く」場合などは、その目的は明確である。
その目的とは「盗塁を助ける」である。何故その行為が盗塁を助けることになるのかを考えると、「捕手の捕球や送球をし難くする」と考えられているからである。
これは、立派な『妨害行為』である。
屁理屈でも構わないから、この行為により「走者が速く走れるようになる」ことでも証明しない限り、判定は「妨害」である。
ゆえに、ルールブックには「故意の有無」を明確にせず、「打者がなんらかの動作によって」としているのであろうと思われる。
では、ヒットエンドランなどで、打者が空振りし、その勢いで捕手の前に出てしまった場合などはどうであろうか。このケースは良くある。これは、【原注】に以下のような記載がある。
【6.06(c)・原注】(前略)打者が空振りし、自然の打撃動作によるスイングの余勢か振りもどしのとき、その所持するバットが、捕手がまだ確捕しない投球に触れるか、または捕手に触れたために、捕手が確捕できなかったと審判員が判断した場合は、打者の妨害とはしないが、ボールデッドとして走者の進塁を許さない。打者については、第一ストライク、第二ストライクにあたるときは、ただストライクを宣告し、第三ストライクにあたるときに打者をアウトにする (2ストライク後の "ファウルチップ" も含む)。
これを読む限りは、攻撃側に猶予はない。
例えば、無死一塁で走者がスタートし、打者が空振りした場合には、「捕手が二塁送球して、走者アウト」になれば、何事も無かったかのように一死走者無しで再開。
走者の盗塁が成功し「捕手の送球を邪魔するような行動」があれば、打者アウトで走者を戻し、一死走者一塁から再開。
打者のバットが不可抗力で捕手に当たった場合は、走者を戻して、無死走者一塁で再開。ただしボールカウントは通常とおり数える。
以上で共通するのは、走者は進塁できないということである。
野球における打者の役割は「走者」になることであり、走者の役割は「進塁」し「得点」することである。
このルールは、「損して得獲れ」的な作戦を許さない項目である。
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スクランブル発進
2007年9月7日私は審判仲間から、トラブルメーカーのイメージを持たれているようだが、先日はまさに「トラブルメーカー」たる由縁であった。
昨年来、私の行く所(球場)では何かが起きている。
試合時間が長いのは日常茶飯事である。2時間ゲームは当たり前のようになってしまっている。
正常に進行している試合にも関わらず、1点差を争うクロスゲームになることで長時間ゲームになる場合もある。これは精神的に疲れる。
延長戦も多い。逆にコールドゲームは少ないように思う。それはそれで、緊張感を持ちながらゲームに挑めるのであるから結構なことではあるが、如何せん試合展開がややこしくなる。
この日は、第一試合の球審を務め、1時間45分という試合時間で納めることができた。私としては上出来であり、両チーム点を取り合った割には、試合時間は短縮できたと思っていた。
第二試合は控審判であったが、少し早めの昼食を食べながら、塁審の動きを追っていた。穴が開きそうになった場合、最悪は控え審判も交えた協議となることから「見ていなかった」では済まなくなる。緊張感と集中力は、ある程度高めていなければならない。この試合は2時間弱であったため、開会式による試合開始の遅れを完全に取り戻した。
そんなこんなで、第三試合で私は二塁塁審に入った。
今年は、球審と二塁塁審の出場機会が断然多い。時折、練習試合などで一塁や三塁をやると、戸惑うこともある。人間、同じことばかりやると慢性化してくるのと、他のことの技術を忘れてしまうという二重のリスクが生じる。慣れることは恐ろしい。そして、苦労して身に付けた技術を忘れることは恐ろしい。
この試合は最終的には、1点を争うゲームとなったことから試合時間は1時間30分程度で終了した。
何もなければ非常に良い一日であったのだが、やはりトラブルメーカーであった。
実際には、私が直接的な関与をした訳ではないのだが、それに巻き込まれたのは事実である。
この第三試合は、本格派投手と技巧派投手の一騎打ちとなった。当然、球審も一球・一球への集中力を高める努力をしていたのであろう。二塁塁審として、判定を見ていいたが、実に安定したジャッジであった。コース・高さが安定しているのである。「このまま最後まで安定していると良いな」などと考えていると碌なことはないのが世の常か。
3回の表に事件は起きた。打者が打った打球はファウルチップとなって後方へ鋭く飛んだ。
その打球が、球審である同僚の左肘内側に直撃したのである。直撃後は「痛そう」な素振りを繰返し、一塁側ダッグアウトから冷却スプレーを借りて吹き付けていた。
実は私自身、当たった瞬間の記憶が無く、どの程度の打球であったか不明なのであるが、同僚はジャッジ継続不可能となってしまったのである。
通常は「控審判」が負傷退場した審判のジャッジを受け持つのであるが、球審交替という非常事態で、私にお鉢が回ってきたのである。
正に「スクランブル発進」である。
試合は、両チーム無得点の状態で凌ぎあっている緊迫した状態である。このような好ゲームに水を差すわけにはいかない。私は大急ぎで防具を装着した。
新しいボールを受け取り、5分間の中断の後に「プレイボール」を宣言した。
それからは、試合の流れを壊さないように考え、テンポとメリハリを意識してジャッジメントした。
スクランブルの割には冷静でいられたのは、この試合が本日3試合目の球審であり、目が十分に慣れた状態であったのと、連続ではなく時間的なインターバルがあったことが疲れを感じずに良いコンディションで挑めた理由であったと思う。
また、同僚の代行を務める責任感が、いつもよりもメリハリの利いたジャッジメントになったのだろう。
ただし「判定のテンポ」を意識しすぎたあまり、判定が早めになり勝ちではあったのは事実である。
このような経験も、なかなか踏めないであろう。
先日は長い一日であり、色々な経験を踏ませていただいた一日であったが、「トラブルメーカー」としての面目躍如といったところか。
昨年来、私の行く所(球場)では何かが起きている。
試合時間が長いのは日常茶飯事である。2時間ゲームは当たり前のようになってしまっている。
正常に進行している試合にも関わらず、1点差を争うクロスゲームになることで長時間ゲームになる場合もある。これは精神的に疲れる。
延長戦も多い。逆にコールドゲームは少ないように思う。それはそれで、緊張感を持ちながらゲームに挑めるのであるから結構なことではあるが、如何せん試合展開がややこしくなる。
この日は、第一試合の球審を務め、1時間45分という試合時間で納めることができた。私としては上出来であり、両チーム点を取り合った割には、試合時間は短縮できたと思っていた。
第二試合は控審判であったが、少し早めの昼食を食べながら、塁審の動きを追っていた。穴が開きそうになった場合、最悪は控え審判も交えた協議となることから「見ていなかった」では済まなくなる。緊張感と集中力は、ある程度高めていなければならない。この試合は2時間弱であったため、開会式による試合開始の遅れを完全に取り戻した。
そんなこんなで、第三試合で私は二塁塁審に入った。
今年は、球審と二塁塁審の出場機会が断然多い。時折、練習試合などで一塁や三塁をやると、戸惑うこともある。人間、同じことばかりやると慢性化してくるのと、他のことの技術を忘れてしまうという二重のリスクが生じる。慣れることは恐ろしい。そして、苦労して身に付けた技術を忘れることは恐ろしい。
この試合は最終的には、1点を争うゲームとなったことから試合時間は1時間30分程度で終了した。
何もなければ非常に良い一日であったのだが、やはりトラブルメーカーであった。
実際には、私が直接的な関与をした訳ではないのだが、それに巻き込まれたのは事実である。
この第三試合は、本格派投手と技巧派投手の一騎打ちとなった。当然、球審も一球・一球への集中力を高める努力をしていたのであろう。二塁塁審として、判定を見ていいたが、実に安定したジャッジであった。コース・高さが安定しているのである。「このまま最後まで安定していると良いな」などと考えていると碌なことはないのが世の常か。
3回の表に事件は起きた。打者が打った打球はファウルチップとなって後方へ鋭く飛んだ。
その打球が、球審である同僚の左肘内側に直撃したのである。直撃後は「痛そう」な素振りを繰返し、一塁側ダッグアウトから冷却スプレーを借りて吹き付けていた。
実は私自身、当たった瞬間の記憶が無く、どの程度の打球であったか不明なのであるが、同僚はジャッジ継続不可能となってしまったのである。
通常は「控審判」が負傷退場した審判のジャッジを受け持つのであるが、球審交替という非常事態で、私にお鉢が回ってきたのである。
正に「スクランブル発進」である。
試合は、両チーム無得点の状態で凌ぎあっている緊迫した状態である。このような好ゲームに水を差すわけにはいかない。私は大急ぎで防具を装着した。
新しいボールを受け取り、5分間の中断の後に「プレイボール」を宣言した。
それからは、試合の流れを壊さないように考え、テンポとメリハリを意識してジャッジメントした。
スクランブルの割には冷静でいられたのは、この試合が本日3試合目の球審であり、目が十分に慣れた状態であったのと、連続ではなく時間的なインターバルがあったことが疲れを感じずに良いコンディションで挑めた理由であったと思う。
また、同僚の代行を務める責任感が、いつもよりもメリハリの利いたジャッジメントになったのだろう。
ただし「判定のテンポ」を意識しすぎたあまり、判定が早めになり勝ちではあったのは事実である。
このような経験も、なかなか踏めないであろう。
先日は長い一日であり、色々な経験を踏ませていただいた一日であったが、「トラブルメーカー」としての面目躍如といったところか。
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イリーガル −ILLEGAL−
2007年9月6日ルールブックには、反則打球に関する記載が以下のようにある。
【6.06 次の場合、打者は反則行為でアウトになる】(a)打者が片足または両足を完全にバッタースボックスの外に置いて打った場合。【原注】 本項は、打者が打者席の外に出てバットにボールを当てた(フェアかファウルを問わない)とき、アウトを宣告されることを述べている(後略)。
バッタースボックスから足を出して打撃をする「反則打球」が起こる瞬間は、ある程度予測がつくものである。通常の打撃姿勢で足が出ることはほとんどない。
よほど走り打つか、攻撃側のサインの関係でアウトコースの「糞ボール」に無理矢理当てようとしない限り、バッタースボックスから足が出ることは無い。
一番多いケースが「バント」の時であるから、そのような作戦が考えられる局面となった時は、球審は「心づもり」をして注意して臨めば良い。
「送りバント」の場合は、捕手側の足がバッタースボックスから出るパターンが非常に多い。打撃姿勢から、後ろ足を一歩前に出した状態でバントをするため、投手側の足がピボットになり、捕手側の足がホームベース側へ出てしまうのである。
一方「セーフティバント」の場合は、打者の左・右の違いや走り出し方にもよるので、どちらの足とも言えない。
いずれにしても、ある程度の予測はできるが、実際には球審の集中力がかなり上がっている状態でなければ、「判定」まで行き着くことは難しい。
はっきりと「事実」が見えた時にしか「判定」しきれないのが実態であろう。「何となく出たような気がする」では「判定」までは行き着かない。
よく「足跡」が残っているなどというが、試合開始後から序盤の内であれば考えられるが、ゲーム後半の本塁周りは何がなんだか分からない状態となっている。まして、バッタースボックスの白線がほとんど消えてしまった状態では、「事実」を観ようにも判断基準がないのであるから難しいことこの上ない。
ホームベースを踏んでくれるぐらい、バッタースボックスから出てくれると判断しやすいが、どちらとも言えない中途半端は「推定無罪」となることが多い。
かといって、これを確実に見ようとしていると、他の判定(ストライク・ボール・インターフェア・スイングの有無など)の確認がおろそかになってしまう。
「ILLEGAL」は、野球を知っているテクニシャンがやってしまうことが多い。いわゆる「小手先の野球が上手い選手」に多いのである。走りながらの「ドラッグバント」や、犠牲の意味を知っている選手が「どんなボールも当てる」とした場合などに多い。
また、投球のコースや球種にも左右される。
セーフティバントは意表を突いた場合は成功率が上がる。いかにも「強打するぞ」と見せかけ、守備側の意表を突いて仕掛けるのである。ところが、何度も同じ構えをしていると守備側に察知されてしまうので、一発勝負的な作戦となるため、ストライク近辺に来たボールに対して反応してしまう。当然、その投手の一番速い球に合わせたタイミングで仕掛けるので、そこに変化球が来た場合、完全に身体が前のめりになることが多い。
このような場合は、足がバッタースボックス内に留まらずに完全に出てしまうのである。
これらの視点から考えると、審判の判定は「事実」が見えるかどうかにあり、それも連続するプレイの中で、いかに瞬間的に捉えられるかであろう。それには、ある程度の慣れと勘と読みが必要になってくる。
【6.06 次の場合、打者は反則行為でアウトになる】(a)打者が片足または両足を完全にバッタースボックスの外に置いて打った場合。【原注】 本項は、打者が打者席の外に出てバットにボールを当てた(フェアかファウルを問わない)とき、アウトを宣告されることを述べている(後略)。
バッタースボックスから足を出して打撃をする「反則打球」が起こる瞬間は、ある程度予測がつくものである。通常の打撃姿勢で足が出ることはほとんどない。
よほど走り打つか、攻撃側のサインの関係でアウトコースの「糞ボール」に無理矢理当てようとしない限り、バッタースボックスから足が出ることは無い。
一番多いケースが「バント」の時であるから、そのような作戦が考えられる局面となった時は、球審は「心づもり」をして注意して臨めば良い。
「送りバント」の場合は、捕手側の足がバッタースボックスから出るパターンが非常に多い。打撃姿勢から、後ろ足を一歩前に出した状態でバントをするため、投手側の足がピボットになり、捕手側の足がホームベース側へ出てしまうのである。
一方「セーフティバント」の場合は、打者の左・右の違いや走り出し方にもよるので、どちらの足とも言えない。
いずれにしても、ある程度の予測はできるが、実際には球審の集中力がかなり上がっている状態でなければ、「判定」まで行き着くことは難しい。
はっきりと「事実」が見えた時にしか「判定」しきれないのが実態であろう。「何となく出たような気がする」では「判定」までは行き着かない。
よく「足跡」が残っているなどというが、試合開始後から序盤の内であれば考えられるが、ゲーム後半の本塁周りは何がなんだか分からない状態となっている。まして、バッタースボックスの白線がほとんど消えてしまった状態では、「事実」を観ようにも判断基準がないのであるから難しいことこの上ない。
ホームベースを踏んでくれるぐらい、バッタースボックスから出てくれると判断しやすいが、どちらとも言えない中途半端は「推定無罪」となることが多い。
かといって、これを確実に見ようとしていると、他の判定(ストライク・ボール・インターフェア・スイングの有無など)の確認がおろそかになってしまう。
「ILLEGAL」は、野球を知っているテクニシャンがやってしまうことが多い。いわゆる「小手先の野球が上手い選手」に多いのである。走りながらの「ドラッグバント」や、犠牲の意味を知っている選手が「どんなボールも当てる」とした場合などに多い。
また、投球のコースや球種にも左右される。
セーフティバントは意表を突いた場合は成功率が上がる。いかにも「強打するぞ」と見せかけ、守備側の意表を突いて仕掛けるのである。ところが、何度も同じ構えをしていると守備側に察知されてしまうので、一発勝負的な作戦となるため、ストライク近辺に来たボールに対して反応してしまう。当然、その投手の一番速い球に合わせたタイミングで仕掛けるので、そこに変化球が来た場合、完全に身体が前のめりになることが多い。
このような場合は、足がバッタースボックス内に留まらずに完全に出てしまうのである。
これらの視点から考えると、審判の判定は「事実」が見えるかどうかにあり、それも連続するプレイの中で、いかに瞬間的に捉えられるかであろう。それには、ある程度の慣れと勘と読みが必要になってくる。
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激突
2007年9月5日ファウルボールの飛球がフェンス際へ飛んだ場合、審判員(球審および1・3塁審)はフェンス際の捕球を確認する必要がある。これは、フェンスに当たったボールを捕球したり、観客の妨害などの有無を見るためである。
審判員に成り立ての頃は、野手よりも早く反応し、落下地点近くまで駆けて行ったものである。
この場合の「基本動作」としては、あくまでも野手を優先させた上で、フェンス際のトラブルを確認できるよう角度を持たせてポジショニングする。あとは、グラブの正面を確認できる方向へ走り込めれば最高であろう。
昨年、捕手よりも早くバックネット近くまでファウルボールを追って行って、捕手が来なかったという珍プレイがあった。ボールばかりを注視し、追ったが故の笑い話である。
球審は、捕手が動いたら逆側に身体を開けと教えられるが、始めた頃はボールを一生懸命追ってしまうものである。野手の背中側からのジャッジ&コールは説得力が無く、決して推奨されることではない。
たとえ落球しても「ファウルボール」でボールデッドになり、確捕していれば「アウト」であるのだから、背中側にポジショニングせざる得ない場合は、ボールの所在を覗き込んででも確認した上でジャッジしても問題はない。
深い位置でのファウルボールの場合は、走者のタッグアップもあり得るが、野手が捕球したか否かには関係がない。触れた時点でタッグアップが可能であり、落球した場合はファウルボールであるから走者は進塁できない。ファウルボールは慌てず騒がず、されど角度だけは取ってフェンス際まで走ることができれば良いであろう。
先日のゲームでは、クロスゲームで回も押し迫った時に、一塁手がファウルボールに対しフライングキャッチを試み、そのままコンクリートのフェンスに激突した。私はファウルボールがフェンス際に上がったことから、最短距離でフェンスに近づいたため、一塁手が跳んでから激突するまでをスローモーションのように見てしまった。一塁手は左の肘を負傷して途中交替となったが、あのようなプレイが日常茶飯事行われていることを考えると、フェンスの安全性を疑問視してしまう。
ルールブックには、野球は「囲いある競技場」で行うスポーツであるとされ、ファウルラインから内側の寸法は勿論、球場の大きさも「〇〇m以上」という表記で記されている。
外野フェンスは250フィート(約76m)以上で、可能であれば両翼320フィート(98m)、中堅400フィート(約122m)以上あることが優先して望まれるとしている。またファウルエリアは、ファウルラインから60フィート(18.3m)以上にフェンスを設けるよう示されている。
他のスポーツで、競技場の大きさがこれだけいい加減なスポーツも珍しい。特に球技で、フィールドの大きさがまちまちなのは野球だけであろう。
それでも日本の球場は左右対称となっている場合がほとんどである。これも国民性が反映されているように感じる。
一方日本人メジャーリーガーの影響で、すっかりお馴染みになった大リーグの球場。ヤンキースタジアムやフェンウェイパークという由緒も歴史もある球場が左右非対称であり、扁平しているは周知のことと思う。
また、日本でも今年から「エキサイティングシート」などと銘打って、採用している球場が増えた「スタンドの迫り出し」は、大リーグではかなり以前から採用されている。ファンサービスが徹底している大リーグらしい試みであり、その頃の日本の球場はフェンスの上に無粋で観辛い金網が設置されており、とても入場料を頂いて野球観戦を提供しているとは思えないような席もあった。
松井秀樹が札幌で初めて本塁打を打ったのは、札幌円山球場ではなく札幌ドームのオープン戦であったと記憶している。その試合をたまたま譲り受けたチケットで観戦に行った我親子は、内野席ということでワクワクしながら球場へ向ったが、割り当てられた席はライトの定位置よりポール側であった。どこが「内野席」だと憤慨した上で、只チケットゆえに我慢をしたが、とても「内野席」の料金を徴収できるような席ではなかったのを覚えている。唯一、松井の札幌初アーチが、そのライトポールへ直撃したのが目の前で見られたのが救いであったが・・・。
札幌ドームは、サッカーの世界選手権用に造られたスタジアムであるため、野球仕様とした場合に数々の難点が指摘されてきた。バックネットの目が細かくプレイが観辛いや、バックスクリーンがないためボールが見難いなどなど。
その一つに、「ファウルゾーンが異常に広い」がある。つまり観客との距離が有りすぎるのだ。重ねて外野のフェンスも異常に高いため、外野席では自分の真下で繰り広げられているフェンス際のプレイは全く見えない。
ファウルゾーンの広さは、野球の起源から考えると「可能な限り小さい方」が正しいのであろう。つまり、ファウルは打ち直しという特殊ルールに守られた「打者のため」のスポーツであるのだから、ファウルゾーンは可能な限り小さい方が正しいと考えて良いのであろう。小さければダイビングキャッチなどはなくなるようにも思うのだが。
大リーグの好プレイ・珍プレイなどを観ていると、迫出した観客席に飛び込んでファウルフライに挑むシーンを見かけるが、あれも計算尽くされたフェンスの高さなのであろう。
日本人とアメリカ人の絶対的な身体の強さの違いもあるが、球場の造りの違いもある。球場の安全性は、時としてプレイヤーを横に置き、観客中心に考えられているのでは、と感じてしまうのは私だけだろうか。
審判員に成り立ての頃は、野手よりも早く反応し、落下地点近くまで駆けて行ったものである。
この場合の「基本動作」としては、あくまでも野手を優先させた上で、フェンス際のトラブルを確認できるよう角度を持たせてポジショニングする。あとは、グラブの正面を確認できる方向へ走り込めれば最高であろう。
昨年、捕手よりも早くバックネット近くまでファウルボールを追って行って、捕手が来なかったという珍プレイがあった。ボールばかりを注視し、追ったが故の笑い話である。
球審は、捕手が動いたら逆側に身体を開けと教えられるが、始めた頃はボールを一生懸命追ってしまうものである。野手の背中側からのジャッジ&コールは説得力が無く、決して推奨されることではない。
たとえ落球しても「ファウルボール」でボールデッドになり、確捕していれば「アウト」であるのだから、背中側にポジショニングせざる得ない場合は、ボールの所在を覗き込んででも確認した上でジャッジしても問題はない。
深い位置でのファウルボールの場合は、走者のタッグアップもあり得るが、野手が捕球したか否かには関係がない。触れた時点でタッグアップが可能であり、落球した場合はファウルボールであるから走者は進塁できない。ファウルボールは慌てず騒がず、されど角度だけは取ってフェンス際まで走ることができれば良いであろう。
先日のゲームでは、クロスゲームで回も押し迫った時に、一塁手がファウルボールに対しフライングキャッチを試み、そのままコンクリートのフェンスに激突した。私はファウルボールがフェンス際に上がったことから、最短距離でフェンスに近づいたため、一塁手が跳んでから激突するまでをスローモーションのように見てしまった。一塁手は左の肘を負傷して途中交替となったが、あのようなプレイが日常茶飯事行われていることを考えると、フェンスの安全性を疑問視してしまう。
ルールブックには、野球は「囲いある競技場」で行うスポーツであるとされ、ファウルラインから内側の寸法は勿論、球場の大きさも「〇〇m以上」という表記で記されている。
外野フェンスは250フィート(約76m)以上で、可能であれば両翼320フィート(98m)、中堅400フィート(約122m)以上あることが優先して望まれるとしている。またファウルエリアは、ファウルラインから60フィート(18.3m)以上にフェンスを設けるよう示されている。
他のスポーツで、競技場の大きさがこれだけいい加減なスポーツも珍しい。特に球技で、フィールドの大きさがまちまちなのは野球だけであろう。
それでも日本の球場は左右対称となっている場合がほとんどである。これも国民性が反映されているように感じる。
一方日本人メジャーリーガーの影響で、すっかりお馴染みになった大リーグの球場。ヤンキースタジアムやフェンウェイパークという由緒も歴史もある球場が左右非対称であり、扁平しているは周知のことと思う。
また、日本でも今年から「エキサイティングシート」などと銘打って、採用している球場が増えた「スタンドの迫り出し」は、大リーグではかなり以前から採用されている。ファンサービスが徹底している大リーグらしい試みであり、その頃の日本の球場はフェンスの上に無粋で観辛い金網が設置されており、とても入場料を頂いて野球観戦を提供しているとは思えないような席もあった。
松井秀樹が札幌で初めて本塁打を打ったのは、札幌円山球場ではなく札幌ドームのオープン戦であったと記憶している。その試合をたまたま譲り受けたチケットで観戦に行った我親子は、内野席ということでワクワクしながら球場へ向ったが、割り当てられた席はライトの定位置よりポール側であった。どこが「内野席」だと憤慨した上で、只チケットゆえに我慢をしたが、とても「内野席」の料金を徴収できるような席ではなかったのを覚えている。唯一、松井の札幌初アーチが、そのライトポールへ直撃したのが目の前で見られたのが救いであったが・・・。
札幌ドームは、サッカーの世界選手権用に造られたスタジアムであるため、野球仕様とした場合に数々の難点が指摘されてきた。バックネットの目が細かくプレイが観辛いや、バックスクリーンがないためボールが見難いなどなど。
その一つに、「ファウルゾーンが異常に広い」がある。つまり観客との距離が有りすぎるのだ。重ねて外野のフェンスも異常に高いため、外野席では自分の真下で繰り広げられているフェンス際のプレイは全く見えない。
ファウルゾーンの広さは、野球の起源から考えると「可能な限り小さい方」が正しいのであろう。つまり、ファウルは打ち直しという特殊ルールに守られた「打者のため」のスポーツであるのだから、ファウルゾーンは可能な限り小さい方が正しいと考えて良いのであろう。小さければダイビングキャッチなどはなくなるようにも思うのだが。
大リーグの好プレイ・珍プレイなどを観ていると、迫出した観客席に飛び込んでファウルフライに挑むシーンを見かけるが、あれも計算尽くされたフェンスの高さなのであろう。
日本人とアメリカ人の絶対的な身体の強さの違いもあるが、球場の造りの違いもある。球場の安全性は、時としてプレイヤーを横に置き、観客中心に考えられているのでは、と感じてしまうのは私だけだろうか。
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始球式
2007年9月4日秋季新人戦が開幕した。ということは、今年のシーズンもいよいよ終盤を迎えたことになる。新人戦は各チームの戦力がリセットされることから、予測のつかない試合が多く、ある意味で楽しく、ある意味で困惑するという複雑な試合が多い。いずれにせよ、残り少ないシーズンを選手と共に楽しんでジャッジできればと考えている。
そんな折、昨日は開会式直後の開幕戦で球審が割当った。
誠に光栄なことである。
しかし、別段いつもと変わらぬ心理状態で挑めたことは、ある程度は「場慣れ」してきたのであろう。いつもと変わらぬ用意をして、試合開始を待つことが、私自身のルーティンとなっている。ただ、この試合はいつもとやや違った。
開幕戦といえば、恒例行事の「始球式」が行われる。そういえば、スーツ姿でキャッチボールをしている人がいるなと思っていたが、あの方がスポンサー代表の方らしい。野球経験はありそうな若い方である。
「始球式」をやることはいいが、その要領が分からない。多少慌てて、ベテラン審判員の方に始球式の要領を尋ねる。
「始球式」における球審のポジショニングは「マウンド横」となる。右か左か聞かなかったが、成り行き上投手板の一塁側斜め後方へ立った。塁審は通常のポジショニングとなる。
試合前の挨拶の際に選手達へ「始球式をやるので協力よろしく」と伝えた。私も初体験であるが、選手たちも初めての子が多いのであろう、なんとなく和やかな雰囲気で試合前の挨拶を終えた。
予めバッテリーには、投球練習7球のうち「5球終了時」に始球式をやることを伝える。
守備側の試合前の球回しとざわめきの中、スポンサー代表をマウンドへ促す。場内アナウンスとともに多少緊張気味で歩を進めて来たスポンサー代表に挨拶をしてからボールを渡し、ピッチャーズプレートへ誘う。スポンサー代表の両足がプレートを踏んだことを確認し、右手を大きく挙げて「プレイボール」を大声でコール。
大きく振りかぶったスポンサー代表。白球は投じられた。
アウトコース低目に投じられたボールに対し、打者はフルスイングで応える。そういえば、「打者とは打ち合わせをしていなかったな」と気付いたときは、時既に遅しであったが、細かい事はさておいて打者は空振りで応えるものが常識なのであろう。ここで打ってしまい許されるのは長嶋茂雄と新庄剛ぐらいなものだろう。
空振りを確認した上で、「ストライーク」と力強くコールし、無事セレモニーが終わった。
思っていたほど華々しくはなかったが、このような機会は滅多にあることではない。またひとつ、貴重な体験が出来たことに感謝したい。
当然、その試合は集中力を研ぎ澄まし、一滴の漏れも無いようにと張り切った。
最近時折出現するジャッジのブレは出たが、迷いを振り払いながら最後まで集中することができた。
これも開幕戦という、一種独特の雰囲気が成せることなのかもしれない。
そんな折、昨日は開会式直後の開幕戦で球審が割当った。
誠に光栄なことである。
しかし、別段いつもと変わらぬ心理状態で挑めたことは、ある程度は「場慣れ」してきたのであろう。いつもと変わらぬ用意をして、試合開始を待つことが、私自身のルーティンとなっている。ただ、この試合はいつもとやや違った。
開幕戦といえば、恒例行事の「始球式」が行われる。そういえば、スーツ姿でキャッチボールをしている人がいるなと思っていたが、あの方がスポンサー代表の方らしい。野球経験はありそうな若い方である。
「始球式」をやることはいいが、その要領が分からない。多少慌てて、ベテラン審判員の方に始球式の要領を尋ねる。
「始球式」における球審のポジショニングは「マウンド横」となる。右か左か聞かなかったが、成り行き上投手板の一塁側斜め後方へ立った。塁審は通常のポジショニングとなる。
試合前の挨拶の際に選手達へ「始球式をやるので協力よろしく」と伝えた。私も初体験であるが、選手たちも初めての子が多いのであろう、なんとなく和やかな雰囲気で試合前の挨拶を終えた。
予めバッテリーには、投球練習7球のうち「5球終了時」に始球式をやることを伝える。
守備側の試合前の球回しとざわめきの中、スポンサー代表をマウンドへ促す。場内アナウンスとともに多少緊張気味で歩を進めて来たスポンサー代表に挨拶をしてからボールを渡し、ピッチャーズプレートへ誘う。スポンサー代表の両足がプレートを踏んだことを確認し、右手を大きく挙げて「プレイボール」を大声でコール。
大きく振りかぶったスポンサー代表。白球は投じられた。
アウトコース低目に投じられたボールに対し、打者はフルスイングで応える。そういえば、「打者とは打ち合わせをしていなかったな」と気付いたときは、時既に遅しであったが、細かい事はさておいて打者は空振りで応えるものが常識なのであろう。ここで打ってしまい許されるのは長嶋茂雄と新庄剛ぐらいなものだろう。
空振りを確認した上で、「ストライーク」と力強くコールし、無事セレモニーが終わった。
思っていたほど華々しくはなかったが、このような機会は滅多にあることではない。またひとつ、貴重な体験が出来たことに感謝したい。
当然、その試合は集中力を研ぎ澄まし、一滴の漏れも無いようにと張り切った。
最近時折出現するジャッジのブレは出たが、迷いを振り払いながら最後まで集中することができた。
これも開幕戦という、一種独特の雰囲気が成せることなのかもしれない。
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冷や汗
2007年9月3日先日の練習試合で、防具を着けていると、ある父兄から「ボールが当たることはあるのですか?」と尋ねられた。
思わず「毎試合、一回は当たりますよ」と大袈裟に応えたが、まんざら嘘でもない。
実際に、その試合でも右の「二の腕」と「手の甲」にワイルドピッチがワンバウンドで当たった。
この「痛み」を一番はっきりと認識し、共有してくれるのは「明日は吾身」の審判仲間であり、まったく鈍感なのが一切痛みを伴わない観客なのかもしれない。
球審をやり始めの頃、初めてボールが身体に当たったのがどこかは忘れたが、相当痛かったと思う。しばらくは、投手の投球がショートバウンドになりそうな時などは、勝手に身体が反応してしまっていた。痛い思いをするよりは良いと思いながら反応に任せていたが、「あるプレイ」から恐怖に打ち勝つよう努力することとした。
「あるプレイ」とは、1点を争う試合展開。
一方はパスボールで決勝点を挙げ、他方は走者の暴走で本塁憤死となったプレイである。そのプレイに球審である私が間接的にではあるが関与してしまった。周囲はどう見ているか分からないが、自分は関与したと強烈に思ったのである。
走者三塁のケースで、投手の投球はショートバウンド確実の低い球筋。
身体は迷い無くいつもの反応を示した。一方は上手く避けたためボールはバックネットまで達したことで、三塁走者は生還。
ところが、他方はショートバウンドした投球がレガースに当たり、ボールは捕手の前に転がっていった。捕手は一瞬、ボールを見逃しバックネットへ向かいかけた。走者も、当然抜けたと思い込み本塁へ向かう。ボールの所在を投手が大声で捕手に伝え、気付いた捕手は難なく走者を憤死させたのである。
両方とも、上手く避けることができれば問題なかったが、この結果は自己嫌悪に陥るのに十分であった。
この事件以来、恐怖心と打ち勝つ努力を継続している。幸い大怪我には至っていないが、試合が終わるたびにアイシングと湿布が欠かせなくなった。
硬式野球の球審はインナーにプロテクター・レガース・カップを装着し、マスクを被り先端を補強したシューズを履いてジャッジするが、軟式の朝野球では普通のシューズを履き、レガースを装着せずにやっているケースがままある。硬式と違い脛に当っても骨折することはないためであろう。
昨日は朝の4時30分に起床し、久し振りに朝野球のジャッジに行き球審を勤めたが、「カップは装着していたかな??」と迷った。とりあえず落ち着かないので、装着してプレイボール。
日頃の行いが悪いのか、ファウルチップが腹に直撃。これは効いた。今でもまだ痛い。プロテクターと厚いメタボリックな腹が助けてくれた。
続けて同じ打者の時に、ファウルチップが胸部を直撃。またまたプロテクターが助けてくれた。軟式で、あれだけ衝撃があったのだから、硬式だったらと思うと冷や汗が「たらり」であった。
そして、最後にカップを直撃。
こればかりは、硬式も軟式も変わりは無い。再び、冷や汗が「たらり」であった。
思わず「毎試合、一回は当たりますよ」と大袈裟に応えたが、まんざら嘘でもない。
実際に、その試合でも右の「二の腕」と「手の甲」にワイルドピッチがワンバウンドで当たった。
この「痛み」を一番はっきりと認識し、共有してくれるのは「明日は吾身」の審判仲間であり、まったく鈍感なのが一切痛みを伴わない観客なのかもしれない。
球審をやり始めの頃、初めてボールが身体に当たったのがどこかは忘れたが、相当痛かったと思う。しばらくは、投手の投球がショートバウンドになりそうな時などは、勝手に身体が反応してしまっていた。痛い思いをするよりは良いと思いながら反応に任せていたが、「あるプレイ」から恐怖に打ち勝つよう努力することとした。
「あるプレイ」とは、1点を争う試合展開。
一方はパスボールで決勝点を挙げ、他方は走者の暴走で本塁憤死となったプレイである。そのプレイに球審である私が間接的にではあるが関与してしまった。周囲はどう見ているか分からないが、自分は関与したと強烈に思ったのである。
走者三塁のケースで、投手の投球はショートバウンド確実の低い球筋。
身体は迷い無くいつもの反応を示した。一方は上手く避けたためボールはバックネットまで達したことで、三塁走者は生還。
ところが、他方はショートバウンドした投球がレガースに当たり、ボールは捕手の前に転がっていった。捕手は一瞬、ボールを見逃しバックネットへ向かいかけた。走者も、当然抜けたと思い込み本塁へ向かう。ボールの所在を投手が大声で捕手に伝え、気付いた捕手は難なく走者を憤死させたのである。
両方とも、上手く避けることができれば問題なかったが、この結果は自己嫌悪に陥るのに十分であった。
この事件以来、恐怖心と打ち勝つ努力を継続している。幸い大怪我には至っていないが、試合が終わるたびにアイシングと湿布が欠かせなくなった。
硬式野球の球審はインナーにプロテクター・レガース・カップを装着し、マスクを被り先端を補強したシューズを履いてジャッジするが、軟式の朝野球では普通のシューズを履き、レガースを装着せずにやっているケースがままある。硬式と違い脛に当っても骨折することはないためであろう。
昨日は朝の4時30分に起床し、久し振りに朝野球のジャッジに行き球審を勤めたが、「カップは装着していたかな??」と迷った。とりあえず落ち着かないので、装着してプレイボール。
日頃の行いが悪いのか、ファウルチップが腹に直撃。これは効いた。今でもまだ痛い。プロテクターと厚いメタボリックな腹が助けてくれた。
続けて同じ打者の時に、ファウルチップが胸部を直撃。またまたプロテクターが助けてくれた。軟式で、あれだけ衝撃があったのだから、硬式だったらと思うと冷や汗が「たらり」であった。
そして、最後にカップを直撃。
こればかりは、硬式も軟式も変わりは無い。再び、冷や汗が「たらり」であった。
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同時はどっち
2007年8月30日『同時はセーフだろう』。
『いやいや、アウトだよ』。
このような議論を小学生の時にしたことを、おぼろげだが憶えている。
その理屈は分からなくても、それなりに言い訳じみた屁理屈はあったようだが、残念ながらそこまでの記憶はない。しかし、確かに議論していた。
現実の世界で『同時』ということが可能性としてあったとしても、「人間の目」での判断には当然限界があり、実際の判定では守備側と攻撃側のプレイの勢いの差や、審判員の見る角度などにより誤差やブレが生じるのは致し方ないことである。つまり、コンマ何秒という『差』を見極めジャッジすることは不可能な事であるし、現実として必要のない事なのであろう。
がしかし、審判員は正確を期すために、日々動体視力を磨き、フォーメーションに関する教科書に何度も目を通し、努力を怠らないのである(私はアマチュアゆえ、それ程に突き詰めていないが)。
これだけ準備をやっていても、ジャッジには「ブレ」は生じるものである。そのブレが『同時』のプレイに『差』を付ける。時には、正解とは逆方向(つまりはミス)へのブレもあるであろう。
しかし、それも「人間がやる判定」であるが故に、通常は「問題なし」として考えて良いのであろう。
さて、では実際に『同時』に見えた時には、どのようにジャッジメントすれば良いのであろうか。
ルールブックを読み始めた頃、『同時は、どっち!?』を探したことがある。
はっきりと書いてくれていれば良いのだが、そのようなレアケースはルールブックには書かれていない。
正確には、「書かれていない」と思っていた。ルールブックの奥深さが読めなかったのである。
確かに、その言葉では書かれてはいなかったが、別の言い回しで書かれていた。
最初に見つけた言い回しは、『10.00記録』の項にあった。10.05『安打』の【付記】には、失策か安打か迷った時の「考え方」が明記されている。
10.05 次の場合には安打が記録される。
【付記】本条各項の適用にあたって疑義のあるときは、つねに打者に有利な判定を与える。打球に対して非常な好守備を行なったが、続くプレイが十分でなくアウトをとることができなかった場合などには、安打を記録するのが安全な方法である。
この条文を拡大解釈して、『同時』で迷った場合も「打者に有利な判定」を与えて良いと考えていた。
そもそも、野球は「打者」のゲームである。投手は打者のリクエストに従い、打ちやすいコースに投げ、それを打者が打つ。リクエスト通りに投じられなければ「ボール」をカウントしていたのである。実に打者が有利な、打者がわがままなゲームであった。このルーツから紐解けば、『同時』は攻撃側有利な判定、つまり「セーフ」で良いのであろうと、個人的に理解していた。
最近、野球関係のある書物を読んでいて、ひょんなことから「正解」を見つけてしまった。やはり、それはルールブックにあった。
6.05 打者は次の場合アウトになる。
(j)打者が第三ストライクの宣告を受けた後、またはフェアボールを打った後、一塁に触れる前に、その身体または一塁に触球された場合。
この条文は、打者がアウトとなる場合のひとつのケースである。
簡単に言うと、「内野ゴロを打った打者をアウトにするためには、打者走者が一塁に触れる前に、ボールを持った野手が一塁ベースか打者走者にタッグする」。
つまり『同時』は、「一塁に触れる前」ではないので『セーフ』ということである。
屁理屈のようだが、これが正しい解釈なのであろう。このような、読み方をしなくてはならないのであれば、再度、ルールブックを紐解く必要性を感じている。
『いやいや、アウトだよ』。
このような議論を小学生の時にしたことを、おぼろげだが憶えている。
その理屈は分からなくても、それなりに言い訳じみた屁理屈はあったようだが、残念ながらそこまでの記憶はない。しかし、確かに議論していた。
現実の世界で『同時』ということが可能性としてあったとしても、「人間の目」での判断には当然限界があり、実際の判定では守備側と攻撃側のプレイの勢いの差や、審判員の見る角度などにより誤差やブレが生じるのは致し方ないことである。つまり、コンマ何秒という『差』を見極めジャッジすることは不可能な事であるし、現実として必要のない事なのであろう。
がしかし、審判員は正確を期すために、日々動体視力を磨き、フォーメーションに関する教科書に何度も目を通し、努力を怠らないのである(私はアマチュアゆえ、それ程に突き詰めていないが)。
これだけ準備をやっていても、ジャッジには「ブレ」は生じるものである。そのブレが『同時』のプレイに『差』を付ける。時には、正解とは逆方向(つまりはミス)へのブレもあるであろう。
しかし、それも「人間がやる判定」であるが故に、通常は「問題なし」として考えて良いのであろう。
さて、では実際に『同時』に見えた時には、どのようにジャッジメントすれば良いのであろうか。
ルールブックを読み始めた頃、『同時は、どっち!?』を探したことがある。
はっきりと書いてくれていれば良いのだが、そのようなレアケースはルールブックには書かれていない。
正確には、「書かれていない」と思っていた。ルールブックの奥深さが読めなかったのである。
確かに、その言葉では書かれてはいなかったが、別の言い回しで書かれていた。
最初に見つけた言い回しは、『10.00記録』の項にあった。10.05『安打』の【付記】には、失策か安打か迷った時の「考え方」が明記されている。
10.05 次の場合には安打が記録される。
【付記】本条各項の適用にあたって疑義のあるときは、つねに打者に有利な判定を与える。打球に対して非常な好守備を行なったが、続くプレイが十分でなくアウトをとることができなかった場合などには、安打を記録するのが安全な方法である。
この条文を拡大解釈して、『同時』で迷った場合も「打者に有利な判定」を与えて良いと考えていた。
そもそも、野球は「打者」のゲームである。投手は打者のリクエストに従い、打ちやすいコースに投げ、それを打者が打つ。リクエスト通りに投じられなければ「ボール」をカウントしていたのである。実に打者が有利な、打者がわがままなゲームであった。このルーツから紐解けば、『同時』は攻撃側有利な判定、つまり「セーフ」で良いのであろうと、個人的に理解していた。
最近、野球関係のある書物を読んでいて、ひょんなことから「正解」を見つけてしまった。やはり、それはルールブックにあった。
6.05 打者は次の場合アウトになる。
(j)打者が第三ストライクの宣告を受けた後、またはフェアボールを打った後、一塁に触れる前に、その身体または一塁に触球された場合。
この条文は、打者がアウトとなる場合のひとつのケースである。
簡単に言うと、「内野ゴロを打った打者をアウトにするためには、打者走者が一塁に触れる前に、ボールを持った野手が一塁ベースか打者走者にタッグする」。
つまり『同時』は、「一塁に触れる前」ではないので『セーフ』ということである。
屁理屈のようだが、これが正しい解釈なのであろう。このような、読み方をしなくてはならないのであれば、再度、ルールブックを紐解く必要性を感じている。
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アウトセーフ !?
2007年8月27日先日テレビ番組で「欽ちゃん」こと萩本欽一氏が24時間マラソンを走った。現在の欽ちゃんといえば、「茨城ゴールデンゴールズ」の監督であり、野球のクラブチームを具現化した功績・影響は非常に大きい。大人の野球の救世主かもしれない。
その昔の欽ちゃんは、「ジローさん」こと坂上二郎氏と『コント55号』というお笑いコンビを組み、多くの冠番組を持っていたスーパースターであった。その笑いのセンスは、どこか温かく、ほのぼのとして懐かしさを感じるスタイルであり、老若男女の支持を得ていた。
そのような芸風のコント55号も、駆け出しの頃は当時としては破天荒なことをやっていた。
『やーきゅうするなら、こーゆーぐあいにしやしゃんせ。アウト・セーフ、よよいのよい』
一世を風靡した『野球拳』である。
お座敷芸であった『野球拳』は、ジャンケンをして、負けた方が衣服を一枚脱ぐという単純なゲームであるが、これを「アイドルスターvs坂上二郎」というシチュエーションでゴールデンタイムに放送したのである。少年であった私は、子供ながらに「ドキドキ、ワクワク」しながらテレビを観ていたのを憶えている。
審判のジャッジも「アウト・セーフ、よよいのよい」とジャンケンで決められればいいのだが、そうもいかないのが現実であり、タッグプレイがクロスプレイとなった場合は、球場全体の視線を集めている緊張感がたまらなく「快感」であり、それを知ったが為に審判にのめり込んだ方々も多いであろう。斯く言う私もご多分に漏れない一人である。
しかしこのクロスプレイ、特に本塁でのクロスプレイは「両刃の剣」である。ここでのミスジャッジは、審判の信用を著しく失墜させるのは勿論、自己嫌悪に陥るキッカケとなる。
タッグプレイの基本動作は、まずは「タッグプレイ」が見え易いポジショニングをすることである。
そしてタッグの瞬間を不動の姿勢で確実に見ることである。ここから「判定」によって、動作が大きく分かれる。その判定が『セーフ』の場合は、迷わずコールするが、『タイミングがセーフでない場合』はもうひとつの確認動作が必要となる。それは「タッグした後のボールの所在」である。野手がボールを完全確捕していることを確認する必要があるのである。ボールをお手玉していたら、「タイミングはアウトだが、タッグが不十分」として『セーフ』がコールされる。つまり、タイミングもタッグも捕球も、すべてが完璧で『アウト』が成立するのである。ゆえに『セーフは早く、アウトはゆっくり』が成り立つのである。
ここで最も間違いやすいのが、「思い込み」である。特に多いのが「タイミング的に明らかにアウト」のケースである。
送球と走者のスピードからはじき出される「予想」をすることは、ジャッジの予防措置としては必要ことであるが、それにより「思い込んでしまう」ことは問題である。このような場合、野手がタッグをする前に審判員の右手は強く握られていることが多く、タッグと同時に、またはタッグよりも多少早めに「He’s OUT!」とコールしてしまうのである。ここで、普通にプレイが終われば「注意」程度の話で終わるが、「落球」や「ノータッグ」が絡むとトラブルへと発展してしまう。
本塁でのクロスプレイで、捕手が落球しているのに『He’s OUT』とコールしてしまったことは、以前に披露したことがあった。誠に恥ずかしく、初心に戻された思いをした。
それ以来肝に銘じていたのだが、先日のオープン戦で大恥を掻くところであった。
走者三塁で、投手が悪送球し捕手が後逸したケース。三塁走者が猛然と突入してくる。ところが、捕手の動作が早く、本塁カバーに入った投手へ返球された時点で、走者はまだ滑り込んでもいない「タイミング」。
私は「タイミングはアウトだな」と思い込んだ。投手がグラブをホームベース上に置き、走者のスライディングを待っている。そこに、走者は猛然とスライディングをした。
一瞬、『タッグが甘いが、タイミングは明らかだ』と頭が巡り、右手が挙がりかけ、心の中で『He’s OUT』とコールしかけた。その瞬間、走者が『落球、落球』とアピールしたために、目が覚めた。
カバーに入った投手のグラブを確認しようとした時、白球がコロコロと転がっていた。
改めて、勉強されられたプレイであった。「まだまだな」と反省しきりである。
その昔の欽ちゃんは、「ジローさん」こと坂上二郎氏と『コント55号』というお笑いコンビを組み、多くの冠番組を持っていたスーパースターであった。その笑いのセンスは、どこか温かく、ほのぼのとして懐かしさを感じるスタイルであり、老若男女の支持を得ていた。
そのような芸風のコント55号も、駆け出しの頃は当時としては破天荒なことをやっていた。
『やーきゅうするなら、こーゆーぐあいにしやしゃんせ。アウト・セーフ、よよいのよい』
一世を風靡した『野球拳』である。
お座敷芸であった『野球拳』は、ジャンケンをして、負けた方が衣服を一枚脱ぐという単純なゲームであるが、これを「アイドルスターvs坂上二郎」というシチュエーションでゴールデンタイムに放送したのである。少年であった私は、子供ながらに「ドキドキ、ワクワク」しながらテレビを観ていたのを憶えている。
審判のジャッジも「アウト・セーフ、よよいのよい」とジャンケンで決められればいいのだが、そうもいかないのが現実であり、タッグプレイがクロスプレイとなった場合は、球場全体の視線を集めている緊張感がたまらなく「快感」であり、それを知ったが為に審判にのめり込んだ方々も多いであろう。斯く言う私もご多分に漏れない一人である。
しかしこのクロスプレイ、特に本塁でのクロスプレイは「両刃の剣」である。ここでのミスジャッジは、審判の信用を著しく失墜させるのは勿論、自己嫌悪に陥るキッカケとなる。
タッグプレイの基本動作は、まずは「タッグプレイ」が見え易いポジショニングをすることである。
そしてタッグの瞬間を不動の姿勢で確実に見ることである。ここから「判定」によって、動作が大きく分かれる。その判定が『セーフ』の場合は、迷わずコールするが、『タイミングがセーフでない場合』はもうひとつの確認動作が必要となる。それは「タッグした後のボールの所在」である。野手がボールを完全確捕していることを確認する必要があるのである。ボールをお手玉していたら、「タイミングはアウトだが、タッグが不十分」として『セーフ』がコールされる。つまり、タイミングもタッグも捕球も、すべてが完璧で『アウト』が成立するのである。ゆえに『セーフは早く、アウトはゆっくり』が成り立つのである。
ここで最も間違いやすいのが、「思い込み」である。特に多いのが「タイミング的に明らかにアウト」のケースである。
送球と走者のスピードからはじき出される「予想」をすることは、ジャッジの予防措置としては必要ことであるが、それにより「思い込んでしまう」ことは問題である。このような場合、野手がタッグをする前に審判員の右手は強く握られていることが多く、タッグと同時に、またはタッグよりも多少早めに「He’s OUT!」とコールしてしまうのである。ここで、普通にプレイが終われば「注意」程度の話で終わるが、「落球」や「ノータッグ」が絡むとトラブルへと発展してしまう。
本塁でのクロスプレイで、捕手が落球しているのに『He’s OUT』とコールしてしまったことは、以前に披露したことがあった。誠に恥ずかしく、初心に戻された思いをした。
それ以来肝に銘じていたのだが、先日のオープン戦で大恥を掻くところであった。
走者三塁で、投手が悪送球し捕手が後逸したケース。三塁走者が猛然と突入してくる。ところが、捕手の動作が早く、本塁カバーに入った投手へ返球された時点で、走者はまだ滑り込んでもいない「タイミング」。
私は「タイミングはアウトだな」と思い込んだ。投手がグラブをホームベース上に置き、走者のスライディングを待っている。そこに、走者は猛然とスライディングをした。
一瞬、『タッグが甘いが、タイミングは明らかだ』と頭が巡り、右手が挙がりかけ、心の中で『He’s OUT』とコールしかけた。その瞬間、走者が『落球、落球』とアピールしたために、目が覚めた。
カバーに入った投手のグラブを確認しようとした時、白球がコロコロと転がっていた。
改めて、勉強されられたプレイであった。「まだまだな」と反省しきりである。
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魔物もいる
2007年8月24日「野球の神様」を感じることができるのは、勝者やその応援団や、第三者の観客であろう。敗者やその関係者にとっては、神様が悪魔に見えるのであろう。俗に言う「グラウンドには魔物が棲む」という感覚である。
野球は、いろいろなレベルの人間がチームを組み、同じことの無いグラウンドコンディションの中で、風に吹かれ太陽に蒸されながら、そして時には雨と闘いながらゲームを楽しむ。ゆえに、テレビゲームや野球盤などでは、到底表現しきれないプレイが平気で起こる。それも、レベルが下がれば下がるほど珍プレイが続出する。たまに、少年野球の試合などを観戦していると、その微笑ましいばかりの珍プレイに和まされることが多いし、「我愚息も昔はこうだったなぁ」などと思い出に耽っていたりしてしまう。
こんなレベルの試合にも、「野球の神様」と「グラウンドの魔物」は顔を出すのである。一方では喜びを与え、他方では悔しさに引きずり込むのである。誠にややこしい連中である。
その魔物が、審判に災いを及ぼすこともある。ジャッジの迷宮へ引きずり込もうとするのである。特に一試合で100回以上のジャッジをする球審に襲い掛かることがある。
厄介なのは、球審が自分自身に疑念を抱くよう差し向けることである。「さっきの投球は、低いかもしれない」や「あのコースは少し遠いかも」などなど。映画でも見るように、耳元で神様の化身である「白い自分」と悪魔の化身である「黒い自分」が囁くのである。一度疑念を抱きだすとなかなか払拭できずに、淡々と試合は進むのだが、試合自体は非常に長い感じるものである。
巷では、ある試合のジャッジを巡り不毛な論議が交わされている。それは敗軍の将である監督が、敗戦の要因を球審のジャッジに向けるという暴言を吐いたことに始まるのだが、私はよく「驕らない勝者と潔い敗者」という言葉を口にする。私は多少なりともラグビーの経験があるが、肉弾戦のラグビーの素晴らしさは「ノーサイド」の精神にあると思っている。試合が終われば、敵味方なく讃えあう精神こそがスポーツの原点であるように思う。まして、野球は「プレイボール」で始まる「ゲーム」である。勝ったことで鼻高々となったり、負けたことを誰かのせいにしたりなどは、最も恥ずべきことであろう。
何より、問題となったジャッジは「ストライク・ボール」の話である。こんなことにイチャモンを付けていたら、小学生に笑われるであろう。小学生は自分の目の前を通過した投球を「ストライク」と言われ、半ベソを掻きながらでも審判に文句は言わない(泣くことが抗議なのであろうが)。
あの投球は、確かに「ストライク」臭かったが、それを「ボール」と言われるべく理由があった。第一に、試合当初より低目は採っていたが、あれが「低目ギリギリ」だったのだろう。第二に、あの回好投を続けていた投手は連続安打とストレートの四球で明らかに動揺し、あの投球前後は「腕の振りが鈍かった」。
勝ちを意識した瞬間に「魔物」が好投手を襲ったのであろう。俗に言う「置きにいった投球」は伸びを欠き、「低目ギリギリ」からお辞儀して見えたのであろう。恐らく、「これはストライクとは言えない」という想いが頭を巡り、頭を小さく振りながらの「ボール」のコールであったのだと思う。
あのジャッジは、いろいろなレベルの試合で良くあることであり、取り立てて議論する事象ではない。何と言っても、「審判員の判定」であるのであるから。
野球は、いろいろなレベルの人間がチームを組み、同じことの無いグラウンドコンディションの中で、風に吹かれ太陽に蒸されながら、そして時には雨と闘いながらゲームを楽しむ。ゆえに、テレビゲームや野球盤などでは、到底表現しきれないプレイが平気で起こる。それも、レベルが下がれば下がるほど珍プレイが続出する。たまに、少年野球の試合などを観戦していると、その微笑ましいばかりの珍プレイに和まされることが多いし、「我愚息も昔はこうだったなぁ」などと思い出に耽っていたりしてしまう。
こんなレベルの試合にも、「野球の神様」と「グラウンドの魔物」は顔を出すのである。一方では喜びを与え、他方では悔しさに引きずり込むのである。誠にややこしい連中である。
その魔物が、審判に災いを及ぼすこともある。ジャッジの迷宮へ引きずり込もうとするのである。特に一試合で100回以上のジャッジをする球審に襲い掛かることがある。
厄介なのは、球審が自分自身に疑念を抱くよう差し向けることである。「さっきの投球は、低いかもしれない」や「あのコースは少し遠いかも」などなど。映画でも見るように、耳元で神様の化身である「白い自分」と悪魔の化身である「黒い自分」が囁くのである。一度疑念を抱きだすとなかなか払拭できずに、淡々と試合は進むのだが、試合自体は非常に長い感じるものである。
巷では、ある試合のジャッジを巡り不毛な論議が交わされている。それは敗軍の将である監督が、敗戦の要因を球審のジャッジに向けるという暴言を吐いたことに始まるのだが、私はよく「驕らない勝者と潔い敗者」という言葉を口にする。私は多少なりともラグビーの経験があるが、肉弾戦のラグビーの素晴らしさは「ノーサイド」の精神にあると思っている。試合が終われば、敵味方なく讃えあう精神こそがスポーツの原点であるように思う。まして、野球は「プレイボール」で始まる「ゲーム」である。勝ったことで鼻高々となったり、負けたことを誰かのせいにしたりなどは、最も恥ずべきことであろう。
何より、問題となったジャッジは「ストライク・ボール」の話である。こんなことにイチャモンを付けていたら、小学生に笑われるであろう。小学生は自分の目の前を通過した投球を「ストライク」と言われ、半ベソを掻きながらでも審判に文句は言わない(泣くことが抗議なのであろうが)。
あの投球は、確かに「ストライク」臭かったが、それを「ボール」と言われるべく理由があった。第一に、試合当初より低目は採っていたが、あれが「低目ギリギリ」だったのだろう。第二に、あの回好投を続けていた投手は連続安打とストレートの四球で明らかに動揺し、あの投球前後は「腕の振りが鈍かった」。
勝ちを意識した瞬間に「魔物」が好投手を襲ったのであろう。俗に言う「置きにいった投球」は伸びを欠き、「低目ギリギリ」からお辞儀して見えたのであろう。恐らく、「これはストライクとは言えない」という想いが頭を巡り、頭を小さく振りながらの「ボール」のコールであったのだと思う。
あのジャッジは、いろいろなレベルの試合で良くあることであり、取り立てて議論する事象ではない。何と言っても、「審判員の判定」であるのであるから。
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野球の神様
2007年8月23日今年の高校野球は、春先から特待問題で揺れたが、結局は夏の甲子園大会を制したのは、「特待制度」とは無縁の県立高校の佐賀北高等学校であったのは象徴的というよりも、究極の皮肉と感じた。
佐賀北高のあまりにも劇的な勝利に酔いしれて、高校野球の根幹を揺るがした問題、それのきっかけとなった西武ライオンズの裏金問題などは風化しているように思われるが、野球に関係する老若男女は「臭いものには蓋をしろ」や「他人の噂も七十五日」などの感覚を捨て、スポーツとしての「野球」を模索してほしいものである。
佐賀北高を見ていると、北海道にも同じようなプレイスタイルの高校がありそうであり、「身近さ」を感じる感覚としては、駒大苫小牧の全国制覇よりもインパクトが強く、正に希望を感じさせるチームであった。
決勝戦では観ていて鳥肌が立ち感涙しそうになったが、それにしても今大会は「ミラクル」や「奇跡」などの言葉が新聞紙上を賑わすに相応しい大会であり、それを具現化していたのが佐賀北高校であった。こんな試合展開は、漫画でも見たことがないと思われるゲーム進行が随所にあり、野球の多面的な可能性を強く認識させられた大会であった。
決勝戦などは「ドカベン」の山田太郎か岩鬼にしかなし得ないような、逆転満塁本塁打が出てしまうのであるから、「野球の神様」が書き下ろす脚本はあまりにも漫画チックであり、あまりにも劇的であり、そしてあまりにも純粋である。あの満塁本塁打を打った「打者」と打たれた「投手」の明暗、その心の浮き沈みの大きさに対する責任までも、十分に計算ずくのストーリーであるように思う。
いつも思うのだが、「野球の神様」はあのような大舞台にのみ降臨してくるのであろうか。実は、野球が行われている球場やグラウンドには必ずいると感じている。いつも、選手たちの一挙手一投足を観ては満足したり、怒ったりしながら、何かの指標を持って選手に点数を付けているように思う。その指標は、個人個人の技術であったり、精神的な強さであったり、声の大きさであったり・・・・。そして、最も重視しているのが「野球への真摯な取り組み姿勢と懸命さ」ではないだろうか。
私が所属する中学シニアの試合に立ち会う度に、最近強くそれを感じる。技術的に優れ、体力的にも圧倒しているチームが勝つのは当たり前に思われるが、それでも試合では少なからず波乱がある。勝敗は予想通りでも、それに至る試合経過で「ドキッ」とさせられたり、「アレレ」と思わせられたりすることが非常に多い。
試合に立ち会う審判員は公正でなくてはならないが、そこは人間、ある程度の腹づもりをして球場へ向かう。試合展開や試合時間などを想定してしまうのは、まだまだ甘いと言われるかもしれないが、そこは修行中ということで勘弁願いたい。
ところが、その予想を大きく覆すようなゲーム展開が少なくない。というよりも、予想どおりいく方がレアケースであると言える。つまり、単純な戦力比較などは、試合をやる上ではほとんど役に立たないということであろう。例えば、どんなに防御率の良い投手でも、大量失点をすることも当然ある。打者の打率にしても、自分の得意なタイプの投手ばかりと対戦していれば高打率になるのは当たり前である。そこに見たこともない投球フォームの投手が現れると、慣れる前に試合が終わってしまう。
そこに「野球の神様」のスパイスの効いたストーリーが加わるのであるから、予想するのがアホらしくなるような展開が頻繁に現れるのは無理のないことかもしれない。
だから審判は、「野球の神様」のなせる業を堪能しつつ、それを傍観するようにジャッジに集中することが良いのであろう。審判のジャッジの善し悪しも、すべて「野球の神様」はお見通しなのであるから、「自分の精一杯のジャッジさえしていれば良い」と達観している。
佐賀北高のあまりにも劇的な勝利に酔いしれて、高校野球の根幹を揺るがした問題、それのきっかけとなった西武ライオンズの裏金問題などは風化しているように思われるが、野球に関係する老若男女は「臭いものには蓋をしろ」や「他人の噂も七十五日」などの感覚を捨て、スポーツとしての「野球」を模索してほしいものである。
佐賀北高を見ていると、北海道にも同じようなプレイスタイルの高校がありそうであり、「身近さ」を感じる感覚としては、駒大苫小牧の全国制覇よりもインパクトが強く、正に希望を感じさせるチームであった。
決勝戦では観ていて鳥肌が立ち感涙しそうになったが、それにしても今大会は「ミラクル」や「奇跡」などの言葉が新聞紙上を賑わすに相応しい大会であり、それを具現化していたのが佐賀北高校であった。こんな試合展開は、漫画でも見たことがないと思われるゲーム進行が随所にあり、野球の多面的な可能性を強く認識させられた大会であった。
決勝戦などは「ドカベン」の山田太郎か岩鬼にしかなし得ないような、逆転満塁本塁打が出てしまうのであるから、「野球の神様」が書き下ろす脚本はあまりにも漫画チックであり、あまりにも劇的であり、そしてあまりにも純粋である。あの満塁本塁打を打った「打者」と打たれた「投手」の明暗、その心の浮き沈みの大きさに対する責任までも、十分に計算ずくのストーリーであるように思う。
いつも思うのだが、「野球の神様」はあのような大舞台にのみ降臨してくるのであろうか。実は、野球が行われている球場やグラウンドには必ずいると感じている。いつも、選手たちの一挙手一投足を観ては満足したり、怒ったりしながら、何かの指標を持って選手に点数を付けているように思う。その指標は、個人個人の技術であったり、精神的な強さであったり、声の大きさであったり・・・・。そして、最も重視しているのが「野球への真摯な取り組み姿勢と懸命さ」ではないだろうか。
私が所属する中学シニアの試合に立ち会う度に、最近強くそれを感じる。技術的に優れ、体力的にも圧倒しているチームが勝つのは当たり前に思われるが、それでも試合では少なからず波乱がある。勝敗は予想通りでも、それに至る試合経過で「ドキッ」とさせられたり、「アレレ」と思わせられたりすることが非常に多い。
試合に立ち会う審判員は公正でなくてはならないが、そこは人間、ある程度の腹づもりをして球場へ向かう。試合展開や試合時間などを想定してしまうのは、まだまだ甘いと言われるかもしれないが、そこは修行中ということで勘弁願いたい。
ところが、その予想を大きく覆すようなゲーム展開が少なくない。というよりも、予想どおりいく方がレアケースであると言える。つまり、単純な戦力比較などは、試合をやる上ではほとんど役に立たないということであろう。例えば、どんなに防御率の良い投手でも、大量失点をすることも当然ある。打者の打率にしても、自分の得意なタイプの投手ばかりと対戦していれば高打率になるのは当たり前である。そこに見たこともない投球フォームの投手が現れると、慣れる前に試合が終わってしまう。
そこに「野球の神様」のスパイスの効いたストーリーが加わるのであるから、予想するのがアホらしくなるような展開が頻繁に現れるのは無理のないことかもしれない。
だから審判は、「野球の神様」のなせる業を堪能しつつ、それを傍観するようにジャッジに集中することが良いのであろう。審判のジャッジの善し悪しも、すべて「野球の神様」はお見通しなのであるから、「自分の精一杯のジャッジさえしていれば良い」と達観している。
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プルアウト
2007年8月21日球審の基本動作に「ストライク」の姿勢がある。基本は、「右手拳で、ドアを力強くノックするように」と言われているが、時折勘違いをして「手の甲」でノックしている人がいる。確かに「ドアをノック」する場合、手の甲で「コンコン」とノックする方法もあるが、「ストライク」の場合はドアを「ドンドン」と叩くイメージであろう。教え方の問題もあるが、私は諸先輩から「金槌で頭の高さの釘を叩くようなイメージ」と教えられた。
球審をやり始めの頃は、プロ野球の球審のジャッジの影響からか「オーバー・アクション」に憧れた。球審をやられた方は分って頂けると思うが、「格好良く」ジャッジしたいという願望が、少なからず心の奥底にある。「審判が目立っては駄目だ」と分かっていても、「格好良く」ジャッジしたいと考えてしまう。
審判2年目ぐらいの時に、審判について色々とご助言を頂いていた大先輩のアクションを見て感激し、どうにか盗もうとした。まずは練習試合などで、盛んにやってみては周囲の反応を窺い悦に入っていた。まあ、実際に選手も観衆も野球を観ているので「審判のアクション」などは見られていないことが多いことと、毎回毎回大袈裟な動作をしていると効果が薄れることもあり、反響は思ったほどではなかった。
私が採用していたオーバー・アクションは「プルアウト」と呼ばれているジェスチャーで、見逃し三振の際に「左腕を伸ばし右腕を引く(弓を引くように)」ポーズであった。この「プルアウト」には横向きバージョンと正面向きバージョンがあり、私は正面向きバージョンであった。
この「プルアウト」と双璧なのが、見逃し三振の際に構えた姿勢から右腕を大きく振り上げ左側に振り下ろす「パンチアウト」というポーズである。
このようなオーバー・アクションは、最近では日本プロ野球の球審も採用している方が多くなってきた。それを観察していると、「メリハリ」の重要性を再認識する。
そういえば昔から気になっていたのだが、ストライクコールの時に「腕を上げてある方向を指差す」ポーズがある。これは「射抜き」と言われており、ただ横を向く場合や、ステップを踏み一呼吸置いてから「ストライーーク」とコールする場合などがある。観客席から観ると「拳銃で射抜かれたように見える」ことが由来のようである。いかにも、拳銃社会のアメリカらしい表現であろう。
さてあれは、一体どこを指し示しているのであろう。それぞれのダッグアウトを指差しているようにも思うが、観客席を指しているようにも見える。「ストライク」の意味は「いい球だから打ちなさい」と言うことから考えると、バッターの積極性を促すように攻撃側のダッグアウトを指差しているのかもしれない。そうなると、回の表と裏で指し示す方向が変わることとなり、これも面白いかもしれない。
私の「プルアウト」は昨年から姿を消した。理由は色々とあるが、大先輩から「オーバー・アクションは控えたほうが良いよ」と言われたことが直接の理由である。その時、大先輩は「何故だか分かる?」とも付け加えることを忘れなかった。「何故ですか?」と聞き返すと「学生野球でしょ」と一言。
もうひとつの大きな理由としては、「プルアウト」の動作をするタイミングを考えると、捕手がキャッチした瞬間にアクションするのが格好良く見える。つまり、「バシッ、ストライク」のタイミングである。ところが、このタイミングだと投手の投げたボールを「捕手のミットまで」見届けているか、という疑問が湧いてくる。ボールを投手の手から捕手のミットまで、トラッキング(目だけでボールを追う基本技術)し、「ストライク・ボール」の判定を下し、コールするという一連の流れを省略しているようなタイミングとなっている。
「プルアウト」自体が「間」のないジェスチャーであるから、流れの省略は否めないであろう。判定に絶対的な自信が在る訳ではない、経験浅いアマチュア審判員が、格好付けの為だけに「オーバー・アクション」をすることは間違いであることに気付いたのである。
今年、高校野球を観戦していて、こんなことを感じた。「オーバー・アクション」でなくても、「コールの間」や「ジェスチャーの強弱」で十分に「格好良いストライクコール」ができるな、と感じるようになった。そして、平素な判定動作も基本が出来ていれば、十分に格好が良いなと思えるようになってきた。
確かな技術が身につけば、「パンチアウト」や「プルアウト」のジェスチャーは可能なのであろう。それには、基本が重要なことは言うまでもない。
さて、私の「プルアウト」が復活するのは、一体いつであろうか。
球審をやり始めの頃は、プロ野球の球審のジャッジの影響からか「オーバー・アクション」に憧れた。球審をやられた方は分って頂けると思うが、「格好良く」ジャッジしたいという願望が、少なからず心の奥底にある。「審判が目立っては駄目だ」と分かっていても、「格好良く」ジャッジしたいと考えてしまう。
審判2年目ぐらいの時に、審判について色々とご助言を頂いていた大先輩のアクションを見て感激し、どうにか盗もうとした。まずは練習試合などで、盛んにやってみては周囲の反応を窺い悦に入っていた。まあ、実際に選手も観衆も野球を観ているので「審判のアクション」などは見られていないことが多いことと、毎回毎回大袈裟な動作をしていると効果が薄れることもあり、反響は思ったほどではなかった。
私が採用していたオーバー・アクションは「プルアウト」と呼ばれているジェスチャーで、見逃し三振の際に「左腕を伸ばし右腕を引く(弓を引くように)」ポーズであった。この「プルアウト」には横向きバージョンと正面向きバージョンがあり、私は正面向きバージョンであった。
この「プルアウト」と双璧なのが、見逃し三振の際に構えた姿勢から右腕を大きく振り上げ左側に振り下ろす「パンチアウト」というポーズである。
このようなオーバー・アクションは、最近では日本プロ野球の球審も採用している方が多くなってきた。それを観察していると、「メリハリ」の重要性を再認識する。
そういえば昔から気になっていたのだが、ストライクコールの時に「腕を上げてある方向を指差す」ポーズがある。これは「射抜き」と言われており、ただ横を向く場合や、ステップを踏み一呼吸置いてから「ストライーーク」とコールする場合などがある。観客席から観ると「拳銃で射抜かれたように見える」ことが由来のようである。いかにも、拳銃社会のアメリカらしい表現であろう。
さてあれは、一体どこを指し示しているのであろう。それぞれのダッグアウトを指差しているようにも思うが、観客席を指しているようにも見える。「ストライク」の意味は「いい球だから打ちなさい」と言うことから考えると、バッターの積極性を促すように攻撃側のダッグアウトを指差しているのかもしれない。そうなると、回の表と裏で指し示す方向が変わることとなり、これも面白いかもしれない。
私の「プルアウト」は昨年から姿を消した。理由は色々とあるが、大先輩から「オーバー・アクションは控えたほうが良いよ」と言われたことが直接の理由である。その時、大先輩は「何故だか分かる?」とも付け加えることを忘れなかった。「何故ですか?」と聞き返すと「学生野球でしょ」と一言。
もうひとつの大きな理由としては、「プルアウト」の動作をするタイミングを考えると、捕手がキャッチした瞬間にアクションするのが格好良く見える。つまり、「バシッ、ストライク」のタイミングである。ところが、このタイミングだと投手の投げたボールを「捕手のミットまで」見届けているか、という疑問が湧いてくる。ボールを投手の手から捕手のミットまで、トラッキング(目だけでボールを追う基本技術)し、「ストライク・ボール」の判定を下し、コールするという一連の流れを省略しているようなタイミングとなっている。
「プルアウト」自体が「間」のないジェスチャーであるから、流れの省略は否めないであろう。判定に絶対的な自信が在る訳ではない、経験浅いアマチュア審判員が、格好付けの為だけに「オーバー・アクション」をすることは間違いであることに気付いたのである。
今年、高校野球を観戦していて、こんなことを感じた。「オーバー・アクション」でなくても、「コールの間」や「ジェスチャーの強弱」で十分に「格好良いストライクコール」ができるな、と感じるようになった。そして、平素な判定動作も基本が出来ていれば、十分に格好が良いなと思えるようになってきた。
確かな技術が身につけば、「パンチアウト」や「プルアウト」のジェスチャーは可能なのであろう。それには、基本が重要なことは言うまでもない。
さて、私の「プルアウト」が復活するのは、一体いつであろうか。
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審判員は試合前と試合後にミーティングを行う。試合後の会話は、控え審判からの指摘事項と自己反省が主である。控え審判からは、「クロックワイズメカニクスが機能していたか」や「基本的なポジショニング」についてが多く、次回の試合のテーマとするべく、技術向上が目的の指摘となる。細かくは「球審のマスクは左手で外す」とか「球審が投球に合わせて構えるタイミング」などであり、上級になってくると「あの妨害行為は採るべきか」とか「あの投球姿勢はボークとすべきか」などである。「ストライクゾーン」やジャッジ全般についての指摘は、よほどの事がない限り無いことが多い。
「ストライクゾーン」はある程度の個性が出やすい。「低目が好き」な方や「インコースが辛い」方など様々であり、それが一試合の中で安定していれば大きな問題とはならない。
確かにルールブックには「ストライクゾーン」についての記載があり、ある程度の「目安」が示されてはいるが、そこは人間の目が判断する事であるから、「アバウト」となるのは織り込み済みということである。四角四面に、厳格にと言っても限界がある。人間がプレイし、人間がそのプレイをジャッジするのが野球である。ある程度のブレは許容されると考えるべきである。
では、試合前は何をミーティングで話し合っているのであろうか。試合前は「その試合」ごとのクルーの取り決め事項を確認している。まずは、球審が内野における打球の分担の確認と、インフィールドフライのサインをどの時点でどのように出すかを示す。「内野における打球」とは、一塁線と三塁線の際どい打球を誰が「フェア・ファウル」を判定するかであり、「ベースより手前は球審の分担で、その奥は塁審に任せる」が基本となる。また、内野フライもベースより手前は球審がダイヤモンド内に入りコールするのが基本となっている。
この基本事項は毎試合確認してきたが、私自身が大きな勘違いをしていた。「ベース手前の打球のフェア・ファウルは球審」というのを、「ベース手前で切れたか否かの判定を球審が行う」とずっと思ってきた。その上で「ベース際は塁審の方が近いし、見やすいよな」と密かに思ってきた。
この勘違いのため、私が球審をやった際のライン際の際どい打球のジャッジは、塁審と「かぶる事」が非常に多かった。
先日、公式戦の給水の際に「ベースより奥で処理した打球は塁審に任せた方が良いよ」という指摘を受け、「えっ!?」と固まった。私は勘違いに気付き、指摘して頂いた方に「こっそり」と、『「ベース手前は球審、奥は塁審」の意味は「ベース手前で処理された打球は球審で、奥で処理された打球は塁審」という意味ですか』と聞き返した。答えは『そうそう』である。
完璧に勘違いしていた。そして、今まで密かに思ってきた疑問が氷解したのである。そう考えると、大抵の場合は野手(一塁手と三塁手)がベースより奥で守っているから、強烈にライン際を襲う打球の処理は、「ベースより奥」で行われる。ゆえに、その判定は塁審の分担となることが断然多い。
今まで「ダブルコール」が無かった事が『不幸中の幸い』であったなぁと胸を撫で下ろした次第である。
聞いてみなくては分からない勘違いはあるものである。
しかし、なかなか染み付いた癖は直らない。ライン際に打球が飛ぶと、ついついしゃしゃり出てしまう。
その癖が、ついに練習試合で「ダブルコール」という形を産んでしまった。球審の私が「フェア」、塁審が「ファウル」。
「フェア」がノーボイスであり、塁審の「ファウルボール」のコールが大きかったために事なきを得たが、反省しきりのジャッジであった。
「ストライクゾーン」はある程度の個性が出やすい。「低目が好き」な方や「インコースが辛い」方など様々であり、それが一試合の中で安定していれば大きな問題とはならない。
確かにルールブックには「ストライクゾーン」についての記載があり、ある程度の「目安」が示されてはいるが、そこは人間の目が判断する事であるから、「アバウト」となるのは織り込み済みということである。四角四面に、厳格にと言っても限界がある。人間がプレイし、人間がそのプレイをジャッジするのが野球である。ある程度のブレは許容されると考えるべきである。
では、試合前は何をミーティングで話し合っているのであろうか。試合前は「その試合」ごとのクルーの取り決め事項を確認している。まずは、球審が内野における打球の分担の確認と、インフィールドフライのサインをどの時点でどのように出すかを示す。「内野における打球」とは、一塁線と三塁線の際どい打球を誰が「フェア・ファウル」を判定するかであり、「ベースより手前は球審の分担で、その奥は塁審に任せる」が基本となる。また、内野フライもベースより手前は球審がダイヤモンド内に入りコールするのが基本となっている。
この基本事項は毎試合確認してきたが、私自身が大きな勘違いをしていた。「ベース手前の打球のフェア・ファウルは球審」というのを、「ベース手前で切れたか否かの判定を球審が行う」とずっと思ってきた。その上で「ベース際は塁審の方が近いし、見やすいよな」と密かに思ってきた。
この勘違いのため、私が球審をやった際のライン際の際どい打球のジャッジは、塁審と「かぶる事」が非常に多かった。
先日、公式戦の給水の際に「ベースより奥で処理した打球は塁審に任せた方が良いよ」という指摘を受け、「えっ!?」と固まった。私は勘違いに気付き、指摘して頂いた方に「こっそり」と、『「ベース手前は球審、奥は塁審」の意味は「ベース手前で処理された打球は球審で、奥で処理された打球は塁審」という意味ですか』と聞き返した。答えは『そうそう』である。
完璧に勘違いしていた。そして、今まで密かに思ってきた疑問が氷解したのである。そう考えると、大抵の場合は野手(一塁手と三塁手)がベースより奥で守っているから、強烈にライン際を襲う打球の処理は、「ベースより奥」で行われる。ゆえに、その判定は塁審の分担となることが断然多い。
今まで「ダブルコール」が無かった事が『不幸中の幸い』であったなぁと胸を撫で下ろした次第である。
聞いてみなくては分からない勘違いはあるものである。
しかし、なかなか染み付いた癖は直らない。ライン際に打球が飛ぶと、ついついしゃしゃり出てしまう。
その癖が、ついに練習試合で「ダブルコール」という形を産んでしまった。球審の私が「フェア」、塁審が「ファウル」。
「フェア」がノーボイスであり、塁審の「ファウルボール」のコールが大きかったために事なきを得たが、反省しきりのジャッジであった。
恒例行事
2007年8月17日夏の甲子園大会が熱気を帯びているが、北海道の中学シニアも高校も3年生の全行事が終わり、早くも新人戦モードに突入である。
春先に多く見られた投手の不正投球や不正動作の数々も、試合を重ねるごとに是正され、最後の大会では非常に良い状態でプレイに集中している投手が多く見られたのは嬉しい限りである。
また、投手の投球練習中に、打者がウェイティングサークルで待つ取決めも、徐々に浸透しつつあるように感じている。春先のように、口酸っぱく言わなくても良い様になったように思う。
ただ、打者がサインを見る際に打席を外すのは、相変わらずであるし、先頭打者がベンチのサインを確認するため、打席になかなか入ろうとしないのには閉口する。最近の子供たちの習性なのか、「指示待ち」の選手が非常に多い。ゆえに、「只打つだけ」の場面で、必死にベンチのサインを確認している。そんな時に限って、ベンチ内の監督は他の選手の説教などをしている場合が多い。バッタースボックスの打者は、いつまで経ってもサインが出ないので、疑心暗鬼の状態で投手の投球を待つこととなる。このような状態では、良い結果出るわけがない。
今の選手たちは、野球の試合を真剣に見れないのであろう。プロ野球でも草野球でも、どんな試合でも構わないから、展開を読み、予測して、その結果を考察するなどという、野球本来の面白さを知らない選手が多いように思う。だから、自分のチームの監督の考え方や作戦を読めない選手が多いのであろう。
私自身は、野球の経験は草野球くらいしかないが、少年時代から観戦した野球の試合数は相当である。ゆえに、野球の流れは、色々と読むことができる。
この「読み」が、審判員としてグラウンドにいて、非常に役に立っている。中学・高校生レベルであれば、バント安打を狙っている打者や、スクイズのサインが出た瞬間などは、ほとんど読むことが出来る。
ゆえに、どうして捕手が感じないのか不思議で仕方がない。私より、数段野球に精通している選手たちが、まったく感じていないのが不思議で仕方がない。
今の時期、NHKテレビでは、折角朝から晩まで高校野球を流してくれている。全国どこに居ても、野球を観る事が可能である。今の野球少年たちは、何時間・何試合見ていられるであろうか。
ちなみに私は、この盆休暇中、故郷のテレビの前で連日、高校野球を終日観戦していた。
故郷の両親は、毎年恒例となった「この行事」に、息子の帰省を感じているようである。
「今年も、息子の家族が帰ってきた」と感じる「行事」である。
これくらい野球を観たら、大抵は「通」の域まで達すること、請け合いであるが、最近の選手たちは、他に楽しいことが沢山あるから、それはそれで仕方がないのであろうが。
春先に多く見られた投手の不正投球や不正動作の数々も、試合を重ねるごとに是正され、最後の大会では非常に良い状態でプレイに集中している投手が多く見られたのは嬉しい限りである。
また、投手の投球練習中に、打者がウェイティングサークルで待つ取決めも、徐々に浸透しつつあるように感じている。春先のように、口酸っぱく言わなくても良い様になったように思う。
ただ、打者がサインを見る際に打席を外すのは、相変わらずであるし、先頭打者がベンチのサインを確認するため、打席になかなか入ろうとしないのには閉口する。最近の子供たちの習性なのか、「指示待ち」の選手が非常に多い。ゆえに、「只打つだけ」の場面で、必死にベンチのサインを確認している。そんな時に限って、ベンチ内の監督は他の選手の説教などをしている場合が多い。バッタースボックスの打者は、いつまで経ってもサインが出ないので、疑心暗鬼の状態で投手の投球を待つこととなる。このような状態では、良い結果出るわけがない。
今の選手たちは、野球の試合を真剣に見れないのであろう。プロ野球でも草野球でも、どんな試合でも構わないから、展開を読み、予測して、その結果を考察するなどという、野球本来の面白さを知らない選手が多いように思う。だから、自分のチームの監督の考え方や作戦を読めない選手が多いのであろう。
私自身は、野球の経験は草野球くらいしかないが、少年時代から観戦した野球の試合数は相当である。ゆえに、野球の流れは、色々と読むことができる。
この「読み」が、審判員としてグラウンドにいて、非常に役に立っている。中学・高校生レベルであれば、バント安打を狙っている打者や、スクイズのサインが出た瞬間などは、ほとんど読むことが出来る。
ゆえに、どうして捕手が感じないのか不思議で仕方がない。私より、数段野球に精通している選手たちが、まったく感じていないのが不思議で仕方がない。
今の時期、NHKテレビでは、折角朝から晩まで高校野球を流してくれている。全国どこに居ても、野球を観る事が可能である。今の野球少年たちは、何時間・何試合見ていられるであろうか。
ちなみに私は、この盆休暇中、故郷のテレビの前で連日、高校野球を終日観戦していた。
故郷の両親は、毎年恒例となった「この行事」に、息子の帰省を感じているようである。
「今年も、息子の家族が帰ってきた」と感じる「行事」である。
これくらい野球を観たら、大抵は「通」の域まで達すること、請け合いであるが、最近の選手たちは、他に楽しいことが沢山あるから、それはそれで仕方がないのであろうが。
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3年生の夏
2007年8月12日中学シニアでは、3年生にとって最後の大会が行われている。「思い出大会」との位置付けもあるが、そこは公式戦である。選手は勿論、指揮を執る指導部や応援する父母も力が入るのは当然である。春先におぼつか無かったワンプレイ・ワンプレイが修正され、高校野球に向けての基礎となるべく磨かれている事が、個々人の「スキルの成長」として観る事が出来る。また、練習試合などで顔見知りとなった相手チームの選手との「笑顔の交換」は、そばで見ていて微笑ましくもある。そんな所に、日本選手権大会まで見られた、闘争心とも違う「とげとげしさ」を感じない事が「思い出大会」と受け取られる理由でもあるのであろう。
選手達は、この三年間一緒に汗を流してきた仲間達と、一日でも長く野球をやろうと懸命のプレイを繰り広げる。それ故に、好ゲームが多く、最後まで精一杯のプレイで挑めるのであろう。
試合に敗れた選手達の表情は、その思い入れや置かれている状況、試合展開などにより様々である。笑顔の選手もいれば、涙でくしゃくしゃの選手もいる。また、3年間選手を支え続けた父母も、試合に敗れた現実を受け止めきれない表情から、一区切りがついた事への脱力の表情まで様々であるが、共通しているのは、何処となく「寂しげ」に感じるのは私だけであろうか。
選手および父母の皆様には、ひとまず「ご苦労様」と声を掛けたい。そして、是非とも次のステージで「本物の暑い夏」を体験して頂きたいと願うばかりである。
我チームの3年生諸君には、今後の活躍を大いに期待し、かつ「お疲れ様」と「ありがとう」を贈りたい。
色々な思いを背景とした「3年生最後の大会」のジャッジは、試合内容の充実や選手の表情から、毎年楽しくもあり、何処かしら切なくもある。
今日球審を担当した試合も、猛暑の中好ゲームが展開された。1点を争う緊迫した内容である。スコアは1−0という試合であったが、内容は充実しており、唯一の得点も本塁のクロスプレイであった。両投手のコントロールの良さと両チームの積極的な打撃により、テンポの良い試合展開であった。このようなゲームでは審判団のひとつのジャッジが試合内容を壊してしまう事もあるので、ワンプレイに対する集中力は相当なものであった。
選手のテンポの良さに、私のジャッジも乗せられたような感じであり、最後の挨拶では「ナイスゲーム」という言葉が出ていた。
ナイスゲームを演出してくれるのは選手達であり、その流れを壊さずに上手くまとめ上げるのが、我々の仕事であるのであろう。
選手達には、「ナイスゲーム」に立ち合わせてくれたことへの感謝の想いである。
選手達は、この三年間一緒に汗を流してきた仲間達と、一日でも長く野球をやろうと懸命のプレイを繰り広げる。それ故に、好ゲームが多く、最後まで精一杯のプレイで挑めるのであろう。
試合に敗れた選手達の表情は、その思い入れや置かれている状況、試合展開などにより様々である。笑顔の選手もいれば、涙でくしゃくしゃの選手もいる。また、3年間選手を支え続けた父母も、試合に敗れた現実を受け止めきれない表情から、一区切りがついた事への脱力の表情まで様々であるが、共通しているのは、何処となく「寂しげ」に感じるのは私だけであろうか。
選手および父母の皆様には、ひとまず「ご苦労様」と声を掛けたい。そして、是非とも次のステージで「本物の暑い夏」を体験して頂きたいと願うばかりである。
我チームの3年生諸君には、今後の活躍を大いに期待し、かつ「お疲れ様」と「ありがとう」を贈りたい。
色々な思いを背景とした「3年生最後の大会」のジャッジは、試合内容の充実や選手の表情から、毎年楽しくもあり、何処かしら切なくもある。
今日球審を担当した試合も、猛暑の中好ゲームが展開された。1点を争う緊迫した内容である。スコアは1−0という試合であったが、内容は充実しており、唯一の得点も本塁のクロスプレイであった。両投手のコントロールの良さと両チームの積極的な打撃により、テンポの良い試合展開であった。このようなゲームでは審判団のひとつのジャッジが試合内容を壊してしまう事もあるので、ワンプレイに対する集中力は相当なものであった。
選手のテンポの良さに、私のジャッジも乗せられたような感じであり、最後の挨拶では「ナイスゲーム」という言葉が出ていた。
ナイスゲームを演出してくれるのは選手達であり、その流れを壊さずに上手くまとめ上げるのが、我々の仕事であるのであろう。
選手達には、「ナイスゲーム」に立ち合わせてくれたことへの感謝の想いである。
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危険な状態
2007年8月11日今日の暑さは異常であった。ここ一週間の天候は、北海道特有のカラッとした暑さではなく、蒸し暑い日々が続いている。それに加え昨夜の雨と無風状態のせいで、グラウンド内はサウナ状態であった。
控え室で防具を着けた時点で、汗が頬をつたう状態。一試合持つか、少々弱気になりながらプレイボールを迎えた。
投手のインターバルが長く、それなりに走者が塁を賑わす展開。
試合進行が異常に遅く感じた。なんとか集中しようとするが、一つ一つの動作に切れが無い。
もう、格好付けている場合ではない。体力の消耗を抑えるため、無駄な動きを極力避けるようにと考えるが、審判の動き自体に無駄は少なく、かつ省略できる動作は少ない。下手に動きを省略すると、重要なプレイの見落としにつながりかねない。
結局は、いつもと同じようにクロックワイズメカニクスに従い動かざるを得ないのである。
それにしても、眼鏡は曇るし、立っているだけで自分の体温を感じる異常な状態である。まるで、暑さの鎧を着込んだような状態である。熱射病とは、このような状態下で発症するのだろうと考えながら、本当に「危険な状態」となる前に申告せねばなどと考えながらジャッジを繰り返えした。
こんな日は、「少しストライクゾーンを広げて」などと言いながら控え室を出たのに、結局はいつものとおりの「自分のゾーン」になってしまったのは、仕方がないとは思うものの、それが最後まで自分自身を苦しめた。
結局、最初の一球の判定が全てであった。例えば「低目」であったり、「外側」であったり。「自分のゾーン」から広げる事は、なかなか出来ないものである。
「自分のゾーン」を曲げる事は、下手をすると試合全体がバラバラになってしまう危険性を孕んでいる。これだけは避けなければならない。
頑なに「自分のゾーン」を守る事で、自分自身が「危険な状態」に陥ってしまったが、奇抜な試合にならなかった事は救いである。
3年生にとっての最後の大会である。暑いの寒いの言っていられない。
半年間、幾度となく対戦を重ねた選手達に、試合終了の挨拶の際に「全員で握手するか」と促すと、笑いながら「ハイ」と応え、快く互いの健闘を称えあってくれた選手達の素顔を見る事が出来、とりあえずは自分のジャッジを選手達が受け入れてくれたことに感謝したい。
それにしても、初めて感じる「危険な状態」であった。
控え室で防具を着けた時点で、汗が頬をつたう状態。一試合持つか、少々弱気になりながらプレイボールを迎えた。
投手のインターバルが長く、それなりに走者が塁を賑わす展開。
試合進行が異常に遅く感じた。なんとか集中しようとするが、一つ一つの動作に切れが無い。
もう、格好付けている場合ではない。体力の消耗を抑えるため、無駄な動きを極力避けるようにと考えるが、審判の動き自体に無駄は少なく、かつ省略できる動作は少ない。下手に動きを省略すると、重要なプレイの見落としにつながりかねない。
結局は、いつもと同じようにクロックワイズメカニクスに従い動かざるを得ないのである。
それにしても、眼鏡は曇るし、立っているだけで自分の体温を感じる異常な状態である。まるで、暑さの鎧を着込んだような状態である。熱射病とは、このような状態下で発症するのだろうと考えながら、本当に「危険な状態」となる前に申告せねばなどと考えながらジャッジを繰り返えした。
こんな日は、「少しストライクゾーンを広げて」などと言いながら控え室を出たのに、結局はいつものとおりの「自分のゾーン」になってしまったのは、仕方がないとは思うものの、それが最後まで自分自身を苦しめた。
結局、最初の一球の判定が全てであった。例えば「低目」であったり、「外側」であったり。「自分のゾーン」から広げる事は、なかなか出来ないものである。
「自分のゾーン」を曲げる事は、下手をすると試合全体がバラバラになってしまう危険性を孕んでいる。これだけは避けなければならない。
頑なに「自分のゾーン」を守る事で、自分自身が「危険な状態」に陥ってしまったが、奇抜な試合にならなかった事は救いである。
3年生にとっての最後の大会である。暑いの寒いの言っていられない。
半年間、幾度となく対戦を重ねた選手達に、試合終了の挨拶の際に「全員で握手するか」と促すと、笑いながら「ハイ」と応え、快く互いの健闘を称えあってくれた選手達の素顔を見る事が出来、とりあえずは自分のジャッジを選手達が受け入れてくれたことに感謝したい。
それにしても、初めて感じる「危険な状態」であった。
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平素な判定
2007年8月6日野球の指導者の方々は熱い人が多い。見た目はダンディで、練習風景などを見ていると冷静なのに、いざ試合が始まるとテンションが上がり気味になる方が多い。
シニアでも高校でも練習試合などは、実戦の積み重ねであり、勝敗度返し的な雰囲気でプレイボールとなるが、いざ試合が始まると選手の「熱」とは明らかに違う「温度」を感じることが多い。
今の子供たちは、何かに夢中になり、周りが見えなくなるほど熱中する習慣がないせいか、どこか冷めたところがあるように思う。それが、粘りの無さや勝負所での弱さの一因なのであろう。
ベンチ内は、いつでも熱いのだが、グラウンドに出ている選手にまで伝わっていなかったり、逆に伝わりすぎて選手が金縛りになっていたりする。
それでも、試合に勝っているうちは、その「情熱」も前向きな方向へ向いており、聞いていても明るい笑顔が目に浮かんでくるように感じる。
ところが、敗色が濃厚になってきたり、チームの決め事を破ってしまったり、消極的なプレイなどがでると、雰囲気が一転することが往々にしてある。
その矛先が選手に向いているうちは良いのだが、時として「審判」や「判定」に向けられる場合もある。お門違いだなと思われる、八つ当たり的な批判もある。
球審をやっていると、ベンチの中で話していることは、以外と聞こえてくるものである。とくに「判定」に関する「不平・不満」は驚くほど良く聞こえる。
これらは、審判としての度量を深くして、懐を大きく構える必要があろう。
審判を始めた当初は、両チームの不平・不満が気になって仕方が無かった。あちらを立てれば、こちらが立たずの状態となるから、本当に始末が悪かった。これは、審判としての経験の浅さからくる「判定に対する自信」のなさが全ての原因であった。
審判稼業も何年かを過ぎ、それなりに経験を積むと「小さな自信」が芽生えてくる。そうすると、多少の「不平・不満」に対する対処方法を身につけ、逆に「不平・不満」に対する憤りを感じたりするものである。「俺のジャッジに文句があるのか」といきがったりするのである。このような状態が、大きなボーンヘッドを犯しやすい「危険な状態」である。私もこのような状態の時に、ご多分に漏れずミスジャッジをやった。
ただし、この経験があるからこそ、「平素な判定」を心掛けるようになれたのであるし、色々な「雑音」も受け流せるようになったのであろう。
先日、ある指導者の方と食事をする機会があった。その際に、その方が言われた「野球は人間がやるから面白い」という言葉が印象的であった。勝敗に、一番固執していると思われた指導者から、「ミスも野球のうち、野球はミスが無ければつまらない」という言葉。選手時代も含めて、野球に長く携わっている指導者の方の言葉である。判ってはいるものの、何とも意味深長であった。
最後に「いつも審判をやって頂き、ありがとうございます」と言われ、改めて「平素な判定」に努めようと考えさせられた。
何事、「感謝」の思いを忘れてはならない。
選手や指導者に感謝。両チームに感謝。グラウンドに感謝。観客に感謝。
来週は、シニアの子供たちに感謝しながら、「平素」にやろうと思う。
シニアでも高校でも練習試合などは、実戦の積み重ねであり、勝敗度返し的な雰囲気でプレイボールとなるが、いざ試合が始まると選手の「熱」とは明らかに違う「温度」を感じることが多い。
今の子供たちは、何かに夢中になり、周りが見えなくなるほど熱中する習慣がないせいか、どこか冷めたところがあるように思う。それが、粘りの無さや勝負所での弱さの一因なのであろう。
ベンチ内は、いつでも熱いのだが、グラウンドに出ている選手にまで伝わっていなかったり、逆に伝わりすぎて選手が金縛りになっていたりする。
それでも、試合に勝っているうちは、その「情熱」も前向きな方向へ向いており、聞いていても明るい笑顔が目に浮かんでくるように感じる。
ところが、敗色が濃厚になってきたり、チームの決め事を破ってしまったり、消極的なプレイなどがでると、雰囲気が一転することが往々にしてある。
その矛先が選手に向いているうちは良いのだが、時として「審判」や「判定」に向けられる場合もある。お門違いだなと思われる、八つ当たり的な批判もある。
球審をやっていると、ベンチの中で話していることは、以外と聞こえてくるものである。とくに「判定」に関する「不平・不満」は驚くほど良く聞こえる。
これらは、審判としての度量を深くして、懐を大きく構える必要があろう。
審判を始めた当初は、両チームの不平・不満が気になって仕方が無かった。あちらを立てれば、こちらが立たずの状態となるから、本当に始末が悪かった。これは、審判としての経験の浅さからくる「判定に対する自信」のなさが全ての原因であった。
審判稼業も何年かを過ぎ、それなりに経験を積むと「小さな自信」が芽生えてくる。そうすると、多少の「不平・不満」に対する対処方法を身につけ、逆に「不平・不満」に対する憤りを感じたりするものである。「俺のジャッジに文句があるのか」といきがったりするのである。このような状態が、大きなボーンヘッドを犯しやすい「危険な状態」である。私もこのような状態の時に、ご多分に漏れずミスジャッジをやった。
ただし、この経験があるからこそ、「平素な判定」を心掛けるようになれたのであるし、色々な「雑音」も受け流せるようになったのであろう。
先日、ある指導者の方と食事をする機会があった。その際に、その方が言われた「野球は人間がやるから面白い」という言葉が印象的であった。勝敗に、一番固執していると思われた指導者から、「ミスも野球のうち、野球はミスが無ければつまらない」という言葉。選手時代も含めて、野球に長く携わっている指導者の方の言葉である。判ってはいるものの、何とも意味深長であった。
最後に「いつも審判をやって頂き、ありがとうございます」と言われ、改めて「平素な判定」に努めようと考えさせられた。
何事、「感謝」の思いを忘れてはならない。
選手や指導者に感謝。両チームに感謝。グラウンドに感謝。観客に感謝。
来週は、シニアの子供たちに感謝しながら、「平素」にやろうと思う。
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あるトラブル
2007年7月30日WEBサイトの不調で、しばらく書き込みが出来ずにいました。ご迷惑をお掛けしました。
さて、息子の高校野球が終わった。本人はどのように思っているかは知らないが、小学校3年生から始めた野球生活に一区切りがついたように思う。9年間は長いようで、過ぎてしまえばあっという間であった。野球を続けたとしても、親元を離れてしまうため、もう真剣勝負を見ることは無いのかと思うと、本当に寂しい限りである。
そんな折、高校野球のある地方大会の準々決勝(ベスト8)でトラブルがあった。初めに言っておくが、私はプレイ自体を見ていない。あくまで聞いた話であることを前提に持論を述べることとする。
場面は、一死満塁。次打者がライトへ飛球を上げた。犠牲フライには十分の当たりで、三塁走者はタッグアップの体勢、二塁・一塁走者はハーフウェイで飛球の行方を追う。右翼手はこの飛球を捕球したかに見えたが、ボールは足許へ落ちていた。
三塁走者はタッグアップから本塁へ。二塁・一塁走者は、捕球したと思いハーフウェイからリタッチに戻る。
当事者である右翼手はボールを拾い、走者の進塁を防ぐために三塁へ送球。この送球を受けた三塁手はベースタッチし、二塁へ転送。二塁手もベースタッチした。
ここで、タイムが掛かり四氏審判員による協議に入った。
その協議内容は定かではないが、その後の「裁定」をみる限り、「右翼手は飛球を捕球したのか。ボールが落ちたのは送球動作に入ってからか。」ということであろうと思われる。
四氏審判員が下した「判定」は「右翼手の捕球は完全ではなく、落球した。ゆえに、二塁・一塁走者はダブルプレイでアウトとする。」であった。一度はスコアボードに記録されていた「得点1」が、「二塁・一塁の両走者はフォースの状態であるため、送球が三塁・二塁と転送されたことによりダブルプレイが成立する。ゆえに、三塁走者の得点は認めない」として取り消されてしまったのだ。
当然のように攻撃側チームは、この「裁定」に対する申し立てを行ったが、判定は覆ることはなかった。
試合の結果は、言わずもがなである。このような裁定で被害者となったチームは敗退するのが常であり、正にその通り、攻撃側チームは流れをつかめぬまま敗退してしまった。
審判員が協議をして「アウトにも見えるプレイをセーフにする」場合、走者がどこまで進塁できたかが問題となる。まして、今回のように外野の「インフィールドフライ」状態または「故意落球」状態では、攻撃側は断然不利である。走者はどのタイミングで次塁へ進んでよいか判断できない。
そして何より、このような状態になった最大の理由が、この飛球判定をするべき「一塁塁審がノーゼスチャー」であったことにある。
これはボーンヘッドと言ってよい「ノージャッジ」である。落球と判断したのであれば「ノーキャッチ」と叫びながら両手を広げるだろうし、捕球したと判断したのであれば「キャッチアウト」「He’s OUT!!」と叫びながら右手を力強く挙げれば良い。どうして、何のコールもゼスチャーも無かったのであろうか。考えられることは、角度が悪くてプレイが見えなかったためとしか思えない。ただし、審判員にも間違いや勘違いはある。それを是正するのが審判団の協議であろう。審判団には両者が満足し、片方が極端な不公平感を抱かずに済む「裁定」を下すチャンスはあったのである。
今回の場合は、あまりにも攻撃側に「不利な裁定」であった。
一塁審判のボーンヘッドが原因で、不利益が生じたのはどちらのチームであろうか。
「完全捕球」で打者アウトの場合は、タッグアップにより1点が入り、二死一二塁からの再開となる。この結果は守備側も攻撃側も、ライトフライが上がった瞬間に想定したものであり、どちらも大きな不利益を感じないであろう。
ところが「落球」としてしまったが為に、守備側は最大のピンチを凌ぎ、攻撃側は狐に摘まれたようにチャンスを逃したのである。
それでは「ノーキャッチ」と「落球」をコールした場合は、どのような結果になったであろう。ライトからの返球により、二塁上でフォースプレイは起こる可能性はあるが、ダブルプレイにはならなかったであろう。
逆に「キャッチアウト」と「完全捕球」をコールした場合は、まったく何も起こらなかったであろう。
審判団の協議は、実に難しい。協議をしなくてはならないようなプレイには、審判員個々の斟酌が影響する。同じプレイを同じ角度から見ていても、判断が分かれる場合もある。実際に四氏審判員は、まったく違う位置から違う距離感でプレイを見ているし、その瞬間に目を切っている場合さえもある。
この事例を聞いたとき、実際に当事者となった場合「私ならどうするであろう」と改めて考えさせられた。本当に両者が満足するような裁定を諮れるであろうか。最後には「競技者の不利益を取り除く裁定」よりも、当該プレイを「私には、こう見えた」が優先するような気がしてしまう。
「瞬時の判定」が「協議による裁定」になった場合の事例として、色々な方々にご意見を伺いたいと考えている。
さて、息子の高校野球が終わった。本人はどのように思っているかは知らないが、小学校3年生から始めた野球生活に一区切りがついたように思う。9年間は長いようで、過ぎてしまえばあっという間であった。野球を続けたとしても、親元を離れてしまうため、もう真剣勝負を見ることは無いのかと思うと、本当に寂しい限りである。
そんな折、高校野球のある地方大会の準々決勝(ベスト8)でトラブルがあった。初めに言っておくが、私はプレイ自体を見ていない。あくまで聞いた話であることを前提に持論を述べることとする。
場面は、一死満塁。次打者がライトへ飛球を上げた。犠牲フライには十分の当たりで、三塁走者はタッグアップの体勢、二塁・一塁走者はハーフウェイで飛球の行方を追う。右翼手はこの飛球を捕球したかに見えたが、ボールは足許へ落ちていた。
三塁走者はタッグアップから本塁へ。二塁・一塁走者は、捕球したと思いハーフウェイからリタッチに戻る。
当事者である右翼手はボールを拾い、走者の進塁を防ぐために三塁へ送球。この送球を受けた三塁手はベースタッチし、二塁へ転送。二塁手もベースタッチした。
ここで、タイムが掛かり四氏審判員による協議に入った。
その協議内容は定かではないが、その後の「裁定」をみる限り、「右翼手は飛球を捕球したのか。ボールが落ちたのは送球動作に入ってからか。」ということであろうと思われる。
四氏審判員が下した「判定」は「右翼手の捕球は完全ではなく、落球した。ゆえに、二塁・一塁走者はダブルプレイでアウトとする。」であった。一度はスコアボードに記録されていた「得点1」が、「二塁・一塁の両走者はフォースの状態であるため、送球が三塁・二塁と転送されたことによりダブルプレイが成立する。ゆえに、三塁走者の得点は認めない」として取り消されてしまったのだ。
当然のように攻撃側チームは、この「裁定」に対する申し立てを行ったが、判定は覆ることはなかった。
試合の結果は、言わずもがなである。このような裁定で被害者となったチームは敗退するのが常であり、正にその通り、攻撃側チームは流れをつかめぬまま敗退してしまった。
審判員が協議をして「アウトにも見えるプレイをセーフにする」場合、走者がどこまで進塁できたかが問題となる。まして、今回のように外野の「インフィールドフライ」状態または「故意落球」状態では、攻撃側は断然不利である。走者はどのタイミングで次塁へ進んでよいか判断できない。
そして何より、このような状態になった最大の理由が、この飛球判定をするべき「一塁塁審がノーゼスチャー」であったことにある。
これはボーンヘッドと言ってよい「ノージャッジ」である。落球と判断したのであれば「ノーキャッチ」と叫びながら両手を広げるだろうし、捕球したと判断したのであれば「キャッチアウト」「He’s OUT!!」と叫びながら右手を力強く挙げれば良い。どうして、何のコールもゼスチャーも無かったのであろうか。考えられることは、角度が悪くてプレイが見えなかったためとしか思えない。ただし、審判員にも間違いや勘違いはある。それを是正するのが審判団の協議であろう。審判団には両者が満足し、片方が極端な不公平感を抱かずに済む「裁定」を下すチャンスはあったのである。
今回の場合は、あまりにも攻撃側に「不利な裁定」であった。
一塁審判のボーンヘッドが原因で、不利益が生じたのはどちらのチームであろうか。
「完全捕球」で打者アウトの場合は、タッグアップにより1点が入り、二死一二塁からの再開となる。この結果は守備側も攻撃側も、ライトフライが上がった瞬間に想定したものであり、どちらも大きな不利益を感じないであろう。
ところが「落球」としてしまったが為に、守備側は最大のピンチを凌ぎ、攻撃側は狐に摘まれたようにチャンスを逃したのである。
それでは「ノーキャッチ」と「落球」をコールした場合は、どのような結果になったであろう。ライトからの返球により、二塁上でフォースプレイは起こる可能性はあるが、ダブルプレイにはならなかったであろう。
逆に「キャッチアウト」と「完全捕球」をコールした場合は、まったく何も起こらなかったであろう。
審判団の協議は、実に難しい。協議をしなくてはならないようなプレイには、審判員個々の斟酌が影響する。同じプレイを同じ角度から見ていても、判断が分かれる場合もある。実際に四氏審判員は、まったく違う位置から違う距離感でプレイを見ているし、その瞬間に目を切っている場合さえもある。
この事例を聞いたとき、実際に当事者となった場合「私ならどうするであろう」と改めて考えさせられた。本当に両者が満足するような裁定を諮れるであろうか。最後には「競技者の不利益を取り除く裁定」よりも、当該プレイを「私には、こう見えた」が優先するような気がしてしまう。
「瞬時の判定」が「協議による裁定」になった場合の事例として、色々な方々にご意見を伺いたいと考えている。
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