休養
2007年7月22日この二日間は、今年初めて審判活動から離れた週末であった。野球自体もほとんど観ずに過ごした。ある意味で、リフレッシュするには良い二日間であったように思う。毎週、野球に明け暮れ、ジャッジに埋没していると、精度自体が上がっているように感じられなくなってきていた。
「こんなジャッジで選手に対して申し開きが出来るのか?」と自問する日々であった。
野球は9人の選手がいればゲームはできるように言われているが、実際には審判員は欠かせない。どんな草野球でも、必ず審判員が捕手の後ろに立っているのである。
つまり、「審判がいなければ野球のゲームは出来ない」ということではあるのだが、これが「審判は偉い」と勘違いを起こす原因となるのであろう。そこに「審判のジャッジは絶対である」という文言のみが一人歩きをし、「審判のジャッジに従え」となるのである。
このような立場をとっていると、「今日の試合の敗因は審判のジャッジ」と平気で言い出す指導者や選手が出てくる。実際には、審判が贔屓なジャッジをすることはないのであるから、敗戦チームの関係者が「悪者」を審判に押し付けているとしか考えられず、こんな言葉を良く耳にするのは寂しい限りだ。こんな反省しか出来ないチームは、なかなか勝利に近付くことはないのであろう。
少しは前向きに審判活動を再開する気にはなってきたのは、良い休養であったのだろう。
再開に向けて、もう一度野球規則を読破しようと考えている。毎晩、眠り薬として愛用しているルールブックを、真面目に最初から読んでみようと思う。
きっと、新たな発見があるであろう。今年のジャッジを全て記憶しているわけではないが、幾つか疑問に思っているシーンがあるが、その都度自分に都合の良い解釈をしていた可能性は否めない。正しくないジャッジは「間違い」として受け止めなければ成長は出来ない。
この年齢になって、成長を考えても仕方がないのであろうか。そうではないであろう。審判員としては、私の年齢は若輩者である。経験や技術は、まだまだ不足しているのであるが、これは実戦を踏まなくては向上しない。せめて知識だけでも頭に叩き込み、実戦不足を補うことをしなくてはならないと考えている。
今年も早いもので、既にシーズンを折り返した。残り少ないシーズンで、少しでも実戦を踏ませてもらえるよう、頑張ろうという気持ちがフツフツと湧いてきた。
良い休養であった。
「こんなジャッジで選手に対して申し開きが出来るのか?」と自問する日々であった。
野球は9人の選手がいればゲームはできるように言われているが、実際には審判員は欠かせない。どんな草野球でも、必ず審判員が捕手の後ろに立っているのである。
つまり、「審判がいなければ野球のゲームは出来ない」ということではあるのだが、これが「審判は偉い」と勘違いを起こす原因となるのであろう。そこに「審判のジャッジは絶対である」という文言のみが一人歩きをし、「審判のジャッジに従え」となるのである。
このような立場をとっていると、「今日の試合の敗因は審判のジャッジ」と平気で言い出す指導者や選手が出てくる。実際には、審判が贔屓なジャッジをすることはないのであるから、敗戦チームの関係者が「悪者」を審判に押し付けているとしか考えられず、こんな言葉を良く耳にするのは寂しい限りだ。こんな反省しか出来ないチームは、なかなか勝利に近付くことはないのであろう。
少しは前向きに審判活動を再開する気にはなってきたのは、良い休養であったのだろう。
再開に向けて、もう一度野球規則を読破しようと考えている。毎晩、眠り薬として愛用しているルールブックを、真面目に最初から読んでみようと思う。
きっと、新たな発見があるであろう。今年のジャッジを全て記憶しているわけではないが、幾つか疑問に思っているシーンがあるが、その都度自分に都合の良い解釈をしていた可能性は否めない。正しくないジャッジは「間違い」として受け止めなければ成長は出来ない。
この年齢になって、成長を考えても仕方がないのであろうか。そうではないであろう。審判員としては、私の年齢は若輩者である。経験や技術は、まだまだ不足しているのであるが、これは実戦を踏まなくては向上しない。せめて知識だけでも頭に叩き込み、実戦不足を補うことをしなくてはならないと考えている。
今年も早いもので、既にシーズンを折り返した。残り少ないシーズンで、少しでも実戦を踏ませてもらえるよう、頑張ろうという気持ちがフツフツと湧いてきた。
良い休養であった。
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9年間
2007年7月21日息子の高校野球が終わった。小学校3年生から始めた野球生活に一区切りがついた。ただし、それは私自身のことであり、本人の今後の身の振り方は分からない。
高校野球は野球少年たちにとって「集大成」との見解もあるが、私の持論としては、折角始めた野球を「高校野球」で終わる事には反対の考え方である。
小学校の野球は遊びの一環であり、中学野球はクラブ活動の一環である。また、中学シニアのような中学硬式野球は、高校野球をやる「きっかけ」に過ぎないと考えている。高校野球はクラブ活動ではあるが、毎日の練習や土日の練習試合など、青春時代の貴重な時間を野球に費やすのである。このエネルギーは物凄い。冬季トレーニングで身体を作り、日々の地道な練習で技術を磨き、最高の状態となるのが、3年目の夏の大会である。しかし、ここまでたどり着くのは、目に見えない努力と、野球に対する真摯な取り組みと、故障や障害などを回避できたという多少の「運」が必要である。
このようにして最高の状態で挑んでも、全国での「勝者」はただ一校であり、他の高校球児はすべて「敗者」となる。日本の高校球児の大多数が「敗者」となるのであるから、「敗れても悔い無し」と潔くあってほしい。そして、決して燃え尽きることなく、次なるステップを目指しほしいものである。折角、心技体が最高の状態となった状態で、大好きな野球を辞めてしまうのだけは避けてもらいたいと強く願っている。
9年間は確かに長い日々であるが、朝から晩まで「野球漬け」の毎日であり、仕事も学校も横に置いて「野球一番」の日々は、この日のためにあったのは確かであるが、それは大人の考え方であり、目標を高く持つべき子供達には、是非とも新たなる目標を掲げてほしいと思う。
高校野球には「甲子園」という強烈な共通言語があるため、本人達は元より、周辺も巻き込んだ狂想曲となる。これが「燃え尽き症候群」の素因となっている曲者なのであろう。確かに、大学野球では学生野球のメッカである「神宮」という共通言語はあるが、「甲子園」ほどのインパクトはない。
高校野球を終えた球児達の目標設定が難しいことは理解するが、視点を変えると、それほど深刻なことでないことに気付くはずである。
何故、野球を続けてきたのか。何故、野球を続けられたのか。
高校生ともなれば、親の意向などに左右されることもないであろうし、他の誘惑も多いであろう。にも関わらず、野球を継続できたのは、「夏が終われば辞められる」からであったのだろうか。そうではないであろう。単純に「野球」が好きだからであろう。そして「球友」が居たからであろう。
この単純明快な解答さえ導き出せれば、必ず野球を継続できるはずである。
少年野球は、ゴムボールを金属バットで打ち、イボイボスパイクで走る。
中学硬式野球からは、ボールが皮製の硬式ボールとなり、スパイクが刃となる。
高校野球になり、バットが重量制限で重くなる。でも、まだ本物の野球ではない。
高校球児諸君よ。是非とも次のステップに上がり、硬式ボールに木製バットで野球をやってもらいたい。
スポーツ本来の、楽しさを体感してもらいたい。
今までの9年間を無駄にしないためにも。そう願って止まない。
高校野球は野球少年たちにとって「集大成」との見解もあるが、私の持論としては、折角始めた野球を「高校野球」で終わる事には反対の考え方である。
小学校の野球は遊びの一環であり、中学野球はクラブ活動の一環である。また、中学シニアのような中学硬式野球は、高校野球をやる「きっかけ」に過ぎないと考えている。高校野球はクラブ活動ではあるが、毎日の練習や土日の練習試合など、青春時代の貴重な時間を野球に費やすのである。このエネルギーは物凄い。冬季トレーニングで身体を作り、日々の地道な練習で技術を磨き、最高の状態となるのが、3年目の夏の大会である。しかし、ここまでたどり着くのは、目に見えない努力と、野球に対する真摯な取り組みと、故障や障害などを回避できたという多少の「運」が必要である。
このようにして最高の状態で挑んでも、全国での「勝者」はただ一校であり、他の高校球児はすべて「敗者」となる。日本の高校球児の大多数が「敗者」となるのであるから、「敗れても悔い無し」と潔くあってほしい。そして、決して燃え尽きることなく、次なるステップを目指しほしいものである。折角、心技体が最高の状態となった状態で、大好きな野球を辞めてしまうのだけは避けてもらいたいと強く願っている。
9年間は確かに長い日々であるが、朝から晩まで「野球漬け」の毎日であり、仕事も学校も横に置いて「野球一番」の日々は、この日のためにあったのは確かであるが、それは大人の考え方であり、目標を高く持つべき子供達には、是非とも新たなる目標を掲げてほしいと思う。
高校野球には「甲子園」という強烈な共通言語があるため、本人達は元より、周辺も巻き込んだ狂想曲となる。これが「燃え尽き症候群」の素因となっている曲者なのであろう。確かに、大学野球では学生野球のメッカである「神宮」という共通言語はあるが、「甲子園」ほどのインパクトはない。
高校野球を終えた球児達の目標設定が難しいことは理解するが、視点を変えると、それほど深刻なことでないことに気付くはずである。
何故、野球を続けてきたのか。何故、野球を続けられたのか。
高校生ともなれば、親の意向などに左右されることもないであろうし、他の誘惑も多いであろう。にも関わらず、野球を継続できたのは、「夏が終われば辞められる」からであったのだろうか。そうではないであろう。単純に「野球」が好きだからであろう。そして「球友」が居たからであろう。
この単純明快な解答さえ導き出せれば、必ず野球を継続できるはずである。
少年野球は、ゴムボールを金属バットで打ち、イボイボスパイクで走る。
中学硬式野球からは、ボールが皮製の硬式ボールとなり、スパイクが刃となる。
高校野球になり、バットが重量制限で重くなる。でも、まだ本物の野球ではない。
高校球児諸君よ。是非とも次のステップに上がり、硬式ボールに木製バットで野球をやってもらいたい。
スポーツ本来の、楽しさを体感してもらいたい。
今までの9年間を無駄にしないためにも。そう願って止まない。
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17球の攻防
2007年7月15日野球では、一つのプレイで流れが変わることは度々ある。それは、我々審判員のジャッジでも流れを変えることがある。それがミスジャッジだと諸般の問題を残す。ルールの適用ミスも時にはあるだろう。あってはいけないが、そこは人間の所業である。それらをある程度許容しているのが野球というスポーツであると、勝手に認識している。
試合の流れを一変しかねないジャッジもある。そしてそれを選手達の直向きさが払拭してくれることも多々ある。逆に、そのまま下向きのベクトルに引き込まれてしまう選手もいる。
野球の攻防のメインは投手と打者の対戦であろう。色々なボールゲームでは、一度のミスを試合終了まで挽回することも、そのチャンスを得ることさえも出来ないゲームも多い中で、野球では打席に立つ事でミスを犯した選手が挽回のチャンスを得ることが可能となる。そのチャンスでどのようなパフォーマンスを見せるかが鍵となる。
バッテリーにとっては、球審との相性は非常に重要な問題であろう。いつも言うとおり、審判員も人間である。体調の優れない日もあれば、気分の乗らない日もある。今一集中力が欠如した日もあるだろう。その中で、もっとも避けなければならないのは「バッテリーとの呼吸が合わない」ことであろう。「リズム」や「タイミング」、投球の「球速」や「球筋」、そして「間」や「呼吸」などが合わないと、体調や気分の良し悪しに関わらず、平常心のジャッジが出来なくなる。格闘技の試合を見ていると、解説者が「二人がかみ合った試合内容となりました」などと説明していることがある。「かみ合う」状態とは「相性が良い」ことであり、両者が力の限りを出し闘う状態を言うのであろう。球審とバッテリーの関係にも相性の成否はあるように思う。私の場合は、リズム感のあるバッテリーとは相性が良い。つまり、かみ合った状態となる。間の長い投手は、どうも性に合わない。実際ゲームを見ていると、間の悪いバッテリーは良い結果を導き出せていないように思う。バッテリーは、いかに審判を乗せるかも重要なことだと思う。
良く耳にする話として、捕手がジャッジに不服な場合にとる行動として、「ブツブツと独り言を言う」「後ろを振り向く」などがある。このような行為はバッテリーにとって有利には働かず、マイナス効果としてジャッジに反映されるのである。それは、審判員も人間であるからである。審判員の感情をコントロールできる捕手もいるのであるから、ぜひ相性について考えてもらいたいものだ。
際どいコースの投球を捕球したミットをストライクゾーン側へ動かすことは、捕手の習性のように行われているが、このような行動に誤魔化されるほど審判の目はナマクラではない。確かに、投手の手から離れた投球が捕手のミットに収まるまで目で追い、その軌道を反芻して最終判断を下しコールするようにしているが、その判断材料となるミットの位置をストライク側へ動かした場合、当然ミットの移動も審判の視界に入り認知される。稚拙な捕手などは、際どい投球を「ボール」とコールされているにも関わらず、ミットをジッと捕球体勢のままでアピールをしている場合がある。ジッと動かさずにいるミットは、実は「動かしたミット」であるにも関わらず。そんな時、心の中で「君はストライクゾーンから外れたと思ったからミットを動かしたのだろう」と語りかけている。「ストライクゾーンから外れた投球はボールだよ」とも付け加える。
捕手のミットが投球の勢いに圧された場合ではなく、故意に動かした場合は必ず分かる。そのような場合は「限りなくボールに近い投球」と思って間違いない。
一方、ミットを捕球位置から動かさない捕手もいる。このような捕手の場合、ジャッジは楽しくもあり、緊張感も増すものである。球筋がミットに収まるまで綺麗に見えるのであるから、判定がし易いがゆえに際どいボールはテンションが上がる。まさにバッテリーと球審との形のない闘いである。
実際は、そのような闘いは表舞台に堂々と出てきてはいけない。表舞台には、投手と打者の息詰まる闘いが相応しい。
ある試合で「17球」も粘りに粘った打者、それに応えてストライクを投げ続けた投手の対戦に立会い、彼等こそがゲームの主役であると再認識した。
試合の流れを一変しかねないジャッジもある。そしてそれを選手達の直向きさが払拭してくれることも多々ある。逆に、そのまま下向きのベクトルに引き込まれてしまう選手もいる。
野球の攻防のメインは投手と打者の対戦であろう。色々なボールゲームでは、一度のミスを試合終了まで挽回することも、そのチャンスを得ることさえも出来ないゲームも多い中で、野球では打席に立つ事でミスを犯した選手が挽回のチャンスを得ることが可能となる。そのチャンスでどのようなパフォーマンスを見せるかが鍵となる。
バッテリーにとっては、球審との相性は非常に重要な問題であろう。いつも言うとおり、審判員も人間である。体調の優れない日もあれば、気分の乗らない日もある。今一集中力が欠如した日もあるだろう。その中で、もっとも避けなければならないのは「バッテリーとの呼吸が合わない」ことであろう。「リズム」や「タイミング」、投球の「球速」や「球筋」、そして「間」や「呼吸」などが合わないと、体調や気分の良し悪しに関わらず、平常心のジャッジが出来なくなる。格闘技の試合を見ていると、解説者が「二人がかみ合った試合内容となりました」などと説明していることがある。「かみ合う」状態とは「相性が良い」ことであり、両者が力の限りを出し闘う状態を言うのであろう。球審とバッテリーの関係にも相性の成否はあるように思う。私の場合は、リズム感のあるバッテリーとは相性が良い。つまり、かみ合った状態となる。間の長い投手は、どうも性に合わない。実際ゲームを見ていると、間の悪いバッテリーは良い結果を導き出せていないように思う。バッテリーは、いかに審判を乗せるかも重要なことだと思う。
良く耳にする話として、捕手がジャッジに不服な場合にとる行動として、「ブツブツと独り言を言う」「後ろを振り向く」などがある。このような行為はバッテリーにとって有利には働かず、マイナス効果としてジャッジに反映されるのである。それは、審判員も人間であるからである。審判員の感情をコントロールできる捕手もいるのであるから、ぜひ相性について考えてもらいたいものだ。
際どいコースの投球を捕球したミットをストライクゾーン側へ動かすことは、捕手の習性のように行われているが、このような行動に誤魔化されるほど審判の目はナマクラではない。確かに、投手の手から離れた投球が捕手のミットに収まるまで目で追い、その軌道を反芻して最終判断を下しコールするようにしているが、その判断材料となるミットの位置をストライク側へ動かした場合、当然ミットの移動も審判の視界に入り認知される。稚拙な捕手などは、際どい投球を「ボール」とコールされているにも関わらず、ミットをジッと捕球体勢のままでアピールをしている場合がある。ジッと動かさずにいるミットは、実は「動かしたミット」であるにも関わらず。そんな時、心の中で「君はストライクゾーンから外れたと思ったからミットを動かしたのだろう」と語りかけている。「ストライクゾーンから外れた投球はボールだよ」とも付け加える。
捕手のミットが投球の勢いに圧された場合ではなく、故意に動かした場合は必ず分かる。そのような場合は「限りなくボールに近い投球」と思って間違いない。
一方、ミットを捕球位置から動かさない捕手もいる。このような捕手の場合、ジャッジは楽しくもあり、緊張感も増すものである。球筋がミットに収まるまで綺麗に見えるのであるから、判定がし易いがゆえに際どいボールはテンションが上がる。まさにバッテリーと球審との形のない闘いである。
実際は、そのような闘いは表舞台に堂々と出てきてはいけない。表舞台には、投手と打者の息詰まる闘いが相応しい。
ある試合で「17球」も粘りに粘った打者、それに応えてストライクを投げ続けた投手の対戦に立会い、彼等こそがゲームの主役であると再認識した。
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ルールに守られて
2007年7月14日球審の最初の仕事が試合開始時の挨拶である。リトルシニアの場合、両主将の握手を促し、「礼!!」などの掛け声で両チームが帽子を取り挨拶をする。大半のチームは相手チームに挨拶をした後に、審判団にも挨拶をする。「宜しくお願いします」や「オーーー」「ウイッス!!」などの奇声を発するチームもあり、様々である。
話は逸れるが、最近ではノック終了後にベンチ前にて円陣を組み、身体を寄せ合って大声を上げて気合を注入するチームも増えた。メンタルコントロールが重要な鍵を握るスポーツである野球の場合、このようなサイキングアップはチーム全体の士気を盛り上げるのに効果があるのであろう。一方では、打席に入る打者やマウンド上の投手に向って「リラックス、リラックス」と笑顔振りまく監督などもいる。これもメンタルコントロールの一端である。各局面での精神状態が、緊張し過ぎはもちろんのこと、リラックスし過ぎても駄目なことは知られており、それをコントロールするのはかなり難しいが、地道なトレーニングで少しずつできるようになるものであり、このメンタルコントロールは審判員にも重要な要素の一つである。野球のジャッジは人間の目で見て判断を下す行為であるが、動きのあるプレイなかで行わなくてはならないため、「???」となる判定も少なくないのであろう。ルールブックに基づきジャッジしている審判員の「判断」の良し悪しは、ある意味でルールブックに守られていると言っても良いのかもしれない。だからこそ、プレイする選手やダッグアウト内の指導者、そしてスタンドの観客が納得する「判断」を示さなくてはならない。万人が認めるジャッジに対しては審判員の「判断」は無用の状態となるが、「どっち??」となるようなプレイに対しては衆人の目がその判定を待つこととなり、万人が納得するジャッジは困難を極める。そこに審判員の毅然さが必要となるのであろう。
私は今まで、そのようなプレッシャーを退ける為に、試合開始時に整列した選手達に対し、色々と御託を並べていた。細かい指示を命令口調で言っていたように思い起こされ、選手達に申し訳なく、恥ずかしい思いが湧いてきている。
そんな思いを引きずっていたわけではないが、今日の試合の挨拶の際の「一言」ははちょっと違った。精神状態がいつもと違っていたのかは、自分の事なのに覚えていないが、ちょっと違った。
「集合」の掛け声で選手と審判団が本塁上に集まり整列。
「キャプテン握手」で主将同士が一歩前に出て掛け声とともに握手を交わす。
いつもなら「攻守交替は全力疾走で」「投球練習中はネクストで待つこと」などなどをクドクドと選手に語りかけていたが、今日は「全力プレイを期待します」と言ってしまった。自分でも拍子抜けするような言葉が口を突いたにも関わらず、選手達は真剣な眼差しで私の言葉に耳を傾けている。
最近、自分の中でも一人よがりになっている気がしていた。もっと謙虚にならなくては、良いジャッジが出来ないように感じていた。ルールブックに守られているにも関わらず、ルールブックの番人面していたように思う。もちろん、「迷ったら、ルールブックを素直に読む」ことは毎晩欠かさずに行っている。とは言うものの、すぐ眠くなってしまうが・・・・。
さてさて、そんな挨拶を交わした試合の内容はというと、試合終了後に思わず「ナイスゲーム」と声を掛けてしまうような好ゲームであった。そんなゲームを繰り広げてくれた選手達に感謝である。
今日の疲れは実に心地良い。
話は逸れるが、最近ではノック終了後にベンチ前にて円陣を組み、身体を寄せ合って大声を上げて気合を注入するチームも増えた。メンタルコントロールが重要な鍵を握るスポーツである野球の場合、このようなサイキングアップはチーム全体の士気を盛り上げるのに効果があるのであろう。一方では、打席に入る打者やマウンド上の投手に向って「リラックス、リラックス」と笑顔振りまく監督などもいる。これもメンタルコントロールの一端である。各局面での精神状態が、緊張し過ぎはもちろんのこと、リラックスし過ぎても駄目なことは知られており、それをコントロールするのはかなり難しいが、地道なトレーニングで少しずつできるようになるものであり、このメンタルコントロールは審判員にも重要な要素の一つである。野球のジャッジは人間の目で見て判断を下す行為であるが、動きのあるプレイなかで行わなくてはならないため、「???」となる判定も少なくないのであろう。ルールブックに基づきジャッジしている審判員の「判断」の良し悪しは、ある意味でルールブックに守られていると言っても良いのかもしれない。だからこそ、プレイする選手やダッグアウト内の指導者、そしてスタンドの観客が納得する「判断」を示さなくてはならない。万人が認めるジャッジに対しては審判員の「判断」は無用の状態となるが、「どっち??」となるようなプレイに対しては衆人の目がその判定を待つこととなり、万人が納得するジャッジは困難を極める。そこに審判員の毅然さが必要となるのであろう。
私は今まで、そのようなプレッシャーを退ける為に、試合開始時に整列した選手達に対し、色々と御託を並べていた。細かい指示を命令口調で言っていたように思い起こされ、選手達に申し訳なく、恥ずかしい思いが湧いてきている。
そんな思いを引きずっていたわけではないが、今日の試合の挨拶の際の「一言」ははちょっと違った。精神状態がいつもと違っていたのかは、自分の事なのに覚えていないが、ちょっと違った。
「集合」の掛け声で選手と審判団が本塁上に集まり整列。
「キャプテン握手」で主将同士が一歩前に出て掛け声とともに握手を交わす。
いつもなら「攻守交替は全力疾走で」「投球練習中はネクストで待つこと」などなどをクドクドと選手に語りかけていたが、今日は「全力プレイを期待します」と言ってしまった。自分でも拍子抜けするような言葉が口を突いたにも関わらず、選手達は真剣な眼差しで私の言葉に耳を傾けている。
最近、自分の中でも一人よがりになっている気がしていた。もっと謙虚にならなくては、良いジャッジが出来ないように感じていた。ルールブックに守られているにも関わらず、ルールブックの番人面していたように思う。もちろん、「迷ったら、ルールブックを素直に読む」ことは毎晩欠かさずに行っている。とは言うものの、すぐ眠くなってしまうが・・・・。
さてさて、そんな挨拶を交わした試合の内容はというと、試合終了後に思わず「ナイスゲーム」と声を掛けてしまうような好ゲームであった。そんなゲームを繰り広げてくれた選手達に感謝である。
今日の疲れは実に心地良い。
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No Tag(ノー・タッグ)
2007年7月9日今年も日本選手権の決勝戦に立ち会えたことに、審判部ならびに同僚の審判員諸氏、そして選手諸君や両チーム関係者の方々に感謝している。そして、ジャッジの内容には不満は残るが、また自己反省をして次につなげたいと考えている。しかし、不満の残るジャッジを書き記しておかなければ、「嫌なことや悪いことは、さっさと忘れる」という前向き思考が働き、ろくな反省もせずに次に向かってしまうので、あえて公表し皆様の厳しい目に晒しておくことにする。
先日は、昨年と同じ2塁塁審が担当であった。前日、予感はあったので、クロックワイズやカウンターの動き、位置取りなどを復習しておいた。と言うのも、春季大会から練習試合を含めて、球審を務める機会が圧倒的に多いため、塁審として心得を含めて経験不足状態となっているのは否めないからである。案の定、前回の2塁塁審の際には一死1・2塁で、左中間への飛球で2塁走者のタッグアップを確認したまでは良かったが、その後の動きが中途半端で、1塁塁審や球審に迷惑を掛けた。それよりも選手やベンチ・観客への説得力に欠けた動きであった。その後、何事も無かったから良かったようなものの、自己反省とは「何かあった時」の為に、必ず深く反省して心に刻む必要があると考えている。
さて復習に加えて、第一試合でベテラン審判員の2塁塁審の動きを確認してから、試合に挑んだがやはり凡ミスを繰り返した。自分で判っているだけでも、少なくとも3度もあった。いずれも事なきを得ているが、自分では納得していない。それに、ベテラン審判員からも指摘を受けた(いつも良く観ていて下さり、多くの助言を頂いている。感謝・感謝)。
2塁塁審の基本的ジャッジは「アウト・セーフ」が圧倒的に多い。ストライク・ボールもなければ、ファウル・フェアもなく、ハーフスイングのリクエストも来ない。であるにも拘らず、塁審のキーマンと言われる(もちろん、審判の責任は皆同じである)。それは、行動範囲が広いことに起因していると思われるのと、ポジショニングが走者の有無により極端であること、そしてカバーリング分担も多いことが考えられる。両サイドの1・3塁塁審の位置を把握しつつ、右に左に動かなくてはならない。がしかし、動く割にはコールするのは「アウト・セーフ」がほとんどである。たったこれしか機会のないジャッジの「コール」を、同じトーンでしていてはメリハリがない。明らかな凡フライをキャッチしたのを、大きな声で「He’s OUT」とやっても間が抜けた感じがするし、ある意味「誰も見ていない」状態である。コールやジェスチャーに「切れ」が必要なことは、前出のベテラン審判員からも指導されているが、それと凡フライで大声を出すことは違うのである。
それを念頭に試合に挑んだが、2塁塁審で多いタッグプレイで凡ミスを繰り返した(自分では2度繰り返したと思っている)。2塁塁上は盗塁や2塁打、ダブルプレイなどのクロスプレイが多い。盗塁などで、捕手の送球が明らかに逸れたケースで派手に「セーフ」などとやると、「ボールがセンターに抜けているのに・・」と白けたジャッジになってしまう。そう考えていたりすると、目の前で遊撃手が送球をジャッグルした場合など、二塁ベース周辺にいる走者や野手、そして塁審には「明らかなセーフ」が判っていても、二塁ベースから遠い位置の球場に居る他の選手やベンチ・観客などには、「明らかなセーフ」が見えない場合がある。そこで「セーフ」のコールが無ければ、間が抜けた感じよりも、「審判、ちゃんと見ているのか」という不信感につながるのである。
一塁で良くある「SAFE! Off the BAG」は実に説得力がある。タイミング的には「アウト」に見えても、「一塁手の足が離れている」とコールすることで、球場全体が納得してしまう。そして、「あの審判員は良く見ている」となるのである。
クロスプレイになった場合の「セーフ」には理由がある。盗塁などで、タッグよりも足が入るのが速い場合が通常の「セーフ」である。しかし、タイミングは微妙だが空タッチであったり、併殺のピボットマンが送球をお手玉したりした場合は、「セーフ」にもう一味加えることで説得力が増す。空タッチは「No TAG!!」、お手玉は「Juggle the ball」を加えると球場全体が納得するのであろう。
先日の試合では、この「No TAG」をコールするべきケースが2度あった。野手も走者も「セーフ」であるのは判っている。そして野手のタッグの仕草もなかったように見えた。であるが「No TAG !!」をコールするべきであったと反省している。
これも、タイミングが遅れると間が抜けたようになると感じているのだが、自己防衛のためには、遅れても出すべきなのであろう。
塁審は難しく、審判の奥深さを改めて感じている。
先日は、昨年と同じ2塁塁審が担当であった。前日、予感はあったので、クロックワイズやカウンターの動き、位置取りなどを復習しておいた。と言うのも、春季大会から練習試合を含めて、球審を務める機会が圧倒的に多いため、塁審として心得を含めて経験不足状態となっているのは否めないからである。案の定、前回の2塁塁審の際には一死1・2塁で、左中間への飛球で2塁走者のタッグアップを確認したまでは良かったが、その後の動きが中途半端で、1塁塁審や球審に迷惑を掛けた。それよりも選手やベンチ・観客への説得力に欠けた動きであった。その後、何事も無かったから良かったようなものの、自己反省とは「何かあった時」の為に、必ず深く反省して心に刻む必要があると考えている。
さて復習に加えて、第一試合でベテラン審判員の2塁塁審の動きを確認してから、試合に挑んだがやはり凡ミスを繰り返した。自分で判っているだけでも、少なくとも3度もあった。いずれも事なきを得ているが、自分では納得していない。それに、ベテラン審判員からも指摘を受けた(いつも良く観ていて下さり、多くの助言を頂いている。感謝・感謝)。
2塁塁審の基本的ジャッジは「アウト・セーフ」が圧倒的に多い。ストライク・ボールもなければ、ファウル・フェアもなく、ハーフスイングのリクエストも来ない。であるにも拘らず、塁審のキーマンと言われる(もちろん、審判の責任は皆同じである)。それは、行動範囲が広いことに起因していると思われるのと、ポジショニングが走者の有無により極端であること、そしてカバーリング分担も多いことが考えられる。両サイドの1・3塁塁審の位置を把握しつつ、右に左に動かなくてはならない。がしかし、動く割にはコールするのは「アウト・セーフ」がほとんどである。たったこれしか機会のないジャッジの「コール」を、同じトーンでしていてはメリハリがない。明らかな凡フライをキャッチしたのを、大きな声で「He’s OUT」とやっても間が抜けた感じがするし、ある意味「誰も見ていない」状態である。コールやジェスチャーに「切れ」が必要なことは、前出のベテラン審判員からも指導されているが、それと凡フライで大声を出すことは違うのである。
それを念頭に試合に挑んだが、2塁塁審で多いタッグプレイで凡ミスを繰り返した(自分では2度繰り返したと思っている)。2塁塁上は盗塁や2塁打、ダブルプレイなどのクロスプレイが多い。盗塁などで、捕手の送球が明らかに逸れたケースで派手に「セーフ」などとやると、「ボールがセンターに抜けているのに・・」と白けたジャッジになってしまう。そう考えていたりすると、目の前で遊撃手が送球をジャッグルした場合など、二塁ベース周辺にいる走者や野手、そして塁審には「明らかなセーフ」が判っていても、二塁ベースから遠い位置の球場に居る他の選手やベンチ・観客などには、「明らかなセーフ」が見えない場合がある。そこで「セーフ」のコールが無ければ、間が抜けた感じよりも、「審判、ちゃんと見ているのか」という不信感につながるのである。
一塁で良くある「SAFE! Off the BAG」は実に説得力がある。タイミング的には「アウト」に見えても、「一塁手の足が離れている」とコールすることで、球場全体が納得してしまう。そして、「あの審判員は良く見ている」となるのである。
クロスプレイになった場合の「セーフ」には理由がある。盗塁などで、タッグよりも足が入るのが速い場合が通常の「セーフ」である。しかし、タイミングは微妙だが空タッチであったり、併殺のピボットマンが送球をお手玉したりした場合は、「セーフ」にもう一味加えることで説得力が増す。空タッチは「No TAG!!」、お手玉は「Juggle the ball」を加えると球場全体が納得するのであろう。
先日の試合では、この「No TAG」をコールするべきケースが2度あった。野手も走者も「セーフ」であるのは判っている。そして野手のタッグの仕草もなかったように見えた。であるが「No TAG !!」をコールするべきであったと反省している。
これも、タイミングが遅れると間が抜けたようになると感じているのだが、自己防衛のためには、遅れても出すべきなのであろう。
塁審は難しく、審判の奥深さを改めて感じている。
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球音
2007年7月6日北海道日本ハムファイターズが来てくれてから、北海道にもプロ野球はもとより、野球自体への注目度や興味が増していることが強く感じられる。加えて、高校野球で駒大苫小牧が活躍して全国の注目を浴び、追い討ちを掛けるように昨年はファイターズが優勝・日本一となってしまった。正に北海道の野球熱は、今が旬である。そこに北海道人気質の「熱しやすく冷めやすい」が相まって、札幌ドームの熱気の凄さは、テレビやラジオの中継でも十分伝わってくる。中継のアナウンサーの力みや、今まで陽の目を見なかったファイターズOB(失礼しました)の熱弁もあり、野球中継としては面白い番組となっている。
しかし、私は札幌ドームへ足が向かない。落成当初やファイターズが来た当時は、何度か足を運んだが、ぱったりと行く気がしなくなった。その原因は二つある。ひとつは「ドーム嫌い」。審判員として選手とともにグラウンドレベルにいると、屋外球場で風や暑さや寒さを感じながら白球を追う野球の素晴らしさが良く判る。一度だけ、札幌ドームで審判員(練習試合)をやったことがあったが、照明の関係なのか非常に「判定しにくい球場」というイメージであった。要は、ボールが見えにくいのである。それと私だけかもしれないが、あの閉塞感は如何ともし難い。風の悪戯も無く、暑さによるスタミナ切れも無く、雨中の死闘も無く、まして人工芝でイレギュラーも無い。野球から「四球」と「失策」が無くなると、得点シーンはかなり激減するのではないだろうか。プロ野球は、本塁打という「野球の華」があるが、アマチュア野球では「四球」と「失策」がゲームの分水嶺となることが多い。ある方が言っていた。「二死走者無しからの安打は点にならないが、四球や失策は点につながることが非常に多い」と。
ドームから足が遠のいた、もうひとつの理由は応援スタイルである。野球をじっくりと見ていられないのと、「球音」がまったく聞こえない。周りにチンドン屋が大挙しているようであり、一球・一球に集中できないのである。野球は、インターバルの多いゲームであり、かつ一瞬にして流れが変わるゲームでもある。その一瞬を見逃すと、ゲーム全体がつまらなくなることさえある。また「音」で判断できることも多い。投手が投球する際に手を離れる「ボールを切る音」や、打者がボールを打つ音、捕手のミットに収まる音、走者が次塁へ向かう際のスパイクで土を蹴る音やスライディングの音。すべてが「球音」であり、選手や審判員にとって、非常に大切なものである。野手は打球音で方向や強さを判断するし、審判員は捕手のミットの音も重要な判定基準である。それらがお祭りのお囃子のような応援で「球音」がまったく聞こえないのである。
最近、大リーグの試合に触れる機会が増えたが、本場アメリカでは観戦する側のレベルも高い。ナイスプレイには敵味方関係なく賛辞を送り、怠慢プレイには地元選手でもブーイングとなる。そして、何より観る側の一球への集中力が凄いことに驚かされる。一球に集中しているとドンチャン騒ぎをしている暇はないはずであると思うのだが。応援スタイルには色々あって良いとは思うが、「野球」を楽しみたいのであれば、その奥深さを感じるために「球音」を楽しむことをお薦めする。
今年の11月には、オリンピック予選が台湾で開催されるが、台湾の応援は組織立っており、かつ殺気立っているようである。日本の応援は比でないらしい。その是非は国民性もあるので触れないが、総じてアジア系の応援スタイルなのかもしれないとも思う。スポーツ競技は、その技術もさることながら観戦スタイルも「発祥の地」に見習うことが多いのではないだろうかと思う。
円山球場へ行ってみると、「野球は屋外が似合う」ことと「球音のすばらしさ」が良く判る。施設は古いが、歴史の重さを感じることが出来る。正に「北海道アマチュア野球の聖地」である。
しかし、私は札幌ドームへ足が向かない。落成当初やファイターズが来た当時は、何度か足を運んだが、ぱったりと行く気がしなくなった。その原因は二つある。ひとつは「ドーム嫌い」。審判員として選手とともにグラウンドレベルにいると、屋外球場で風や暑さや寒さを感じながら白球を追う野球の素晴らしさが良く判る。一度だけ、札幌ドームで審判員(練習試合)をやったことがあったが、照明の関係なのか非常に「判定しにくい球場」というイメージであった。要は、ボールが見えにくいのである。それと私だけかもしれないが、あの閉塞感は如何ともし難い。風の悪戯も無く、暑さによるスタミナ切れも無く、雨中の死闘も無く、まして人工芝でイレギュラーも無い。野球から「四球」と「失策」が無くなると、得点シーンはかなり激減するのではないだろうか。プロ野球は、本塁打という「野球の華」があるが、アマチュア野球では「四球」と「失策」がゲームの分水嶺となることが多い。ある方が言っていた。「二死走者無しからの安打は点にならないが、四球や失策は点につながることが非常に多い」と。
ドームから足が遠のいた、もうひとつの理由は応援スタイルである。野球をじっくりと見ていられないのと、「球音」がまったく聞こえない。周りにチンドン屋が大挙しているようであり、一球・一球に集中できないのである。野球は、インターバルの多いゲームであり、かつ一瞬にして流れが変わるゲームでもある。その一瞬を見逃すと、ゲーム全体がつまらなくなることさえある。また「音」で判断できることも多い。投手が投球する際に手を離れる「ボールを切る音」や、打者がボールを打つ音、捕手のミットに収まる音、走者が次塁へ向かう際のスパイクで土を蹴る音やスライディングの音。すべてが「球音」であり、選手や審判員にとって、非常に大切なものである。野手は打球音で方向や強さを判断するし、審判員は捕手のミットの音も重要な判定基準である。それらがお祭りのお囃子のような応援で「球音」がまったく聞こえないのである。
最近、大リーグの試合に触れる機会が増えたが、本場アメリカでは観戦する側のレベルも高い。ナイスプレイには敵味方関係なく賛辞を送り、怠慢プレイには地元選手でもブーイングとなる。そして、何より観る側の一球への集中力が凄いことに驚かされる。一球に集中しているとドンチャン騒ぎをしている暇はないはずであると思うのだが。応援スタイルには色々あって良いとは思うが、「野球」を楽しみたいのであれば、その奥深さを感じるために「球音」を楽しむことをお薦めする。
今年の11月には、オリンピック予選が台湾で開催されるが、台湾の応援は組織立っており、かつ殺気立っているようである。日本の応援は比でないらしい。その是非は国民性もあるので触れないが、総じてアジア系の応援スタイルなのかもしれないとも思う。スポーツ競技は、その技術もさることながら観戦スタイルも「発祥の地」に見習うことが多いのではないだろうかと思う。
円山球場へ行ってみると、「野球は屋外が似合う」ことと「球音のすばらしさ」が良く判る。施設は古いが、歴史の重さを感じることが出来る。正に「北海道アマチュア野球の聖地」である。
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コールドゲームの是非
2007年7月5日高校野球を見ていると、改めて「野球は9回あることに意味がある」と再認識させられる。青春を掛けた高校野球は、ギリギリのせめぎ合いをするため、8回と9回にドラマが多い。それまで淡々と進んでいた試合が、いきなりギアチェンジをして急展開を見せる試合は多々ある。野球の格言に「点が入ると試合が動く」という言葉がある。それまでこう着状態であった試合が、片方のチームが均衡を破ると、一気に試合が動き出すことは非常に多い。「野球はメンタルスポーツ」と言われる所以であろう。
ゆえに、強豪チームや地力のあるチームは9回トータルでの試合プランを立てて挑むことができる。例えば、打者一巡までは相手投手の調子を窺い、球数だけ投げさせて二巡目から仕掛けるチームや、投手力を含めた守備力に自信のあるチームは、とにかく先制点を狙い、奪い取れれば守備のプランに従い有利に試合をコントロールする、などがある。如何に、自分たちの流れでゲームプランを展開するかに腐心できるのである。
ところが公立高校などの一般の高校野球部は、なかなか9回までの試合展開を計算しにくい。その強迫観念にも似た状態を作っているのが「コールドゲーム」である。序盤に点差を広げられても、1回で追いついてしまえるのが野球の醍醐味であるはずなのに、その面白さを「コールドゲーム」が半減させてしまっている。試合内容よりも大会運営を優先する日本人らしい考え方である。
ルール上は「コールドゲーム」は降雨などの天災か日没などで試合継続が不可能な状態で規定の回数が完了している場合、「コールドゲーム」として試合を成立させる。つまり「ゲームセット」である。それに加えて、アマチュア野球の場合は「点差によるコールドゲーム」があり、これは各カテゴリーの大会規定に基づく。高校野球の支部などでは「5回以降10点、7回以降7点」であり、シニア野球では「5回以降7点」である。
しかしこの点差は、本当に「試合結果」を決定付けるに足り得る点差であろうかは甚だ疑問である。先日も高校野球で、7回終了時点で<20−10>という試合があった。もちろんコールドゲームである。確かに10点差ではあるが、7回裏には4点を返していることを考えると、この10点差は埋まらないのであろうか。可能性を言い出せばきりがないのであろうが、最後の夏を掛けた選手たちにとっては、何とも消化不良の感じは否めない。一体誰のための大会なのであろうか。主役は誰なのであろうか。主役たちが思う存分に実力を出し切れるよう、舞台設定をするのが大会を運営する側の務めではあるまいか。ナイター設備がないから、試合時間が長くなると大会日程に響くのであろう。判らなくもないが、主従逆転の感は拭えない。
ルール上は試合が成立している場合、突然の降雨により試合続行不可能となれば、当たり前のように「コールドゲーム」とするであろう。がしかし、「サスペンデッドゲーム(一時停止試合)」という処置もある。その適用については、ケース・バイ・ケースであるが、野球の本来の醍醐味を失わないためにも大会運営にゆとりを持たせてもらいたいものである。近年、選手の健康管理を考慮して休息日を設けたりしている。非常に良い方向へ向かっているのは間違いない。あとは、野球の本来のゲーム性を損なわないような大会運営を望んで止まない。
シニア野球でも、試合時間を短縮するために「コールドゲーム」を採用しているのであれば「本末転倒」であろう。
試合時間の短縮は、選手の攻守交替のスピードアップ、一つ一つのプレイのスピードアップ、無駄なサイン交換をやめることで簡単にクリアできるであろう。子供たちは少年野球からの悪癖で、先頭打者なのに一球一球打席を外してベンチのサインを仰ぐ。一体どんな指示が出るというのであろうか。それよりも、投手の投球に集中する事が重要であろう。また投手の牽制球のサイン、特に二塁走者への遊撃手や二塁手からのブロックサインには辟易する。思わず「チーム全体での遅延行為」でボークを取りたくなってしまう。走者を牽制するためのサインを、走者の後方から出しているのに、どうして複雑なサインが必要となるのであろうか。全く理解できない。これらの行為は、選手たちの自主性に任せていることが多いようであるが、「投手の投球リズム」「他の野手の守備のリズム」を考えると、利より害が大きいのは明白であり、指導者の方々は重々承知しているのであろうから、きめ細やかな指導を望むものである。
昨夏のある大会。3点差で迎えた8回裏に落雷とともに豪雨となり、降雨コールドとなった。泣き崩れる選手の姿を新聞で見た。「コールドゲーム」を宣告した時には、青空も見えていたのに。何とか再開の方法は無かったのであろうか。他人事ながら、気持ちが晴れない。
ゆえに、強豪チームや地力のあるチームは9回トータルでの試合プランを立てて挑むことができる。例えば、打者一巡までは相手投手の調子を窺い、球数だけ投げさせて二巡目から仕掛けるチームや、投手力を含めた守備力に自信のあるチームは、とにかく先制点を狙い、奪い取れれば守備のプランに従い有利に試合をコントロールする、などがある。如何に、自分たちの流れでゲームプランを展開するかに腐心できるのである。
ところが公立高校などの一般の高校野球部は、なかなか9回までの試合展開を計算しにくい。その強迫観念にも似た状態を作っているのが「コールドゲーム」である。序盤に点差を広げられても、1回で追いついてしまえるのが野球の醍醐味であるはずなのに、その面白さを「コールドゲーム」が半減させてしまっている。試合内容よりも大会運営を優先する日本人らしい考え方である。
ルール上は「コールドゲーム」は降雨などの天災か日没などで試合継続が不可能な状態で規定の回数が完了している場合、「コールドゲーム」として試合を成立させる。つまり「ゲームセット」である。それに加えて、アマチュア野球の場合は「点差によるコールドゲーム」があり、これは各カテゴリーの大会規定に基づく。高校野球の支部などでは「5回以降10点、7回以降7点」であり、シニア野球では「5回以降7点」である。
しかしこの点差は、本当に「試合結果」を決定付けるに足り得る点差であろうかは甚だ疑問である。先日も高校野球で、7回終了時点で<20−10>という試合があった。もちろんコールドゲームである。確かに10点差ではあるが、7回裏には4点を返していることを考えると、この10点差は埋まらないのであろうか。可能性を言い出せばきりがないのであろうが、最後の夏を掛けた選手たちにとっては、何とも消化不良の感じは否めない。一体誰のための大会なのであろうか。主役は誰なのであろうか。主役たちが思う存分に実力を出し切れるよう、舞台設定をするのが大会を運営する側の務めではあるまいか。ナイター設備がないから、試合時間が長くなると大会日程に響くのであろう。判らなくもないが、主従逆転の感は拭えない。
ルール上は試合が成立している場合、突然の降雨により試合続行不可能となれば、当たり前のように「コールドゲーム」とするであろう。がしかし、「サスペンデッドゲーム(一時停止試合)」という処置もある。その適用については、ケース・バイ・ケースであるが、野球の本来の醍醐味を失わないためにも大会運営にゆとりを持たせてもらいたいものである。近年、選手の健康管理を考慮して休息日を設けたりしている。非常に良い方向へ向かっているのは間違いない。あとは、野球の本来のゲーム性を損なわないような大会運営を望んで止まない。
シニア野球でも、試合時間を短縮するために「コールドゲーム」を採用しているのであれば「本末転倒」であろう。
試合時間の短縮は、選手の攻守交替のスピードアップ、一つ一つのプレイのスピードアップ、無駄なサイン交換をやめることで簡単にクリアできるであろう。子供たちは少年野球からの悪癖で、先頭打者なのに一球一球打席を外してベンチのサインを仰ぐ。一体どんな指示が出るというのであろうか。それよりも、投手の投球に集中する事が重要であろう。また投手の牽制球のサイン、特に二塁走者への遊撃手や二塁手からのブロックサインには辟易する。思わず「チーム全体での遅延行為」でボークを取りたくなってしまう。走者を牽制するためのサインを、走者の後方から出しているのに、どうして複雑なサインが必要となるのであろうか。全く理解できない。これらの行為は、選手たちの自主性に任せていることが多いようであるが、「投手の投球リズム」「他の野手の守備のリズム」を考えると、利より害が大きいのは明白であり、指導者の方々は重々承知しているのであろうから、きめ細やかな指導を望むものである。
昨夏のある大会。3点差で迎えた8回裏に落雷とともに豪雨となり、降雨コールドとなった。泣き崩れる選手の姿を新聞で見た。「コールドゲーム」を宣告した時には、青空も見えていたのに。何とか再開の方法は無かったのであろうか。他人事ながら、気持ちが晴れない。
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師匠の言葉
2007年7月4日先日、密かに師匠と勝手に思っている大先輩に、今年初めてお会いできた。足の具合が良くないようではあったが、相変わらず眼光鋭くお元気そうであった。ここぞとばかりに、色々と疑問に思っていたことや今年あったジャッジに対するご意見を伺ったが、答えは実に明快であった。その答えは「ルールブックを素直に読んで、それに従いなさい」である。
野球のルールはあいまいな表現が多く、複雑に考え出すと頭が混沌としてくる。日本のルールブックはアメリカのルールブックを翻訳して「野球規則」となっているから、難しい日本語になっている場合がある。アメリカ人の感覚では理解できることが、日本人の感覚では無理な部分もあるのであろう。文化の違いがあるのだから致し方ない。それでも野球規則委員会では、日本人が理解できるように懸命に日本語に翻訳しようとしている。だから、ルールブックなのにケーススタディのような事例が沢山出ている。
その助けになるのが、ルールブックの中で度々登場する【原注】である。これは、「ルールブック」の原文にある<注意書き>であり、『ルールの基本』を書かれていることが多いため、判断に迷った時には大変参考になる。つまり、ルールがどのような考えに基づいて作られたかということが判るため、そのベーシックな考えに対して「目の前のプレイ」を照らすと判断しやすいのである。
両チームがフェアプレイ精神に則ってゲームを進行してくれれば良いのだが、日本の野球の場合は「隙を突く」とか「弱点を突く」、「虚を突く」などのプレイが指導される。
先日中学1年生の試合で二塁塁審をやった際に、守備側ベンチから大声が飛んだ。「ショート前に回れ!!何やってんだ!!」。そうハッパを掛けられた遊撃手に、次の回のインターバルで意地悪な質問をしてみた。
「君は二塁走者の牽制に入った後、走者の前を横切るけれど、どうして?」
質問された選手はしばし考え、「走者の前を横切ると、走者がスタートを切り辛くなるから」との答え。
私は、「どうして走者がスタートを切り辛くなるの?」と駄目押し。
すると彼は「投手のモーションが見えなくなるから」。
私は彼の目をじっと見て、「そうかぁ〜、走者にすると君が邪魔なんだね」、
「でも、それって妨害だよね」。
彼は「でも・・・・・」と口ごもった。
私は、その選手が可哀相になり「コーチに言われたから、やらないと怒られるよな」と誘導尋問すると、彼は大きく頷いた。
前にも書いたが、二塁走者の前をショートが横切る、それも一度立ち止まり、投手の投球モーションに合わせて定位置へ戻る行為は、厳密には「オブストラクション(走塁妨害)」であろう。妨害行為は、肉体的な妨害ばかりではなく、視界を遮ることも立派な妨害であろう。高校野球では、そのようなプレイは見受けられないが、シニアでは頻繁に目にする。しかし、ほとんどが見過ごされているのも事実である。「野球規則」の事例には、「視界を遮る行為」までは書かれていない。
そこで、師匠の言葉を反芻する。
「ルールブックを素直に読んで、それに従いなさい」。
この行為をこの言葉に照らすと、私見としては「妨害」と考えているが、審判仲間の間では「拡大解釈」と考える人も多いのも確かである。
今の自分は、ジャッジに絶対的な自信と経験が不足していると考えているため、この「私見」は封印し、審判仲間には地道に布教活動をし、指導者には「私見を指導」している段階である。
反応は「そのとおり」とうなずく審判員もいれば、「それじゃ野球にならない」と不平を言う指導者もいる。しばらくは、様子を見ながら偏屈な私見を開陳していこうと考えている。
実は一番の問題は、視界を遮られることで走者は「不安」であり、「危険」であるということであるのだが。その辺りに焦点が向かなければ、結論は出ない気がする。
野球のルールはあいまいな表現が多く、複雑に考え出すと頭が混沌としてくる。日本のルールブックはアメリカのルールブックを翻訳して「野球規則」となっているから、難しい日本語になっている場合がある。アメリカ人の感覚では理解できることが、日本人の感覚では無理な部分もあるのであろう。文化の違いがあるのだから致し方ない。それでも野球規則委員会では、日本人が理解できるように懸命に日本語に翻訳しようとしている。だから、ルールブックなのにケーススタディのような事例が沢山出ている。
その助けになるのが、ルールブックの中で度々登場する【原注】である。これは、「ルールブック」の原文にある<注意書き>であり、『ルールの基本』を書かれていることが多いため、判断に迷った時には大変参考になる。つまり、ルールがどのような考えに基づいて作られたかということが判るため、そのベーシックな考えに対して「目の前のプレイ」を照らすと判断しやすいのである。
両チームがフェアプレイ精神に則ってゲームを進行してくれれば良いのだが、日本の野球の場合は「隙を突く」とか「弱点を突く」、「虚を突く」などのプレイが指導される。
先日中学1年生の試合で二塁塁審をやった際に、守備側ベンチから大声が飛んだ。「ショート前に回れ!!何やってんだ!!」。そうハッパを掛けられた遊撃手に、次の回のインターバルで意地悪な質問をしてみた。
「君は二塁走者の牽制に入った後、走者の前を横切るけれど、どうして?」
質問された選手はしばし考え、「走者の前を横切ると、走者がスタートを切り辛くなるから」との答え。
私は、「どうして走者がスタートを切り辛くなるの?」と駄目押し。
すると彼は「投手のモーションが見えなくなるから」。
私は彼の目をじっと見て、「そうかぁ〜、走者にすると君が邪魔なんだね」、
「でも、それって妨害だよね」。
彼は「でも・・・・・」と口ごもった。
私は、その選手が可哀相になり「コーチに言われたから、やらないと怒られるよな」と誘導尋問すると、彼は大きく頷いた。
前にも書いたが、二塁走者の前をショートが横切る、それも一度立ち止まり、投手の投球モーションに合わせて定位置へ戻る行為は、厳密には「オブストラクション(走塁妨害)」であろう。妨害行為は、肉体的な妨害ばかりではなく、視界を遮ることも立派な妨害であろう。高校野球では、そのようなプレイは見受けられないが、シニアでは頻繁に目にする。しかし、ほとんどが見過ごされているのも事実である。「野球規則」の事例には、「視界を遮る行為」までは書かれていない。
そこで、師匠の言葉を反芻する。
「ルールブックを素直に読んで、それに従いなさい」。
この行為をこの言葉に照らすと、私見としては「妨害」と考えているが、審判仲間の間では「拡大解釈」と考える人も多いのも確かである。
今の自分は、ジャッジに絶対的な自信と経験が不足していると考えているため、この「私見」は封印し、審判仲間には地道に布教活動をし、指導者には「私見を指導」している段階である。
反応は「そのとおり」とうなずく審判員もいれば、「それじゃ野球にならない」と不平を言う指導者もいる。しばらくは、様子を見ながら偏屈な私見を開陳していこうと考えている。
実は一番の問題は、視界を遮られることで走者は「不安」であり、「危険」であるということであるのだが。その辺りに焦点が向かなければ、結論は出ない気がする。
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人の振り見て
2007年6月29日今日観戦した高校野球はお粗末であった。とても甲子園を掛けた戦いのジャッジとは言えない。一般の方々にとっては、別にどうと言う事はないかもしれないが、審判を経験してしまい「ルールに厳しくあれ」と説いている私にとしては、非常に不満である。
選手達に聞いてみると、「あの投手の牽制球は要注意ですね」という答えが返ってきた。どうして「あの投手の牽制球は良いのですか」という問い返しがないのかガッカリである。
私の答えは明確で、「あんな牽制球が許される自体おかしい。全部ボークだよ」と答えた。
北海道の高校野球の審判員は、総じて高校の先生方が多いようであるが、もう一度ルールブックを熟読して頂きたい。ただ読むだけではダメであるのは当然で、理解をして頂きたい。ボークルールの原点はなんなのか。審判員のジャッジの拠り所はなんなのか。見ていないの「セーフ」や「アウト」は言えないであろう。とくに「アウト」は確実に見ていないとジャッジしてはいけないのが常識である。
本日の試合中にあったボークを列挙すると、以下のとおりである。
?右投手が、投手板を踏んだまま一塁に牽制しようとして動作を止めた。つまり、一塁への偽投である。これは、一度ならず三度以上はあった。
?右投手のツイストターンによる牽制球。これは両チームの投手が行っており、いわゆる「無し無し」なのか。この牽制球に引っかかり流れが変わった。
?右投手の一塁への牽制球で、踏み込みが不十分であった。これは、一塁・三塁の審判員は分からない。明らかに、主審と二塁塁審の判断なのであろう。あれが良ければ、走者は盗塁できない。
?右投手が一塁へ牽制する際に、投手板を外す動きをしたが、外した方向が投手板の後ろではなく、横方向であった。これは、多くのプロ野球の投手が行い許容されているが、アマチュアでは禁止されている行為である。
?もっとも情けないボーク見逃しが、投手板を踏んだ投手が、サインを見てから帽子のつばに手をやり帽子を被り直した。こんな初歩的なボークを見逃すのであるから、前段の4項目は仕方がないかなと納得してしまった。
本日の試合は、「ボークは見逃そう」と決めていたようにさえ映った。
学生野球の原点でもある高校野球の、3年生にとっては最後の夏である。
「審判の怠慢によるジャッジで負けた、ずるい奴が勝つ」などと思わせないためにも、勇気あるジャッジをお願いしたい。
私は、一発でボークを取ろうとして、いつも失敗(取れないでいた)していた。ある時から、「一回目は見逃そう、でも二度目は許さない」というスタンスに変えたところ、面白いようにボークが見れるようになった。あとは試合の流れなど考えずに、素直に見たままをジャッジすればいいのである。
かく言う私も、先日チョンボをやってしまった。自分で見たはずのタッチアップを、他の塁審に振るところであった。途中で気付き、照れながらジャッジをした。
審判をやっていると、集中しすぎて見えなくなることもある。ある程度、客観的に見る姿勢を見に付ける事が良いのであろうが、ナカナカそれが出来ない。
高校野球夏季大会は、一回戦と言えど真剣勝負である。
心労、ご苦労は十分理解するが、勇気を持ち毅然たる態度でルールを適用して頂きたいと切に願う。
選手達に聞いてみると、「あの投手の牽制球は要注意ですね」という答えが返ってきた。どうして「あの投手の牽制球は良いのですか」という問い返しがないのかガッカリである。
私の答えは明確で、「あんな牽制球が許される自体おかしい。全部ボークだよ」と答えた。
北海道の高校野球の審判員は、総じて高校の先生方が多いようであるが、もう一度ルールブックを熟読して頂きたい。ただ読むだけではダメであるのは当然で、理解をして頂きたい。ボークルールの原点はなんなのか。審判員のジャッジの拠り所はなんなのか。見ていないの「セーフ」や「アウト」は言えないであろう。とくに「アウト」は確実に見ていないとジャッジしてはいけないのが常識である。
本日の試合中にあったボークを列挙すると、以下のとおりである。
?右投手が、投手板を踏んだまま一塁に牽制しようとして動作を止めた。つまり、一塁への偽投である。これは、一度ならず三度以上はあった。
?右投手のツイストターンによる牽制球。これは両チームの投手が行っており、いわゆる「無し無し」なのか。この牽制球に引っかかり流れが変わった。
?右投手の一塁への牽制球で、踏み込みが不十分であった。これは、一塁・三塁の審判員は分からない。明らかに、主審と二塁塁審の判断なのであろう。あれが良ければ、走者は盗塁できない。
?右投手が一塁へ牽制する際に、投手板を外す動きをしたが、外した方向が投手板の後ろではなく、横方向であった。これは、多くのプロ野球の投手が行い許容されているが、アマチュアでは禁止されている行為である。
?もっとも情けないボーク見逃しが、投手板を踏んだ投手が、サインを見てから帽子のつばに手をやり帽子を被り直した。こんな初歩的なボークを見逃すのであるから、前段の4項目は仕方がないかなと納得してしまった。
本日の試合は、「ボークは見逃そう」と決めていたようにさえ映った。
学生野球の原点でもある高校野球の、3年生にとっては最後の夏である。
「審判の怠慢によるジャッジで負けた、ずるい奴が勝つ」などと思わせないためにも、勇気あるジャッジをお願いしたい。
私は、一発でボークを取ろうとして、いつも失敗(取れないでいた)していた。ある時から、「一回目は見逃そう、でも二度目は許さない」というスタンスに変えたところ、面白いようにボークが見れるようになった。あとは試合の流れなど考えずに、素直に見たままをジャッジすればいいのである。
かく言う私も、先日チョンボをやってしまった。自分で見たはずのタッチアップを、他の塁審に振るところであった。途中で気付き、照れながらジャッジをした。
審判をやっていると、集中しすぎて見えなくなることもある。ある程度、客観的に見る姿勢を見に付ける事が良いのであろうが、ナカナカそれが出来ない。
高校野球夏季大会は、一回戦と言えど真剣勝負である。
心労、ご苦労は十分理解するが、勇気を持ち毅然たる態度でルールを適用して頂きたいと切に願う。
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波乱含み
2007年6月29日今年のシニアは波乱含みを呈している。昨年の新人戦と今年の春季大会を見た印象では、地方のチームに勢いを感じていたが、日本選手権は正にその通りとなっている。シードされている4チームのうち2チームが初戦敗退の憂き目にあった。波乱含みの戦国時代である。札幌のチームが最終日に残れないケースも十分に考えられる。
そんな中、注目されている選手が何人かいる。皆怪我無く中学シニアを終えて、次のステップに進んで欲しいものであるが、実際にはすでに障害の影が蝕んでいる選手もいる。本人は異変に気付いているのであろうし、もちろん両親や指導者も気付いていると思われる。何度も会うことのない審判員が、「あの選手の投げ方変だね」とか「あの選手、やけに腰を気にするね」などと感じるのであるから、本人は元より身近な大人は気付いていないはずがない。もしも、気付いていないのであれば、よほどの鈍感か、子供の身体を何とも思っていないかのどちらかである。
野球の障害を甘く見ていると、スポーツは愚か日常生活にも支障をきたす事となる。ちょっと「肘が痛い」とか、「腰が重い」などという段階で医者の診断を受け、治療(通常は休養ですんでしまう)を行えば早期復帰となるものを、「もうちょっと」と我慢させて重症となるケースを沢山知っている。そこには、関係者の甘い判断や無知が介在している場合がほとんどである。子供たちは無知で致し方ないにしても、周囲の大人が無知では困る。頭にボールが当たれば、救急車を呼んで病院に向かうのに、肘が痛くてボールが投げられない場合は「ちょっと休め」で終わってしまう。どうして、診断をしないのか。誰が「大丈夫」と分かり、判断できるのか。私は判断出来ないから、医者に行くことを勧めている。
トレーニングの基本に、多少過度な負荷を与えることで選手のポテンシャルを伸ばす法則がある。法則という言葉を聞くと数学を思い出して難しそうに感じるであろうが、要は実力のちょっと先に目標を置いて頑張るということである。このことと、「多少無理をさせる」ことは大きな違いがある。本人が「痛い」「違和感がある」と言っているのに、「そんなことはないだろう」とプレイさせる指導者は「死導者」であると言えるだろう。
そういうことを考えると、才ある選手は早期敗退も悪くはない気がしてくる。実際には、そんな邪念を抱いて試合には挑んでいないであろうが。
波乱含みの戦国になればなるほど、障害発生率が上がるように感じるのだが、そうならないことを祈りつつ、ジャッジに励もう。
そんな中、注目されている選手が何人かいる。皆怪我無く中学シニアを終えて、次のステップに進んで欲しいものであるが、実際にはすでに障害の影が蝕んでいる選手もいる。本人は異変に気付いているのであろうし、もちろん両親や指導者も気付いていると思われる。何度も会うことのない審判員が、「あの選手の投げ方変だね」とか「あの選手、やけに腰を気にするね」などと感じるのであるから、本人は元より身近な大人は気付いていないはずがない。もしも、気付いていないのであれば、よほどの鈍感か、子供の身体を何とも思っていないかのどちらかである。
野球の障害を甘く見ていると、スポーツは愚か日常生活にも支障をきたす事となる。ちょっと「肘が痛い」とか、「腰が重い」などという段階で医者の診断を受け、治療(通常は休養ですんでしまう)を行えば早期復帰となるものを、「もうちょっと」と我慢させて重症となるケースを沢山知っている。そこには、関係者の甘い判断や無知が介在している場合がほとんどである。子供たちは無知で致し方ないにしても、周囲の大人が無知では困る。頭にボールが当たれば、救急車を呼んで病院に向かうのに、肘が痛くてボールが投げられない場合は「ちょっと休め」で終わってしまう。どうして、診断をしないのか。誰が「大丈夫」と分かり、判断できるのか。私は判断出来ないから、医者に行くことを勧めている。
トレーニングの基本に、多少過度な負荷を与えることで選手のポテンシャルを伸ばす法則がある。法則という言葉を聞くと数学を思い出して難しそうに感じるであろうが、要は実力のちょっと先に目標を置いて頑張るということである。このことと、「多少無理をさせる」ことは大きな違いがある。本人が「痛い」「違和感がある」と言っているのに、「そんなことはないだろう」とプレイさせる指導者は「死導者」であると言えるだろう。
そういうことを考えると、才ある選手は早期敗退も悪くはない気がしてくる。実際には、そんな邪念を抱いて試合には挑んでいないであろうが。
波乱含みの戦国になればなるほど、障害発生率が上がるように感じるのだが、そうならないことを祈りつつ、ジャッジに励もう。
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頃合い
2007年6月27日ルールブックを読み漁り、隅々まで勉強をしようなどと考えていると、どうしても頭が固くなってくる。ある意味で、意固地になってくる。野球のルールは、ゲームを公平にスムーズに進行させるために考えられまとめられたものであり、ルールが初めにあってベースボールというゲームができた訳ではない。初めは、色々なローカルルールが存在していたのであろうが、それをある程度の共通項を取捨選択して整理されてきたのであろう。創成期は合法であったプレイも、ある時からイリーガルなプレイとして扱われるようになったことを繰り返し、積み上げて、現在のオフィシャル・ベースボール・ルールとなったのである。
昔は、スピッドボールという変化球があった。投手自身も、その変化には驚きながら投げていた変化球である。この変化球は、現在のルールブックでは「反則投球」として、はっきりと名指しで記載されている。この変化球の正体は、ボールに唾液をつける行為により変化させる投球であり、今では立派なイリーガル投球として「退場処分」の対象となる行為である。
シニアでも、口元に手が行く選手を多く見かける。大リーグの松坂投手や岡島投手が、手を舐めているシーンがテレビに映し出されているため、真似をする投手が多いのであろう。ルール上は、投手が口元に手をやった場合、まずは警告を与え、ボールを交換する。それでも行為を止めない場合は、当該投手を試合から除くこととなっている。つまり「退場処分」である。今では、選手としての資格を失うほどの行為が、創成期には合法であったのである。野球のルールは、時代により大きく様変わりをしながら変化を続けている。それは進歩でもなければ、後退でもないのであろう。その時代のニーズに合致したルールであれば、その時代で一番面白い野球を堪能できるのである。
そういう意味では、我々審判員もルールブックにがんじがらめに拘束されるのではなく、良い意味での「適当さ」を持って、各プレイに当るべきであろう。
実際に、同じプレイをやっても、10人が10人同じ判定を下すとは限らない。ストライクゾーンが良い例である。ど真ん中の投球でも、見る角度やその日の体調、その日の気分によっては真ん中に見えないものである。ましてや、打者によって範囲が変化する高低などは厳密に見ようとする方が無茶であろう。あくまで、ルールの大枠の中で、ゲームを楽しむような「余裕」が審判員にも必要であるように感じている。
私も年間何試合かは、ジャッジをしていて「楽しい」と感じる試合がある。このような試合は、内容も充実している場合がほとんどである。それは結果的にでも、スコア的にでもなく、単に一つ一つのプレイに「楽しさ」を感じるのである。
そんな試合は、ジャッジも良い意味で「適当」な状態である。決してそれは、ルールブックにがんじがらめに縛られたものではなく、ある「頃合い」でジャッジしているのであろう。
中学シニアでは、ルールの前段階のマナーやモラルを指導していくのも審判員の役割のように思えてきた。
何度言っても直らないことを、毎試合・毎試合、その理由も添えてクドクドと選手に諭している。初めは、「どうしてこんな事も知らないのか」と憤慨していたが、最近は免疫ができてきた。
こんな事にも「頃合い」を見つけたように思う。
本音は「あまり丸くはなりたくない」ではあるのだが・・・・。
昔は、スピッドボールという変化球があった。投手自身も、その変化には驚きながら投げていた変化球である。この変化球は、現在のルールブックでは「反則投球」として、はっきりと名指しで記載されている。この変化球の正体は、ボールに唾液をつける行為により変化させる投球であり、今では立派なイリーガル投球として「退場処分」の対象となる行為である。
シニアでも、口元に手が行く選手を多く見かける。大リーグの松坂投手や岡島投手が、手を舐めているシーンがテレビに映し出されているため、真似をする投手が多いのであろう。ルール上は、投手が口元に手をやった場合、まずは警告を与え、ボールを交換する。それでも行為を止めない場合は、当該投手を試合から除くこととなっている。つまり「退場処分」である。今では、選手としての資格を失うほどの行為が、創成期には合法であったのである。野球のルールは、時代により大きく様変わりをしながら変化を続けている。それは進歩でもなければ、後退でもないのであろう。その時代のニーズに合致したルールであれば、その時代で一番面白い野球を堪能できるのである。
そういう意味では、我々審判員もルールブックにがんじがらめに拘束されるのではなく、良い意味での「適当さ」を持って、各プレイに当るべきであろう。
実際に、同じプレイをやっても、10人が10人同じ判定を下すとは限らない。ストライクゾーンが良い例である。ど真ん中の投球でも、見る角度やその日の体調、その日の気分によっては真ん中に見えないものである。ましてや、打者によって範囲が変化する高低などは厳密に見ようとする方が無茶であろう。あくまで、ルールの大枠の中で、ゲームを楽しむような「余裕」が審判員にも必要であるように感じている。
私も年間何試合かは、ジャッジをしていて「楽しい」と感じる試合がある。このような試合は、内容も充実している場合がほとんどである。それは結果的にでも、スコア的にでもなく、単に一つ一つのプレイに「楽しさ」を感じるのである。
そんな試合は、ジャッジも良い意味で「適当」な状態である。決してそれは、ルールブックにがんじがらめに縛られたものではなく、ある「頃合い」でジャッジしているのであろう。
中学シニアでは、ルールの前段階のマナーやモラルを指導していくのも審判員の役割のように思えてきた。
何度言っても直らないことを、毎試合・毎試合、その理由も添えてクドクドと選手に諭している。初めは、「どうしてこんな事も知らないのか」と憤慨していたが、最近は免疫ができてきた。
こんな事にも「頃合い」を見つけたように思う。
本音は「あまり丸くはなりたくない」ではあるのだが・・・・。
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緊迫と緊張
2007年6月25日中学シニアの日本選手権は、高校野球の夏の甲子園を目指す大会と同じである。試合内容は緊迫した場面が多く、選手はもとより審判の緊張感は春の大会などは比較にならない。一つのプレイで優劣が逆転する。ということは、一つのジャッジで流れが大きく変わるという事である。
あるベテラン審判員は、それが故に「我はルールブック」というようなジャッジは控えた方が良く、「審判員は進行係に徹するべき」と説く。
一方、違うベテラン審判員は、「試合の流れを作るのは選手やベンチであり、審判員ではない」、それ故に「目の前のプレイを丁寧にジャッジすることに徹するべき」と説く。
どちらも、正しいように思うが、その境地には達する事ができていない。結局は、緊張感のある緊迫した試合での経験、場数の差なのであろう。
それは球審でも塁審でも同じである。
球審は、一球・一球に集中しジャッジする必要があり、全体のプレイの補佐をするなどの重責がある。
塁審は楽かというと、そんなことはない。何時来るか分からないカバーリングに徹していなければ、ポッカリと塁を空けてしまったりする。スコアリングポジションに走者がいる時などは、球審は本塁にステイ(動けない状態)となるため、3つの塁を2名の塁審でカバーしなければならない。
今年もこんなケースがあった。2塁塁審が中にいるケースで、センター方向に飛球が飛び、1・3塁の塁審が同時に走り出してしまったこともあった。ある程度の経験者になると、どちらかが気付いて戻ってこれるのだが、経験の浅い審判員同士だと、ダブルジャッジになるまで気付かないこともある。そうなると、残された2塁塁審は3つの塁をカバーしなくてはならなくなる。こうなると、ポジショニング云々などどうでも良くなる。とにかく、走者の走る速度を想定しながら右往左往することとなる。そこで、最後に塁上のタッグプレイなどが起きると、かなり離れた位置からジャッジせざる得なくなり、「説得力に欠ける判定」となる。
昨日の試合では、私が独りよがりの動きをしたために、クルー全体に迷惑を掛けてしまった。他の塁審は大ベテランだったために、「気にするな」と言ってくれたが、「いつまでも成長しない」自分自身に腹が立った。
場面は2死満塁で4番打者。2死ゆえに内野手は通常の守備位置のため、2塁塁審の私はダイヤモンド内にポジショニング。4番打者の打った打球はレフトオーバーの大きな当たり。当然3塁塁審が打球を追ったため、私は三遊間のマウンド寄りへ動いた。これが混乱の始まり。その位置で、二塁と三塁の触塁を確かめるべく、頭は右往左往した。併せて外野からの返球もあるから、それも確認しなくてはならない。
結局、走者一掃の2塁打となったため、3塁と2塁には各二人の走者が通過または到達した。それをマウンド付近で右往左往しながら確認していた。外野からの返球は2塁へ返って来たが、もしもバックホームされていたならば、私のポジショニングは非常に邪魔な位置であった。さらに、返球を一瞬でも見逃していたならば、「審判員による守備妨害」などというリスクが生じていたかもしれない。
このプレイのあとで、大ベテランから「きつい忠告」を受けたが、それも期待の表れと感謝している。
それにしても、もう一度勉強しなおさなければと強く思ったケーススタディであった。
選手諸君にとっての大一番で、「ミスジャッジ」にこそならなかったが、「ニアミス」を起こしていたことは猛省すべき事である。
あるベテラン審判員は、それが故に「我はルールブック」というようなジャッジは控えた方が良く、「審判員は進行係に徹するべき」と説く。
一方、違うベテラン審判員は、「試合の流れを作るのは選手やベンチであり、審判員ではない」、それ故に「目の前のプレイを丁寧にジャッジすることに徹するべき」と説く。
どちらも、正しいように思うが、その境地には達する事ができていない。結局は、緊張感のある緊迫した試合での経験、場数の差なのであろう。
それは球審でも塁審でも同じである。
球審は、一球・一球に集中しジャッジする必要があり、全体のプレイの補佐をするなどの重責がある。
塁審は楽かというと、そんなことはない。何時来るか分からないカバーリングに徹していなければ、ポッカリと塁を空けてしまったりする。スコアリングポジションに走者がいる時などは、球審は本塁にステイ(動けない状態)となるため、3つの塁を2名の塁審でカバーしなければならない。
今年もこんなケースがあった。2塁塁審が中にいるケースで、センター方向に飛球が飛び、1・3塁の塁審が同時に走り出してしまったこともあった。ある程度の経験者になると、どちらかが気付いて戻ってこれるのだが、経験の浅い審判員同士だと、ダブルジャッジになるまで気付かないこともある。そうなると、残された2塁塁審は3つの塁をカバーしなくてはならなくなる。こうなると、ポジショニング云々などどうでも良くなる。とにかく、走者の走る速度を想定しながら右往左往することとなる。そこで、最後に塁上のタッグプレイなどが起きると、かなり離れた位置からジャッジせざる得なくなり、「説得力に欠ける判定」となる。
昨日の試合では、私が独りよがりの動きをしたために、クルー全体に迷惑を掛けてしまった。他の塁審は大ベテランだったために、「気にするな」と言ってくれたが、「いつまでも成長しない」自分自身に腹が立った。
場面は2死満塁で4番打者。2死ゆえに内野手は通常の守備位置のため、2塁塁審の私はダイヤモンド内にポジショニング。4番打者の打った打球はレフトオーバーの大きな当たり。当然3塁塁審が打球を追ったため、私は三遊間のマウンド寄りへ動いた。これが混乱の始まり。その位置で、二塁と三塁の触塁を確かめるべく、頭は右往左往した。併せて外野からの返球もあるから、それも確認しなくてはならない。
結局、走者一掃の2塁打となったため、3塁と2塁には各二人の走者が通過または到達した。それをマウンド付近で右往左往しながら確認していた。外野からの返球は2塁へ返って来たが、もしもバックホームされていたならば、私のポジショニングは非常に邪魔な位置であった。さらに、返球を一瞬でも見逃していたならば、「審判員による守備妨害」などというリスクが生じていたかもしれない。
このプレイのあとで、大ベテランから「きつい忠告」を受けたが、それも期待の表れと感謝している。
それにしても、もう一度勉強しなおさなければと強く思ったケーススタディであった。
選手諸君にとっての大一番で、「ミスジャッジ」にこそならなかったが、「ニアミス」を起こしていたことは猛省すべき事である。
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恫喝
2007年6月24日昨日は色々あったが、充実した一日であった。色々と勉強にもなった。ただし、あるチームのコーチによる恫喝的な態度には閉口した。
現役時代に、どのような選手だったかは知らないが、シニア野球の基本理念を分からずにしゃしゃり出てくるのはやめてもらいたい。実際には、表舞台に登場できないために裏から指示をしているのであろうが、「プロ野球では云々」などという台詞は、シニア野球では通じない。
何度も言うが、日本のプロ野球をスポーツへと進化させたいのであれば、古くから続いている選手や監督・コーチたちと審判員の関係を正常化する必要があるであろう。
元プロ野球選手が多い、プロの審判員には現役時代のしがらみや風習から抜け切れない部分が見え隠れする。セリーグもパリーグも30名程度の審判員によりローテーションで回っているはずなのに、巨人戦がテレビで盛んに実況されていた時代には、同じような審判ばかりが担当していたのは事実である。そこに「長嶋ボール」や「王ボール」が生まれた素地があった。巨人に有利な判定が多いように感じたのは、私だけではないであろう。それがプロの現実である。そこには審判員の現役時代の上下関係や因果関係が存在しており、そのような状況下で公正なジャッジを求める事自体がナンセンスであり、まして「審判員に対する尊敬の念」などは生まれようもない。
シニア野球でも高校野球でも「審判員に対する敬意」は最初に指導するべき事柄である。それをないがしろにして、言葉面の「宜しくお願いします」は必要ない。
我々審判員は、選手達から尊敬されようと思って日々努力しているわけではない。選手達の全力プレイに恥じないジャッジをしようと心掛けているだけである。それは、どのレベルも同じはずである。そこには、野球選手としての上下関係や因果関係が入り込む余地はない。
ちなみに私は野球経験が全くないため、そのようなしがらみがない。単に一スポーツの審判員としてジャッジしているから、野球のルールに照らして是か非かで判断している。そこには、社会通念上のモラルやマナーが優先する場合も当然ある。例えば、選手がプレイ上のトラブルにより怪我をしたような場合、野球の流れを停めてでも選手の健康を守る義務が審判員にはあり、特に頭部付近へのプレイに対しては神経質にならざるを得ない。
シニア野球は、野球の入口である。硬式ボールを扱い、金属の刃のスパイクを履きプレイする野球の入口である。だからこそ選手が危険な状態となった場合には、プレイの流れを無視してでも試合を停める権限が与えられている。
今月の初めに、他のスポーツで若い命が散った。原因は頭部の損傷であった。頭部や胸部(心臓)の障害は一刻を争う。選手の健全な育成を旗印にしているシニア野球の理念を、しっかりと頭に叩き込んだ上で、永く野球をやるために「野球の基礎」を教えていただきたいと強く思う。
野球への情熱、勝負へのこだわりが、時として違う方向へ選手を導いてしまう事がある。そのようなことが無い事を祈りつつ、ルールの解釈をお互いに勉強した上で、また再会したいものである。
ちなみに、野球経験のない私には「恫喝」は通じない事を付け加えておく。
現役時代に、どのような選手だったかは知らないが、シニア野球の基本理念を分からずにしゃしゃり出てくるのはやめてもらいたい。実際には、表舞台に登場できないために裏から指示をしているのであろうが、「プロ野球では云々」などという台詞は、シニア野球では通じない。
何度も言うが、日本のプロ野球をスポーツへと進化させたいのであれば、古くから続いている選手や監督・コーチたちと審判員の関係を正常化する必要があるであろう。
元プロ野球選手が多い、プロの審判員には現役時代のしがらみや風習から抜け切れない部分が見え隠れする。セリーグもパリーグも30名程度の審判員によりローテーションで回っているはずなのに、巨人戦がテレビで盛んに実況されていた時代には、同じような審判ばかりが担当していたのは事実である。そこに「長嶋ボール」や「王ボール」が生まれた素地があった。巨人に有利な判定が多いように感じたのは、私だけではないであろう。それがプロの現実である。そこには審判員の現役時代の上下関係や因果関係が存在しており、そのような状況下で公正なジャッジを求める事自体がナンセンスであり、まして「審判員に対する尊敬の念」などは生まれようもない。
シニア野球でも高校野球でも「審判員に対する敬意」は最初に指導するべき事柄である。それをないがしろにして、言葉面の「宜しくお願いします」は必要ない。
我々審判員は、選手達から尊敬されようと思って日々努力しているわけではない。選手達の全力プレイに恥じないジャッジをしようと心掛けているだけである。それは、どのレベルも同じはずである。そこには、野球選手としての上下関係や因果関係が入り込む余地はない。
ちなみに私は野球経験が全くないため、そのようなしがらみがない。単に一スポーツの審判員としてジャッジしているから、野球のルールに照らして是か非かで判断している。そこには、社会通念上のモラルやマナーが優先する場合も当然ある。例えば、選手がプレイ上のトラブルにより怪我をしたような場合、野球の流れを停めてでも選手の健康を守る義務が審判員にはあり、特に頭部付近へのプレイに対しては神経質にならざるを得ない。
シニア野球は、野球の入口である。硬式ボールを扱い、金属の刃のスパイクを履きプレイする野球の入口である。だからこそ選手が危険な状態となった場合には、プレイの流れを無視してでも試合を停める権限が与えられている。
今月の初めに、他のスポーツで若い命が散った。原因は頭部の損傷であった。頭部や胸部(心臓)の障害は一刻を争う。選手の健全な育成を旗印にしているシニア野球の理念を、しっかりと頭に叩き込んだ上で、永く野球をやるために「野球の基礎」を教えていただきたいと強く思う。
野球への情熱、勝負へのこだわりが、時として違う方向へ選手を導いてしまう事がある。そのようなことが無い事を祈りつつ、ルールの解釈をお互いに勉強した上で、また再会したいものである。
ちなみに、野球経験のない私には「恫喝」は通じない事を付け加えておく。
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日本選手権の一回戦で、我チームは敗退してしまった。短い夏であったが、この敗戦にも意味はあった。春のリーグ戦で手探りであったチームの一体感が、初めて感じることの出来た試合であった。内容に対する感じ方やご意見は多々あろうが、グラウンド・ダグアウト・スタンドのすべての選手達、そして指導者・父母・OBなど、すべての人々の思いが凝縮した試合であった。昨年の秋から新チームとなり、現在に至るまでで初めて感じた感覚である。ある意味、このチームは今日がスタートなのかもしれない。中学シニア野球のチームは、毎年主力選手が変わる。同じ選手は誰一人としていない。タイプ分けは出来たとしても、やはり個々人の技量・性格・目的が違う。中学シニアで野球のイロハを学ぼうと思う選手もいれば、高いレベルを求める者もいる。それらの集合体がチームであるが、我チームの持ち味はそれらの異なる個性を活かしてゲームを進める所にあるのであろう。
要は、チームとしての一つの目標を定め、違う個性が、違う方向から、それに突き進む姿勢さえ得られれば良いのであろう。
今日の試合を観戦して、一番感じた事は、違う方向性を持った選手達が、「一つの勝利」のために一体となれたことが大きな収穫であったと感じた。
中学シニアのチームに携わっている一員として、この目標を達成できた選手諸君には感謝したい。
3年生諸君は、全国への道が閉ざされてしまったが、ここからがもう一つ・もう二つとステップアップするための大切な最終章である。今日は悔しく・情けない思いが強いであろうが、明日からは頭の切り替えに努めてもらいたい。ようやく、選手諸君が作り上げたチームの方向性が見えてきたのである。是非とも、この方向性を明確にした上で、力強さを加えてもらいたい。
2年生諸君は、先輩たちの戦いから学ぶことが多いはずである。それを良い教本としても良いし、反面教師としても良い。それを感じ、消化して、秋からのチーム作りの基礎としてもらいたい。そして、残された3年生とのわずかな時間を大切にし、チームとは何か、野球とは何かを考えてもらいたい。そして、一人でも多くのチームリーダーが台頭してくるのを期待している。もう、遠慮はいらない。準備を十分にしなければ、主役の座が開いた時に出遅れてしまう。もっと底上げを意識してもらいたい。
1年生諸君には、スタンドからの力強い応援ありがとうと言いたい。毎年の事ではあるが、最初は照れくさかった応援も、試合が進むにつれて一体感を感じる事ができたと思う。それを出来なかった選手は、試合への思い入れが弱いと感じるべきであるし、泣きたくなるほど悔しい選手は、その感情を忘れずにいてもらいたい。それらが、明日の君達の成長量の道しるべとなるのである。是非ととも、悔しい思いをエネルギーに変えて頑張ってもらいたい。もう、君達はお客さんではない。立派なチームの一員である。それが、今日証明されたのだと思う。
我チームの選手諸君、明日から再スタートである。幸いに、次の大会までは時間がある。3年生を中心に、もう一度チームを見詰め直し、「本当の勝利」を得るために実のある精進をしてもらいたい。
君達に、下を向いている時間はない。前をしっかり見て、前進することを考えてもらいたい。
要は、チームとしての一つの目標を定め、違う個性が、違う方向から、それに突き進む姿勢さえ得られれば良いのであろう。
今日の試合を観戦して、一番感じた事は、違う方向性を持った選手達が、「一つの勝利」のために一体となれたことが大きな収穫であったと感じた。
中学シニアのチームに携わっている一員として、この目標を達成できた選手諸君には感謝したい。
3年生諸君は、全国への道が閉ざされてしまったが、ここからがもう一つ・もう二つとステップアップするための大切な最終章である。今日は悔しく・情けない思いが強いであろうが、明日からは頭の切り替えに努めてもらいたい。ようやく、選手諸君が作り上げたチームの方向性が見えてきたのである。是非とも、この方向性を明確にした上で、力強さを加えてもらいたい。
2年生諸君は、先輩たちの戦いから学ぶことが多いはずである。それを良い教本としても良いし、反面教師としても良い。それを感じ、消化して、秋からのチーム作りの基礎としてもらいたい。そして、残された3年生とのわずかな時間を大切にし、チームとは何か、野球とは何かを考えてもらいたい。そして、一人でも多くのチームリーダーが台頭してくるのを期待している。もう、遠慮はいらない。準備を十分にしなければ、主役の座が開いた時に出遅れてしまう。もっと底上げを意識してもらいたい。
1年生諸君には、スタンドからの力強い応援ありがとうと言いたい。毎年の事ではあるが、最初は照れくさかった応援も、試合が進むにつれて一体感を感じる事ができたと思う。それを出来なかった選手は、試合への思い入れが弱いと感じるべきであるし、泣きたくなるほど悔しい選手は、その感情を忘れずにいてもらいたい。それらが、明日の君達の成長量の道しるべとなるのである。是非ととも、悔しい思いをエネルギーに変えて頑張ってもらいたい。もう、君達はお客さんではない。立派なチームの一員である。それが、今日証明されたのだと思う。
我チームの選手諸君、明日から再スタートである。幸いに、次の大会までは時間がある。3年生を中心に、もう一度チームを見詰め直し、「本当の勝利」を得るために実のある精進をしてもらいたい。
君達に、下を向いている時間はない。前をしっかり見て、前進することを考えてもらいたい。
夏・本番
2007年6月22日いよいよ、シニアも日本選手権が始まり、高校野球も南北海道大会支部予選が始まる。
夏・本番である。
シニアは、この後も大会はあるが、日本選手権が本番である。
選手諸君は、日頃の成果を思い存分発揮してもらいたい。
私たち、審判も気合をいれて挑まなければ、選手に失礼である。かといって、過分な緊張は、余計なトラブルの原因になるので、そこは良い意味での「適当さ」が必要である。
早い話が、いつもと変わらぬジャッジに努めれば良いのである。日本選手権だからと言って、野球の試合であることには変わりない。ただ、ベンチの雰囲気は全然違うのだが。
このベンチの雰囲気に気圧されないよう、毅然としなくてはならない。
そういう意味では、色々な準備をしてきたので、何とかなるかなとは思っている。
去年までは、緊張感が先にあったが、今年は楽しみが先に来ている。審判の心得としては邪道なのかもしれないが、ある意味で「ワクワク感」がある。どのような試合になるのかが、楽しみである。
夏の試合は、暑さとの戦いでもある。今年も早稲田大学で活躍している斉藤投手が、「ハンカチ王子」と騒がれたお陰で、私もポケットにハンカチを忍ばせる習慣がついた。これが、結構役に立つ。眼鏡が汗で汚れたり、雨の降る日などは水滴で汚れたりするので苦慮していたが、このハンカチで助かっている。小学生の習慣が、こんなところで役に立つ。出かける時に、子供に対して「ハンカチ持ったか、ちり紙は」などと言っている大人が、この様では・・・と思うと情け無い。斉藤君、ありがとう。
去年の夏は、駒大・田中と早実・斉藤の壮絶なるドラマによって「熱い夏」になった。
今年は、どんなドラマが生まれるか。
シニアも高校野球も、いよいよ本番である。
頑張れ、すべての球児たち。
私も、気合を入れて挑むことにしよう。
夏・本番である。
シニアは、この後も大会はあるが、日本選手権が本番である。
選手諸君は、日頃の成果を思い存分発揮してもらいたい。
私たち、審判も気合をいれて挑まなければ、選手に失礼である。かといって、過分な緊張は、余計なトラブルの原因になるので、そこは良い意味での「適当さ」が必要である。
早い話が、いつもと変わらぬジャッジに努めれば良いのである。日本選手権だからと言って、野球の試合であることには変わりない。ただ、ベンチの雰囲気は全然違うのだが。
このベンチの雰囲気に気圧されないよう、毅然としなくてはならない。
そういう意味では、色々な準備をしてきたので、何とかなるかなとは思っている。
去年までは、緊張感が先にあったが、今年は楽しみが先に来ている。審判の心得としては邪道なのかもしれないが、ある意味で「ワクワク感」がある。どのような試合になるのかが、楽しみである。
夏の試合は、暑さとの戦いでもある。今年も早稲田大学で活躍している斉藤投手が、「ハンカチ王子」と騒がれたお陰で、私もポケットにハンカチを忍ばせる習慣がついた。これが、結構役に立つ。眼鏡が汗で汚れたり、雨の降る日などは水滴で汚れたりするので苦慮していたが、このハンカチで助かっている。小学生の習慣が、こんなところで役に立つ。出かける時に、子供に対して「ハンカチ持ったか、ちり紙は」などと言っている大人が、この様では・・・と思うと情け無い。斉藤君、ありがとう。
去年の夏は、駒大・田中と早実・斉藤の壮絶なるドラマによって「熱い夏」になった。
今年は、どんなドラマが生まれるか。
シニアも高校野球も、いよいよ本番である。
頑張れ、すべての球児たち。
私も、気合を入れて挑むことにしよう。
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捻じ曲げられた解釈―投手板と軸足―
2007年6月21日今年のルール改正の中で、「プロ」と「アマチュア」で解釈の違う項目がある。そのひとつが、「投手板における軸足の位置」である。従来のルールは、「軸足は投手板の幅から出ないように位置する」であった。つまり、投手板の中につま先から踵までがスッポリは入ることが義務付けられていた。ところが今年の改正により、「プロ」は「軸足の一部が投手板の一部に触れていれば良い」という解釈で運用するのである。一方、「アマチュア野球」では従来とおりとするという分かりやすい運用をすることとなっている。
問題は「プロ」と「アマチュア」のルール解釈の温度差である。これは「2段モーション」の時もあった、馬鹿げた押し問答が始まるキッカケを作ってしまった。プロ側の解釈はマスコミで大々的に扱われる。まるで、日本中の野球のルールが変更となったように。アマチュア側は動揺する。あくまでも「プロ野球では」という注釈がついていながら動揺するのである。
そこで、審判講習会などで質問が出る。「投手板から、軸足はどの程度出て良いのですか?」。愚問である。ルールブックには「板の幅の中」に「軸足」を入れろと書いてあるにも拘らず、愚問が飛び出す。そこで、講師のベテラン審判員は「そんなに目くじら立てずに、多少はOKでしょう」と応える。それを聞いた指導者は「投手板から軸足が出ても良い」と勝手に拡大解釈してしまうのである。その先にあるのが、「じゃあ、どこまで出ても良くて、どこ以上は駄目なのか」という不毛な議論になる。正にナンセンスである。
投手の投球モーションや牽制モーションなどを科学の力を借りて分析したら、不正投球やボークの山が築けるであろう。がしかし、そんなことをしても仕方がないのである。それは、人間の目を持った「審判員の目」により判定を下し、ゲームを進めることが大原則になっているからであり、そこにはビデオ再生などが入り込む余地は全くない。だから「誤審はあり得ない」のである。
審判が下した判定が最終であり、それが「人間のプレイを人間がジャッジする」野球の醍醐味であるはずである。
「アマチュア野球」では、従来どおりルールブックに則り、「投手の軸足は投手板の幅の中に納める」ことに変わりない。ただし、「ちょっとでも出たら駄目」「勢いで出た場合はどうする」などという重箱の隅を突付いたような解釈をしないという「申し合わせ」があるということであって、決して「軸足が投手版を出て良い」という解釈をしてはならないと私は考えるが、読者諸氏は如何に考えられるだろうか。
要は「ルールブックは素直に読もう」ということである。決してルールの「裏や狭間」を狙ったプレイを「したりさせたり」しないことである。
こんなことを、学校の先生でもあるはずの高校野球の監督さんが、素人審判員に指摘されるようでは、一体何が「教育の一環」なのかと寒気がする。
「ルールの裏」を突くことが「教育」であるならば、そんな「指導」は一切ご勘弁願いたいものである。団体スポーツはモラルハザードが幅を効かす。大勢の人間が関わるから、ベーシックな部分の共通項が必要となるのである。その重要な部分で履き違えがあると、違うスポーツとなってしまうのである。「指導」は必ずしも正しい方向へコーチする(導く)ものでないが、せめて「学校」と名のつく場ではそうあって欲しいものである。
野球を楽しい「スポーツ」に進化させるには、まずはモラルとマナーを守り、ルールに従うことだと思うのだが。
問題は「プロ」と「アマチュア」のルール解釈の温度差である。これは「2段モーション」の時もあった、馬鹿げた押し問答が始まるキッカケを作ってしまった。プロ側の解釈はマスコミで大々的に扱われる。まるで、日本中の野球のルールが変更となったように。アマチュア側は動揺する。あくまでも「プロ野球では」という注釈がついていながら動揺するのである。
そこで、審判講習会などで質問が出る。「投手板から、軸足はどの程度出て良いのですか?」。愚問である。ルールブックには「板の幅の中」に「軸足」を入れろと書いてあるにも拘らず、愚問が飛び出す。そこで、講師のベテラン審判員は「そんなに目くじら立てずに、多少はOKでしょう」と応える。それを聞いた指導者は「投手板から軸足が出ても良い」と勝手に拡大解釈してしまうのである。その先にあるのが、「じゃあ、どこまで出ても良くて、どこ以上は駄目なのか」という不毛な議論になる。正にナンセンスである。
投手の投球モーションや牽制モーションなどを科学の力を借りて分析したら、不正投球やボークの山が築けるであろう。がしかし、そんなことをしても仕方がないのである。それは、人間の目を持った「審判員の目」により判定を下し、ゲームを進めることが大原則になっているからであり、そこにはビデオ再生などが入り込む余地は全くない。だから「誤審はあり得ない」のである。
審判が下した判定が最終であり、それが「人間のプレイを人間がジャッジする」野球の醍醐味であるはずである。
「アマチュア野球」では、従来どおりルールブックに則り、「投手の軸足は投手板の幅の中に納める」ことに変わりない。ただし、「ちょっとでも出たら駄目」「勢いで出た場合はどうする」などという重箱の隅を突付いたような解釈をしないという「申し合わせ」があるということであって、決して「軸足が投手版を出て良い」という解釈をしてはならないと私は考えるが、読者諸氏は如何に考えられるだろうか。
要は「ルールブックは素直に読もう」ということである。決してルールの「裏や狭間」を狙ったプレイを「したりさせたり」しないことである。
こんなことを、学校の先生でもあるはずの高校野球の監督さんが、素人審判員に指摘されるようでは、一体何が「教育の一環」なのかと寒気がする。
「ルールの裏」を突くことが「教育」であるならば、そんな「指導」は一切ご勘弁願いたいものである。団体スポーツはモラルハザードが幅を効かす。大勢の人間が関わるから、ベーシックな部分の共通項が必要となるのである。その重要な部分で履き違えがあると、違うスポーツとなってしまうのである。「指導」は必ずしも正しい方向へコーチする(導く)ものでないが、せめて「学校」と名のつく場ではそうあって欲しいものである。
野球を楽しい「スポーツ」に進化させるには、まずはモラルとマナーを守り、ルールに従うことだと思うのだが。
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捻じ曲げられた解釈
2007年6月20日どうして「野球規則」が捻じ曲げられて解釈されてしまうのであろうか。
今年のルール改正は、33項目にわたる大改正であった。元はと言えば、本場アメリカのルール改正に追随した形である。それ自体は問題ないのだが、「わが国では」と「アマチュア野球では」という運用の部分のあいまいさが問題である。
毎年のように、投手に関するルール解釈や運用の部分は話題になっている。最近では「2段モーション」であり、その前では「高目のストライクゾーン」などである。
前者の「2段モーション」は、「わが国では」の勝手な解釈であり、プロ野球選手がオリンピックやワールドベースボールクラシックで国際試合が増えたことで改善せざる得なくなった部分である。この解釈は「ルールブック上の猶予」の余地が全くない部分であり、「職業野球」で飯を食っている「プロフェッショナル投手」の生活に関わるなどという訳の判らない理由で「捻じ曲げられた解釈」であった。実際に正規の解釈に基づき運用してみると、全然問題ないことが判り、騒いだ割には影響がほとんどなかったようである。逆に投手のテンポが良くなり、打者のリズムを乱し考える暇を与えないのが、投手に有利に働いているのではないかとさえ思う状態である。
ストライクゾーンに関しては、日米問わず時代背景を反映している。ベイ・ブルースの登場に始まり、ハンク・アーロンの記録更新、近年ではマーク・マグワイヤやサミー・ソーサによるホームラン協奏曲、そして現在のバリー・ボンズ。これらのホームランに狂喜乱舞した時代には、「飛ぶボール」や「変形球場」など時代のニーズに併せて野球スタイルは変遷してきた。その一端が「ストライクゾーン」の運用による解釈である。ルール上の「ストライクゾーン」はまったく変わっていないが、頻繁に話題に上るのが「ストライクゾーンの変更」である。これは、時代に合致した解釈や運用を行ってきたのである。今では、「アウトコースは広く、インコースは辛く」が当たり前になっているが、これにも屁理屈のような理由がある。
「インコースを辛くすると、打者は踏み込んで打つことができるため、打撃戦となり試合が面白くなる」は表の理屈である。
「インコースを広くすると、デッドボールが多くなり、選手にとって危険であり、かつ乱闘などの原因となり、試合時間が延びる」が立派な屁理屈である。
今年日本のパリーグでは、「アウトコースを広げる」という噂が広がった。当初は「投手有利」になるのではと言われたが、アメリカの屁理屈を見る限りは決してそうではない。投手は「広くなったアウトコースで勝負」するようになるだろうが、打者は「安心して踏み込める」こととなるため、投手が完全有利とは言い切れない。
早い話が「ルール変更」や「解釈変更」や「運用変更」に対して、投手も打者も適応した技術を身につけて対処するのであり、観客や審判が慣れてしまうと、以前と何ら変わらない野球が展開されるということである。
そういえば、今年はボールも変更となったが、その影響はよく判らないのが現実であり、おそらくシーズン終了後にデータマニアが記録を分析し、ウンチクを述べるのであろう。それはそれで、私は興味があるのだが・・・・。
今年のルール改正は、33項目にわたる大改正であった。元はと言えば、本場アメリカのルール改正に追随した形である。それ自体は問題ないのだが、「わが国では」と「アマチュア野球では」という運用の部分のあいまいさが問題である。
毎年のように、投手に関するルール解釈や運用の部分は話題になっている。最近では「2段モーション」であり、その前では「高目のストライクゾーン」などである。
前者の「2段モーション」は、「わが国では」の勝手な解釈であり、プロ野球選手がオリンピックやワールドベースボールクラシックで国際試合が増えたことで改善せざる得なくなった部分である。この解釈は「ルールブック上の猶予」の余地が全くない部分であり、「職業野球」で飯を食っている「プロフェッショナル投手」の生活に関わるなどという訳の判らない理由で「捻じ曲げられた解釈」であった。実際に正規の解釈に基づき運用してみると、全然問題ないことが判り、騒いだ割には影響がほとんどなかったようである。逆に投手のテンポが良くなり、打者のリズムを乱し考える暇を与えないのが、投手に有利に働いているのではないかとさえ思う状態である。
ストライクゾーンに関しては、日米問わず時代背景を反映している。ベイ・ブルースの登場に始まり、ハンク・アーロンの記録更新、近年ではマーク・マグワイヤやサミー・ソーサによるホームラン協奏曲、そして現在のバリー・ボンズ。これらのホームランに狂喜乱舞した時代には、「飛ぶボール」や「変形球場」など時代のニーズに併せて野球スタイルは変遷してきた。その一端が「ストライクゾーン」の運用による解釈である。ルール上の「ストライクゾーン」はまったく変わっていないが、頻繁に話題に上るのが「ストライクゾーンの変更」である。これは、時代に合致した解釈や運用を行ってきたのである。今では、「アウトコースは広く、インコースは辛く」が当たり前になっているが、これにも屁理屈のような理由がある。
「インコースを辛くすると、打者は踏み込んで打つことができるため、打撃戦となり試合が面白くなる」は表の理屈である。
「インコースを広くすると、デッドボールが多くなり、選手にとって危険であり、かつ乱闘などの原因となり、試合時間が延びる」が立派な屁理屈である。
今年日本のパリーグでは、「アウトコースを広げる」という噂が広がった。当初は「投手有利」になるのではと言われたが、アメリカの屁理屈を見る限りは決してそうではない。投手は「広くなったアウトコースで勝負」するようになるだろうが、打者は「安心して踏み込める」こととなるため、投手が完全有利とは言い切れない。
早い話が「ルール変更」や「解釈変更」や「運用変更」に対して、投手も打者も適応した技術を身につけて対処するのであり、観客や審判が慣れてしまうと、以前と何ら変わらない野球が展開されるということである。
そういえば、今年はボールも変更となったが、その影響はよく判らないのが現実であり、おそらくシーズン終了後にデータマニアが記録を分析し、ウンチクを述べるのであろう。それはそれで、私は興味があるのだが・・・・。
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ファウルカップ
2007年6月19日仕事が煩雑になってきたために、なかなか書けないでいる。と言っても、休日になれば、どこかで審判員としてグラウンドに立っている。シーズンインしてから土日祭日で21日間の休日があったが、休んだのはたったの4日間だけである。シニアの公式戦・練習試合、おじさんたちの朝野球、そして高校野球。色々なカテゴリーの選手たちと出会い、それはそれで面白い。何より皆「野球を楽しんでいる」ことに意義を感じ好感が持てる。「スポーツの原点」は楽しむことである。よく「練習は厳しく、試合は楽しく」などという言葉があるが、本当に好きなスポーツであれば「すべてが楽しく」となるはずである。そうでなければ継続できないはずであり、表面的な「辛さ・厳しさ」は物の本質ではないのであろう。私自身、「審判が辛い」と思ったことはない。実に「楽しい」のである。それは、監督からの猛抗議を受けている時も然り、ジャッジに対する選手からの冷たい視線や冷笑を受けている時も然りである。常々「審判が目立っては駄目だ」と心に言い聞かせながらも、ついついクロスプレイなどでは「選手や観客の目」を意識してしまう。彼らの視線を十分に集め、ジャッジを下した後の反応を聴くことは「至福の時」である。
という邪念を抱きながらジャッジをしていると、天罰が下るのが世の常か。痛烈なしっぺ返しを喰らった。誠に「冷や汗・脂汗」である。
左投手と左打者の対戦。走者一塁で捕手はアウトコース低めに身体を沈めて構える。ところが投手の投じたボールは、打者のインコース足許へ。身体を沈めていた捕手は反応できず、ミットに当たることもなくボールを後逸した。捕手が慌てて後ろを振り向くと、そこにボールがあった??。
その瞬間、私の脳天を突き抜ける衝撃が走った。「うっ!?」とうめいた私は、「ボール」のコールもそこそこにうずくまった。
投手が投じたボールは、打者の足許でワンバウンドし、捕手のミットをかすめて私の股間に直撃したのである。捕手は、私の股間から落ちたボールを拾い、盗塁しようとした走者を牽制した。
そこまで見届けた私は「苦しい。痛い。吐き気がする」。立っていられず、膝を付いてしまった。周囲からの嘲笑が聞こえたが、笑い事ではない。そこに一塁コーチャーが近付いてきて、「冷却スプレー良いですか?」と聞いた瞬間は、漫才コンビであれば笑うところであるが、思わず「馬鹿野郎!!腰を叩け!」と言ってしまった。
審判を始めてから、初めてファウルカップが役に立った瞬間である。球審をやりだした当時、ベテラン審判員から「カップしているかい?」と聞かれ、何のことやら判らなかったのを思い出した。そのベテランは「絶対に危ないから、した方がいいぞ」と言って頂き、帰り道に野球用品店へ向かったのを覚えている。その時に購入したファウルカップが初めて活躍してくれたのである。
球審は、捕手と同様に股間にファウルカップ(バナナカップとも言う)を装着する。球審は大抵の場合、捕手の後ろに隠れる位置取りをするため、ボールが直撃するのはマスク(顔面)やレッグガード(スネ当て)が多い。プロテクターで胸部および腹部を防護しているが、プロテクターが活躍するのは鎖骨の防護が主である。意外と多いのが腕や手である。ここは防護していないため、いわゆる直撃である。指を開いていたりすると、ボールがかすめただけで骨折する可能性もある。今年も手の甲を直撃して、2週間ほど痛みが引かなかった。プロテクターにアームガードを装着できるタイプもあるが、半袖になる夏には向かない。結局、肉のついた箇所に当たるのを願うばかりである。
私の場合、足も危ない。出来るだけアウトコースを見ようと、スロットポジションで捕手に近づくために、捕手のスパイクと私の足が接触することがある。球審は、投手がプレートを踏んだ時点で「GET SET」し、概ね足許を決めてしまう。捕手がサインを出し、投手が投球モーションを起こした時点でタイミングを計って身を沈めるのだが、この時に後ろへ下がる捕手がいる。3人に1人の割合で、サインを出しているポジションから、後ろへ下がるのである。下がるだけなら問題ないが、併せて左右に大きく動く捕手もおり、この際には私のシューズと選手のスパイクが接触するのである。
機会があれば、私のシューズをご覧頂きたい。シューズの先は傷だらけである。
これも、審判員の勲章なのかもしれない。
という邪念を抱きながらジャッジをしていると、天罰が下るのが世の常か。痛烈なしっぺ返しを喰らった。誠に「冷や汗・脂汗」である。
左投手と左打者の対戦。走者一塁で捕手はアウトコース低めに身体を沈めて構える。ところが投手の投じたボールは、打者のインコース足許へ。身体を沈めていた捕手は反応できず、ミットに当たることもなくボールを後逸した。捕手が慌てて後ろを振り向くと、そこにボールがあった??。
その瞬間、私の脳天を突き抜ける衝撃が走った。「うっ!?」とうめいた私は、「ボール」のコールもそこそこにうずくまった。
投手が投じたボールは、打者の足許でワンバウンドし、捕手のミットをかすめて私の股間に直撃したのである。捕手は、私の股間から落ちたボールを拾い、盗塁しようとした走者を牽制した。
そこまで見届けた私は「苦しい。痛い。吐き気がする」。立っていられず、膝を付いてしまった。周囲からの嘲笑が聞こえたが、笑い事ではない。そこに一塁コーチャーが近付いてきて、「冷却スプレー良いですか?」と聞いた瞬間は、漫才コンビであれば笑うところであるが、思わず「馬鹿野郎!!腰を叩け!」と言ってしまった。
審判を始めてから、初めてファウルカップが役に立った瞬間である。球審をやりだした当時、ベテラン審判員から「カップしているかい?」と聞かれ、何のことやら判らなかったのを思い出した。そのベテランは「絶対に危ないから、した方がいいぞ」と言って頂き、帰り道に野球用品店へ向かったのを覚えている。その時に購入したファウルカップが初めて活躍してくれたのである。
球審は、捕手と同様に股間にファウルカップ(バナナカップとも言う)を装着する。球審は大抵の場合、捕手の後ろに隠れる位置取りをするため、ボールが直撃するのはマスク(顔面)やレッグガード(スネ当て)が多い。プロテクターで胸部および腹部を防護しているが、プロテクターが活躍するのは鎖骨の防護が主である。意外と多いのが腕や手である。ここは防護していないため、いわゆる直撃である。指を開いていたりすると、ボールがかすめただけで骨折する可能性もある。今年も手の甲を直撃して、2週間ほど痛みが引かなかった。プロテクターにアームガードを装着できるタイプもあるが、半袖になる夏には向かない。結局、肉のついた箇所に当たるのを願うばかりである。
私の場合、足も危ない。出来るだけアウトコースを見ようと、スロットポジションで捕手に近づくために、捕手のスパイクと私の足が接触することがある。球審は、投手がプレートを踏んだ時点で「GET SET」し、概ね足許を決めてしまう。捕手がサインを出し、投手が投球モーションを起こした時点でタイミングを計って身を沈めるのだが、この時に後ろへ下がる捕手がいる。3人に1人の割合で、サインを出しているポジションから、後ろへ下がるのである。下がるだけなら問題ないが、併せて左右に大きく動く捕手もおり、この際には私のシューズと選手のスパイクが接触するのである。
機会があれば、私のシューズをご覧頂きたい。シューズの先は傷だらけである。
これも、審判員の勲章なのかもしれない。
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初!守備妨害
2007年6月15日最初からすべての事が出来る人はいないのは「審判」も同じであろう。最初は「GO-STOP-CALL」から始まり、「アウトとセーフ」「フェアとファウル」のコールの仕方から伝授される。走り方やカバーリングの基本、そしてクロックワイズメカニクスへと移行する。クロックワイズメカニクスを完全にマスターしようと、アンチョコを作成したりしながら試合に挑み、毎回思うように動けずに反省の日々が続くのである。公式戦で塁審を数試合経験し、ある日突然、球審へ抜擢される。それは責任審判の「気まぐれか」と思わせるほど、晴天の霹靂である。それから、ストライクゾーンの各種シンドロームに悩みだす。色々な人から、「判定が辛い」だの「低目が甘い」だの、挙句には「一貫性がない」と来たものだ。
しかし、最初に言われることは「判定が早い」が圧倒的であろう。「ストライク」「ボール」のコールが早い、つまり捕手が完全捕球をする前に判定を決めてコールしているのである。ひどい場合は「ホームベース上を通過する前」に判定内容を決めている人もいるぐらいである。とにかく、このコールのタイミングが難しい。私の場合は、習得するのに3年掛かった。と言っても、今でも「ファウルチップ」を「ストライク」とコールした後に、捕手が落球しているのを確認し、慌てて「ファウルボール・ファウルボール」と連呼する場合がある。恥ずかしい話である。
判定のタイミングは「トラッキング(目の動きでボールを追いかけること)」でボールを追い、捕手のミットが捕球するのを確認してから、ミットの位置とボールの軌道を結んで「ストライクORボール」を判定し、コールすると「ナイスタイミング」となるのである。
ストライクゾーンは、今でも毎回ぶれる。最近は高目が良くぶれる。インコースは良く見えるので心配していない。後はバッテリーとの呼吸が会うかどうかだけである。アウトコースは毎回多少ぶれるが、捕手の構え方や捕球の仕方、投球の勢いや切れなどが判定を決める重要な要素になる。同じようなコースに投げられた初回の球と、最終回の球では球威が違うのは当たり前である。ゆえに、初回に「ストライク」であった球筋が、最終回には「ボール」になることは茶飯事である。所詮「審判の目」も「人間の目」であり、だから野球なのだと自分に言い聞かせる日々である。
そんな日々を楽しく過ごしていると、先輩より「次のステップ」を言い渡されるのである。それが「妨害」や「不正」に対する処置である。ボークルールの基本概念に始まり、実地講習会や実際の試合などで指導を受ける。また、これは塁審の意識改革にもつながる。お陰で、私は塁審が再び面白くなってきた。試合への集中力が増したのである。妨害も色々あるが、捕手への守備妨害だけはコールできなかった。目の前で起きているプレイなのに、判断に苦しんでいた。つまり、その採択基準が判らなかったのである。何度もルールブックを読み返したがわからず、結局恥を忍んで同僚に聞いてみた。答えは簡単であった。
捕手の2塁への盗塁阻止の送球を打者が妨害する場合とは「打者が打者席からで場合」はノー文句で採用して良いのである。ただし、打者が空振りなどで体勢を崩して捕手の前に立ち塞がった時は、捕手の妨害にならないように努力する素振りを見せた場合は「採択を考える」ということである。また、「打者が打者席から出なくても、捕手の送球を妨害する素振りを見せた場合」もノー文句で採用する。先日も、打者席で捕手の送球動作に合わせて、捕手側の肩を前に突き出した打者がいた。全く持って酷い選手である。フェアプレイ精神のかけらもない。
昨日、初めて「捕手の2塁送球を妨害する打者」の守備妨害を宣告できた。
やっと出来たということと、慌てず、多少の間があっても大丈夫だということを学んだ。そして「勇気を持ってコールする」ことの重要性を感じた。
しかし、最初に言われることは「判定が早い」が圧倒的であろう。「ストライク」「ボール」のコールが早い、つまり捕手が完全捕球をする前に判定を決めてコールしているのである。ひどい場合は「ホームベース上を通過する前」に判定内容を決めている人もいるぐらいである。とにかく、このコールのタイミングが難しい。私の場合は、習得するのに3年掛かった。と言っても、今でも「ファウルチップ」を「ストライク」とコールした後に、捕手が落球しているのを確認し、慌てて「ファウルボール・ファウルボール」と連呼する場合がある。恥ずかしい話である。
判定のタイミングは「トラッキング(目の動きでボールを追いかけること)」でボールを追い、捕手のミットが捕球するのを確認してから、ミットの位置とボールの軌道を結んで「ストライクORボール」を判定し、コールすると「ナイスタイミング」となるのである。
ストライクゾーンは、今でも毎回ぶれる。最近は高目が良くぶれる。インコースは良く見えるので心配していない。後はバッテリーとの呼吸が会うかどうかだけである。アウトコースは毎回多少ぶれるが、捕手の構え方や捕球の仕方、投球の勢いや切れなどが判定を決める重要な要素になる。同じようなコースに投げられた初回の球と、最終回の球では球威が違うのは当たり前である。ゆえに、初回に「ストライク」であった球筋が、最終回には「ボール」になることは茶飯事である。所詮「審判の目」も「人間の目」であり、だから野球なのだと自分に言い聞かせる日々である。
そんな日々を楽しく過ごしていると、先輩より「次のステップ」を言い渡されるのである。それが「妨害」や「不正」に対する処置である。ボークルールの基本概念に始まり、実地講習会や実際の試合などで指導を受ける。また、これは塁審の意識改革にもつながる。お陰で、私は塁審が再び面白くなってきた。試合への集中力が増したのである。妨害も色々あるが、捕手への守備妨害だけはコールできなかった。目の前で起きているプレイなのに、判断に苦しんでいた。つまり、その採択基準が判らなかったのである。何度もルールブックを読み返したがわからず、結局恥を忍んで同僚に聞いてみた。答えは簡単であった。
捕手の2塁への盗塁阻止の送球を打者が妨害する場合とは「打者が打者席からで場合」はノー文句で採用して良いのである。ただし、打者が空振りなどで体勢を崩して捕手の前に立ち塞がった時は、捕手の妨害にならないように努力する素振りを見せた場合は「採択を考える」ということである。また、「打者が打者席から出なくても、捕手の送球を妨害する素振りを見せた場合」もノー文句で採用する。先日も、打者席で捕手の送球動作に合わせて、捕手側の肩を前に突き出した打者がいた。全く持って酷い選手である。フェアプレイ精神のかけらもない。
昨日、初めて「捕手の2塁送球を妨害する打者」の守備妨害を宣告できた。
やっと出来たということと、慌てず、多少の間があっても大丈夫だということを学んだ。そして「勇気を持ってコールする」ことの重要性を感じた。
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選手たちの興味
2007年6月12日選手たちから良くある質問は、「これはボークですか」と「これは妨害ですか」である。
「ボーク」の定義はルールブックにも書かれているが、その動作の程度の判断が難しい。例えば、牽制時の自由な足の踏み込み深さ。またセットポジション時の静止時間の長さとクイックピッチの区分。投手の行為のうち、何が遅延行為かなどなど。
プレートを踏んだ状態でボールを落とすような明確なボークは判りやすいが、大抵の動作の判断基準は難しく、その基準は審判員に一任されていると考えてよい。また、厄介なことに見る方向によっては見えないボークもある。
私の判断基準は「投手が走者を騙そうとしていると感じたら不正投球であり、ボークである」が基準である。例えば一塁審判員である私が「打者に投げるモーションだ」と感じた瞬間に牽制球が来た場合で、走者も逆を衝かれたような場合は「2人の目を騙すような投球モーション」と捉え「ボークと考えて良い」という判断基準にしている。ただし、「ボーク」を宣告するのはコールのタイミングの問題もあり非常に難しい。選手たちには、「牽制球で騙してアウトにしようなどと考えるな」と伝えている。
細かい動作の過ちを探し出し、粗を指摘し出したら試合は全然進まなくなるであろう。特に投手をやりだした頃より染み付いたような「ボーク癖」は、意識せずにやっているだけに直らない。例えば、手を口にやる行為やプレートを踏んで帽子を直す行為。これらは、ほとんど無意識である。だからこそ、低学年のうちに「ボーク」を指摘し、ショック療法で直すキッカケを作ってあげるのが効果的である。
「妨害」の定義もルールブックに書かれているが、これもボークルールと同様に「フェアプレイ精神に則り、最後まで正々堂々とプレイする」という選手宣誓の精神でいてくれれば問題はないはずである。先日、あるプロ野球の試合で監督の退場騒ぎにまで発展した妨害プレイは、妨害を宣告された選手の凡プレイである。この場面は、走者1塁で左打者が送りバントを試みたが一塁側へのファウルフライとなった。捕手がこれを捕球しようとした時に、バッタースボックスで打球の行方を見ていた打者と交錯し、打者の足が捕手の足に絡まり倒れ込んで、結局捕球できなかった。ここで球審は、本当は打者走者になっていなくてはならない「打者」に対して「守備妨害」を宣告した。これに逆行した、ルールを知らない某監督は、球審に暴言を吐き「Get-Out」となったのである。この抗議の内容は全く知らないが、ビデオを観る限り一点だけ球審にも落度はあった。結果は、守備妨害で問題ないと思うが、その妨害を見ていて判断した球審の位置と角度が悪かったように思う。つまり「見ていない」ように観えたのである。どんな名審判でも「見えないもの」は判定できない。もしかすると某監督の抗議は、「見ていないだろう」だったのかもしれない。それに対して「見ていた」と応え、「嘘つき野郎」と返され、「Get-Out」!!(これは想像)。
さてさて、バッタースボックスは何をするところであったか。それは打撃をするところ。打撃が終了した打者はどうするのであろう。速やかにバッタースボックスから出る、これが基本である。つまり、バントをした打者は、速やかにバッタースボックスから出て、打者走者となり一塁へ向かわなくてはならないのである。打者は送りバントを失敗してしまい、茫然自失で立ちすくんだのであろう。失敗をして居たたまれなくなった気持ちは判るが、本当に邪念がなかったは本人にしか判らない。如何なる時も「ルールの基本」を忘れてはいけない。
選手たちは何故、ボークや妨害に対する質問をしたがるのであろうか。
それは、プレイの根底に「ルールブックの隙間」を衝くプレイをしたがること、それが褒められ上手いと賞賛されることにあるように思う。
野球をスポーツへと進化させるためには、野球を始めた頃の純真な気持ちを思い出してもらいたい。バットに当たったら、打球の行方には目もくれず、一塁を目指して走っていた少年時代。
こんなプレイにも、ベーシックな「ルールの基本」がある。
「ボーク」の定義はルールブックにも書かれているが、その動作の程度の判断が難しい。例えば、牽制時の自由な足の踏み込み深さ。またセットポジション時の静止時間の長さとクイックピッチの区分。投手の行為のうち、何が遅延行為かなどなど。
プレートを踏んだ状態でボールを落とすような明確なボークは判りやすいが、大抵の動作の判断基準は難しく、その基準は審判員に一任されていると考えてよい。また、厄介なことに見る方向によっては見えないボークもある。
私の判断基準は「投手が走者を騙そうとしていると感じたら不正投球であり、ボークである」が基準である。例えば一塁審判員である私が「打者に投げるモーションだ」と感じた瞬間に牽制球が来た場合で、走者も逆を衝かれたような場合は「2人の目を騙すような投球モーション」と捉え「ボークと考えて良い」という判断基準にしている。ただし、「ボーク」を宣告するのはコールのタイミングの問題もあり非常に難しい。選手たちには、「牽制球で騙してアウトにしようなどと考えるな」と伝えている。
細かい動作の過ちを探し出し、粗を指摘し出したら試合は全然進まなくなるであろう。特に投手をやりだした頃より染み付いたような「ボーク癖」は、意識せずにやっているだけに直らない。例えば、手を口にやる行為やプレートを踏んで帽子を直す行為。これらは、ほとんど無意識である。だからこそ、低学年のうちに「ボーク」を指摘し、ショック療法で直すキッカケを作ってあげるのが効果的である。
「妨害」の定義もルールブックに書かれているが、これもボークルールと同様に「フェアプレイ精神に則り、最後まで正々堂々とプレイする」という選手宣誓の精神でいてくれれば問題はないはずである。先日、あるプロ野球の試合で監督の退場騒ぎにまで発展した妨害プレイは、妨害を宣告された選手の凡プレイである。この場面は、走者1塁で左打者が送りバントを試みたが一塁側へのファウルフライとなった。捕手がこれを捕球しようとした時に、バッタースボックスで打球の行方を見ていた打者と交錯し、打者の足が捕手の足に絡まり倒れ込んで、結局捕球できなかった。ここで球審は、本当は打者走者になっていなくてはならない「打者」に対して「守備妨害」を宣告した。これに逆行した、ルールを知らない某監督は、球審に暴言を吐き「Get-Out」となったのである。この抗議の内容は全く知らないが、ビデオを観る限り一点だけ球審にも落度はあった。結果は、守備妨害で問題ないと思うが、その妨害を見ていて判断した球審の位置と角度が悪かったように思う。つまり「見ていない」ように観えたのである。どんな名審判でも「見えないもの」は判定できない。もしかすると某監督の抗議は、「見ていないだろう」だったのかもしれない。それに対して「見ていた」と応え、「嘘つき野郎」と返され、「Get-Out」!!(これは想像)。
さてさて、バッタースボックスは何をするところであったか。それは打撃をするところ。打撃が終了した打者はどうするのであろう。速やかにバッタースボックスから出る、これが基本である。つまり、バントをした打者は、速やかにバッタースボックスから出て、打者走者となり一塁へ向かわなくてはならないのである。打者は送りバントを失敗してしまい、茫然自失で立ちすくんだのであろう。失敗をして居たたまれなくなった気持ちは判るが、本当に邪念がなかったは本人にしか判らない。如何なる時も「ルールの基本」を忘れてはいけない。
選手たちは何故、ボークや妨害に対する質問をしたがるのであろうか。
それは、プレイの根底に「ルールブックの隙間」を衝くプレイをしたがること、それが褒められ上手いと賞賛されることにあるように思う。
野球をスポーツへと進化させるためには、野球を始めた頃の純真な気持ちを思い出してもらいたい。バットに当たったら、打球の行方には目もくれず、一塁を目指して走っていた少年時代。
こんなプレイにも、ベーシックな「ルールの基本」がある。
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