学生たちの質問より

2007年6月11日
学生たちの疑問はシンプルである。非常に初歩的な所で、誰にも聞けずにそのままとなっているケースがほとんどである。「えっ、そんなことも知らずに野球やっていたの」と言うと、「だって、誰も教えてくれなかったから」と言う応えである。確かに当たり前であろう。小学生の低学年からやり始めた野球であるが、ルールブックを一度も見たことがない選手がほとんどであろう。自分がやっているゲームの「ルールを知らない」と、照れくさくて、格好悪くて、今更言えないのであろう。
選手諸君よ、全然心配することはない。審判をやっている私でさえ、判らずに迷うことや反省することは山ほどある。日々経験して、勉強していけばいいのである。
私の場合、ルールを覚えるキッカケは野球漫画であった。古典的な「巨人の星」や「ドカベン」であった。ところが、この野球漫画にはストーリー性を重視するあまりの嘘がある。ルール解釈の問題ではなく、ルール違反が平然と描かれていたりするのである。これが厄介なことに、読者の興味を惹いたりすることが多い。
例えば、どの場面で「三振振り逃げ」出来ないのかが分かるであろうか。またどんな時に「インフィールドフライ」となるか分かるであろうか。知っているようで、審判任せのことが多い。では、審判が解釈ミスをしたらどうなるのであろうか。それは「審判の判定は最終である」という一文に守られるのである。
「三振振り逃げ」は無死または一死の場合、一塁に走者がいる場合出来ないのであるが、二死の場合は走者の有無には関係なく出来る。また、ワンバウンドを空振りした場合は振り逃げ出来るのは判るが、ど真ん中のストライクを見逃し三振となったが、捕手が落球した場合はどうであろう。これも振ってはいないが「振り逃げ」ができる。つまり「3ストライク目を捕手がインフライトの状態(ノーバウンド)で確捕出来なかった場合」が「三振振り逃げ」が可能な場合のルールである。
「インフィールドフライ」は攻撃側の不利益を取り除くルールであるが、審判員が「インフィールドフライ」をコールしなければ成立しないことは、あまり知られていない。良くあるのはベンチから「インフィールドフライだ」と声が掛かり、打者走者が走らないケースがある。ところが審判員が「インフィールドフライ」を宣告せずに野手が落球した場合、ダブルプレイとなることがある。打者走者が走ってさえいれば、ダブルプレイは避けられるのだが、トラブルが起こる時は凡ミスが重なったりするものである。身体やグラブに当たれば「故意落球」となることもあるが、この判断は難しい。ゆえに、これらのトラブルを避けるための予防として「インフィールドフライ」を宣告するのである。さて「インフィールドフライ」を宣告した場合でも、ボールデッドではなくインプレイである。つまり、走者は危険を犯して進塁しても良いのである。
たまに見かけるのが、「インフィールドフライ」を宣告した上での落球である。昨年こんなことがあった。一死走者1・2塁の場面で、インフィールドフライを宣告されたフライを野手が落球し、こともあろうか落球したボールを蹴飛ばしてしまったのである。走者はベンチの「走れ、走れ」の号令のもと、訳も判らず1つずつ進塁していたが、ルールを判っていれば、おそらく2塁走者は本塁へ達していたであろう。
こんな判っているようで、知らない質問に答えるのも審判員の役割なのであろう。

学生審判

2007年6月8日
私が球審をやっている時に、表情が険しくなるというよりも、表情がこわばる投手や打者は非常に多い。投手は内角の厳しい「ナイスボール」や低めの「ナイスボール」に辛い判定を下すことから表情がこわばるのであろう。
一方打者はアウトコースの「遠い球」を「ストライク」と判定された時に、バットをそっと出しながら表情が曇る。また本人が「止めた」と思っている「ナイス・ハーフスイング」を、あっさりと「スイング・ストライク」と判定されるために表情がこわばることも多い。
「ハーフスイング」については、守備側には「ボール」と判定された時のみ「捕手が塁審に聞くようにリクエストできる」権利を有するが、攻撃側には「ストライク」と判定されたものを覆すチャンスはない。「ストライク」は変更されないのであるから打者は辛いであろう、表情が「えっ!!」とこわばる。そんな時、私は心の中で「振るなら、最後まで振れ」と叱咤激励するのである。
そんな選手たちの表情の中で、判定に対して「苦笑い」する場面はなかなか無い。
大会を控えた高校野球の練習試合。真剣な選手の顔が、いきなり険しくなったり、苦笑いになったりしている。それも、審判のジャッジに対してである。はて、審判の何に対して「苦笑い」しているのであろう。その原因は、「学生審判」のジャッジにあった。選手たちはベンチ入りを賭けて精一杯やっているが、そんな重要な練習試合の審判員を学生がやっていたりするのであるが、この日の球審は2年生捕手であった。投げているのは先輩である3年生。いつもバッテリーを組んでいる投手が投げているのである。先輩投手は、後輩捕手が務める「急造球審」の辛いジャッジに「苦笑い」したのである。
ただし先日の「学生審判」は初めての球審であり、試合前は緊張していたが、いざ試合が始まるとなかなかどうして見事なジャッジであった。最も良かったのは判定がブレなかったことである。投手にとっては「辛い球審」であったが、判定にブレが無いことは重要である。低めは徹底して獲らない。コースもベースの内側だけしか獲らない。投手に厳しいが、徹底しているのが良かった。初めてにしては、「ストライク・ボール」の判定に関しては100点満点である。
もちろん、球審の仕事はこれだけではない。色々なところに目を配る必要がある。その辺りを理解させるには時間が少ないのと、選手たちが意外とルールに疎いことが弊害となる。高校野球ともなると、個人の技術はそれなりに高いが、ことルールに関しては「ほぼ無知」に近いのには閉口する。もう少し、ルールの勉強をした方が良いであろう。一般的に「大好きなゲーム」のルールを知らずに、一世一代の勝負に臨むことは考えにくい。
「最後の夏」と思って欲しくは無いが、「大切な夏」であることに変わりは無い。ぜひとも、悔いなく終わるために「ルール」の基本を学んで欲しい。その観点から、しばらくルールの基本を展開しようと思う。
ある高校3年生が亡くなった。若い人間が亡くなることは、実に切なく、悲しい出来事である。残された遺族の心痛を思うと言葉を失うし、亡くなった本人の無念は幾ばくであろうか。ご冥福を心から祈りたい。
亡くなった原因は、あるスポーツの試合中のコンタクトプレイであったらしい。そのスポーツはコンタクトプレイが非常に多い競技ではあるが、近代スポーツであるがゆえに、安全性には十分配慮されていた。特に頭部の保護は十分に考えられた競技であり、全員ヘルメットを付けることが義務付けられている。そんな競技で試合中に気分が優れなくなり、ゲームドクターの判断によりそのまま病院に直行したが、ご家族のおよび医療チームの懸命の努力報われず、帰らぬ人となってしまった。死因は脳内出血。試合中のコンタクトプレイが産んだ悲劇である。
最近私の身近な所でも同様の事故があっただけに、背筋の凍る思いであり、胸が締め付けられる何とも言えない感情に陥ってしまった。硬式ボールを使った野球では、同様の事故が十分に考えられるのである。さて、シニア野球の準備は万全と言えるであろうか、非常に疑問である。亡くなった彼が行っていた競技の試合会場にはゲームドクターがいたにも拘らず、彼は命を落としてしまった。しかし、そのドクターの責任を問うものではなく、そういう万全と思える体制を整えていても、こういう悲劇が起こるということである。だから、試合会場に救護班不要であるという理論は成り立たない。だからこそ、救護班やゲームドクターは必要なのである。
野球の場合、頭部へのデッドボールは日常茶飯事起こる。ヘルメットをしているため大丈夫と思いがちだが、亡くなった彼もヘルメットはしていた。また、胸部への打球直撃も多々ある。今年の初めに胸部プロテクターの試作品を検討していたスポーツメーカーが、現場の強い意向を受けて先月より発売を始めた。胸部に打球が直撃し「心臓しんとう」を引き起こすことは、軟式ボールでも十分ありえるのである。この対応としてAEDをすでに購入しているシニアのチームもあると聞いているが、シニア野球全体でどのように対処しようとしているのであろうか。腕や脚を骨折して命を落とすことはない。じん帯が切れようと同様である。しかし、頭部と心臓はそう簡単な話ではない。そんなことは百も承知の割には、大会要領などを読むとガッカリさせられる。「試合中に起きた事故は、各所属チームが責任を負う」。責任を誰が負おうと関係ない。選手、子供たちの命を守ることをどうするのかが問題である。
頭部へのデッドボールの後、臨時代走を出すまでは良いが、その後の出場を誰が判断して許可するのか。つまり、命に関わりなしと誰が「診断」して出場を許可するのか。誰が出場を止め、病院へ行かせるのか。誰が救急車を呼ぶ判断をするのか。
その判断が出来る人間を、せめて試合会場に常駐させることが重要であるのではないか。
昨年だったか、一塁へのヘッドスライディングは、構えた時点で「アウト」にしようとの申し合わせがあった。一塁へのヘッドスライディングは非常に危険である。一塁手は野手の送球を捕ることに全神経を集中するため、打者走者の行動には無頓着である。このため送球が逸れた場合は、打者走者の位置に関係なくボールを捕りにいく。その時、ベース手前で無防備に寝そべっている打者走者と接触することによる大怪我が考えられる。また、ヘッドスライディングをした打者走者が頚椎損傷になった事例もある。この選手は、有名な野球学校のレギュラー選手であったことから、技術的に問題があるとは思えない。要は危険なプレイなのである。そのプレイを防止しようとの申し合わせがあったはずだが、今年は何度も見ている。
野球にしろ、その他のスポーツにしろ、多少の怪我や傷害は致し方ないのは承知している。しかし、青少年の育成を高らかに謳うのであれば、命を守ることは関係する大人の最低限の役割ではないだろか。
悲しい出来事に接し、大人の責務を改めて強く思った。
志半ばにして若い命を落とされた、ある高校3年生のご冥福をお祈りしたい。

本物の野球

2007年6月6日
 励ましの投稿があり、また俄然「書こう」という気になってきた。励ましの言葉ありがとうございました。インターバルは空きますが、頑張ります。

 先日、たまにはのんびりと野球を観たいと思い、高校野球観戦に出掛けた。と言っても公式戦ではなく、練習試合である。高校野球の公式戦は、選手の思いの丈のエネルギーが物凄く、とても「のんびりと観戦」することは出来ない。真剣に観ないと選手に申し訳ないような感じになる。それに比べれば練習試合は比較的のんびりと観戦できる。とは言うものの夏の大会が近いためか、選手の一挙手一投足は真剣そのものであった。
 3年生にとって夏の大会は最後の大会であり、負けた瞬間に「高校野球」は終わる。ゆえに練習試合と言え、まずはベンチ入りを賭けての闘いがそこにはある。また本番に向けて、万全の態勢で臨みたいという思いもあるであろう。それはそれで本当に真剣である。
 日本の青少年たちが硬式ボールを使った「本物の野球」を楽しむ期間は非常に短い。その理由として、日本で異常に発展した「軟式ボールによる箱庭野球」が一因であるが、硬式野球を中学シニアから高校野球まで楽しんだとしても、せいぜい6年間であり、リトルリーグから硬式ボールと戯れたとしても10年に満たない程度である。生涯スポーツとして「野球が大好きです」、「野球を続けたいです」と言っても、その受け皿が無いのが現状なのである。それと高校野球の異常な盛り上がりと異常な思い入れが、大量の「燃え尽き症候群」を患った球児を作り出している現実もある。野球を始めようと思った少年時代には「プロ野球選手になりたい」と言っていた選手たちが沢山いるのに、たった10年足らずで夢を捨ててしまい、「野球はもう良いです」と言わせてしまっている現実がある。これは、高校野球を「神聖なもの」とか「最高の舞台」などと祀り上げ、「燃え尽きるように」仕向けているようにさえ思えるのである。
 実は、その高校までの硬式野球も「本物の野球」ではないのであろう。
 本場アメリカでも高校野球の金属バット使用禁止が話題になっているが、野球の原型は「硬式ボールを木製バットで打つ」であり、これこそ「本物の野球」である。これは、大学以降の硬式野球をやらなければ体験できない。
 日本の高校球児たちよ。ぜひとも夏の大会で燃え尽きることなく、「本物の野球」に触れて欲しい。「大好きだった野球」を捨てるのは、いつでもできる。楽しむことを思い出して欲しい。「プレイボールの精神」を忘れないで欲しいものである。
いよいよ、5月も終わりである。球春が明けたばかりであり、各レベルでは春季全道大会がクライマックスを迎えており、さあ本番に向けてのデモンストレーションから、いよいよ本番という時期である。
ここからが、息の詰まるような試合が続くことは判っているが、今年はどうにも気分が優れない。気持ちが切ないのである。
理由はハッキリしているが、情けないので公表しないでおこう。しかし、日々切ない思いが募るのである。
このブログも、しばらく間を置く事となりそうである。とても、色々な事について考え記載していく気分になれない。そういう心の余裕が無いのである。
それにしても、北海道の野球シーズンは短い。

死球

2007年5月29日
球審をやっていると、ボールが吾身を直撃することが時折ある。『非常に痛い』が格好悪いので、何とか我慢しようとする。攻守交替のインターバルまで我慢して、こっそりと冷却スプレーを噴いてもらったりする。
日曜日の試合では、ファウルボールがワンバウンドして右手の甲を直撃した。今も腫れていて『痛い』。年を重ねると治りが遅く、痛いまま翌週を迎えることもある。
土曜日の試合では、3度の死球があり、なんとすべて同じ選手が被災した。そのうち、腰の辺りへの死球はカーブのすっぽ抜けであったが、頭部への2度の死球はストレートがヘルメットをかすめた。先日も、試合開始の第一球が頭部への死球であった。
投手はインサイドを攻めなければ、打者の駆け引きには勝てないことは理解できる。投手の配球パターンの基本は『インハイ〜アウトロー』である。決め球はリスクの少ない『アウトロー』が多くなるため、『インハイ』は見せ球となることが多い。『打者を起こしてから、アウトローで勝負』がオーソドックスな配球である。しかし、シニアクラスの技術で『インハイ』を攻めるのは、非常に危険である。それは投手の技術もさることながら、打者の技術も未熟なためである。投手は「投球のコントロール」が未熟であり、打者は「身のこなしのコントロール」が未熟である。つまり、打者が「避ける技術」を身につけていないということである。人間は危険を予知すると、身を守るために反射的に危険から避けようとする動作をするはずである。にも拘らず、打者が死球を避けようとする動きが非常に鈍い。
頭部への死球は、まさに『死のボール』である。絶対に避けなければならない。投手はコントロールに絶対的な自信を持ってから『インハイ』に投げるべきであり、そうでない場合はベース板の半分より外側で勝負せざる得ないであろう。そうやっても、抜けたり、引っ掛けたりでインコースに散らばってくるはずである。そのような不確定な投手のコントロールから身を守るのが、打者の身のこなしである。
昔、長嶋茂雄は投手と相対する時に「二つの球筋をイメージした」という話は有名である。ひとつはベース板上に来る「絶好球」であり、もうひとつは頭部を直撃する「死球」である。あの「卓越した動物的勘」の長嶋茂雄でさえも、準備万端でバッタースボックスに入り、投手と相対していたのである。
日本の野球には「ぶつかってでも出塁しろ」という、訳の分からない指導が横行している。こんな教えを有難く拝聴していた純真な少年たちは、「死球により、喜んで一塁へ走る」のである。だから、インコースに投じられたボールに対して、反射的に避けるのではなく、反射的に当りに来る打者さえいる始末である。
硬式野球を決してなめてはいけない。死球により選手生命を短くした選手も多く、正に「死のボール」となることも十分に考えられるのである。避けられる危険は絶対に避けるべきであり、そんなことをするためにバッタースボックスに入るわけではないであろう。変に根性のある選手が、このような危険な状態を回避せずに「甘んじて受ける」という過ちに陥っている。
今、私の教え子が頭部に投球を受けて入院している。頭蓋骨陥没である。幸い大事には至っていないが、一報を受けた時は全身の血の気が引いた。スポーツをやっている以上は怪我を恐れるわけにはいかないが、「避けられる危険を甘んじて受ける行為」がいかに愚かなことかを理解してほしいものだ。
それにしても頭部に死球を受けた後、選手をベンチへ一旦下がるように促すと、決まって「大丈夫」ですという応えが返ってくる。また、ベンチに「臨時代走をお願いします」と伝えると、「大丈夫だろう?」という驚くべき応えが帰ってくる時もある。
いやはや、これでは「死球を避ける技術」の伝承が、いつかは途絶えるように感じてしまうのは私だけであろうか。

Good-bye Baseball

2007年5月26日
野球はスリリングである。どんなに点差が離れていても、ゲームセットのコールがあるまで、試合の結果はでない。点差から考えて、厳しいと思われる試合も、選手達の強い思いが、簡単に流れを変えてしまう。
時に、それを『野球の神様が微笑む』という表現をしたり、『野球の神様の気まぐれ』と言ったりする。
その最たるものが、サヨナラゲームであろう。まさに突然、試合終了が訪れるサヨナラゲーム。野球の醍醐味と言っていいであろう。
しかし、その伏線は試合開始からあるもので、ゲーム内容を振り返ると色々な場面の戦術の是非もある。
作戦に関する感想を述べることは、立場上問題があるので別の場で行うこととしようと思う。
今日のサヨナラゲームは、しびれる展開であった。4回終了までは淡々と進んだ試合も、審判の給水後から怪しく動き出した。表の攻撃側が勝ち越せば、裏が返す展開。それまでも、両チームともチャンスはあったが、決定的な点差が奪えない。こう着状態のまま7回裏へ。
試合を決めたのは、代打の一振り。初球から、積極的に振りに行く、代打の鉄則を忠実に守り、どんどんフルスイング。結果は詰まっていたが3塁手の頭上を越えていくサヨナラ打。
やはり、こういう緊迫した場面では気持ちの強い選手は頼りになる。
このゲームで、面白いプレイがあった。というか、面白いプレイになるところであったと言うのが正解である。場面は、一死満塁でカウントは3ボール2ストライク。投手にとっては絶対絶命であるが、打者のプレッシャーもすごい。この場面で、攻撃側はスクイズを選択した。結果は『ファウルボール』で打者アウト、走者は各塁に戻った。
さて、このケースで「打者の足が打席から出ていたら」どうするであろうか。つまり、打者はスクイズの際に『足が打席から出て打撃をした』、つまりバントしたが【反則打球=イリーガル】となり、それがファウルボールになった。そして、そのファウルボールがスリーストライク目であった。
考えうる判定は、以下の二つ。判定は、どちらだと思いますか。
【判定?】バットに当った時点でイリーガルが成立し、ボールデット。打者はイリーガルでアウト。走者は各塁へ戻す。
【判定?】打者はイリーガルでアウトであるが、スリーストライク目をバントしファウルボールとなっているから、これでもアウト。一人の打者から二つのアウトを取れないことから、『打者は打席から出て、反則を犯してまで打撃をすることで、捕手および野手の守備を妨害した』として、本塁に近い走者をアウト。

さて、どうしたら良いでしょうか。2年前までは、このケースは、ボールカウントに関係なく、3塁走者をアウトとしていましたが、ルールの改正で、『イリーガルの時点でボールデットであるから、打者アウト、走者は戻す』に変わりました。ただし、スリーバントがファウルになった場合は、そのままのルール適用で良いのかが迷います。そのままで良いようにも思うし、それでは守備側に不利益が生じるようにも思う。
野球のルールは、基本的に反則投球や反則打球、妨害や故意の行為などに厳しい規則となっています。これらへの処置は、この行為によって生じた不利益を取り除くことを審判がジャッジするとされています。この考え方に基づくと【判定?】もありかなと考えてしまう一方で、『拡大解釈』かなとも思います。

それでは「スリーバントスクイズを試みた打者の足が打席から出た状態でバントしたところ、ファウルチップになり捕手が捕球した。捕手は、本塁に突っ込んでくる走者にタッグにいった。3塁走者はタッグをかいくぐってセーフのタイミングであった。」
さて、このときの判定は??
【判定?】打席から足が出た状態でバットにボールが当った時点でイリーガルが成立し、ボールデッドであるから、走者は戻す。
【判定?】ファウルチップの時点で打者はスリーストライクでありアウト。打者は打席から出て捕手のプレイを妨害したが、打者は既にアウトになっているから、本塁に近い走者をアウト。

同じような感じだが、非常に迷う。一気に2アウトとするのは勇気いる。タイミングがセーフなだけに、攻撃側は納得しないであろう。もしも、アウトのタイミングであれば、守備側は納得しないであろう。
球審をしていると、意外と選手の足が打席から出ているのが多いのが分かる。特に、バントでは多い。
これで、サヨナラだったらと思うと・・・・。ちょっと寒気がする。
またもや週末の天気が怪しい。不思議なもので、春先に週末の天気が悪い年は、一年中悩まされることが多い気がする。子供の少年野球に付き合って、週末野球三昧に明け暮れて10年になるが、春先の天候は非常に気になる。今年の春先は、寒暖の移り変わりが激しく、非常に不安定な天候が続いた。雪解けは早かったが、結局桜の開花は例年並より遅いぐらいであった。北海道のシーズンインは、どの団体もゴールデンウィークが多く、今年は比較的天候に恵まれた気がしたが、その後は優れない週末が続いている。シニアの大会も、春季全道大会の予選リーグが佳境を迎えているが、できれば好コンディションでの熱戦を期待している。こうなると、悪天候でも味方に付けることができる精神状態の選手が多い方が有利になるのであろう。以前にも書いたが、自然の中で行う野球では、色々なものを味方に付けなければ損をする。とにかく、試合をやる上では、すべては自分の味方だという「思い上がり」が必要なのであろう。
審判員も自然を味方に付けたいが、これがなかなか曲者が多い。強風の時などは、選手も右往左往するが、審判員もそれに釣られて東奔西走することとなる。私は眼鏡を掛けているため、雨の降る日は、非常に困る。雨の雫で視界が悪くなったり、眼鏡が曇ったりと苦労する。昨年から「ハンカチ王子」ならぬ、「ハンカチ中年」よろしく、ポケットに小さなハンカチを入れているが、実際に雨の日はそれどころではない。
週末の試合が流れると、試合日程が詰まっていることから大変な事態になりそうである。また地方からくる球団も多いため、何とか試合消化をさせてやりたい反面、グラウンド状態の良い時に、思う存分やらせてあげたい気持ちもある。
今年のリーグ戦はプレイオフ必至のブロックもあり、非常に混戦模様を呈している。確かに、何チームかは頭ひとつ抜けているが、日本選手権までの一ヶ月でどのようになるかは混沌としている。正に成長期の中学生の試合は波乱含みであり、その成長を観ているだけでも楽しいものである。
リーグ戦の終盤を迎えて、これまでの印象はというと、選手のマナーや試合態度などは大きな問題はないように感じている。毎試合、毎試合しつこく注意を促している効果が多少なりとも浸透してきたのかなという感じがしている。ただし、そこは中学生。タガを緩めると、すぐに悪い方向へ進みたがるような年頃である。引き続き注意を促す必要があるのだろう。そのうち、全力疾走をして攻守交替をしていることの「良さ」が、彼らにも判る時が来るであろう。
それを信じて、「Hurry-Up!!」を叫び続けようと思う。

妨害宣告

2007年5月23日
先日の試合で、打者による捕手への妨害が3度、ボークも1度あった。いずれも、判っていて見逃してしまった。
『ボーク』は次に同じようなけん制動作があれば宣告しようと考えていたが、その後「同様の程度」の動作は行われなかった。
今年は「妨害」をテーマに掲げていたのにも関わらず、いざとなるとその基準のあいまいさと、自分自身に「ここからが妨害」という「尺度」がないことから「妨害宣告」できていない状態である。
試合終了後に大いに反省もし、大先輩の審判員からも「きつい」忠告を頂いた。肝に銘じようと考えている。
「ストライク」や「ボール」の判定はビデオや機械でも出来るであろうことから、球審はいなくても良いかというと、そうではない。野球で一番大事な本塁周りの仕事は沢山ある。それは、投手や捕手、打者や走者などの息遣いや小さな仕草・表情などを観察してジャッジしなくてはならないから、あの位置に球審は必要なのであろう。
そういえば、こんなこともあった。打者は、なかなか小細工の利きそうなタイプの左打者。2ストライクから投手は打者のインコースをストレートで鋭くえぐった。投球の軌道を目で追いながら「う〜ん、ナイスボールだ」と思った瞬間、ボールは捕手のミットに納まらずに目の前から鈍い音と共に消えた。打者は「デッドボール」とばかりに、一塁へ向かっている。球場全体が「デッドボール」という雰囲気が支配的になった。その時、私の目には、ある残像がリプレイされていた。その残像とは「ボールがミットに納まる直前、打者の足がボールを避ける方向ではなく、ボールに当たる方向へ動いた」である。打者はインコースの投球を避けずに、明らかに足を出して投球に当たりにいったのである。
私は「ボール」とコールし、一塁に向かって走り出した打者を呼び止めた。そして「投球に当りにいってはいけない」と注意し打席に入るように促した。打者は反論するでもなく黙って打席に入ったので、おそらく私が見た残像への判断は正しかったのであろう。
その一瞬のうちに、頭の中を色々な事が巡った。「本当にデッドボールでないのか」「本当に足は前方へ動いたのか」「足に当たらなければ、ストライクだったのではないか」「捕手の捕球を妨害したのだから、インターフェアではないか」などなど。
もしも、走者がいて盗塁を試みていたらどうなるのであろうか。投球を避けようとしたが当たった場合は「デッドボール」だが、投球を避けようとしなかった場合は、当った瞬間にボールデッドとして「ボール」を宣告し、走者は戻して再開。さて、今回のように当りに行った場合はどうであろう。当りに行ったということは故意である。当たらなければ、走者の盗塁を阻止できていたかもしれない。それらから、故意の妨害(インターフェア)を採用して、「打者をアウト、走者は投球時点に戻す」で良いと思うのだが如何であろう。
幸い先日のケースでは、走者はいなかった。
いやはや今年も「ミスター・トラブル」、または「ミスター・アクシデント」と言われそうである。すでに「延長戦・男」を襲名しているのだが・・・・。

延長男

2007年5月22日
昨年から、私は「延長男」と恐れられているようだ。週末にご一緒した審判員から、ありがたい忠告を頂いた。確かに昨年は、延長9回2度、延長11回1度、延長12回1度と実に4度の延長戦に立ち会った。シニア全体でも、延長戦は年間十数試合であろうことから、かなりの確率である。この事実が知れ渡り、最近私とクルーを組むことが敬遠されているように思われる(笑)。この他にも「雨天コールド」もあり、降雨による試合会場の移動ありと、昨年はめったにお目にかかれないことが続いた。
延長戦となると、試合時間は悠に2時間は超過する。活発な打撃戦では、審判員は右に左にと振り回され肉体的に疲労困憊となるが、好ゲームであれば時間の経過を忘れることが多い。一方、緊迫した投手戦は一球・一球に引き込まれるように集中するため、精神的にダメージが大きいものの、投手戦は走者があまり出ないことから、試合時間は短いことが多い。これと似て非なる「貧打戦」での延長戦は、かなり疲れる。四死球やエラーで走者は出すものの、もう一本が出ないゲーム展開で延長戦になると試合時間も長くなり、疲労はかなりなものである。とにかく試合のテンポが悪い場合はジャッジの質も怪しくなる。ジャッジの質が落ちると、試合展開にも影響を与える。
今年のルール改正は時間短縮がキーワードであることは以前紹介したが、所詮人間のやるゲームである。ルールで縛ることは出来ない。ちょっとした気分の乗りの違いで、簡単に時間短縮になったり延長戦より長い試合になったりするのであろう。中学生や高校生は、攻守交替を走って行おうとするからまだ良い。大学や社会人になると攻守交替ではまったく走らないし、無駄なプレイが非常に多い。高校野球までは、坊主頭で張り切って走り回っていたのに、どうしてあんなにもだらしなくなってしまうのであろうか。

それにしても、シニアの延長は最大14回までだという規定には驚いた。高校野球は以前18回(2試合分)であったが、現在は15回としている。シニアは、以前より2試合分の14回としている。この回数はどう考えても長すぎる。試合時間の問題よりも、選手の健康面、特に投手の投げすぎによる障害が問題であろう。確かに、「投げ過ぎて」その場で倒れる投手はいないであろう。かえって、その方が救われるかもしれない。投手の肩は「消耗品」という言葉は言い尽くされているはずだが、それでも100球以上の球数を「根性と精神力」で投げさせたり、「若い奴は回復力が早い」と連投させたりしている。
延長戦のあり方について、考えるべきだと「延長男」は思うのだが。

かみ合わない試合

2007年5月20日
週末の2日間は波乱万丈であった。周囲からは、そうは見えないであろうが、本人は至って気にしている。球審をやっていると、ゲームが順調に流れてくれる事が気になる。トラブルがないことを、ある意味祈っている。「楽しもう」という意識で挑むのだが、やはり勝負事の「審判」をするということは、簡単な事ではないし、まして趣味の感覚では選手に申し訳ない。
昨日の試合は、シーソーゲームであった。観戦している側からすると、非常に面白い試合であったであろうが、ジャッジしている審判の立場では、とても楽しんではいられない。クロスゲームの場合は、ひとつのジャッジにより流れが大きく変わる。「一球入魂」とはよく言ったもので、一球一球集中していかなくてはならない。ところが、一球に集中しようとするがあまり、周囲が見えなくなってしまう場合もある。全体を漠然と見て、集中はボールに注ぐ。これは非常に難しい。毎試合・毎試合、初球の球筋を観た瞬間、「今日はしっかり見えている」とか「今日は、いつもと違うぞ」といった違った感触がある。投手も違えば、打者も違う。そして、なにより審判団のメンバーも違う。クルーの雰囲気によっては、感触の違いが顕著にでる事もある。私のように、大まかな人間でさえ重圧と緊張があるのであるから、ナーバスになりやすい性格の人は大変であろう。
そんな状態で、負傷者が沢山出た為に試合の流れが途切れてしまう。選手やベンチもリズムに乗れないであろうが、審判も同様である。「アクシデント」は突然現れる。予想できないから「アクシデント」である。プレイの中でもイレギュラーバウンドなどがあるように、試合の流れの中でも選手交替やタイムによる協議などで中断する事がある。それに負傷退場などが加わると流れはバッタリと止まる。負傷して選手交替が止む無い場合などは、打線の流れも、守備のリズムも変わってしまうため、試合全体が間延びしたような感覚になってしまう。しかし、選手達は全力でプレイしている。スポーツをやっている以上は、負傷は仕方がない。それをコントロールして、仕切っていくのも審判の役割の一つなのであろう。
昨日は、負傷者が続出した。頭部デッドボールによる臨時代走やイレギュラーバウンドによる打撲、挙句にデッドボールによる負傷退場とバント失敗による指の裂傷退場。
「こんな試合もあるよ」と言いたくはないが、これが現実の試合なのであろう。
今日も、リズムが良いのか悪いのか・・・、というゲーム。
かたやの投手は投球テンポが早過ぎて、プレイも掛けていないのに投球モーションを開始している。こなたの投手は一球ごとの間がとにかく長い。なかなかプレートに足を入れない。一度、プレートの後ろで深呼吸して、プレートに足を入れサインを見るため、テンポが悪すぎる。守備側の野手も大変であろうと思う。ただ今日の両チームの攻守交替は素晴らしかった。全力疾走が徹底されていた。これに救われた気がしている。
それにしても、かみ合わなかったなあ。

1イニング0/3

2007年5月18日
投手の投球回数は、プロ野球の完投勝利投手でも通常9回である。つまり27個のアウトを獲れば勝利に近づくのである。シニア野球の場合は7回、21個のアウトカウントを稼げば良いことになる。そのアウトプラスα分(走者の数)の数だけ、投手を含めた守備側は集中しなければならない。
さて審判員はというと、攻守交替ごとに控え室に戻るわけには行かないから、その倍の数だけ集中する必要がある。球審に至っては、両チームの投手が投げるボールに対して、毎回集中するため、100〜200回の集中とリラックスを繰り返すのである。これは実に疲れる。そんな試合の中で、審判のインターバルは攻守交替の時だけであるから、試合中盤の「お絞りとドリンク」に何度も救われた。父母の心遣いには、改めて感謝したい。
週末に向けて、雨が降り出した。雨中のジャッジは、別の意味で緊張感がある。技術的にはボールが滑ることや視界が悪いことから、珍プレイや稚拙なプレイが続出する。なかなか予想し難い。また集中力の維持が難しいため、精神的に強い選手、つまり多少のことでは動じない選手が多いチームは強い。雨も風も味方につけることが出来るようでなければ強豪チームにはなれないのであろう。
実は、私自身ドーム球場が嫌いだ。何と言っても、あの閉塞感が耐えられない。北海道に日本ハムファイターズが来てくれた事は、大変喜ばしいことであり大歓迎であるし、産まれた時からの巨人ファンに別離してファンになった。しかし、ドーム球場の息苦しさが嫌いで、今まで2試合しか観戦に行っていない。人工芝も野球の醍醐味と意外性を奪い取っているように思う。
野球は屋外でやるスポーツである。風も吹けば、雨も降る、寒い日もあれば、暑い日もある、そんな環境下で行われるスポーツである。確かに、真夏の日中に子供たちとグラウンドに立っていると、「こんな暑い中ではゲームは楽しめないだろう」と思うし、春先や晩秋深まる時期の試合は身体が縮んでしまい、好プレイどころか普通のプレイを望むことが酷に思える。審判員も人間であるから、「もっと良い天気の時に・・・・」と思うこともある。
しかし、選手の真剣な表情を見ていると、ハンマーで頭を殴られた思いに至るのである。審判員は選手がプレイを続ける限り、公明正大に両チームの間に入り、ジャッジを繰り返さなければならない。試合が始まれば、その試合の進行に対して全権を与えられるのであるから、選手以上に真剣に活気溢れる行動を取らなくてはならないのであろう。野球小僧たちの真剣さに負けないように。
昨年、土砂降りの中で「プレイボール」を宣告したことがある。1回表を終わり、1回裏の先頭打者に数球投げた時点で、西の空が光り、雷が鳴った。「試合中断」である。野球小僧たちは何とか試合続行させようと、土砂降りの中でブルーシートを広げ、重石代わりにトンボを持ってグラウンドを走り回っている。
暫くして、私は土砂降りの中で1人グラウンドに立ち「ノーゲーム」を宣告した。その時の両ベンチの野球小僧たちが発したヤンヤ喝采が未だに忘れられない。彼らは、たった1回0/3の試合でも、ずぶ濡れになりながら十分に楽しんでいたのである。野球小僧たちのパワーには頭が下がる。
さてさて、週末の天気や如何に。好天を望むが、雨もまた一興か。

ミーティング

2007年5月17日
今週末、2週間振りにグラウンドに立つ。もちろん、審判員としてである。たった1週間空けただけで不安が先に立つが、愉しみでもある。どんなプレイをジャッジできるのか、愉しみである。今年は色々なレベルのジャッジをしているが、結局は野球のレベルに合わせたジャッジではなく、ルールブックに沿ったジャッジが基本になる。試合終了後に「ナイスゲーム」と一言掛けられるような展開を期待したい。
2週間振りとはなるが、野球から離れていたかというと、決してそうではなかった。ちょっと野球から離れようと考えていたが、結局は毎日ルールブックを眺めていたし、結構野球観戦もした。少年野球は見ていて微笑ましくもあるが、子供達の真剣なまなざしには恐怖さえ感じる。子供達は正直であり、素直であり、真っ直ぐである。そして何より、真剣である。ゆえに、子供の仕草を見ているとジャッジの難しさが伝わってくる。
リトルリーグで審判の手伝いをしていた頃、一塁の塁審をやっていて「Off the BAG」のコールやジェスチャーが分からずに、際どいプレイを「OUT」として選手に睨まれた事がある。よくこんな他愛もないことを覚えているなと思われるかもしれないが、その時の選手の目を忘れる事ができない。
審判技術の未熟さは、経験が物を言う役割から考えると、初心者マークの時代は仕方がない。審判員の技術が高い試合は、確かに締まるし、なんと言ってもテンポが良い。しかし、初心者マークの場合は、ジャッジのコールの間の悪さやポジショニングのまずさ、ジャッジの不安定さなどが目に付き、何とも締りがない。だがそれもこれも、経験を積めば解消できる問題である。
それに比べ知識の無さ、いわゆる無知は悲劇を導き出す。ルールの適用の誤りや、マナーに対する優柔不断は、選手を疑心暗鬼にし、審判員に対する尊敬の念を失墜させかねない。それを考えると、ルールの勉強は十分に行うべきだし、事前事後のミーティングによる反省を怠ってはいけないのであろう。
シニアの審判員はグラウンドレベルが4名、そして審判室に控え審判員が1名の5人体制で一試合を受け持つ。これをクルーを呼び、試合の事前事後に必ずミーティングを行う。事前のミーティングでは、インフィールドフライに対するサインや、各塁までのジャッジは球審が受け持ち、それ以降は塁審がジャッジするなどの確認を行う。また、外野の飛球に対する責任範囲を塁審同士で確認する。毎回毎回同じ事を確認しあうのだが、これが非常に大事であり、ある意味基本の見直しなのであろう。
審判員をやり始めの頃は、どうしても野球を見てしまった。しかし、それでは「いざのジャッジ」に遅れをとる。プレイの一つ先、またはもっと先を読み、ポジショニングをしておかなければ落ち着いた正確なジャッジはできないのと、見ている選手や観客を納得させられない。
事前のミーティングでは、基本的な動きであるカバーリングとジャッジのシンクロについての確認を毎回するのである。
そして試合後に自己反省を行うことで、次回のテーマを見つける事にしている。
今週は、落ち着いて、慌てずにジャッジする事を心掛けよう。なんと言っても、2週間振りの実戦で入れ込みすぎた状態になりそうであるから。

遅延行為

2007年5月16日
私がまだ駆け出しの頃、大先輩の審判員が投手の一塁牽制に対して「That’s Balk」と叫んだ。その時私は、一体何がボーク行為なのかが分からなかった。投手は一度早い牽制球を投げた後、再び「間をとる」ように牽制球を一塁に投げた。その瞬間、大先輩は「ボーク」を宣告したのである。
試合終了後大先輩に解説を伺ったところ、返ってきた答えは「遅延行為によるボーク」であった。確かにルールブックには、投手のボークの中に「遅延行為」という項目がある。無駄な牽制球などが対象になるということであろう。走者が塁上かすぐ近くにいる場合、単に「間をとる」ために行う牽制球は「遅延行為」の対象となるのである。まして、牽制球が「山なりの送球」では仕方がない。
現在社会人の第一線で活躍されている審判員の方の経験談によると、「投手がロージンバックを触りに行って、一塁走者に対してロージンバックを投げる振りをした」際に「That’s Balk」としたことがあるらしい。確かに「その行為」自体には何の意味もない行為であり、闇雲に試合を遅延させているだけであるから「遅延行為」の対象となるのであろう。ということは、投げ手にボールを持たずに手を振ることも「遅延行為」となるのであろう。
緊迫したシーンで「間」が必要であることは理解する。それも「インターバルのあるゲーム」である野球ならではであろう。しかし、無駄な行為や意味のない行為を見逃すわけには行かない。
昨日も、こんなシーンがあった。1点差で終盤を迎えた試合で一死走者2・3塁。内野はマウンドに集まり「前進守備」を選択した。スクイズも考えられるケースであるが三塁手がベースから離れ、三遊間を詰めている。投手はセットポジションから三塁へ偽投し、返す刀で二塁へ偽投した。内野手はまったく動かない。これは立派な「遅延行為」である。投手は、内野手と協議して「前進守備」を選択したことを知っていたにも拘らず、塁から離れている三塁手や遊撃手に向かい「偽投」したのである。練習試合のため学生審判員であったことから「ボーク」はとられなかったが、公式戦であれば「立派なボーク」となるであろう。私がクルーに居たならば、練習試合といえ、有無を言わせずボークを宣告していたであろうが。
ここで問題となるのが、審判団のうち誰が一番良く見えるかである。球審はセットポジションに入った投手に集中しており、三塁手の位置関係まではなかなか見えていない。事前に守備位置を確認し、頭にイメージが出来ていればいいが、なかなか難しい。二塁塁審は投手を凝視しているが、前進守備のため外に位置(遊撃手の後ろ)しているであろうから、球審よりも状況が分かる。しかし、外に位置した状態からは、なかなかボークを宣告しにくいし、説得力も薄い。このケースは、一・三塁の塁審が良く見えているであろうから、この二人からのボーク宣告には説得力がある。
球審は全体が見える位置にはいるが、決して万能ではない。そして球審も塁審も「試合をスムーズに動かす」という意味では同じ責務がある。そう言う意味ではワンプレイに対する集中力は同じなのである。スタンドから観戦していると、色々と見えることが多く勉強になる。
プロ野球でも、一塁へ気の抜けた牽制球を投げる投手がいる。プロの審判員が勇気を持って取ってくれなければ、日本の野球レベルはいつまでも上がらないように思うのだが。今年のルール改正の観点から考えると、「遅延行為」は最も厳しく見られるべきなのであろう。心してジャッジしようと思う。

私見

2007年5月15日コメント (2)
最近「読んでいますよ」とよく声を掛けられる。私が誰なのかは、言わずもがなの感ではあるが、やはり判ってしまうのであろう(本当は覆面ライターで居たかったのであるが・・・)。
このブログのコンセプトは「審判の目」から、どのように野球が見えているのかを、私個人の観点から書き記している。あくまでも、私個人の意見、つまり私見である。ゆえに、私見を一方的に垂れ流しているのであり、読んでいただいている人の顔を思い浮かべてはいない。賛同もあれば反論もあるであろうが、お構い無しである。あまり突き詰めると愚痴になりがちなので、適当な所で矛を収めてはいるが、それでも癇に障る方もおられるであろう。
しかし、グラウンドレベルで野球に接していると、色々な事を見聞きしてしまう。また、瞬時のルールの適用や解釈の難しさを痛感することは多々ある。これらの事象を紹介していくことで、これから審判を始める方の一助になればという思いと、審判をやられていない方にも多少なりとも野球の別の面白さが伝わればと考えている。そして、自分自身の慰めにもなっているのは確かである。
以上の前振りをして上で、私見をひとつ。
この春のリーグ戦で見聞きした事で気になることがあったので開陳してみよう。私の息子が野球を始めた頃、野球のマナーなど何も知らないゆえに、恥ずかしい思いをしたことがある。それまで、プロ野球のテレビ中継の視線でしか野球を観ていなかったことから、バックネット裏で観戦していた。理由は簡単である。そこが良く見えるからである。ただ観ている分には良いのだが、性格上、思わず歓声やら、応援やら、ブーイングやらを始めてしまった。ご存知の方も多いと思うが、私の声は大きい。100mは届く自信がある。その大きな声で、バックネット裏で奇声を上げ応援してしまったのである。すかさず、チームの父兄が飛んできて注意をされた。「バックネット裏での応援はマナー違反ですよ」と。それ以来、バックネット裏で観る時は寡黙に徹するようにしている。
今年の春のリーグ戦の初球審をやった時である。プレイボールを宣告し、投手が一球目を投げた。「ストライク」と宣告すると同時に、背後より大きな歓声が上がった。正確には右背後から。次の投球がなされ「ボール」と判定すると、左背後から歓声が上がった。思わず振り返ると、通常はダッグアウトの外野側に陣取るはずの両チームの応援団が歓声を上げているではないか。私は思わず緊張が走ったのと同時に「強い怒り」を覚えた。「一体、観戦マナーはどこへ行ってしまったのか」と。
これを黙認した主催者側の人間もいれば、父兄の諸先輩もいるはずである。子供たちにルールのある野球をやらせる前に、自分たちの襟を正すのが先だろう、という思いになったのである。
しかし、試合のジャッジは普通にこなせる様になったのは成長であろうが。

最後にもう一度だけ、「このブログに記載されていることは、あくまでも私見です」と言う事である。ゆえに、その責任を問うのであれば私個人にすれば良い事であり、他の人々や団体は無関係であることを付け加える。

視点

2007年5月14日
今年になって、野球観戦の際の視点が大きく変わったことに苛立っている。ゆっくりと野球観戦をし楽しみたいのだが、どうしても審判員の視線で見てしまう。ストライク・ボールの判定に、「自分ならどうする」と考えたり、打球が飛べば審判員の動きに目が行きポジショニングの確認をしたりしている。プロ野球から少年野球まで、それぞれのレベルにより動きは違って当然なのだが、「今の動きは・・・・」と評論している自分に苛立ちを覚える。せっかく、野球観戦をしているのであるから、純粋に野球の試合の流れを楽しめば良いのだが、どうにも厄介な状態になっている。きっと、審判員を辞めるまで、この状態は続くのであろう。
野球規則は万国共通であるが、各競技団体やレベルに合わせたローカルルールや運用規程がある。それらを十分に理解しなければ、このような状態になって試合を観戦するのは難しい。シニアでは駄目なのに、高校野球では良いのであろうか、などの疑問が出てきたりして、とても混乱する。特にプロ野球は暗黙の了解ルールが多々あり、ルール解釈ではあまり参考にならない。例えば、1年前に話題になった二段モーションである。今年になって、二段モーションがマスコミで話題になることは無いが、当時は大騒ぎしていた。プロ野球は職業だから、個人の卓越したスキルを制約することは、本人の成績=生活に関わる、だから多少の二段モーションは許容する、という訳の判らない三段論法がまかり通っていた。アマチュア側から、長年にわたりルールの徹底をお願いして、ようやく昨年手が付けられた。当初、戸惑っていた投手たちも、結局は問題なくクリアしたのには多少拍子抜けした。
元々、プロで投手をやるような選手は、少年野球の頃から秀でた野球センスの持ち主が多いので、その辺りの修正は問題ないということなのであろう。
二段モーションが盛りの頃は、子供たちへの指導も大変であった。練習中に注意している分には問題ないが、子供たちはすぐに忘れて試合中にやってしまう。または、すっかり癖になっている場合も多い。そうなると、ボークだ不正投球だと厳密にやると試合にならなくなってしまう。また、それを指摘しようものなら、「プロでは良いのに、何故シニアは駄目なのか」という単純な疑問を投げ掛けられる。
また、ルールの解釈は独りよがりになっても駄目である。ある程度、審判団で統一した解釈が必要なのであろう。
ここ半月ばかり色々な野球を観戦して、自分の視点の変わりように戸惑っている。
まあ、審判員をやる分には問題ないが。

本塁上の明暗

2007年5月12日
打者は走者になることに努め、走者は得点をすることに努める。ルールブックの前段に書かれている『試合の目的』である。ゆえに、守備側は得点を阻むために本塁を死守し、攻撃側は得点を挙げるため戦術・戦略を駆使する。それほど『本塁』は重要な聖地なのである。ゆえに、この場所でのコンタクトプレイは激しく、際どい場合が多く、球審の晴れ舞台でもある。
野球のベースは4箇所あるが、そのうち走り抜けていい塁は、一塁と本塁である。よく一塁ベースに向かってスライディングをする選手を見かけるが、「駆け抜けた方が早い」は常識である。そんなことは百も承知で一塁にスライディングする選手は後を絶たない。実は本塁も駆け抜けた方が早いにも関わらず、スライディングをするのが当たり前となっているように思う。何か勘違いをしていないであろうか。
スライディングをする裏側には、「捕手のブロック」がある。捕手のブロックをかわしてベースタッチする方法として、スライディングを選択するのであろう。では、捕手のブロックはどのようにするのであろうか。ルールブックには、その定義が書かれていない。捕手は「ボールを持つか、正に捕球しようという時点」で始めて「走者の走路に位置すること」が許されるのであり、ブロックして良いとは書かれていない。日本では、「捕手のブロック=本塁を死守」というイメージであり、ホームベースを隠すことが名捕手という間違った概念がある。そのくせ、助っ人外国人が本塁上でタックルもどきに駆け抜けてくると、「危険なプレイ」と新聞紙上を賑わせる。防具をつけた捕手のブロックが良くて、生身の走者のタックルはラフプレイなのであろうか。
大リーグの試合を観ていて本塁のクロスプレイがあったら注目してほしい。捕手はマスクを被ったまま、身体を小さく固め、走者の勢いに負けない体勢で身構える。それは大リーガーが「駆け抜けて良い本塁」へ全速力で向かってくるからであり、そこでマスクを外して本塁を隠していたならば、吹き飛ばされるのは当然である。だから捕手はマスクを被ったまま「ブロック」して身を守るのである。
本塁の場合はタッグプレイが多いため「捕手のブロック」の概念が生まれたと思われるが、「タッグ」は触れただけでも「アウト」に出来るのであるから、身体全体を使ったブロックは危険なだけであり、逆に行き過ぎたブロックは「オブストラクション(走塁妨害)」の対象であるように思うのだが、如何に。

AED

2007年5月11日
先日のある練習試合で、初回と最終回に二人の怪我人が出た。ひとりはデッドボール。ひとりは一塁上のコンタクトプレイである。公式戦間近にしての怪我は、本人はもちろん、チームにとっても大きな痛手である。
最近、あるスポーツ用品メーカーの協力の下、野手用のプロテクターが開発され試行されている。毎年、野球ボールが胸に当たり心臓発作で命を落とす例が報告されているらしいが、実際の数はもっと多いだろうと推測されている。少年野球などの軟式野球はゴムボールであることから、顔に当たろうが「痛くない、痛くない」と父兄が檄を飛ばしている情景を良く見かける。斯く言う私も例外ではない。急所に当たった場合などは、子供たちを茶化してゲラゲラと笑い飛ばす始末である。しかし、実際にゴムボールでも心臓発作は起りえるのである。
硬式ボールを使用しているリトルリーグでは、子供たちに「プロ野球や大リーグと同じボールだよ」と伝えると、子供たちは目をキラキラ輝かせる。「松井やイチローや松坂が使っているボールと同じ」と言うだけで、夢が大きく膨らむのである。そして、硬式ボールであるがゆえに、周りの大人の怪我に対するこの使いようは軟式の比ではない。リトルリーグでは、捕手はもちろんのこと内野手にもファウルカップ(いわゆる【金カップ】である)の着用を義務付けている。最初は嫌がる選手たちも、慣れてしまうと問題なく動けるようになる。実は、球審もファウルカップを着用する。軟式野球で審判をやる場合でも、レガース(スネ当て)は着用しなくてもファウルカップは着用している。野手用のプロテクター(胸当て)が普及し、いずれ義務付けられる時代に成った時には、リトルシニアでも内野手のファウルカップが当たり前になるかもしれない。
このプロテクターと共に注目されているのが、「AED【自動体外式除細動器】」である。今や学校やホテルなどの公共性の高い施設では常設しているところが急増しているので、目にしている方も多いと思う。東京の少年野球チームなどでは、万が一のために常備しているチームもあるようである。意外とコンタクトプレイが多い野球において、硬式ボールを使うことにより間違いなく障害発生率が上昇するのであるから、当然検討するべきであろう。
リトルシニアの組織も大きくなった。野球をやるための球場探しやスケジュール調整などをする事務局が充実し、併せて試合をコントロールする審判部も充実し、試合に華を添える放送部も組織立ってきた。今後、最も必要となるのが「救護班」であろう。試合会場には看護士さんに常任して頂き、併せてAEDを常備する体制を整備することが急務に思われる。
捕手の次に、打者のそばにいる審判員。結構、打球や送球が身体に当たっている。また、そういう時に限って防具の無いところに当たる。「本当に痛い」ことも間々ある。それが故に救護班の充実を是非ともお願いしたい。

一礼の意味

2007年5月10日
私は試合終了後に、両チームのベンチに対して頭を下げる。
特段、謝る理由がある訳ではないが、自然と両チームに対して頭を下げる。それは感謝の気持ちと、謙虚な気持ちと、「お疲れ様」の思いからなのだろうか、本人も良く判らない行為である。
この行為は審判をやり始めた時からであり、勝手に頭が下がってしまうから仕方がない。おそらく「拙いジャッジメント」であったという反省の面から、照れ隠しに出る行為であろう。

サッカーの試合などを見ていると、試合開始前後でキャプテンと審判員が握手をしているシーンがあるが、野球の場合は審判員と両チームの間では言葉さえも交わしてはならないとされている。まして握手などはとんでもないことなのであろう。審判員室はもちろん、球場によっては入口までが違い、プレイヤーと審判員を隔離しているところもある。世界大会では宿舎も隔離し、審判員の外出規制を採る場合もあるようである。それほど一球一球のジャッジが、ワンプレイごとのジャッジが試合を左右するということなのかもしれない。

そんな切羽詰ったような心理状態でジャッジをする訳であるから、当然判定がアバウトとなる場合がある。どちらとも採れるような「際どいプレイ」に対しては、どのようなジャッジを下しても「歓声と悲鳴」が上がる。時には辛辣な不平も聞こえる。それでも「試合中【プレイボールからゲームセットまで】」は、自信が揺るがないよう毅然とし、選手たちのプレイをジャッジしていかなくてはならない。その反動が、試合後の態度に表れるのかもしれない。
どんな試合でも、それが例え練習試合でも、ゲームセットの後にグラウンドを出るまでは緊張の糸は張ったままであるが、『一礼』をすることで救われる思いが巡るのは私だけであろうか。

観客

2007年5月9日
久し振りに観客になり、スタンドで試合を観戦した。
スタンドの観客心理は、自チームの応援であるから、当然のように自チームの選手が主役であり、相手チームは脇役である。早い話が、身贔屓の観戦となる。そうなると、審判の一挙手一投足にも身贔屓な判定を望むものである。
自チームの投手の判定には辛く、相手チームの投手の判定には甘いように感じてしまうものだ。これが、観客心理なのであろう。審判員をやっているくせに、ついつい冷静さを欠いてしまう自分が情けなくもあった。
これも、人間がやっているゲームなのであろう。お互いのチームの選手や観客が、審判のジャッジに一喜一憂する。辛く感じたり、ラッキーと感じたりしながらゲームが展開されていくから、野球は面白いのである。
昨年、プロ野球では誤審が話題になり、ビデオをジャッジの参考にする案を提唱したチームがあったが、もしもビデオを入れたとしたら、こんな観客心理もなくなり、味気ないゲームになってしまうであろう。
人間が精一杯のプレイをして、それを人間がジャッジをするから面白いのであり、最新鋭の機械を用いて判定をすると冷たいスポーツになってしまうように感じる。
それ故に、審判員の責任は重い。
「審判のジャッジで負けた」などということを言われないような判定を心掛けなければならない。もちろん贔屓もなければ思い入れもない中で、平常心を保ち、ベストポジションで絶妙なタイミングでジャッジし、コールすることが重要なのであろう。
それにしても、負けたチームの観客が「悪者」を探したくなるのも分かるような気がする。
審判員をやっていなかった頃、よくジャッジに文句が口をついたものだが、久し振りに観客心理を思い出した。
だからといって、観客心理を読んでジャッジするわけにもいかない。まだまだ、修行が足りないのは仕方のないことなのだろうか。愚痴をこぼしながらも、変に反省したくなるような一日であった。
それにしても、観客をやるのも疲れるものだ。

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