GM会議

2007年11月7日
大リーグのGM(ゼネラルマネージャー)会議で、歴史的な決定がなされた。
野球の審判の判定に対して、「ビデオ判定」を採用する決議がなされたのである。ただし、本塁打の判定に限ってということではあるが、大リーグ機構の幹部は「我々はビデオ導入に向けて、最初の段階に入った」と意味深長なコメントを発表している。
ビデオ判定で審議されるのは、フェンス際やポールぎりぎりの際どい本塁打の判定に限られており、打球がポールのどちら側を通過したのか、ファンの妨害があったのか、フェンスのどの部分に当たったのか、などを審判員らが映像で確認することになるそうだ。
導入の予定は未定であり、これから詳細の部分を協議していく段階である。
このような流れを、どのように捉えればよいのであろうか。今年も、他の競技において「疑惑の判定」なるものがマスコミを賑わせた。女子レスリングの浜口京子選手の判定に関しては、ビデオによる確認を併用して判定することとなっている「合法的ルール」を無視して試合を終了させた上に、審判団の最高責任者が「誤審」を認めるという体たらくであった。あれは「誤審」という「高度なミステイク」ではなく、ルール適用を軽んじた「初歩的なケアレスミス」であり、議論の余地がない。
歴史的な決定事項ではあるが、これがどのような波紋を呼ぶかは予想ができないし、数年後の回顧録において必ずしも「革命的な良法であった」となっているかは甚だ疑問である。
決定したのが、経営者側のGM会議であることも気にかかる。大リーグ機構における審判団の地位が高いのは良く知られており、数年前には審判団のストライキで大リーグが開催されなかったこともあるぐらいである。完全に独立した権威であることから、本塁打に限定してはいるものの、自分たちの領分を侵されることを簡単に受け入れるとは考えにくいのだが。さてさて、どのような顛末となるやら、今後注目である。

日本でも際どいプレイがあるたびに、ビデオ判定の是非が話題になる。下手をすると、プロ野球OBまでもが声高らかに唱える始末である。本当に、それで野球は面白くなるのであろうか。コンマ何秒のプレイを、ハイテクを駆使したスローVTRで確認するために、イチイチプレイを停めることに、どのようなドラマが待っているというのであろうか。
野球の判定は、瞬時のプレイの「白黒」を判断し一喜一憂するところにスリリングな要素があるのである。灰色判定はありえないのである。必ず、白か黒なのである。よーく考えてもらいたい。

同点で迎えた最終回ウラ、二死三塁のケース。痛烈なゴロが一塁線に飛んだ。一塁手は横跳びでボールを停めたがジャックル。慌てて拾い、一塁のカバーに走ってきた投手にトスする。走者が早いか、カバーの投手が早いか。セーフであれば、三塁ランナーは本塁到達しているからサヨナラ勝ちであり、アウトであれば延長戦である。選手も観客も一塁塁審のジャッジに最大限に注目するであろう。そして、どちらのジャッジが下ったとしても大きな歓声が上がるのは間違いないのである。
こんな興奮高まるシーンで、「只今の判定は、ビデオにより確認いたしますので、暫くお待ち下さい」となってしまったら、どうであろうか。このような状態を「興醒め」と表現されるのであろう。
実は野球の判定では、このような白黒判定が随所にあり、下手をすると連続してくる場合もある。
私がビデオ導入反対論者である大きな理由のひとつは、「野球がエキサイティングでなくなり、非常に味気なく、つまらないスポーツになる」と考えているからである。

シニアで審判をやっていても、「セーフ」をコールすれば攻撃側の選手・父兄が大喜びをし、「アウト」をコールしたら守備側の選手・父兄から歓声が上がる。時には、反対側から汚い野次や罵声も飛んでくる。際どいプレイが連続してあり、それが自分たちにとって不利な判定が続いた場合など、恨みすら買うこともある。「あの審判のせいで負けた」という言葉が囁かれ、それが耳に届くことも稀ではない。
どうして「たかが野球」の勝敗に一喜一憂していることに感謝できないのであろうか。それほど、野球を楽しんでいるというのに。
「そんなに悔しかったら、一つ二つの誤審で負けるようなチーム作りをするな」と大声で叫びたい。そんなことで、野球の流れは変わらないはずなのだが・・・・・・。
是非とも「勝って驕らず、負けて潔く」という人間であってほしいものである。

名門の驕り

2007年11月5日
プロ野球の全日程が終了した。我が北海道日本ハムファイターズは、日本シリーズに敗れはしたものの、見事にペナントを連覇した。
よーく考えると、その凄さが判る。
今年と昨年のペナント1位は日ハムで、プレイオフを勝ち抜いたのも日ハム。一昨年はペナント1位がソフトバンクだったが、プレイオフはロッテが勝ち抜いた。その前のペナント1位もソフトバンクであったが、プレイオフは西武が勝ち抜いた。
では、セリーグはどうか。今年から始まったプレイオフ制度で、微笑んだのはペナント2位の中日であった。
つまり、プレイオフ制度になってから、ペナントを勝ち抜き、併せてプレイオフも勝ち抜いて日本シリーズに駒を進めたのは、我らが日本ハムファイターズのみである。
まして、ペナント連覇である。素晴らしい成績である。選手諸君はもちろん、ヒルマン監督を始め首脳陣、フロント、ファーム、裏方さん方々に最大限の賛辞を送りたい。

これと機を一にして、東京六大学も佳境となっていた。久々に早慶戦が盛り上がったように思われた。最後には、斉藤祐樹投手の15奪三振ショーまであり、非常に盛り上がったように思われたのは、その日まで。
実に、聞き捨てならないことが起きてしまった。
早大監督による審判批判である。
同じようなことが、今年の夏の甲子園大会でもあったのを記憶されているだろうか。
広島・広陵高校の監督が、自軍投手が投じた運命の一球の判定に対し、不服を言ったのである。確かに、終わってみれば「運命の一球」であろう。その次の投球で、逆転スリーランを打たれたのだから。
これぞ野球の醍醐味と思うのは、当事者でないからであろうが、当事者だからと言って審判の判定を批判して良いことはない。
飲んだ席で、愚痴りたいのであれば愚痴れば良いが、オフィシャルな場所で、マスコミに対して公然と不平を言うのは、「指導者」を辞めますと言っているのに等しい。
一体、学生野球の本懐はどこに行ってしまったのか。
雇われ監督だから、成績が悪ければ首になるのは仕方がないであろう。その成績とは、野球の成績であるのだから、その中には「審判の判定」も含まれるのであろう。
「審判の判定も野球のうち」と選手たちに説いているはずの監督の口から、公然と愚痴がこぼれてしまっては、こんな監督に指導を受けている選手・生徒が可哀相と思ってしまう。
名門校の監督であるから、さぞかしやカリスマ性も高いであろう。自分の指導力の不足の部分を、他人の仕業に擦り付けても、選手たちや生徒諸君は疑問にも思わないであろう。
そこには、明らかに驕りが見える。
早大監督などは、優勝を決めてから物申している。これを驕りと言わず、何とするか。
野球の世界であるから、色々なシガラミや思惑があるのは理解している。
しかし、それらもすべて「野球」というスポーツのエキスだと思わなければ、この国の野球は滅びるだけである。

ついつい興奮してしまったが、プロ野球は職業としてやっているが、学生野球はスポーツとしてやっているのである。
スポーツでは、勝ちもあれば、負けもある。それでいいではないか。
そこに、審判の??が含まれていて、何が悪いのであろうか。
早大監督も、広陵高校監督も、一度公式戦の審判員をやってみると良い。自分では完璧と思っても、万人がそうは思っていないものである。
ましてや、白黒どちらかを判定することがほとんどであるジャッジは、どちらかが喜び、どちらかがため息をつくのである。
つまり、試合に携わった人間全員が満足するジャッジは無いのである。

OB審判員の配置問題など、色々と問題はあるのであろうが、名門監督が、マスコミの前で愚痴る話ではないのではないかと、ニュースに触れて思った。

石ころ

2007年11月3日
手稲山にも「白い物」が舞い降りてしまった。あの「白い物」が無くなる季節が訪れるまで、審判活動も冬眠状態である。長いインターバルを利用して、ルールの勉強や今年の反省をすれば良いのであるが、なかなか難しい。審判技術は経験が一番と感じているだけに、実戦から離れることの危機感の方が強い気がする。
とは言え、オフシーズンになったのは現実であるから、この期間を有効活用することを考えようと思っている。シーズン中、気になっていたキーワードを中心に紹介していきたい。

「審判は石ころ」と同じと言われる。つまり審判に打球や送球が当たっても、地面にある「石ころ」に当たったのと同じで、プレイは継続するという意味であろう。
プレイヤーやベンチおよび観客は、毎試合起きているこの事象に気付かれていないことが多いと思われる。球審をやっていると、打球や投球が当たることが日常茶飯事である。打球は、球審に当たった時点で「ファウルボール」となり「ボールデッド」であるから、試合の流れとは関係なく進められるが、当たり所によっては実に痛い。球審はマスクやプロテクター・レガース・ファウルカップなどを装着し、かつ捕手の後ろに立つことから、大部分が保護されているように思い込んで立っているが、そのような打球に限って、何もつけていない箇所を直撃するものである。これには、球審の立ち位置との関係もある。以前にも書いたが、球審の立ち位置は「スロットル・ポジション」が主流になっている。「スロットル」とは「隙間」の意味であり、捕手と打者の間に立つことが基本となっている。つまり、打者のインコース側のホームベース端部が球審の身体の中心に来るように立つのである。これにより、一番判定の難しいアウトコース低目が見えるようになり、またインコースの際どい球筋が見えることで、極端なインコース攻めを抑制できると考えられている。投球の組立の基本である「インハイ・アウトロー」を正確にジャッジするために、良く見える位置に立つことが基本となる。ところが、日本のバッテリーの攻め方の常套手段である「困った時のアウトコース」というの手段が、捕手をアウトコース寄りに構えさせるため、球審の身体は「捕手に隠れる」どころか「投手から丸見え」状態となることがしばしばある。例え、防具を装着している箇所に当たっても、その衝撃は「当たったものでなければ分からない」ぐらいの強さと痛さである。
このようなことを書くと、「球審は痛そうだから」と敬遠する方が居られるかもしれないが、それは私の本意ではない。この「痛さ」と引き換えにしても、お釣が来るほど球審は面白いのである。球審の面白さを体験すると、この「痛さ」も許せるし、この「痛さ」が無いと物足りない気がしてくるものである。多少大袈裟ではあるが、この「痛さ」を許容するために、私はバッグに「湿布薬」を忍ばせている。

ファウルボールが球審に当たるケースは、その「痛み」さえ許容できれば試合展開には支障を及ぼさないが、問題となるのが「投球」である。一番多いケースは、投球がワンバウンドになるぐらい低く投じられた場合である。高校野球レベルの捕手ともなると、身体つきも大きく技術も高くなるため、そうそう後ろへ逸らすことはないが、シニアレベルでは文句を言いたくなるほど未熟な捕手もいる。低目にワンバウンドになるような投球をした投手の未熟さもあるが、大抵の捕手は「低目に投げろ」と指示をして低く構える傾向が強いにもかかわらず、ボールを後方へ逸らすのである。記録上は、ワンバウンドしていれば暴投(ワイルドピッチ)であり、そうでない場合は捕逸(パスボール)となるケースが多いが、捕手の後方にボールが行くことに変わりはなく、そこには球審がいるのである。捕手のミットや身体に触れてから後方に逸れる分には良いのだが、まったく触らずに直撃する場合がある。これも「痛い」が、打球の場合はファウルボールであったが、投球はインプレイである。走者がいれば、当然次塁を狙うであろう。捕手も慌ててボールを処理しようとする。球審に当たったために、捕手が走者の進塁を阻んだり、逆に逸らした方向が大きく変わり捕手が見失ったために大ダメージを受けたりと様々な結果が起こりえるのである。前者は攻撃側からしてみれば、捕手が逸らした瞬間に当然進塁できると考えるであろうし、後者は捕手が見失わなければ、余計な進塁をされなかったと考えるであろう。つまり「球審が妨害をした」と感じるであろう。
しかし、「審判は石ころ」である。
プレイヤーやダッグアウト、そして観客の「球審に当たって流れが変わった」という雰囲気に晒されながらも、毅然としていなくてはならない。実は、投球が当たって痛いにも拘らずである。
これも、人間がプレイし、人間がジャッジする「野球の一面」である。

真実と夢

2007年10月29日
ワールドシリーズもレッドソックスがロッキーズをスイープし、あっさりと終わってしまった。今年のワールドシリーズは、松坂・岡島コンビと松井稼の活躍で日本のメディア的には盛り上がったように感じているが、ディビジョンシリーズでのロッキーズによるミラクル劇がなければ、非常につまらない最終章になっていたように思う。確かに、ボストンは熱く燃えていたが、ヤンキースの情けなさも手伝い、波風の少ないアメリカンリーグであった。逆に、ナショナルリーグは終盤大いに盛り上がった。ワンデイプレイオフでの、ロッキーズの大逆転劇には感動した。その後のロッキーズは快進撃を続けたが、最後に息切れしたかのように失速した。これを勝ち抜けば、「今年の大リーグは面白かった」となるように感じていたが、最後はタレントの多さと、実力の差というか、年棒の差というか、それらが総合的に如実に現れた結果となった。実力通りと言えばそれまでで、そこにドラマ性がなかったのが残念でならない。
私は、松坂にも松井にも特別な感情はない。しかし、今回の場合は、屈辱的な辛酸を舐め、ようやく陽の当たる場所にたどり着いた松井稼がスポットライトを浴びた方がドラマ性は高かった。松坂は、確かに凄いとは思うが、彼のドラマのピークは高校三年夏の甲子園大会。準々決勝のPL高校との壮絶な延長戦。準決勝では先発できず明徳義塾高校に大差をつけられた後、テーピングを自ら外し投球練習を開始する。それを見て、他の選手が奮い立ち大逆転勝利を収めた。そして京都成章との決勝戦では、なんとノーヒットノーランをやってしまうのである。
昨年、駒大苫小牧の田中将大投手と早稲田実業の斉藤祐樹投手の2日間に亘る死闘が記憶に新しいが、ドラマ性では松坂の3年夏には敵わない。
その後、プロに入ってからの活躍は、それなりではあるが、あのときのインパクトが強過ぎて、イマイチ感動が薄いように感じている。もっと、手の届かない夢のような選手になって欲しかったのであるが・・・。
現代は、マスコミが選手の私生活まで丸裸にしてしまうので、選手個人に夢を抱こうにも、現実が見えすぎてしまい、人間臭さが匂ってきてしまう。ファン心理としては、どんなことも知りたいと思うのであろうが、自分の憧れのアイドルの汚れた姿は想像したくないであろう(例えば、トイレに入っている姿・失礼)。
私たちが子供の頃は、長嶋茂雄や王貞治が夢を与えてくれた。情報量が少ない中から、自分たちの偶像を作り上げ、それにあこがれていたのである。
今の松坂大輔投手を見ていると、大リーグにおいて「確信」を得ていないように感じている。彼が、ノックアウトを喰らって、ロッカールームで空ろな目をして佇んでいる姿など想像もしたくなかった。それらを、ファンに伝えることが、本当にマスコミの使命なのであろうか。
最近のマスコミには、夢を語れる人材が不足しているのであろう。マスコミは「真実を伝えることが使命だ」と言っても、その事象をレポートまとめ報告するには個人差が出るのは当然である。そこには多少なりとも脚色が入る。それが真実であるのであれば、わずかにでも「夢」のスパイスを効かしたニュースを聞きたいものである。
特に、野球を含めたスポーツニュースにおいては、そう思う。ちなみに、「亀田事件」はマスコミと業界・ジムなど、大人の打算が見えすぎたので、コメントしない。

我北海道日本ハムファイターズと中日ドラゴンズによる日本シリーズは、舞台を名古屋に移して第三戦に突入である。
熱戦の楽しい部分のみを、ポジティブに伝えてくれるマスコミがあっても良い様に思うのだが。
「真実」を「夢」のように伝えるマスコミがあっても良い様に思うのだが、如何であろうか。

激突

2007年10月20日コメント (2)
ボールゲームは「接触」という観点から見ると、大きく二分できる。サッカー・ラグビー・アメリカンフットボール・バスケットボールやアイスホッケーなどのように激しいコンタクトプレイが随所に見られる競技と、バレーボール・テニス・卓球・バトミントンなどのように「接触」自体が全くない競技とに分けられる。
コンタクトプレイがある競技は、ひとつフィールド内に所定のプレイヤーが、競技ルールに基づいて縦横無尽に動き回ることが特徴的である。接触プレイが随所にあるため、当然妨害行為などの不正プレイも多く、それに対してはるペナルティが科せられる。サッカーは警告(イエローカード)と退場(レッドカード)が個人に科される。バスケットボールは5ファウルで退場となり、アイスホッケーやラグビーなどは退場時間が決められている。いずれも、妨害プレイや粗暴なプレイに対するものであり、技術的な反則(サッカーのオフサイドなど)とは明確に区分して厳しい罰則が科せられることとなる。場合によっては、そのゲームのみならず、以降の出場にまで及ぶ重いペナルティとなる場合も少なくない。
一方、接触のない競技はネットなどでフィールドが明確に区分されており、自チームのサイドのみでプレイすることが特徴となっている。接触がないことから、ラフプレイも少なく、反則のほとんどがテクニカルなものとなっている。当然、スポーツマンシップに反する行為には厳罰が下る。その際たるものが、審判員に対する暴行・暴言などであろう。判定に対して不満を露にした挙句、審判員に食って掛かるプレイヤーや指導者に対しては、毅然たる態度で臨んでもらいたいと思っている。野球に限らず、他のスポーツでも審判員の地位の危うさが嘆かわしくなるシーンを目にするのは辛いものである。

いずれの競技も、フィールド内には同じ人数のプレイヤーで競技がスタートする。当たり前のように聞こえるが、野球に当てはめて考えると、その異質性に気付かれるであろう。
野球の場合、他のボールゲームに見られるようなゴールがない。また、攻守交替により選手が入れ替わることから、フィールド内には同人数のプレイヤーが常に居るわけではない。攻撃時と守備時でポジショニングが大きく変化するのである。
ある意味で可笑しなスポーツであり、良くぞ考え付いたと感心するばかりである。このプレイスタイルやルールの難しさが、野球の世界的な普及を阻んでいるのであろうが、野球を理解するとその奥深さに惹きつけられるのは間違いない。

では「接触」という観点から見た場合、野球はどちらに含まれるであろう。
野球はフィールドを区切ってなく、守備側と攻撃側のポジショニングが入り組んでいる。
投手は投手板を含むマウンドに立ち、バッタースボックスに立つことを義務付けられた打者に向かう。それぞれの塁には、その塁の名のついた野手がいるにはいるが、必ずしも「その塁」だけを守らなければならない訳ではない。それらの野手の目の前を走者が走り去る。走者は塁間を結ぶ架空の幅の走路を走らなければならない。野手は、守備の必要があれば走路に入ることを許されている。「ダイヤモンド」と呼ばれるフィールドのどこに打球を打っても良いし、守備側の選手はフィールド内の全てのボールに守備機会がある。
ひとつのボールを奪い合うゲームではないのでサッカーなどに比べればコンタクトプレイは少ないが、攻守が入り組んだ状態となっているため「接触」はある。
野球のゲーム構成上は、「接触」プレイは想定していない。投手は打者にボールを投げ、打者がそれを打ち返す。走者となったら、次塁を狙い、得点することに全力を傾注する。野手は打球を捕ったり、送球したりしてアウトカウントを稼ぐ。これらのプレイに「接触」は想定されていない。
しかし、実際には多くの妨害行為が行われている。事の大小や重要性、試合展開などにより「流してしまう」こともあるであろうが、色々な妨害行為がある。
「接触」をゲーム構成上想定せず、認知していない野球において、実際に接触プレイが起きた場合にはどう処理するべきであろう。
基本的には「接触」が起こった時点で、「妨害」が発生したことになる。どちらが不利益を被ったかによって裁定を下すようにルールブックには書かれているが、当然「どちらとも言えないケース」がある。それと、不可抗力もあるであろう。
しかし、「不可抗力」や「故意ではない」ということで、「接触」が何もなし「ナッシング」にはならない。いずれかを判定しなくてはならないのである。攻撃側のインターフェアランスか、守備側のインターフェアランスかをである。

次の実例を、皆様ならどう判定されるであろうか。
『二死一三塁、セカンドゴロ。二塁手が前進し捕球しようとしたが、前方へ小さく弾いた。そのボールを手で掴もうとした所へ、一塁走者が走りこみ二塁手と激突した。二塁手は倒れ込み打球を処理しきれずにいたが、一塁走者は二塁へ、打者走者は一塁を駆け抜けた。当然、三塁走者はホームインした』。

さて、裁定や如何に。
接触プレイには波乱が含まれており、意外と多いことを肝に銘じていないと、実際に自分が当事者となった場合、裁定を下せなくなってしまう。「接触」は「妨害」であり、どちらかにペナルティが科されるのである。

秋深く

2007年10月14日
先日の円山球場の試合にて、今年のシニアの公式戦も終了した。春から全326試合が終了した。毎年春と秋のリーグ戦では、決勝トーナメント進出を賭けたプレイオフが実施されており、今年も9試合が行われた。特に秋の新人戦では、5チームが同率で並んだリーグがあり、大混戦の中のワンデイ・プレイオフとなった。勝ち上がったチームは、結局3日で6試合というハードな日程となり、ある意味選手達には気の毒な状態であった。北海道の場合は、半年がオフシーズンとなるために、試合日程が立て込む秋季大会は必ずこのような状態となる。選手層の厚いチーム、特に投手の頭数が揃っているチームが有利となるのは、致し方ないことなのであろう。出来るだけ、両チームともベストの状態で戦わせたいものであるが、秋が深まりオフシーズンが見え隠れするため、大会運営と選手達の育成との難しさが垣間見える。
シニアの選手達にとって、一番近い目標は人様々とは思うが、高校野球で活躍し、甲子園を目指すことを掲げている子供達は多いであろう。しかし、チームが勝ち進み、中学とはいえ全国大会が見え出すと、子供達はもちろんのこと、指導者や父母の方々などの加熱振りが目立ちだす。
成長期の真っ盛りにある中学生は、子供から大人の身体への変革期にあり、心身ともにアンバランスとなる事が多々ある。このような状態で、疲れや痛みを封印して無理をすることが、大きな障害につながる事は認識されて久しいはずである。
大好きな野球で、障害を背負い、結局は夢を捨てざる得ない状態となってまで勝負に拘る事が尊い事とは言えないであろう。無理をしたからといって、必ずしも障害が出るとは言えないが、可能性がかなり高い事は間違いない。
どれだけ理に適った投球フォームの投手でも、オーバーユースが障害に繋がるのは知られているが、どれだけの投手が完璧な投球フォームを会得しているかは疑問の残る所である。
私がリトルリーグに関わっていた時代には、投手の連投を制限していた。これは、単に子供達を障害から守る為の予防処置である。障害を負ってから、それに対する対処療法で子供達を守れるのであれば、このような予防処置は施さないであろう。
シニアの選手達は中学生ではあるが、身長130?の子供もいれば180?の選手もいる。体重などは80kg以上ある立派な体格の選手がいると思えば、なんと40kgにも満たない子供も居る。正に倍半分である。高校生ともなると大きな体格差や体力差はなくなってくるが、中学生はまだまだ子供である。
秋深まる中、子供達の大好きな野球の夢を奪わないために、我々大人に何が出来るのかを考えてみたいものである。

クルー

2007年10月10日
今年の公式戦も、あと1日となった。最終日は各チームの審判長を始めとしてオールキャストが出揃うことから、出番があるかどうかは判らない。ということは、公式戦もあと1試合でも出番があればいい方か。
今年前半は、高校のオープン戦を中心に活動していたため、シニアの公式戦へはなかなか出向けなかった。夏以降はシニアの公式戦・練習試合を精力的に消化したため、結果としては昨年と同じ回数の参加とはなった。

高校のオープン戦を手伝うということは、当然のように球審を務めることが多くなるため、球審の出場機会は圧倒的に増えたが、一球・一球のジャッジから塁審のカバーリングなど役割が多い重要なポジションゆえに、なかなか技術の向上を自覚できないでいた。ひとつのことがクリアされたと思ったら、他の部分がないがしろになるなど技術の取得は一進一退である。結果として、相対的には技術の向上が図れたように感じてはいるが、ジャッジのブレや判定しきれないプレイなどがまだまだある。技術取得のステップというか、壁のようなものがあるのは確かである。どうしても判定しきれず、苦しみもがくのである。

技術の取得の早道は、間違うことであるように思う。ただし、選手たちは精一杯やっているから、あからさまに間違うわけにはいかない。要は、間違いを恐れずに動いてみることであろう。その動きでジャッジをするのに不都合を感じることができれば、技術的成長が叶うこととなるのである。
私が、今までに感じた壁は色々ある。次回から、思い出したものを列挙してみようと考えている。
同じような「壁」を感じている方にとって、一助になれば幸いである。

最近は、シニアにも新しい方々が審判員として参加されるようになったことから、私のように5年もいる人間は「ベテラン」と呼ばれる。これが曲者で、「ベテラン=上級者」とは言い難い。本当の意味でのベテラン審判員は沢山いる。私にとっては「師匠」であり「大先輩」であり「先生」で方々は、確かに「ベテラン審判員」であるが、私のような父兄審判上がりは、単なる「古株」なのであろう。昔から「古株」は煙たがられるのが世の常であり、出過ぎず退き過ぎずのポジショニングが必要なのであろう。

昨日、そんな「古株」と「ベテラン」によりクルーを組んだ。久し振りの方もいれば、最近よく一緒になる方もいた。「ベテラン」は当然のように、素晴らしい動きを見せた。これに対抗するように、「古株」も頑張った。
全体が流れるようにフォーメーションが動き、ポジショニング、カバーリングなど随所に満足できた試合であった。そのように動くと、試合も活気付くもので、なかなか緊迫した好ゲームとなった。
こんなことを感じることができるようになったのも、「古株ゆえであるなぁ」と改めて思うのである。

動きの基本はあるのだが、その日のクルーの中での決め事は、試合直前のミーティングで話し合われる。最初の内は、その内容は理解できるのだが、グラウンドに出て出来ないことが多かった。「古株」を意識するようになったころから、自然とできるようになるものである。
要は「経験」が物を言うのである。
それが分かったことが、5年間で身につけた一番の技術なのかもしれない。
今年の秋季大会新人戦も終盤を迎えた。大会は秋の天気の気まぐれに振り回されたが、大会役員や各球団の協力の下、いよいよ決勝トーナメントまで漕ぎ着けた。しかし、決勝トーナメント進出チームが1チーム決まっていない。なんと、稀に見る混戦のブロックで5チームが同率で並んでしまったのである。
決勝トーナメントへの代表を決めるためにプレイオフとなり、日程は大幅に変更となった。審判部も当然振り回されたが、最も過酷だったのは選手達であろう。1日で最大3試合、少なくとも2試合を消化しなくてはブロック代表権が得られないのである。前日も試合を消化しているチームもあり、三連休最終日からは決勝トーナメントも始まることから、三日間で5試合を消化するチームが出てきかねない状況である。
確かに北海道の場合は、もう一月もすると初雪の便りが届くことから、日程が厳しくなるのは理解できる。また、折角プレイオフに持ち込み、決勝トーナメントに進出する可能性がでてきたのであれば、諦めきれないのも理解できる。春季全国大会の出場権を争う大会でもあるため、夏の大会並みに力が入るのである。
しかし秋季大会が始まった当初は各チームとも戦術や戦力が安定せず、選手達も3年生がいなくなったことへの不安や「自分が出場できるかも」という期待もあり、全体として手探り状態の試合内容が多かった。どのチームも他チームとの力関係が分からず、まして自チームの実力も把握していないのが実情であろうから、試合内容もどことなく不安定さを感じる事が多かった。例年、実力上位と考えられていたチームがいきなり連敗したり、全くの無印チームが破竹の連勝を繰り広げたりという展開であった。
そんな状況下で行われたワンデイプレイオフは、変則トーナメントで実施された。大会役員の尽力もあり、2球場で4試合(1回戦1試合、2回戦2試合、代表決定戦)を実施することとなり、私の番割りは代表決定戦の球審である。
いきなり緊張感が走った。第三試合まで、セルフコントロールをして過ごす事にした。緊張感を和らげる事を考え、かつ集中力を高めることに腐心した。
大先輩の審判員よりルールに関するイロハやケーススタディなどを伺いながら緊張感を和らげ、1回戦・2回戦を観戦しながら集中力を高める事となった。

代表決定戦は1点を争う好ゲームであり、私の担当した試合の中で今年のベストゲームに為り得る内容であった。私自身も集中力の高さを実感でき、動きも切れがあることが自覚できた。前日は身体が重く、自慢の発声も「声が裏返る」状態であったことを考えると、非常に良いコンディションであった。
選手達も「大切な試合」ということで集中力が高い。ただ、そのプレッシャーに飲まれているように感じた選手が数名いたことは確かである。
それにしても、両投手の小気味の良い投球に乗せられたのは確かである。私のジャッジの出来不出来は、投手のテンポやコントロール、球の切れなどに左右されることがままある。まだまだ未熟である。

メンバー交換時に立会い、両チームのキャプテンに対して「良い試合になるよう、私も精一杯やる」と宣言したことはクリアできたかなと自負している。
試合開始の挨拶の際、両軍選手に対して「全力プレイを期待します」と言った事に対して、選手達は応えてくれた、素晴らしい試合であった。

ただ、そんな気分を台無しにしてしまった、「ある一言」を除いては。

試合の結末は、サヨナラゲームであった。
先攻チームが勝ち越しチャンスを逃した直後の7回裏。先頭打者が出塁し、後続の送りバントと内野ゴロで二死三塁。ここで4番は四球を選び、すぐに盗塁し二死二三塁の場面と変わった。ここで、5番打者は追い込まれてから一二塁間へ強烈なゴロを打ったが、一塁手が回り込んで打球を止めた。しかし、わずかにお手玉したため、慌てて拾い一塁ベースへミットを伸ばす。打者走者も必死に走り、一塁ベースへ滑り込んだ。
一瞬、間があり一塁塁審の手が広がった。「セーフ」である。その瞬間、死闘に決着がついた。

両軍選手が整列し、「ナイスゲーム」と声を掛け、「ゲームセット」を宣告した。

あのプレイは、攻撃側のチーム関係者から見れば「セーフ」は当然であろう。逆に、守備側のチーム関係者から見れば「アウト」にしか見えないであろう。
では、審判から見たらどうであったのであろうか。答えは簡単明瞭である。あの時、一番判定にふさわしいポジションに居た審判員の答えが「セーフ」であるのだから、それは間違いなくセーフである。そして、それが野球のジャッジである。
野球は審判がジャッジするゲームであり、両チームの関係者が身勝手に是非を判定するゲームではない。ましてビデオ映像で判定するゲームでもない。
あのジャッジに対して、異を唱えるのであれば、頭を冷やしてから直接来て頂きたい。
私に対して「ある一言」を捨て台詞として吐いた指導者の方は、きっと分かってくださると信じている。
野球の判定の「アウト・セーフ」「ストライク・ボール」「ファウル・フェア」は、二つにひとつであり、一端下された判定は覆らないと言う事を、再度確認して頂きたい。また、試合のプレーヤーや指導者が判定した場合は「自分に不利な判定を自ら下す事はない」という事を、自覚して頂きたいものである。

折角のベストゲームが、「ベストゲーム候補」に格下げになってしまった一言であった。非常に残念である。

用具点検

2007年10月6日
試合前のシートノック終了後は、審判により用具点検が行われる。主な点検項目は、バット、ヘルメット、グラブ、捕手のカップである。

バットは金属疲労による「ひび」などがないか、グリップテープが剥がれていないか、そして規格外のものはないかなどである。中学シニアでは使用できないメーカー(海外メーカーには注意)があるようなので、購入の際には注意が必要であろう。グリップテープが損傷していたり、エンドテープが剥がれていたりは結構見られることであり、あまりにも著しい場合は使用を許可しないこともある。
最も注意を要するのが金属疲労による損傷である。金属バットは永久に使用できるものではない。当然「賞味期限」がある。バットのメーカー・材質・種類により異なるが、概ね「1万回〜2万回」の打撃にしか耐えられない。よくバットのマークが磨り減ったように消えかかっているバットを見かけるが、あのようなバットは間違いなく「賞味期限」を越えていると思われる。去年よりも身体も大きくなりパワーもついたはずなのに、全然打球が飛ばないと感じたらチェックが必要であろう。一日100回のティと50回のフリー打撃をした場合、土日の練習だけで一ヶ月1200〜1500回使用する。と考えると、10ヶ月〜1年程度が目安なのであろう。1本のバットを何人もの選手で使用した場合は、数ヶ月で「賞味期限」が過ぎてしまうのである。
私の息子が、初めて中学硬式の金属バットを行きつけの野球用品店で購入した際に、そこの店主に「バットやグラブなどの道具は、他人に貸すものではないよ」と言われたことを思い出した。「道具は大事にしろ」と共に、道具には「賞味期限」があることを認識したものである。

グラブについては、グラブの色や形など様々な規定があるが、試合前の点検で注意を促すのは「綴じ紐」の長さである。プロ野球選手などが、綴じ紐の余分な部分を切らずにダラっと伸ばしている場合がある。中学シニアは硬式野球と言えども、所詮少年野球の延長線上にある。格好がいいと真似する気持ちも分からなくもないが、野手がタッグにいった際に、紐が勢い良く走者の目に当たる場合などが考えられるため、長い紐は短く結び直すか切るように指導している。

ヘルメットについては、頭部を保護する重要な用具である。ひびが入っていないか、耳当てのインナーは装着されているかなどを見る。最近のヘルメットは丈夫になっているのだと思われるが、何度かボールが当っているものなどは点検が必要であろう。今日も、試合前のノックをしていた指導者の頭部に送球が直撃し、救急車で運ばれた。大事には至らなかったが、とにかく頭部は危険である。
野球にデッドボールはつき物であるが、頭部は頂けない。私は、頭部に死球が当った場合は、「臨時代走」をお願いする事にしている。例えそれが「かすった程度」であったとしても「臨時代走」をお願いする。頭部への死球を投げてしまうようなコントロールしかない選手は「投手」とは言えないと思っている。また、最近は死球を避ける技術が低下しているように感じる。自分の身体なのに「身のこなし」が上手くないのである。野球ばかりではなく、他のスポーツを体験することも必要なのであろう。実際に、前転は何とかできたとしても、後転ができない子供達が増えているのである。

捕手のカップは重要である。もちろん、レギュラー捕手も控えの捕手も同様である。私は、彼等の股間を叩きカップを装着していることを確認している。子供たちの間からは笑いが起こるが、カップが活躍しないことが一番である。球審もカップを装着しており、私も今年2度ほどお世話になった。いずれも、投手の投球が直接当たったのだが、捕手の場合ファウルボールも直撃するので尋常な痛さではないだろう。少年野球などでは、ボールが当たった選手に対して、指導者や観客から「痛くない、痛くない、頑張れ」と声援が飛ぶが、自分が被害者でないから、そんなことが言えるのである。実際は悶絶するほど痛いはずである。
そんな痛い思いをしてまでも辞められないのが捕手というポジションと、球審という役割なのである。つまり、あの場所が野球を観る上でベストポジションということである。

球審をやり始めた当時、息子の打撃を特等席で観戦できる喜びを感じながら、ジャッジしていたことを思い出した。

その他の役割

2007年10月5日
試合の中での審判の役割は、それぞれのプレイのジャッジをすることと、ルールの適切な運用をすることである。その他に、用具の点検やグラウンド状態の確認、試合をスムーズに進行することなどがある。

中学シニアでは、メンバー交換の際や両チーム挨拶の際に、選手たちにいくつかのお願い事をしている。
まずは、必ず申し伝えることとして、試合中の「全力疾走」がある。攻守交替時はもちろん、凡退して一塁からダッグアウトまで帰る際などであるが、この行為は試合をスムーズに進行するためであり、強いては試合展開を活気あるものにするためでもある。中学シニアと高校野球の大きな違いは「技術・体力・精神力」は勿論ではあるが、野球への取組姿勢だと感じている。それが、メリハリのある「テキパキ」とした動きが出来るか否かであり、数年先には高校球児となる中学シニアの選手たちにとっては「予行演習」と考えてもらいたいものである。

野球の原点を見つめ直すと、その発祥のスタイルはのんびりとしたものであった。何も無い、広々とした空き地で、一日を費やしてボールゲームに興じていたのである。投手役の選手は、打者が要求したコースへ「打ち易い球」を投げ、そのコース以外に来た時を「ボール」としていた。なかなか打者の求めに応じられない場合は、「9ボール」で一塁が与えられるというルールであったようである。ファウルの定義もなく、バットに当たれば一塁へ走っていた。この「遊戯(ゲーム)」がスポーツへと変化していく際に、色々なルールが整理されていった。その根幹が「時間無制限」を残したままの「時間短縮」であったと思われる。それが「ストライクゾーン」や「ファウルゾーン」などになっていった。野球の試合をする目的は「相手より多くの得点を挙げ勝利すること」であり、それが「最後の打者を打ち取るまでは試合は終わらない」という魅力的なスリリングな場面を産み出すのである。しかし、それもテンポの良いメリハリのある試合内容の場合に感じることであり、最後の場面だけが楽しくても仕方の無いことであろう。

日本のプロ野球では、凡打を打った際に一塁へ全力疾走しないことが当たり前のようになっていた時代があった。下手に全力で走ろうものなら、文句を言われることもあったようである。巨人の長嶋前監督より「曲者」と称された元木大介選手がライト前に痛烈な安打を打った際に、右翼手が「ライトゴロ」を狙って一塁へ好返球をしたことがあった。それにプレイに対し元木選手は憤慨し、大声で怒鳴ったシーンがテレビ中継されたのを記憶している。その時は「なんて無礼な奴だ」と私も思ったが、今思えばその要因を作っていたのは全力疾走を怠った元木選手の走塁にあったのであり、日本のプロ野球における「悪しき不文律」が、そのような態度に表れたのだと思う。大リーグに多くの日本人選手が輩出されるようになり、多くの日本人が本場アメリカ野球に触れる機会が増えた現在では、全力疾走の「当たり前さ」が再認識され、ようやく世界基準に近付きつつある様に感じている。

走者が、打者のシングルヒットで一個の進塁しか許さないルールであった場合、野球はつまらないスポーツになるであろう。「野球盤」でも、もう少し気の効いたルールにできる。
「打者は走者になるために全力を尽くし、走者は得点をするために全力を尽くす」
これは古くから大リーグで引用されており、BASEBALLの戦術のルーツのような言葉である。
最近、日本ではこの言葉が攻撃側の基本となりつつあり、戦術の主流のひとつとなっている。
要は、基本中の基本が大事ということであろう。

攻守交替の際に、私が掛ける「さあ、行きましょう!」という号令に呼応してくれるチームや選手が増えたように感じている。嬉しいことである。

クラブチーム

2007年10月2日
日本の野球人口は、高校野球をピークに激減する。超先細りのピラミッド型である。裾野が広いと言えば、聞こえのいい話であるが、要は受け皿が足りないのが実情であろう。企業チームの撤退は、もはや時勢の流れであり、都市対抗野球などの社会人野球大会も存続の岐路にあるように感じている。
しかし、私のような野球経験の無い人間でさえも、野球の魅力に引き込まれるのであるから、高校野球経験者で夢を捨てられず、されど受け皿のない現状で、朝野球などに活路を見出そうとするのも理解できる。確かに、野球は楽しくなければならないのであるから、仲間たちと和気藹々とゴムボールと戯れるのも一興であろう。あくまでも、野球を「健康維持とレクレーションとして」と位置付ければ、これでも問題はないのである。
しかし、折角硬式野球を真剣にやっていた時代がある選手たちが、あっさりと軟式野球へ移行してしまうのは勿体ない気がしてならない。野球の原点を考えれば、当然のようにボールは革製、バットは木製となる。
実は、高校野球までは金属バットであるから、まだ本物の野球とは言えないのである。どんなレベルであれ、プレイヤーとして硬式野球に関わって、「生涯野球」を貫く選手が沢山出てきてもらうには、やはり受け皿の問題を解消することが先決となる。「好きなことなら、自分たちで立ち上げろ」と言うは易しである。野球は、特に硬式野球は経済的な援助や球場の確保など問題点が非常に多い。

我々が、小学生の時代には、どこで野球をやろうが文句は言われなかった。家の前で三角ベースをやり、隣近所の窓ガラスを何枚も割り、こっぴどく怒られたものである。しかし、それが元でご近所関係が怪しくなることは無かった。また、学校のグラウンドには、野球をやる子供たちで溢れかえっていたものである。
しかし、昨今は自分の学校のグラウンドでさえ締め出しを食う制度となっている。学校は地域の所有物という考えの下、グラウンドを一般開放という名目で子供たちを締め出しているのである。公園に至っては、かなり以前より「キャッチーボール禁止」の立て札が立っている。その立て札には「サッカーボールを蹴らないで」と併せて「ゴルフの練習禁止」まである。学校の施設や公園は、一体誰が、何の目的で使用するのであろうか。
このような状況下で野球を続けるには、まして硬式野球を続けるには、それなりの施設を持ったチームに所属しなくてはならないのである。中学硬式野球などは、裾野が広いようでいて間口は狭いのが現状なのである。このような状態であるから、高校野球というイベントを終えた多感な青年たちは、好きな野球を苦労をしてまで続けようという気持ちにならないのかもしれない。

近年、四国や新潟にプロリーグが誕生し、各方面でクラブチームが盛んに立ち上がっている。クラブチームを構成しているメンバーは様々のようであり、企業チームにいたメンバーなどが中心になっているチームから、高校や大学のOBを中心にしたチームなど種々雑多である。実際には経営の難しさや活動の維持運営の大変さなどが、黙っていても伝わってくるが、今後も受け皿としての役割を存分に発揮してもらいたいと切に願うばかりである。

私は、息子が軟式野球をやっていた時代に、「イチローと同じボールで野球がしたい」の一言で、リトルリーグへ移籍させた。とは言うものの、その時点ではリトルリーグがどのような運営をしているかとかは、全く知らずに飛び込んだ。結果に対しては、まったくと言って後悔していない。逆に、硬式ボールの魅力に引き込まれたのを鮮明に記憶している。そして、そこで審判という役割と出会うことができたのであるから、あの時の決断は間違っていなかったのである。

野次将軍

2007年9月30日
大リーグで審判員が暴言を吐き出場停止となった。審判員の出場停止処分は極めて珍しい。事の仔細は、当事者達が口をつぐんでいるため不明だが、あるプレイに対し抗議をした際に暴言を吐いたようである。被害者は抗議をした選手であり、なんと自軍の監督に制止された際に膝の靭帯を損傷したようである。大リーグの監督の役割のひとつが、選手の身代わりとなって退場覚悟で審判員に抗議をすることがある。この監督も、選手がペナルティを課せられてはチーム力ダウンとなるので、必死に制止に向かい、勢い余って選手に怪我を負わせてしまったのであろう。プレイオフ進出を争っているチームの主力選手だけに、監督も頭の痛いところであろう。
それにしても、どのような暴言を吐いたのであろうか。大リーグにおける審判員の地位の高さが仇になったような事件である。
それにしても言葉の力は恐ろしいことは、あの名選手・フランスのジダンが犯したワールドカップの「頭突き事件」を思い起こしても明らかである。「汚い言葉」を投げかけた選手も、その場では勝利に向い必死であり、日頃の紳士的な立ち振る舞いが信じられないような選手も多々いる。
シニアでも酷い野次が横行していた時期があったが、最近はかなり改善されてきた。昨年、あまりの酷さに大声で「野次は止めろ」と叫んだ事があった。私は声が100m先まで届く自信がある。その声で叫んだのであるから、当然球場中に響き渡った。その瞬間、球場中がシーンと静寂したのを克明に記憶している。しかし、あまりの大人気なさに反省もしたものである。
先日の試合でも、酷い野次があった。それも、控え選手であるから、おそらく一年生であろう。末恐ろしさと、この選手はどのような環境で育ち、どのような指導を受けているのであろうか、と考えさせられた。しかし、試合中であるから見過ごすわけにはいかない。昨年であれば、その場で叫んでいただろうが、「中学生相手に怒鳴った所で大人気ない」とグッとこらえ、攻守交替のインターバルにベンチへ向い指導者に対して柔らかに「野次が酷いので止めるように」と伝えてみた。
ひどく後悔した。
指導者の対応は、ベンチに踏ん反り返った姿勢を崩さずに内容を聞いた上で、子供達に向かい「こう言ってるぞ。分かったか」である。
こんな指導者だから、子供達が腐るのだ。こんな大人と付き合っていると、こんな大人しか見ていないと、碌な大人にならない。
審判であれ、指導者であれ、連盟役員であれ、子供達が野球を楽しむ事に対して汗を流しているのであり、その汗の価値はまったく変わるものではない。
審判員をやる以上は、チームの好き嫌いがあってはならないと考えているので、平素な対応を心掛けているが、そりの合わないチームはある。どうにも好きになれないチームは、確かにある。このチームの、この指導者の下では審判員はやりたくないと思うことは、確かにある。
少年野球から高校野球では、「子供たちのために」という合言葉で、多少の「わがまま」を許容してしまっていることがあるように感じている。それに携わる大人たちが、「子供達の野球」を守るという大義名分で、変な遠慮をしていることがあるように感じている。
イチローや松井、松坂などが大リーグで活躍したり、日本ハムや楽天などが野球後進地に根付くなどもあり、一時期サッカー人気に圧され気味であった野球人口が、ここ数年回復傾向と言われているが、少子化が進み、スポーツの多様化なども相まって、我々が少年時代と比べると野球人口が減少傾向にあることに変わりはない。
だからこそ、野球関係者はプレイヤーの原石である子供達を「大切に扱う」のではなく、「正しく扱う」ことを肝に銘じる必要があると考えて止まない。
私の審判員としての理念は「モラル・マナーを守れる選手が、ルールのある野球をやる資格がある」である。今後も、これを変えるつもりは毛頭ない。
相手を貶めるような「野次将軍」に成り下がった選手が不幸でならない。

カウンター

2007年9月25日
審判クルーの基本的な動き、メカニクスは「クロックワイズ」と呼ばれている。つまり、時計回りに審判員が動くということである。走者無し、または一塁の場合には、審判員はクロックワイズメカニクスにより動く。と言っても、外野に大きな飛球やトラブルになりそうな飛球が行った場合である。フェンス際の捕球や、バウンドしそうな中途半端な飛球の捕球、または数人が重なり合って捕球しそうな当たりに対して、審判員が判定に行くのである。
外野の判定に塁審が1人行ってしまうと、4つの塁を球審と2人の塁審で受け持つこととなる。これは物理的に不利であり、理不尽に感じてしまう。野球においてジャッジは重要であるにも関わらず、審判員はハンデを背負ってグラウンドに立っているのである。正に理不尽。

走者無しの場合は、レフト定位置からライトの定位置までの範囲を二塁塁審が受け持つ。そうなると、二塁ベースの担当者が居なくなる。一塁の触塁は、一番近くにいる一塁塁審に確認してもらおう。じゃあ、二塁ベースは誰が守ろうか。一塁塁審が走者と一緒に走るのも悪くは無い。学童の野球であれば、子供より速く走ることができる審判員も居るであろうが、中学生ともなると一試合は不可能である。
そこで「クロックワイズメカニクス」が効果を発する。走者は反時計回りに進塁して来るのであるから、三塁塁審が時計回りに進めば、それ程頑張って走らなくても、二塁ベース上での走者の触塁やタッグプレイに間に合うのではないか。これは、助かる。
打球が外野に飛び、二塁塁審が「GO OUT」と追ったならば、それに釣られるように三塁塁審が二塁ベースの内側へ走り込めば良いのである。
そして、がら空きになった三塁ベースには球審がカバーに走り、ランニング本塁打に備えて本塁には、走者の一塁触塁を確認してお役御免となった一塁塁審がカバーに来れば良いのである。

走者一塁の場合は、二塁塁審が内側にポジショニングを取るため、センター定位置よりライト側の打球が一塁塁審、レフト側が三塁塁審のテリトリーとなる。またまた、外野に飛球が行くと1人少ない状態となる。ましてや、今度は走者が二人である。
ここでも基本は「クロックワイズメカニクス」で動く。一塁塁審が外野へ行った場合は、一塁走者が二塁・三塁へと進塁するため、二塁および三塁塁審は動けない状態である。では、誰が打者走者の一塁触塁を確認するのか。これは球審の役割である。球審は内側に切れ込みながら、打者走者の一塁触塁を確認する。その後、他の塁審や走者の動きを確認しながら本塁でのプレイに備える。三塁塁審が外野へ行った場合は、非常に分かりやすい。一塁塁審は一塁、二塁塁審は二塁を守れば良い。空いた三塁には球審がカバーに向かい、本塁には一塁塁審が、となる。

触塁を確認する際のポーズには、「サラッと見る派」と「停まって確認派」が居るようである。
私は前者で確認していたが、どうにも「周囲への説得力」に欠けるように感じており、ある先輩より指摘されたのもあり、後者の確認ポーズをやってみようと考えている。
とは言え、走者が動き、野手も動き、送球も動く状態であるから、審判クルーの迅速な動きが必要となる。その中で、触塁・タッグプレイ・インターフェア・オブストラクション・タイムプレイなどの要素を判定しなくてはならない。基本的には「ボールから目を切るな」であるが、ボールの所在に気を取られ、「カットマンと同じライン」に入ってしまい、守備妨害状態となる場合も結構ある。引退したサッカーの中田英寿選手のように、瞬間的に周りの状況を確認し、動けるようになれば良いのであろうが、なかなか難しい。

走者が二・三塁に進んだ場合は、得点の可能性があることから基本的に球審は動かないため、二塁塁審がキーマンとなる。二塁塁審は基本的に、打球が右側に飛べば一二塁間内側へ動き、左側に飛べば三遊間内側へ移動する。その位置で二つの塁をカバーするのである。
二塁塁審が反時計回りに動くケースを「カウンター」と呼ぶ。走者が二塁にいるケースなどで、左側に打球が飛び、三塁塁審が追った場合、二塁塁審は二塁走者と共に「徒競走」状態となる。これに引きずられて、一塁塁審は一二塁間へ移動するのである。

二塁塁審の技術は、ある程度経験が必要となる。走者の走力や外野からの返球、中継からの返球など、ボールの動きを幾通りか想定していないと、その後のプレイに対応できない。勝手に「ここはバックホームだな」などと決め付けていると、初めから本塁を諦めて次走者に対するプレイを仕掛けてくる場合がある。このような場合は、色々想定していないと対応が出来ない。あくまで自然体で待つこととしているが、集中力を高めていないと虚を突かれる。

先日、私は一塁塁審を担当し、二塁塁審にはベテラン審判員。いつもクルーを和ませてくれるベテランである。細かい質問に対しても、丁寧に応えてくれる大先輩である。
走者1塁のケースで、左中間に飛球が行った。三塁塁審の動きを確認。「よし、打球を追ったな」と確認し、打者走者を待ち受け触塁を確認し、何気に二塁方向を見た。そこに居るはずの大先輩・二塁塁審が居ない。
大先輩は一塁走者が二塁を通過したのを確認し、「カウンター」で三塁へ向かったのだ。
「球審は!?」
本来は「クロックワイズ」で球審が三塁カバーに来なくては為らないのだが、来ていない。
「そういえば、今日の球審は経験が浅かったな」などと感慨に耽っている場合ではない。
私は大先輩の後を追うように、「カウンター」で走者より速く動き、二塁ベース内側にポジショニングした。
セオリー無視の無謀行為ではあるが、塁を空けなかったし、見事綺麗に「カウンター」が決まった。
球審をやっていると、神経が研ぎ澄まされているので色々な音が聞こえてくる。また、逆に聞こえなくてはならない音が聞こえないこともある。

先日の試合で、1点を争う好ゲームがあった。両者ともリーグ戦で負けが込んでいて勝利に飢えているために、色々な手段を使って勝利を目指してくる。勝利至上主義となっている場合、この「色々な手段」が、時に「汚い手」に変わることがある。
どのようなスポーツにも競技ごとにルールはあり、ある競技では許される事が、野球では許されない場合もある。また、プロ野球では許されることがアマチュア野球では許されない事もある。しかし、どのようなスポーツにも共通することもある。それが、「マナー」であり「モラル」であり、「スポーツマンシップ」なのであろう。
私は、スポーツは「楽しくなければならない」と考えている。プレイをしていて「楽しさ」を感じないのであれば、別の競技を行う事をお勧めする。この「楽しさ」の根幹をなすのが「スポーツマンシップ」であり、古い言葉では「正々堂々」となるのであろう。
しかし一方で、勝負をするからには「勝利」を目指すのもスポーツの目的の一つであろう。野球のルールブックには「試合では勝利を目指す」と明記されている。ゆえに、試合が始まれば「勝利至上主義」となるのもやむを得ないのは理解できる。
問題は「勝利至上主義」が「スポーツマンシップ」を凌駕してしまう事があることである。それは「スポーツマン精神の忘却」と言ってもいいのかもしれない。勝利のためなら「色々な手段」を、多少「汚い手」を使ってでも、と考えてしまうのも「人間」なのであろう。
それは唐突に訪れた。三塁側ベンチから、監督さんが球審である私に向ってきた。「抗議」になるようなプレイは起きていないはずである。「選手交替か?」と歩み寄ると、「三塁コーチャーが不正行為をしている」と「忠告」を受けた。「不正行為」は「コーチャーが球種を教えている」と言うのである。三塁コーチャーが打者に球種を伝えるためには、当然大声が必要となる。コーチャーが大声で叫べば、打者のそばにいる球審にも聞こえるはずである。
私には、全く聞こえていなかった。
球審の五感は、投手や打者の一挙手一投足に集中しているため、他の雑音を認識することは非常に難しい。これも、経験不足からくる「余裕のなさ」なのであろう。改めて、技量不足を痛感した。集中力は絶対に必要であるが、その配分感覚・バランス感覚が、これからの課題なのであろう。

結果として1点を争う好ゲームと思われる場合でも、その内容によっては、両軍ともに試合結果に対して満足する事ばかりではない。どちらかというと、両軍ベンチが不満を持って終わる場合の方が多いのかもしれない。その不満の矛先は、大抵の場合は審判員に向けられる。それが、試合終盤のジャッジに対してであれば、「あのプレイで流れが変わったな」などと思い当たる節もあるが、ゲーム序盤の「あの一球」などといわれても、誠に申し訳ないが、ほとんど記憶にない場合が多い。
確かにプレイしている選手にとっては、そのワンプレイの結果によりヒーローになったり、敗戦の戦犯になったりするのであるから、死活問題であろう。であるから、審判員も必死になってジャッジしようと心掛けている。心掛けてはいるが、迷う事は当然ある。迷ってでも「白黒」を瞬時に判断しなくてはならない場合がほとんどであり、「結論は明日連絡します」とはならないのである。
しかし「迷ったジャッジ」を、いちいち引きずっていては審判員などできない。いかに「リセット」して、次のプレイに備えるかを常に考えている。つまり「忘れる事」も技術である。実際には忘れる事はできないから、自己反省の材料として、これは家に持ち帰り検討事項とするようにしている。

それにしても、聞こえなくてはならない事が聞こえずに、どうでも良いような「罵詈雑言」は聞こえてしまうのには閉口する。どうして、選手達に対して「痛烈な批判」や「汚い言葉」を投げかけられるのか不思議である。「叱咤激励」も度が過ぎると「罵詈雑言」になってしまい、聞くに堪えない言葉も多い。
また、審判員の判定に対する「不満」も良く聞こえてくる。
ちなみに、私の感覚として「審判員はへそ曲がりが多い」と思っている。それは、実力の有無に関わらず「精一杯のジャッジをしている」という自負から来る事であろう。
そんな審判員に対し「不満」が聞こえてしまうことが、どう言う事なのかを理解した上で「罵詈雑言」を発して頂きたい。

最近、マリナーズのイチロー選手が審判団の中で評判を落としているらしい。そう言えば、最近やけに審判員のジャッジに対して不満を露にしている。日本では、それらの「不満」を表明することが、「ファイティングスピリッツ」と勘違いしている節もある。
審判を敵に回すと、イチロー選手の8年連続200本安打も黄色信号となるであろう。イチロー選手は、「内野安打」が非常に多い選手だと言う事を忘れてはいないと思うのだが。

遅延行為

2007年9月22日
今年の冬に大幅なルール改正があったことはご存知の通りである。野球規則自体は、過去20年近くほとんど改正されずに運用されてきた。その反動のように「Official Baseball Rules」は20数箇所にわたり改正され、33項目にわたる条項が加筆訂正された。
この改正の大きな柱となっているキーワードは「時間短縮」である。
我々が子供の頃、野球と並び国民を熱狂させたスポーツ(というより娯楽であろう)にプロレスがあった。ジャイアント馬場とアントニオ猪木が全盛期であった。金曜8時のゴールデンタイムにテレビ中継されていたため、その時間には大衆浴場から客がいなくなるとまで言われた事もあった。それより以前には、力道山という国民的英雄がテレビの普及と共に、戦後日本の象徴であった。
このプロレスでは、チャンピオンベルトを争うようなタイトルマッチになると「時間無制限一本勝負」などと紹介されていたが、テレビ中継の関係もあるのであろう、大体が30分程度で決着がついたものである。
野球はまさに「時間無制限」のゲームである。アメリカの四大スポーツといえば、ベースボールの他にアメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーであるが、ベースボール以外はタイムゲームである。アメリカンフットボールなどは、残り時間の駆け引きにより戦略・戦術が大きく左右される場面が多く、時間をコントロールすることも実力の一端である。
しかし野球は、時間制限がないことがスリリングな逆転劇などを産む要因となっている。最終回、何点勝っていようとも、何点ビハインドがあろうとも、最後の3アウトが宣告されるまで試合続行が可能な限りゲームが終わる事はない。それが、衝撃的な大逆転などを含むゲームを演出したりする。試合には流れがあり、一端流れを手放すと、どんなに点差を離していても、勝利さえも手放してしまう事はしばしばある。日本のプロ野球などでは、終電の時間に間に合わないとか、球場周辺の治安維持など、野球とは無関係の理由で決着をつけない「12回引き分け」という変則ルールを採用している。これ自体はBaseballの起源に相反するローカルルールであり、「箱庭野球」と言われる根源になっているのであろうが、日本国民としては「諸般の事情」を知るだけに納得せざる得ないのであろう。大リーグでは「決着がついたら日付が変わっていた」などと言う事が年に一度はあるし、諸般の事情を考慮して「サスペンデッドゲーム」というルールを活用して「後日続きをやろう」となる。今年もヤンキースが、当日予定していた試合の前に「先日の続きをやろう」となり、変則ダブルヘッダーを組んだ事があった。その際のチケットは、サスペンデッドを採用した試合の半券で、次の試合も観戦できるという粋な計らいまでやられた。アメリカらしいファンサービスである。日本のプロ野球も、このぐらい度量が広くならなければ、プロスポーツとして生き残っていけないかもしれない。
それにしても「時間無制限」で、のんびりと野球を楽しんでいるのは日本とアメリカぐらいのもので、サッカーに比べると、スポーツとしての認知度・普及度は著しく低い。ワールドベースボールクラッシクが、今後継続されるか否かは不明であるが、まずは野球を普及させるためには、「時間無制限」の問題を解決しなければならないことは周知の事となりつつある。
これをうけて、20数年改正されていなかった野球規則に大ナタを振るってまでも、「時間の概念」をルール化しようと考えたのであろう。
我々審判員も選手の交替時間の短縮を図るため、選手に「全力疾走」を促すことを率先して行っている。しかし、プレイヤーに「時間短縮」の意識と協力がなければ、単なる「口うるさい審判」になってしまう。
野球の戦術・戦略には「相手をだます」というものが、未だに蔓延しているようであり、選手達のプレイに染み付いてしまっている行為も多い。

ある試合で、投手が一塁へけん制球を投げた。
試合展開は、守備側が10点以上の大差をつけて勝利目前の状態。この回を抑えればコールドゲームというシチュエーションである。ゆえに、守備側は控えの選手が大挙してラストイニングのポジションについている。もちろん、投手の背番号も重たい。そんな選手達にとってはチャンスであり、大きな点差は関係なく精一杯のプレイをしようとする。この「精一杯のプレイ」が曲者であり、それまで選手が培ってきた技術を駆使して、ひとつのアウトを獲ろうとする。
そんな背景の下、四球で出してしまった一塁走者に向かい、左投手がけん制球を投げた。走者のリードは小さいにも拘らず、けん制球を投げた。それも「山なりのけん制球」を投げてしまった。
一塁塁審であった私は、点差を忘れて(実は重々分かっていたが・・・)、「That’s Balk!!」と叫んでいた。
野球規則のボークの項目には、以下のような記載されている。
【8.05】塁に走者がいるときは、次の場合はボークとなる。
(h)投手が不必要に試合を遅延させた場合。

「時間短縮」が叫ばれた今年のルール改正を考えると、遅延行為を見逃すわけにはいかない。
まあ、「試合展開を読め」という苦言は承知の上ではあるが、見逃す事ができない性分であるから、致し方ないと言う事である。

心掛け

2007年9月20日コメント (4)
公式戦で球審を任されるようになって4年目であるが、当たり前のことだが、初めから今の技術レベルであったわけではない。
私のような父兄上がりの審判員は、養成所などを経て審判員に成るわけではなく、せいぜい春先の審判員講習会を受講し、練習試合などを手伝っているうちに「公式戦」のお手伝いが出来るようになるのである。というよりも、やむにやまれずという理由が大半であろう。当時は、当該チームの球場にチーム審判員が最低一名張り付くのが不文律のようになっていた。それが、チームとしての義務であった。ゆえに、チーム審判員が少ない球団は、苦労するのである。

とは言え、公式戦デビュー当初は、塁審やSBOなどが主である。塁審も三塁塁審がほとんどであり、たまに一塁塁審が割り当てられたりした。
私の場合、この期間が約2年間であり、審判の動きにも、また審判員仲間にも慣れてきた頃に球審を任されるようになった。
最初のうちは、「ストライク・ボール」の判定で目一杯であり、今思えば「見落としのオンパレード」であったのであろう。視野は、相当狭かったと思われる。
私に、公式戦で初めての球審をやらせようと考えられた責任審判員の度量の広さに脱帽してしまう。
デビュー戦は誰しもが経験するものではあるが、そのタイミングが難しい。
そういう意味では、この新人戦は良い機会なのかもしれない。選手たちの技術も、チームワークも不安定な状態であるから、新人審判員のジャッジの不安定さも許されるように思ってしまう。もちろん、正確で安定したジャッジを目指すのであるが、「経験」がものを言う審判員というポジションは、初心者の不安定さは致し方ないように感じている。
この辺りは、選手はもちろん、指導者を始め保護者やその他観客の方々の寛大さにすがるより無い。
とは言うものの、事は勝負事である。自分に不利と思われるジャッジをされ、それがどちらにでも見えるようなプレイであった場合に、「熱くなるな」と言われても、怒り心頭になるのは理解できる気がする。

少しずつだが技術を身につけ、徐々にではあるが信頼を得つつあるように感じている。精一杯ジャッジする姿勢から、少しの遊び(余裕)を持ちながらジャッジする姿勢に移行するときが、いずれ来るように感じてはいる。
しかし球審の経験は、公式戦で未だ50試合に満たない。塁審を含めた公式戦の試合数も100試合に満たない経験しかないのである。まだまだ、色々な経験を積む必要があるであろう。
色々な経験とは、色々なレアケースに遭遇することであろう。最近、色々なレアケースに出会えるようになったのは、それらのレアケースが見えるようになってきたのだと考えている。試合全体、球場全体を鳥瞰するように客観視できて、初めて見えることもある。如何せん、判定は瞬間のことが多いのであるが、ある程度の読みと客観視が判定を助けてくれると思う。

久し振りに一塁塁審をやると、色々な動きが不安になる。お陰で、ハーフスイングのリクエストに「ノースイング」と応えるべきところを、「セーフ」と応えてしまった。恥ずかしかったが、二度目は「ノースイング」とコールできた。これは「読み」が浅かった。予測が中途半端だった。
もっと凄いのは、「オフ・ザ・バック」のコールを忘れてしまい、「ノータッグ」と訳の分からないコールをしていたことである。その後、ボールが本塁へ転送され、クロスプレイとなったために歓声が上がり、私のでたらめコールはかき消されたが、自分の情けなさに独りで「のり・つっこみ」状態であった。
やはり、経験なのであろう。
技術を手に入れるのには沢山の経験を積む必要があり、時間が掛かる。しかし、その技術を失うことは簡単である。経験できなくなれば、すぐに忘れることが出来る。逆に言えば、技術を磨くことが出来るほど経験を積む機会がないのであるから、必死に技術を維持していくよう努力しなくてはと肝に銘じた。
何事も「心掛け」だと思い直した「一塁塁審」であった。
8回ノーヒット・ノーランの記録が生まれた試合の序盤には、互いに訪れかけたチャンスを自らが潰している。
勝利チームは序盤の無死一塁のケースで、送りバントが打者の反則打球(打者の足がバッタースボックスから出た状態でバントした)となりチャンスが膨らまなかった。

一方敗戦チームの初回の攻撃では、先頭打者が空振り三振したが、スライダーの切れが良過ぎて捕手が確捕できず、前方へ弾く間に打者は三振振り逃げで一塁へ走った。捕手は慌てずにボールを拾い一塁へ送球したが、これが打者走者に当り一塁線のファウルゾーンへ転々。打者走者は、それを見て次塁をうかがう行動を起こそうとしたが、球審の「タイム!!」の声が響いた。
などと、劇画調に書いてみたが、この時の「球審」は私である。早い話、何を見てボールデッドとし、プレイを停めたのかである。先日の北海道日本ハムvs千葉ロッテの試合(9月15日紹介済み)であったようなことが起きたのである。

球審の仕事のひとつに、本塁一塁間の中間地点から描かれている「スリーフットレーン」を打者走者が走っているか、の確認作業がある。特に、投手〜捕手〜一塁手を結ぶ三角地帯で発生する守備機会には、いわゆる「ラインアウト」による「守備妨害(インターフェア)」が生じる。
これを判定するのは、一塁塁審ではなく球審である。一塁塁審のポジショニングの基本のひとつに「送球に対して直角に入る」がある。つまり、このケースでの一塁塁審のポジショニングは、捕手からの送球に対して直角であるから、一二塁間線上付近の内側に切り込んだ位置となる。この位置では、打者走者がスリーフットレーンを走った否かを判定しにくく、また送球に視線を獲られるため、走者の足の位置までは見ることが出来ないのである。
そこで、走者無しまたは走者一塁の場合の内野ゴロでは、球審が打者走者の後を追うように塁間中間地点付近まで駆けていくのである。
今回の場合は、捕手がボールを前方へ弾いたため、ボールを処理する捕手と打者走者の邪魔にならないよう、三塁側から回り込んで、走者と捕手をやり過ごし、いつもより少し大き目に内側へ入り走者を追った。
打者走者は右打者であるから、当初(中間地点の45フィートまで)はファウルラインの内側を走りがちになるが、スリーフットレーンが描かれた区間を走れば何事もないプレイとなるが、打者走者はそのままファウルラインの内側を走ったのである。
捕手の一塁送球は走者に当たり(当たったように見えたが、当たらなくても邪魔にはなった)、一塁手は捕球できずにファウルゾーンを転々とした。
ここで問題となるのは、捕手から一塁への送球ライン上に打者走者が被ってしまったことである。打者走者は「走ってはいけない場所を走ったために」送球の邪魔になってしまったのであるから、インターフェア(守備妨害)に値する行為となる。
これが三塁ゴロを捌いた三塁手の送球であれば、打者走者がファウルラインの内側を走ったとしても、三塁手の送球や一塁手の捕球の妨げにはならないことから、「インターフェア(守備妨害)とはならない」と解釈し、プレイを流すことができるのである。

以前、NHKの特番で、ある名門高校野球部の特集をやったことがあり、その番組の中で「三塁手のグラブのある方向へ走者が身体を寄せたために、送球が走者の背中に当たり、ファウルゾーンへボールが転々とする間にホームイン」という場面を「さすが名門高校。高等技術の走塁です」と絶賛し、規則委員会や審判連盟などの各方面から猛抗議を受けた話は有名である。

この逸話を耳にする限り、スリーフットレーン内を走っていても、グラブ側に身体を寄せるなど、故意に守備行為を妨げたと判断された場合には「インターフェア(守備妨害)」を適用しても良いということであろう。これは当事者である審判員の判断に拠るところが大きいが、「スポーツマンらしくないプレイ」は何らかの妨害と判断して良いという基準なのであろう。とは言え、抽象的であることに変わりはないが。

ところで、本塁一塁間のスリーフットレーンは、何故ファイルラインから外側にしかないのであろうか。他の塁間は塁線の両側にスリーフィートあるのに、本塁一塁間だけが半分しかない。
これは、一塁と本塁は駆け抜けられることと関係があると考えられる。つまり、ファウルラインの内側も走行を許し、打者走者が駆け抜けた場合に一塁手との激突が生じる可能性が高くなり、事故が多発することが考えられることから内側を走ることを禁じているのであろう。実際に、内野からの送球を捕球する際の一塁手は無防備状態であるから、この状態に打者走者が激突すると大怪我をするであろう。
昔、巨人の王貞治一塁手の足は「捕球より早く離れているのではないか」という疑惑を耳にしたことがある。実際にビデオ再生で見たらどうであったのであろうか。その真偽よりも、一塁上での激突により王選手が大怪我をした場合には、世界的な本塁打記録が生まれていたかは疑問である。

ソフトボールの一塁ベースが二つ並んでいる理由の一端が、危険防止なのかもしれない。
それにしても、ベースが二つあると一塁塁審は大変であろうと同情してしまう。
今年もシーズン大詰めとなってきた。つい先日までは、猛暑でジャッジも大変であったが、「暑さ寒さも彼岸まで」という格言のとおり、第一試合前には「上着は長袖?」などの会話が聞かれるようになってきた。
シニアの新人戦もリーグ戦の中盤に差し掛かり、熱戦・激戦が繰り広げられている。
最近、1点を争う試合が多い。新人戦になってから球審を5試合担当しているが、そのうち4戦までが1点差試合である。観戦している側は楽しいであろうが、中立の立場でいる審判員は大変である。ミスをしようものなら「あの判定で流れが変わった」と言われるのがオチである。どちらかに肩入れをした方が、よっぽどマシである。
昨日も両チーム無得点のまま7回を終え延長戦に突入した。両チームともに得点機はあったが、本塁が遠い試合であった。序盤から中盤に掛けては、両投手のテンポとリズムに乗せられた感があり、非常に心地よくジャッジしていた。小気味の良い投球テンポとコントロールに乗せられた。
こうなると、ついついインターバルの追い出しなども声が大きくなるのは、乗せられやすい性格なのであろう。これは、なかなか直せない性格なので、自分の「長所」と思うことにしている。
延長に突入してからは、どちらにも勝たせてあげたいという気持ちになってしまった。本当は、感情移入してはいけないのであろうが、これも性格であるから仕方がない。
決勝点は一死走者三塁から、四番にクリーンヒットが出たため均衡が破れた。最後は力勝負で決着がついてくれてホッとした。これが、ミスなどで決まってしまうと敗者が辛い。されど、それも野球なのであるが・・・。

走者三塁になった時には、「ボークなんかするなよ」とかたやで願いながらも、鋭く投球姿勢を見ている裏腹な自分がいた。それは、一緒にグラウンドに立っていた他のクルーも同様であったようだ。明らかな反則行為は見逃すわけにはいかない。試合内容がどうであれ、それとこれは別である。だから、願うことしかないのである。

スコアを付けているコーチや監督さんたちは、記録的な試合は気になるであろう。しかし審判員は目の前のジャッジに集中していることから、全然わからない状態にある。
球審をしていて気になるのは、選手のスパイクの紐がほどけていることや、ズボンのポケットから手袋が出ていることなどである。また、ボールは汚れていないか、ホームベースは綺麗になっているか、ファウルボールをボールボーイが処理したかなどである。
昨日も、捕手のスパイクの紐を指摘し、打者の手袋をポケットに押し込んでやった。
あとは、投手の投球モーションに合わせて、「GET SET」「LOOK」「CALL」を繰り返すのである。

終わってみれば「18奪三振」で「ノーヒット・ノーラン」のオマケ付きという記録的な試合であった。
野球の塁間の距離は90フィートある。
ちなみに本塁と一塁および三塁のベースは、「90フィートの正方形」の内側に位置する。つまり、ベースの角の部分が正方形の一角と合致するようにセットされている。ところが、二塁ベースだけは「ベースの中心」が「90フィートの正方形」の一角に合致していることから、一二塁間および二三塁間の距離はベース半分だけ長いこととなる。微妙なことのように思うが、走者のリードは様々であり、スタートも十人十色なので問題にもならない。アバウトな野球らしい決め事である。
もともとは、一塁と三塁ベースも正方形の一角に中心を合わせていたようであるが、ファウルラインに合致させなければ、塁上のフェア・ファウルの判定ができないことから、ファウルラインにベースの一辺を合わせたようである。また、二塁ベースを外側に設置しておいた方が走者が回りやすいという説もある。
後者の説はやや「眉唾」的であるが、正式なベースの配置はこのようになっている。

9月に入っても好調を維持し、「呪われた4番」というレッテルを打破しそうなニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス選手が、8月31日のボストン・レッドソックスとの直接対決で見せた迫力あるアピール(抗議)!?は、日本の球場と大リーグの球場の造りの違いが審判団に幸いした好事例であった。
レッドソックスのケビン・ヨーキリス選手が三塁ゴロで二塁から三塁を窺った際、打球を捕球した三塁手のアレックス・ロドリゲス選手は二塁走者にタッグにいったが、二塁走者は、そのタッグをかわすように内側へ膨らみながら走り、塁審のジャッジは「ノータッグ」で三塁セーフの判定。アレックス・ロドリゲス三塁手は、一塁へ送球し打者走者をアウトにしましたが、二塁走者がスリーフットラインを逸脱してタッチをかわしたと猛抗議し審判団が協議。ヤンキースのジョー・トーリ監督らが見守る中で審判団が下した結論は、セーフの判定を撤回してアウトとしました。この時の判定に、天然芝仕様の球場の特徴が大いに反映したようです。
大リーグでは、一時期全天候型ドーム球場と併せて人工芝仕様が全盛の時代があったが、硬い人工芝が選手生命を短縮するとの判断から、今では天然芝仕様の球場が大勢を占めるようになりました。天然芝の球場では、走路部分が刈り込んだ状態となっており、この刈り込む幅が塁間を結んだ「スリーフットレーン」となっています。
審判団の協議で重要な「証拠」となったのが、二塁走者がタッグをかわそうとした時に「芝の部分に足がかかった」という事実であり、スリーフットレーンからラインアウトしたと判断し走者をアウトとしたようです。
実際、石灰などで球場に描かれたスリーフットレーンは、本塁から一塁までの内、後半部分の半分のみですから、基準がない場合にスリーフットレーンから出ているか否かを判断するのは困難な事です。
アメリカ野球はストライクゾーンなどが極端にアウトコースに広く見える場合もあることなどから、「アメリカ野球はアバウト」のように思われがちですが、球場の作りなどにもルールの根幹が反映されており、そこにも歴史の違いを感じます。
四角四面で野球規則を適用しようとしているかのように見えて、自分有利に判定を促そうと抗議を繰り返す日本のプロ野球などは、今一度野球の原点を見つめ直す必要があるのでしょう。人工芝球場が選手生命を短縮することを言われて久しいにも関わらず、未だに根本から改善しようとしない経営者の姿勢には辟易としてしまいます。我北海道日本ハムファイターズには、競技者およびファン本位の球団であり続けてもらいたいと切に願うばかりです。

その日本ハムの「Mr.Fighters」こと田中幸雄選手が、先日の試合でスクイズバントを試み、成功したかに見えました。打球を処理したロッテ・成瀬投手は本塁を諦めて一塁へ送球しましたが、打者走者である田中選手の背中に当って、ボールはライト前へ転々とし、二塁走者も三塁を蹴って一気に本塁へ。
ところが田中選手は本塁・一塁間の後半に明示されている「スリーフットレーン」から逸脱して走っていたため、一塁手への守備が行われている際に、守備を妨害したとして送球が田中選手に当たった瞬間「ボールデッド」。この際に、成瀬投手が打球を処理した時点で三塁走者は本塁に達していましたが、「打者走者が一塁に達する前の妨害」により得点は認められませんでした。
この時の得点ボードは、最初に「2」が表示され、その後「1」に訂正。最後には得点なしとなりました。

ルールブックには、【2.44 インターフェアランス(妨害)】の語句説明の【原注】に明記されています。

2・44     INTERFERENCE 「インターフェアランス」(妨害)
(a)攻撃側の妨害 ― 攻撃側プレーヤーがプレイしようとする野手を妨げたり。さえぎったり、はばんだり、混乱させる行為である。
審判員が打者、打者走者または走者に妨害によるアウトを宣告した場合には、他のすべての走者は、妨害発生の瞬間にすでに占有していたと審判員が判断する塁まで戻らなければならない。ただし、本規則で別に規定した場合を除く。
【原注】 打者走者が一塁に到達しないうちに妨害が発生したときは、すべての走者は投手の投球当時占有していた塁に戻らなければならない。
【注】 右〔原注〕は、プレイが介在した後に妨害が発生した場合には適用しない。

6・05     打者は、次の場合、アウトになる。
(k) 一塁に対する守備が行なわれているとき、本塁一塁間の後半を走るにさいして、打者がスリーフットラインの外側(向かって右側)、またはファウルラインの内側(向かって左側)を走って、一塁への送球を捕えようとする野手の動作を妨げたと審判員が認めた場合。この際はボールデッドとなる。
ただし、打球を処理する野手を避けるために、スリーフットラインの外側(向かって右側)またはファウルラインの内側(向かって左側)を走ることはさしつかえない。
【原注】 スリーフットレーンを示すラインはそのレーンの一部であり、打者走者は両足をスリーフットレーンの中もしくはスリーフットレーンのライン上に置かなければならない。

日本では内野に芝が張り詰められた球場は希少であり、「芝の刈り込み」によるスリーフットレーンの基準はない場合がほとんどである。もちろん、我々がジャッジする球場は全て内野が「土」であり、スリーフットレーンは本塁・一塁間の後半にしか示されていない。
他の塁間でスリーフットレーンが問題となるのは挟撃プレイであるが、審判員の中では「野手の腕の長さ」を基準としている。つまり、野手が目一杯に腕を横に広げた場合、身体の中心からグラブの先までが概ね「スリーフィート(約90?)」であることから、塁間ライン上にいる野手がボールを持った腕を目一杯に伸ばした状態を走者がかわした場合には「スリーフットライン・オーバー(ラインアウト)」という判断基準にしている。
目に見えない基準により一瞬のプレイの判定をしなくてはならないのが「審判の目」である。

リクエスト

2007年9月13日
審判員の裁定には、「判定」と「適用」がある。
「判定」は、「ストライクorボール」、「アウトorセーフ」、「フェアorファウル」の判断を下すことである。
一方「適用」はプレイに対する野球規則の適用の是非である。
ルールブックには【9.02 審判員の裁定】の項目には、「判定」に対する「絶対性」と、「適用」に対する「柔軟性」が示されている。そしてそこには「抗議権」は存在せず、「規則適用に関する要請依頼」のみが監督に与えられているに過ぎない。

「判定」に対する「絶対性」「最終性」は、【9.02】(a)項に示されている。

【9.02 審判員の裁定】(a)打球がフェアかファウルか、投球がストライクかボールか、あるいは走者がアウトかセーフかという裁定に限らず、審判員の判断に基づく裁定は最終のものであるから、プレイヤー、監督、コーチ、または控えのプレイヤーが、その裁定に対して、異議を唱えることは許されない。
【原注】ボール、ストライクの判定について異議を唱えるためにプレイヤーが守備位置または塁を離れたり、監督またはコーチがベンチまたはコーチスボックスを離れることは許されない。もし、宣告に異議を唱えるために本塁に向ってスタートすれば、警告が発せられる。警告にも関わらず本塁に近付けば、試合から除かれる。

ここに示されているとおり、「審判員の判断に基づく裁定は最終のもの」であり、異議の余地はありえないものである。
これをプレイヤー側から観た場合は、例え理不尽と思える裁定に対しても異議を唱えるなという意味であるとともに、審判員側から観ると「判断の精度」を挙げるとともに安定した判断を下すことを求めていると読むべきであろう。審判員は「偉い」存在ではなく、「尊い」存在となるよう努力しなければならない。「あの審判員が下した裁定であれば、間違いない」と試合の進行を委ねられるよう努める事を促している項目であると、改めて自分自身を律する規則として読み返してみることとしている。

それでは、「適用」に対する「柔軟性」「訂正の可能性」は、【9.02】(b)項に示されている。

【9.02 審判の裁定】(b)審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いがあるときには、監督だけがその裁定を規則に基づく正しい裁定に訂正するように要請することができる。しかし、監督はこのような裁定を下した審判員に対してだけアピールする(規則適用の訂正を申し出る)ことが許される。
(c)審判員が、その裁定に対してアピールを受けた場合は、最終の裁定を下すにあたって、他の審判員の意見を求めることはできる。裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりすることは許されない。

ここでは、「審判員の裁定の適用の訂正を要請できる」ことが述べられており、他の審判員に対し意見を求めることが出来るとある。
例えば、投手の投球や野手の送球がダッグアウトなどに入った場合に、走者をどのように進めるかなどの判断を、他の審判員に意見を求めることができるということである。また、その裁定に規則上の誤りがあれば、訂正するように要請できるのである。
判断・裁定を下すべき審判員は、それぞれのプレイに対して役割分担されてはいるが、必ずしも絶対ではない。担当の審判員よりも、裁定を下すのに適したポジショニングをしている審判員もいる。また、プレイが起きている場所との距離や角度によっては、両チームや観客への説得力に欠ける場面もある。それらを補うために、「協議」をする余地を残しているのであるが、あくまでも規則の「適用」に関する部分である。
「今のプレイは、アウトかい?それともセーフかい?」などと、「判定」の領域まで「協議」を組み入れていては「ゲームにおける進行係」としての役割が果たせない。

審判員の裁定に対するアピールプレイで多いのが、「ハーフスイングのリクエスト」である。
前記の【9.02】の【原注(Official Baseball Rulesにある原文)】には以下のように書かれている。

【原注】 ハーフスイングのさい、球審がストライクと宣告しなかったときだけ、監督または捕手は、振ったか否かについて、塁審のアドバイスを受けるよう球審に要請することができる。球審は、このような要請があれば、塁審にその裁定を一任しなければならない。
 塁審は、球審からの要請があれば、ただちに裁定を下す。このようにして下された塁審の裁定は最終のものである。(中略)
 監督が、ハーフスイングに異議を唱えるためにダッグアウトから出て一塁または三塁に向かってスタートすれば警告が発せられる。警告にもかかわらず一塁または三塁に近づけば試合から除かれる。監督はハーフスイングに関して異議を唱えるためにダッグアウトを離れたつもりでも、ボール、ストライクの宣告について異議を唱えるためにダッグアウトを離れたことになるからである。

これは、球審が「ボール」の判定をした場合に、守備側にのみ与えられた権利である。つまり「ボール」が「スイング・ストライク」になることがあっても、「ストライク」が「ボール」に変更されることはない。また、この「リクエスト」は守備側の監督または捕手にのみ与えられており、コーチや他の野手などがアピールをしても、球審は応える義務はないのである。
中学シニアの競技規定では、捕手にのみ「リクエスト」の権利を認めており、監督には直接球審にアピールする権利は無い。
この辺りが徹底していないのか、ダッグアウトから「振った!振った!スイング!」という声が聞こえるのに、捕手が知らん振りという場面を見かける。捕手がリクエストしてくれれば、球審は塁審にスイングの是非を問えるのであるが、新人戦レベルでは理解度が低いように思われる。
それとも「ダッグアウトで叫んでも、アピールに応えてくれないのだから」と諦めているのであろうか。
または、打者に一番近くにいるからスイングの有無を判断できるのであろうか。
リクエストを上手く使うことも、捕手の技術につながると思われるのだが、如何であろう。

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