ボール・デッド
2007年4月10日「アウト・セーフは審判が判定するのだから、結果を自分で勝手に決め付けるな!!」と、あるコーチが大声で叫んだ。こんな光景を良く見かける。選手の思い込みで、「どうせアウトだ」と走るのを止めた途端に、野手が暴投を投げたなどというケースは頻繁にある。選手たちはボールデッドとなるまで集中力を切ってはいけない。そして、これは審判員にも言えることである。ちょっと目を切った瞬間に、予想外のプレイが起きる。見ていれば、何がしかの判定を下せば良いのだが、見ていない場合は致し方ない。
昨年、こんなケースがあった。ルールブックにはケーススタディが書かれているが、いざ目の前で起こると、結構泡を食う。
2死走者1・2塁。投手がセットポジションから投球する際に、手が十分に止まらなかった。「ボーク」と叫んだが、投手は投球してしまった。ここまでなら良くある。しかし、打者がその投球を打ってしまった。「ボーク」と叫んだ瞬間から、内外野は凍り付いていたが、打者だけは集中していたのであろう、まるで聞こえていないかのようにフルスイングした。慌てる野手。打球は三遊間を抜けレフト前へ。走者も慌てながら、疑心暗鬼で進塁する。2塁走者は本塁突入したが、寸前でタッグアウトでチェンジ。と思いきや、攻撃側監督が登場。ボークの時点に戻すべきだと主張した。このように文面にしていると、判りやすく、解答は分かりやすいのだが、その場にいると混乱してしまうものである。
ボークはどの時点でボールデッドとするべきなであろうか。このケースでは、ボールデッドは発生しない。強いて言えば、チェンジの時点が自然発生的なボールデッドとなる。走者は最低1個の進塁を果たしているから、ボークのペナルティは消滅してしまう。ゆえに、監督の主張は退けられ、ベンチにお帰り頂かなくてはならない。
ボークルールについては、以前書いたとおり、いわゆる不正投球である。この不正投球にもめげずに安打した打者は偉いのであり、折角打った安打を、記録に残してあげないと可哀相である。それに走者も進んでおり、ボークのペナルティは「走者を1個進塁させる」に照らしても、もうペナルティ分進んだから良いということである。あとの進塁は走者の責任であるから、本塁憤死は有効となる。
では、これが3塁ゴロだったらどうであろうか。?3塁手が捕球した時点でボールデッド、?3塁手が1塁へ送球した時点でボールデッド、?3塁手が1塁へ送球し、打者走者がアウトとなった時点でボールデッド。
どの時点でボールデッドにしたら良いか。文面にすると、非常に簡単ですが、実際にあったら、やはり慌てるであろう。いかに冷静になれるかである。慌てず騒がず、冷静になれるかであろう。
ここでもジャッジの基本が役に立つ。ジャッジは、良く見て、確かめて、ゆっくりと。今年も肝に銘じて頑張りたいと思う。
昨年、こんなケースがあった。ルールブックにはケーススタディが書かれているが、いざ目の前で起こると、結構泡を食う。
2死走者1・2塁。投手がセットポジションから投球する際に、手が十分に止まらなかった。「ボーク」と叫んだが、投手は投球してしまった。ここまでなら良くある。しかし、打者がその投球を打ってしまった。「ボーク」と叫んだ瞬間から、内外野は凍り付いていたが、打者だけは集中していたのであろう、まるで聞こえていないかのようにフルスイングした。慌てる野手。打球は三遊間を抜けレフト前へ。走者も慌てながら、疑心暗鬼で進塁する。2塁走者は本塁突入したが、寸前でタッグアウトでチェンジ。と思いきや、攻撃側監督が登場。ボークの時点に戻すべきだと主張した。このように文面にしていると、判りやすく、解答は分かりやすいのだが、その場にいると混乱してしまうものである。
ボークはどの時点でボールデッドとするべきなであろうか。このケースでは、ボールデッドは発生しない。強いて言えば、チェンジの時点が自然発生的なボールデッドとなる。走者は最低1個の進塁を果たしているから、ボークのペナルティは消滅してしまう。ゆえに、監督の主張は退けられ、ベンチにお帰り頂かなくてはならない。
ボークルールについては、以前書いたとおり、いわゆる不正投球である。この不正投球にもめげずに安打した打者は偉いのであり、折角打った安打を、記録に残してあげないと可哀相である。それに走者も進んでおり、ボークのペナルティは「走者を1個進塁させる」に照らしても、もうペナルティ分進んだから良いということである。あとの進塁は走者の責任であるから、本塁憤死は有効となる。
では、これが3塁ゴロだったらどうであろうか。?3塁手が捕球した時点でボールデッド、?3塁手が1塁へ送球した時点でボールデッド、?3塁手が1塁へ送球し、打者走者がアウトとなった時点でボールデッド。
どの時点でボールデッドにしたら良いか。文面にすると、非常に簡単ですが、実際にあったら、やはり慌てるであろう。いかに冷静になれるかである。慌てず騒がず、冷静になれるかであろう。
ここでもジャッジの基本が役に立つ。ジャッジは、良く見て、確かめて、ゆっくりと。今年も肝に銘じて頑張りたいと思う。
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妨害とは何
2007年4月8日野球のゲームでは、「ルールブックに書いていないから大丈夫」という言葉を耳にすることがある。この言葉の真意は「このプレイの罰則は、ルールブックにないから大丈夫」なのだろうと理解している。日本の野球規則は、その大元であるアメリカのOffical Baseball Rulesに基づいている。同じ競技であるから当たり前だが、その基本的なルールは同じはずである。ということは、ルールブックの内容も同じはずであるが、言葉の違いからの長短はあるものの、日本のルールブックは非常に厚いらしい(私も原文は読んだ事がない)。何故かと言うと、日本の場合はルールに加えてケースごとの事例が多々加筆されているからである。何故であろうか。
日本の野球少年たちは、ボールゲームを始めたときから、その戦術や戦略面に長けている。子供は純粋であるから、大人の監督やコーチそして父兄から言われた事を、何の疑問も挟まずに素直に実践しようとする。少年野球の父兄をやっていた時、野次の酷いチームがあった(情けないが、シニアでも酷いチームがある)。そのチームの捕手が、楽勝でホームインしようとしている走者の足がホームベースを踏む瞬間に、左足を出して足を引っ掛けて走者を転倒させたシーンを観たことがある。それも一度ではなく、何度も同じことをやるのである。明らかに指導者なり父兄の入れ知恵に間違いない。もしも子供が自ら実践しているのであれば、指導者は厳しく指導するべきであるが、監督・コーチはニヤニヤと笑っているのである。明らかな走塁妨害であるが、少年野球でそのようなプレイが起こることは想定されていないから、審判員も咄嗟に対処できないでいた。日本の野球では、このようなプレイが出来る選手は「野球を良く知っている」「野球センスがある」と称える風潮がはびこっている。このような事例の積み上げがルールブックを厚くするのである。
投手がボールを投げ、打者が打ち、野手が守り、走者が走る。こんな単純なゲームを、どうして複雑怪奇にしてしまうのであろうか。そして、どうして妨害が発生してしまうのであろうか。
よく指導される大間違いが、「盗塁を補助するために、わざと空振りをしろ」ということがある。「空振り」をすることで、走者が速く走ることが出来るのであれば、「立派なアシスト」であるが、そんなことはあり得ない。この「わざとする空振り」に隠されているのは、そうすることで捕手の送球に影響を与える以外にない。「捕手の送球をし辛くする」とは、つまり「捕手の送球を妨げる」ということであろう。立派な妨害である。
野球が上手い選手が妨害を繰り返し、それを正しい方向へ指導できないどころか、それを指示する指導者がいる限り、妨害はなくならない。
審判員が「妨害」をコールした時に、反論する指導者の言い訳は「故意ではない」であるが、「妨害」の基本的な考え方を知らないから、そんな愚問が口をつくのであろう。もしも故意で妨害をする選手がいたのであれば、マナーやモラルの欠如であり、野球をやる資格の有無を問われるであろう。つまり、不可抗力の、故意ではない行為に対して、「妨害」のルールを適用するのが基本であろう。「わざとであろうと、なかろう」と妨害は妨害である。
もうすぐ、シニアでも開会式が行われる。選手達を含め、関係各位が「正々堂々と闘うことを誓う」のであれば、ぜひとも実践してもらいたいものである。
日本の野球少年たちは、ボールゲームを始めたときから、その戦術や戦略面に長けている。子供は純粋であるから、大人の監督やコーチそして父兄から言われた事を、何の疑問も挟まずに素直に実践しようとする。少年野球の父兄をやっていた時、野次の酷いチームがあった(情けないが、シニアでも酷いチームがある)。そのチームの捕手が、楽勝でホームインしようとしている走者の足がホームベースを踏む瞬間に、左足を出して足を引っ掛けて走者を転倒させたシーンを観たことがある。それも一度ではなく、何度も同じことをやるのである。明らかに指導者なり父兄の入れ知恵に間違いない。もしも子供が自ら実践しているのであれば、指導者は厳しく指導するべきであるが、監督・コーチはニヤニヤと笑っているのである。明らかな走塁妨害であるが、少年野球でそのようなプレイが起こることは想定されていないから、審判員も咄嗟に対処できないでいた。日本の野球では、このようなプレイが出来る選手は「野球を良く知っている」「野球センスがある」と称える風潮がはびこっている。このような事例の積み上げがルールブックを厚くするのである。
投手がボールを投げ、打者が打ち、野手が守り、走者が走る。こんな単純なゲームを、どうして複雑怪奇にしてしまうのであろうか。そして、どうして妨害が発生してしまうのであろうか。
よく指導される大間違いが、「盗塁を補助するために、わざと空振りをしろ」ということがある。「空振り」をすることで、走者が速く走ることが出来るのであれば、「立派なアシスト」であるが、そんなことはあり得ない。この「わざとする空振り」に隠されているのは、そうすることで捕手の送球に影響を与える以外にない。「捕手の送球をし辛くする」とは、つまり「捕手の送球を妨げる」ということであろう。立派な妨害である。
野球が上手い選手が妨害を繰り返し、それを正しい方向へ指導できないどころか、それを指示する指導者がいる限り、妨害はなくならない。
審判員が「妨害」をコールした時に、反論する指導者の言い訳は「故意ではない」であるが、「妨害」の基本的な考え方を知らないから、そんな愚問が口をつくのであろう。もしも故意で妨害をする選手がいたのであれば、マナーやモラルの欠如であり、野球をやる資格の有無を問われるであろう。つまり、不可抗力の、故意ではない行為に対して、「妨害」のルールを適用するのが基本であろう。「わざとであろうと、なかろう」と妨害は妨害である。
もうすぐ、シニアでも開会式が行われる。選手達を含め、関係各位が「正々堂々と闘うことを誓う」のであれば、ぜひとも実践してもらいたいものである。
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初ジャッジ
2007年4月6日いよいよ今シーズンも、恒例の紅白戦から始まる。紅白戦といえども、今シーズンの初ジャッジであり、胸の高鳴りは変わらない。公式戦も練習試合も紅白戦も、ジャッジすることは同じである。紅白戦だから「適当に」などと考えていては技術の向上は見込めないのである。何故なら、この時期の子供たち・選手たちは必死である。「レギュラーの座を死守したい」、「レギュラーを奪取したい」と必死のプレイをする。それも、シーズンインの喜びからか笑顔でシビアな闘いを繰り広げるのである。その闘いに立ち会うのであるから、審判員も気を引き締めて行かなければ失礼である。
されど、気を引き締めてやっているつもりでも、選手たちは不満であろう。ベンチも選手たちも観客も、審判員の判定はいつも正しくあれと思っている。審判員の経歴や経験や体調や心理面などは、まったくと言っていいほど関係ないのである。まるで、ロボットが判定するようにジャッジすることを望んでいる。それも、無意識にである。野球をやり始めた時から、当たり前のようにいる審判員は空気のような存在なのであろう。
だから目立つ訳にはいかないが、明日だけは別である。何と言っても、今シーズンの初ジャッジである。張り切って、ハッスルしてジャッジしようと思う。審判員も色々と試してみないといけないと思う。そのためには集中力が必要であり、その集中力を促すのが、ハッスルである。多少の興奮状態でなければ、集中力も増さない。
そして、最も知られたくないこととして「恐怖心」がある。軟式であろうと硬式であろうと、ボールへの「恐怖心」がある。他の審判員には、恥ずかしくて聞いたこともないが「恐怖心」がある。単なる、ボールに対する恐怖心と、ジャッジメントの不安定さに対する恐怖心である。これに打ち勝つには、異常な気持ちの高ぶりと、自分は大丈夫と思い込むことである。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、毎年、この感覚・感情で初ジャッジを迎えている。
まあ、年中行事のひとつと思えば、どうと言う事も無いのだが。
まずは、忘れ物をしないように用意万端で立ち向かおうと思う。
されど、気を引き締めてやっているつもりでも、選手たちは不満であろう。ベンチも選手たちも観客も、審判員の判定はいつも正しくあれと思っている。審判員の経歴や経験や体調や心理面などは、まったくと言っていいほど関係ないのである。まるで、ロボットが判定するようにジャッジすることを望んでいる。それも、無意識にである。野球をやり始めた時から、当たり前のようにいる審判員は空気のような存在なのであろう。
だから目立つ訳にはいかないが、明日だけは別である。何と言っても、今シーズンの初ジャッジである。張り切って、ハッスルしてジャッジしようと思う。審判員も色々と試してみないといけないと思う。そのためには集中力が必要であり、その集中力を促すのが、ハッスルである。多少の興奮状態でなければ、集中力も増さない。
そして、最も知られたくないこととして「恐怖心」がある。軟式であろうと硬式であろうと、ボールへの「恐怖心」がある。他の審判員には、恥ずかしくて聞いたこともないが「恐怖心」がある。単なる、ボールに対する恐怖心と、ジャッジメントの不安定さに対する恐怖心である。これに打ち勝つには、異常な気持ちの高ぶりと、自分は大丈夫と思い込むことである。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、毎年、この感覚・感情で初ジャッジを迎えている。
まあ、年中行事のひとつと思えば、どうと言う事も無いのだが。
まずは、忘れ物をしないように用意万端で立ち向かおうと思う。
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昼休みに、近くのコンビニで審判仲間に会った。昨年あたりから、頻繁に会う機会が増え、クルーを組むことも多くなった。彼は、若手のホープとして期待されている。ジャッジメントも安定しており、堂々とした態度でいて謙虚さも垣間見える理想的(私的に)な審判員だと感心している。一方、審判員駆け出しの頃から親切にして頂いているベテラン審判員も多数いるが、その中でも正に『馬が合う』という感じの方がいる。お互いに正義感が強く、反体制派的な考えを持っているのと、チームに戻って「子供たちの成長を補助している」という自負があるのも同じである。お互いに相手チームの寸評を交わすことで、違う見方の「審判の目」があり、指導する上で非常に助けられている。
5シーズン目に突入するが、年齢差や経験差があるのを承知の上で、対等に付き合い、かつ的確なアドバイスをして頂ける諸氏が沢山いる。「色々な人から、違うことを言われるだろうから、あまり真面目に聞くな」とも言われるが、私なりに取捨選択して自分の審判像を作っているつもりでいる。私の審判員心得のひとつとして「アドバイスは素直にやってみる」がある。その結果「上手くいった、自分に合っている」であれば採用し、「どうもシックリこない」であれば切り捨てる。このやり方であれば、技術の進歩はあれど後退はないと思う。確かに回り道はするかもしれないが、必ずや前に進んでいると思う。審判員の技術は、経験が最も重要である。机上で理論が判っていても、実際にグランドレベルでジャッジできなければ、ただの頭でっかちである。10試合バックネット裏から観戦するよりも、たった1回の攻防でも球審をやり「ストライク・ボール」のジャッジをやった方が、断然審判技術は向上する。とにかく向上したければ、間違いを恐れずに経験することなのだろう。
それらの間違いを審判仲間たちは許容し合いながら、お互いの技術向上を目指しているのである。世間では、この間違いを『ミスジャッジ』と呼ぶようだが、人間がジャッジするスポーツであるのだから、そんなことは織り込み済みのはずである。何を今さらであるが、その話は別の機会に持論を展開しましょう。
さてさて審判員は、不思議な魅力の【ベースボール・キー・パーソン】のように思えてきた。この感覚は、やった者なら判るだろう。
5シーズン目に突入するが、年齢差や経験差があるのを承知の上で、対等に付き合い、かつ的確なアドバイスをして頂ける諸氏が沢山いる。「色々な人から、違うことを言われるだろうから、あまり真面目に聞くな」とも言われるが、私なりに取捨選択して自分の審判像を作っているつもりでいる。私の審判員心得のひとつとして「アドバイスは素直にやってみる」がある。その結果「上手くいった、自分に合っている」であれば採用し、「どうもシックリこない」であれば切り捨てる。このやり方であれば、技術の進歩はあれど後退はないと思う。確かに回り道はするかもしれないが、必ずや前に進んでいると思う。審判員の技術は、経験が最も重要である。机上で理論が判っていても、実際にグランドレベルでジャッジできなければ、ただの頭でっかちである。10試合バックネット裏から観戦するよりも、たった1回の攻防でも球審をやり「ストライク・ボール」のジャッジをやった方が、断然審判技術は向上する。とにかく向上したければ、間違いを恐れずに経験することなのだろう。
それらの間違いを審判仲間たちは許容し合いながら、お互いの技術向上を目指しているのである。世間では、この間違いを『ミスジャッジ』と呼ぶようだが、人間がジャッジするスポーツであるのだから、そんなことは織り込み済みのはずである。何を今さらであるが、その話は別の機会に持論を展開しましょう。
さてさて審判員は、不思議な魅力の【ベースボール・キー・パーソン】のように思えてきた。この感覚は、やった者なら判るだろう。
ケーススタディ
2007年4月1日3月も終わり、室内練習場での冬季トレーニングも店仕舞いである。いよいよ、4月。いよいよ、シーズンイン間近である。体力の衰えか、ブルペン通いも根気が続かず、ついつい早目に切り上げてしまう。今年は、1試合勤められるのか不安が残る。集中力の持続が、年々難しくなってきた。打者を付けた投内連携も、プロテクターまで着けて立ってみたが、色々と問題点が露呈した。昨年まで、何を見てきたのかと自問自答したくなるような状態である。年々、審判の奥深さを感じられるようになってきた。もう一度、ネジを巻き直して、集中して根気良く、謙虚に、真摯に取り組む必要がありそうである。何事もそうであるが、何年経っても取り組むことが雑になってはいけないのだとつくづく思う。
本塁でのプレイは、得点に絡むだけに緊張感を持ってやらなければならない。特に、走者が得点圏にいるときは、投手がボールを持った時点から、集中し続ける必要がある。特に中学シニアでは、想像もしないような行動をする選手がいるために、目を切った瞬間に予想外のプレイが行われたりする。そんな時に、慌てず冷静に対処できるようにするためには、懐を深く構えて、ゆったりと見ることが重要なのであろうが、なかなか出来ない。
スクイズプレイなどは、トラブルのメッカである。視線をどこに置けばよいのか、なかなか難しい。ボールから目を切るわけにもいかず、かと言って、シニアで多いのが打者の足が打者席から出てしまう「イリーガル」の判定もしなくてはならない。打者の足を見てしまうと、ボールから目が切れる。普通にバントをしてくれればいいが、バットを引いて捕手に触れたり、空振りしたりと様々である。今日などは、ファウルフライ、それも小フライが上がり、打者の足に気をとられたために、完全にボールを見失ってしまい、捕手の守備を妨げてしまい、捕手は落球してしまった。
ファウルフライは、打球の方向を把握しておくとトラブルの予防になるが、基本的には捕手の動きに合わせればいい。捕手が動かない限り、審判も動く必要はない。捕手の動きを見て、邪魔にならないよう動けばいいのである。それが、出来なかった。改めて、難しさを実感したケーススタディであった。
本塁でのプレイは、得点に絡むだけに緊張感を持ってやらなければならない。特に、走者が得点圏にいるときは、投手がボールを持った時点から、集中し続ける必要がある。特に中学シニアでは、想像もしないような行動をする選手がいるために、目を切った瞬間に予想外のプレイが行われたりする。そんな時に、慌てず冷静に対処できるようにするためには、懐を深く構えて、ゆったりと見ることが重要なのであろうが、なかなか出来ない。
スクイズプレイなどは、トラブルのメッカである。視線をどこに置けばよいのか、なかなか難しい。ボールから目を切るわけにもいかず、かと言って、シニアで多いのが打者の足が打者席から出てしまう「イリーガル」の判定もしなくてはならない。打者の足を見てしまうと、ボールから目が切れる。普通にバントをしてくれればいいが、バットを引いて捕手に触れたり、空振りしたりと様々である。今日などは、ファウルフライ、それも小フライが上がり、打者の足に気をとられたために、完全にボールを見失ってしまい、捕手の守備を妨げてしまい、捕手は落球してしまった。
ファウルフライは、打球の方向を把握しておくとトラブルの予防になるが、基本的には捕手の動きに合わせればいい。捕手が動かない限り、審判も動く必要はない。捕手の動きを見て、邪魔にならないよう動けばいいのである。それが、出来なかった。改めて、難しさを実感したケーススタディであった。
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時間無制限
2007年3月29日今年のルール改正のキーワードは「時間短縮」である。オリンピックやWBCなどにより、ベースボール関係者、とりわけ大リーグ関係者は、ベースボールをスタンダードスポーツにしようと躍起である。そこには商業主義アメリカの思惑が見え隠れする。その弊害となっているのが、「時間無制限一本勝負」という野球の特徴である。テレビなどのメディアに気に入られるためには、「予定」の立つスポーツが好まれる。サッカーやアメフト、バスケット、アイスホッケーなど、ボールゲームのほとんどが時間制限のあるゲームであり、それ故に扱いやすい。観る側にとっては、どのようなスポーツでも、結果が判らないほどつまらないものはない。スポーツをやる側にとっては、自分の持てる力を出し切れば、「結果はおのずとついてくる」という心境で良いのであるが、観客・ファンは満足しない。昔、野球中継が7時から9時までしか放映されていなかった時代に、テレビ中継が始まった時には、試合の大勢が決まっていたことがよくあった。江川が投げていた頃は、中継が始まった時には、すでに終盤なんてことも間々あった。一方試合も大詰めで、「逆転の走者が出てバッターは王、さあ逆転の本塁打が出るか」、「残念ですが、ではまた明日」なんてことも結構あった。慌ててラジオに走ったものである。そういうときに限って、王はホームランを打つのである。
これも「無制限ゲーム」のなせる業であり、野球はテレビではなく、球場で観戦するものだとつくづく思うのである。
テレビでしか野球を見ていないと、アナウンサーや解説者の下らない話でも、球場では耳に出来ない。球場での観戦は「さあ、第一球投げました」という言葉が聞こえないので、注意して見ていないと大事な場面を見過ごしてしまう。テレビではVTRがあるから、再生してくれるが、球場ではそれも叶わない(最近は、オーロラビジョンがあるが、それでも不満が残る)。
話が「時間短縮」からそれてしまったが、ベースボールの起源に遡れば、理由がわかる。ベースボールの原型は、イギリスなどで盛んな、「クリケット」と言われているが、それこそ一日中「時間無制限」でボールゲームを楽しんでいたのが起源である。
軟式野球や少年野球では、時間制限があるが、「時間」に追われている割には、攻守交替もダラダラしているし、ベンチからのサインが長いなど、本当に最後までやる気があるのかと思いたくなるようなゲームが多々ある。
今甲子園で行われている選抜高校野球の試合時間は、同じ9回を行うプロ野球と比較しても実に短い。試合時間に一番影響を与えているのは、これらのインターバルの長短である。
プロ野球選手も、その昔は高校球児であった。全力疾走で攻守交替をしていたはずである。いつから、「子供たちに夢を与えるプロ野球選手」がだらしなくなってしまったのであろうか。
斯く言う、シニアもだらしなさが目に付くのは、私だけだろうか。
これも「無制限ゲーム」のなせる業であり、野球はテレビではなく、球場で観戦するものだとつくづく思うのである。
テレビでしか野球を見ていないと、アナウンサーや解説者の下らない話でも、球場では耳に出来ない。球場での観戦は「さあ、第一球投げました」という言葉が聞こえないので、注意して見ていないと大事な場面を見過ごしてしまう。テレビではVTRがあるから、再生してくれるが、球場ではそれも叶わない(最近は、オーロラビジョンがあるが、それでも不満が残る)。
話が「時間短縮」からそれてしまったが、ベースボールの起源に遡れば、理由がわかる。ベースボールの原型は、イギリスなどで盛んな、「クリケット」と言われているが、それこそ一日中「時間無制限」でボールゲームを楽しんでいたのが起源である。
軟式野球や少年野球では、時間制限があるが、「時間」に追われている割には、攻守交替もダラダラしているし、ベンチからのサインが長いなど、本当に最後までやる気があるのかと思いたくなるようなゲームが多々ある。
今甲子園で行われている選抜高校野球の試合時間は、同じ9回を行うプロ野球と比較しても実に短い。試合時間に一番影響を与えているのは、これらのインターバルの長短である。
プロ野球選手も、その昔は高校球児であった。全力疾走で攻守交替をしていたはずである。いつから、「子供たちに夢を与えるプロ野球選手」がだらしなくなってしまったのであろうか。
斯く言う、シニアもだらしなさが目に付くのは、私だけだろうか。
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三塁塁審
2007年3月27日新人審判員が、公式戦で最も多く配置されるのが三塁塁審である。理由として考えられるのは、「ジャッジの回数が最も少ない」と言うことであろう。確かに一試合の中で、一度も「アウト・セーフ」をコールする事無く終わる場合も多々ある。せいぜい「ファール・フェア」と走者がいる場合の外野への打球のジャッジぐらいの試合が多い。クロックワイズメカニクスの動きも、走者無しで2塁塁審が外野への打球を追った際に、二塁カバーに走ることさえ憶えていれば、穴を開けることはほとんどない。あとは、三塁ベースに張り付いていればいいのである。
「なんだ〜、こりゃ楽だ」と思うと、落とし穴がある。ある先輩審判員が「三塁塁審は本塁に一番近いから、得点に最も近い塁審である。つまり、トラブルが最も多いポジションだよ。」と言われていた。確かに、一塁での「同時プレー」の「アウト・セーフ」は、両軍ベンチから悲喜こもごもの声が聞こえるが、トーンは低い。ところが、三塁での「タッグプレイ」などの「アウト・セーフ」は両軍ベンチ・観客を含めて「固唾を呑む」状態となる。私などは、その緊張感と緊迫感がたまらなくて審判員を続けているが、初めて塁審に立つ人にとっては、正に青くなる局面である。そのひとつのジャッジが試合の流れを決定付けるかもしれないからである。斯く言う私も、最初の頃は緊張していたのだろう(忘れてしまったが)。
同じようなことで、ついつい忘れがちだが三塁塁審の重要な役割に「タッグアップ」の確認がある。これも得点に関わる重要な確認作業である。わが球団が4・5年目の春の大会で、常勝チームと1点差を争う試合をしたことがある。1点リードで迎えた最終回裏、同点と追いつかれて、なお1死3塁、サヨナラの場面である。飛球が2塁手後方の右中間に浅く飛んだ。右翼手がスライディングキャッチし二塁手へ返球。二塁手が振り返った時には、三塁走者が本塁へ滑り込んでいた。わがチームは落胆で終了の挨拶へ向かう。この時の三塁塁審の弁が「タッグアップが明らかに早い。アピールしたら完全なアウトだった」である。この時、アピールプレイがあったら、どうなっていただろうか。想像しただけでもゾクゾクするような話である。その時、私は三塁側スタンドで観戦していたが、タッグアップは見ていなかった。当然、試合を観てしまっていたのである。何人の人間が、タッグアップの「タイミング」を確認していただろう。自分が三塁塁審でも、試合を観てしまっていたのではないか。毎回、毎回肝に銘じる場面である。
「なんだ〜、こりゃ楽だ」と思うと、落とし穴がある。ある先輩審判員が「三塁塁審は本塁に一番近いから、得点に最も近い塁審である。つまり、トラブルが最も多いポジションだよ。」と言われていた。確かに、一塁での「同時プレー」の「アウト・セーフ」は、両軍ベンチから悲喜こもごもの声が聞こえるが、トーンは低い。ところが、三塁での「タッグプレイ」などの「アウト・セーフ」は両軍ベンチ・観客を含めて「固唾を呑む」状態となる。私などは、その緊張感と緊迫感がたまらなくて審判員を続けているが、初めて塁審に立つ人にとっては、正に青くなる局面である。そのひとつのジャッジが試合の流れを決定付けるかもしれないからである。斯く言う私も、最初の頃は緊張していたのだろう(忘れてしまったが)。
同じようなことで、ついつい忘れがちだが三塁塁審の重要な役割に「タッグアップ」の確認がある。これも得点に関わる重要な確認作業である。わが球団が4・5年目の春の大会で、常勝チームと1点差を争う試合をしたことがある。1点リードで迎えた最終回裏、同点と追いつかれて、なお1死3塁、サヨナラの場面である。飛球が2塁手後方の右中間に浅く飛んだ。右翼手がスライディングキャッチし二塁手へ返球。二塁手が振り返った時には、三塁走者が本塁へ滑り込んでいた。わがチームは落胆で終了の挨拶へ向かう。この時の三塁塁審の弁が「タッグアップが明らかに早い。アピールしたら完全なアウトだった」である。この時、アピールプレイがあったら、どうなっていただろうか。想像しただけでもゾクゾクするような話である。その時、私は三塁側スタンドで観戦していたが、タッグアップは見ていなかった。当然、試合を観てしまっていたのである。何人の人間が、タッグアップの「タイミング」を確認していただろう。自分が三塁塁審でも、試合を観てしまっていたのではないか。毎回、毎回肝に銘じる場面である。
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一塁塁審
2007年3月25日一試合の中で球審に次いでジャッジの機会が多いのが一塁塁審である。理由は勿論、一塁でのフォースプレイの多さであろう。「アウト・セーフ」「ファウル・フェア」の判定のほかに、外野飛球に対する「ノーキャッチ」や、投手の不正投球に対する「ボーク」のコール、そしてハーフスイングのリクエストに対する「スイング・ノースイング」などの判定がある。
これらの判定をする上でベストのポジショニングは何処であろうか。一塁塁審の特徴的な動きであり、基本的な動きであり、最も多い動きが、「内野ゴロに対するポジショニング」である。この動きの特徴は「送球に直角に入る」が基本となるが、これはなかなか深い意味がある。一塁でのフォースプレイは、打者走者の足と一塁手の捕球のどちらが早いかを判定しなくてはならない。一塁手の足は、危険防止の意味もあり一塁ベースに触れた状態となっているが、送球を早く捕球したいため伸びる体勢となるケースがある。この時に「触れただけの足」という不安定な状態から「不完全な状態」に移行する。これを見極めなくてはならないのであるから、一塁ベースと足の接触が確実に見える位置がベストポジションとなる。これが、「送球に直角」となる。
この時、塁審の視線はどこを注視しているのであろうか。
フォースプレイは、打者走者の足が一塁ベースへ到達するのと、一塁手が送球を捕球するのとの比較である。そして、一塁手の触塁も見なくてはならない。時間的に余裕がある時は問題ないが、球場全体が揺れるケースは、ほとんどがクロスプレイである。ほぼ同時に打者走者の触塁と、一塁手の捕球が行われたときに、それを確認することができるのであろうか。ここで活躍するのが「耳」である。一塁手の捕球を耳でも補足することでジャッジするのである。そしてもう一つがジャッジの基本である「セーフは早く、アウトはゆっくりと」が機能する。「セーフ」は打者走者の足が速いのであるから、誰が何を言おうと「セーフ」である。ところが「アウト」は、打者走者の足の到達よりも早く、一塁手が完全捕球し、かつ「一塁手が確実に触塁している」ことが条件となる。よくあるのが、一塁手の足が離れている「オフ・ザ・バック」と、捕球の音はしたがジャッグルし完全捕球されていないケースである。これらをひとつひとつ確認してから「アウト」をコールする事が「一塁塁審のコツ」である。
慌てず、騒がず、堂々と「He’s OUT」をコールすれば良いのである。
一塁塁審のポジショニングは、無走者の場合は一塁ファウルラインの芝の切れ目ぐらいが目安であった。私は昨年から、もう少し前で位置取りしている。目安は一塁手の後方2m程度の位置である。この位置の場合、色々な局面に対処しやすいのである。
ぜひ試してもらいたい。勿論、クルーの了解を得た上でが条件であるが。
これらの判定をする上でベストのポジショニングは何処であろうか。一塁塁審の特徴的な動きであり、基本的な動きであり、最も多い動きが、「内野ゴロに対するポジショニング」である。この動きの特徴は「送球に直角に入る」が基本となるが、これはなかなか深い意味がある。一塁でのフォースプレイは、打者走者の足と一塁手の捕球のどちらが早いかを判定しなくてはならない。一塁手の足は、危険防止の意味もあり一塁ベースに触れた状態となっているが、送球を早く捕球したいため伸びる体勢となるケースがある。この時に「触れただけの足」という不安定な状態から「不完全な状態」に移行する。これを見極めなくてはならないのであるから、一塁ベースと足の接触が確実に見える位置がベストポジションとなる。これが、「送球に直角」となる。
この時、塁審の視線はどこを注視しているのであろうか。
フォースプレイは、打者走者の足が一塁ベースへ到達するのと、一塁手が送球を捕球するのとの比較である。そして、一塁手の触塁も見なくてはならない。時間的に余裕がある時は問題ないが、球場全体が揺れるケースは、ほとんどがクロスプレイである。ほぼ同時に打者走者の触塁と、一塁手の捕球が行われたときに、それを確認することができるのであろうか。ここで活躍するのが「耳」である。一塁手の捕球を耳でも補足することでジャッジするのである。そしてもう一つがジャッジの基本である「セーフは早く、アウトはゆっくりと」が機能する。「セーフ」は打者走者の足が速いのであるから、誰が何を言おうと「セーフ」である。ところが「アウト」は、打者走者の足の到達よりも早く、一塁手が完全捕球し、かつ「一塁手が確実に触塁している」ことが条件となる。よくあるのが、一塁手の足が離れている「オフ・ザ・バック」と、捕球の音はしたがジャッグルし完全捕球されていないケースである。これらをひとつひとつ確認してから「アウト」をコールする事が「一塁塁審のコツ」である。
慌てず、騒がず、堂々と「He’s OUT」をコールすれば良いのである。
一塁塁審のポジショニングは、無走者の場合は一塁ファウルラインの芝の切れ目ぐらいが目安であった。私は昨年から、もう少し前で位置取りしている。目安は一塁手の後方2m程度の位置である。この位置の場合、色々な局面に対処しやすいのである。
ぜひ試してもらいたい。勿論、クルーの了解を得た上でが条件であるが。
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二塁塁審
2007年3月22日塁審シリーズ第一弾!!
審判を始めた当初は、二塁塁審の動きが複雑に見え、結構戸惑っていた。そこで局面ごとの動きを覚えて対処しようと考え、社会人の審判員の方が作成してくれたメモや「クロックワイズメカニクス」の本を購入し、必死に勉強したが、結局本番では動けない。最初の一歩を間違うと、慌ててしまいパニックになってします。塁審の中心である二塁塁審が迷走すると、クルーの動きはハチャメチャになってしまう。何度も失敗を繰り返した。
走者がいない時は、二塁塁審は二塁手の左後方、三塁ベースと二塁ベースの延長線上の芝の切れ目辺りに位置する。ここでの仕事は、外野飛球に対するジャッジがほとんで、両翼のライン際以外の飛球に対してジャッジする。これは、結構楽に覚えられる。外野に行ってしまえば、あとは残った3人に任せればいいのである。
両翼に行った場合は、空いた塁のカバーと2塁ベースの触塁を観ることが主になる。ゴロの場合は、内側に切れ込んで2塁に走者が来た時に備えることが基本であろう。
問題は、走者が出た場合。この場合は、2塁ベースから5m程度1塁側のライン上から1m程度内側へ入った位置にポジショニングする。この位置が、微妙である。投手との距離が、グッと近くなり、臨場感が出て緊張が高まる。走者1塁の場合、盗塁・バント・エンドランなどの作戦により、走者が動くことが想定される。しかし、投手が投げ、打者が打つ瞬間は目が切れない。走者が気になるが、横目で見ることもできない。後は気配を感じるしかないのだ。最初のうちは、走者が気になって仕方がなかったが、慣れてくると、盗塁であれば捕手が投げてくるし、バントであれば打球方向で送球方向を予想して邪魔にならないようにポジショニングするようになった。ただし、シニアの場合は捕手の送球も真っ直ぐ来ないことが多いので、度々ヒヤッとする場面がある。外野への打球については、一三塁の塁審がカバーしてくれるので、見に行くケースはほとんどない(特殊ケースはある)。その代わり、外野飛球を追った審判の塁のカバーをしなくてはならない。このカバーリングの、最初の一歩を出し間違えると、大変なことになる。走者がスコアリングポジションにいる時は、球審はステイ(本塁から動かない)状態となるので、二人で三つの塁をカバーしなくてはならない。これが、塁審の見せ所であるのだが、そう思えるようになったのは、昨年からである。それまでは、混乱の極みであった。触塁を確認できたか、ボールの行方は、妨害行為はなかったかなどの確認事項が多々あるのに、自分の動きだけで精一杯であったように思う。
そんな中で、昨年から試みていることがひとつある。走者が1塁にいて、盗塁の可能性がある場合。単独1塁や1・3塁の場面では、遊撃手の右斜め前方にポジショニングすると、全体が良く見える。しかし、シニアの審判員の取決め事項では、どのケースも2塁手の左斜め前方となっているため、その日のクルーの顔ぶれにより動くことにしている。
昨年から、動けるようになった要因のひとつに、カバーリングの意識が芽生えたことが大きい。それまでは、自分のジャッジで精一杯であったのが、周りの審判員の動きを確認しながらカバーリングが出来るようになってきた。まだまだ十分とはいえないが、コツを掴みつつあるように感じている。
次回は、一塁審判について・・・
審判を始めた当初は、二塁塁審の動きが複雑に見え、結構戸惑っていた。そこで局面ごとの動きを覚えて対処しようと考え、社会人の審判員の方が作成してくれたメモや「クロックワイズメカニクス」の本を購入し、必死に勉強したが、結局本番では動けない。最初の一歩を間違うと、慌ててしまいパニックになってします。塁審の中心である二塁塁審が迷走すると、クルーの動きはハチャメチャになってしまう。何度も失敗を繰り返した。
走者がいない時は、二塁塁審は二塁手の左後方、三塁ベースと二塁ベースの延長線上の芝の切れ目辺りに位置する。ここでの仕事は、外野飛球に対するジャッジがほとんで、両翼のライン際以外の飛球に対してジャッジする。これは、結構楽に覚えられる。外野に行ってしまえば、あとは残った3人に任せればいいのである。
両翼に行った場合は、空いた塁のカバーと2塁ベースの触塁を観ることが主になる。ゴロの場合は、内側に切れ込んで2塁に走者が来た時に備えることが基本であろう。
問題は、走者が出た場合。この場合は、2塁ベースから5m程度1塁側のライン上から1m程度内側へ入った位置にポジショニングする。この位置が、微妙である。投手との距離が、グッと近くなり、臨場感が出て緊張が高まる。走者1塁の場合、盗塁・バント・エンドランなどの作戦により、走者が動くことが想定される。しかし、投手が投げ、打者が打つ瞬間は目が切れない。走者が気になるが、横目で見ることもできない。後は気配を感じるしかないのだ。最初のうちは、走者が気になって仕方がなかったが、慣れてくると、盗塁であれば捕手が投げてくるし、バントであれば打球方向で送球方向を予想して邪魔にならないようにポジショニングするようになった。ただし、シニアの場合は捕手の送球も真っ直ぐ来ないことが多いので、度々ヒヤッとする場面がある。外野への打球については、一三塁の塁審がカバーしてくれるので、見に行くケースはほとんどない(特殊ケースはある)。その代わり、外野飛球を追った審判の塁のカバーをしなくてはならない。このカバーリングの、最初の一歩を出し間違えると、大変なことになる。走者がスコアリングポジションにいる時は、球審はステイ(本塁から動かない)状態となるので、二人で三つの塁をカバーしなくてはならない。これが、塁審の見せ所であるのだが、そう思えるようになったのは、昨年からである。それまでは、混乱の極みであった。触塁を確認できたか、ボールの行方は、妨害行為はなかったかなどの確認事項が多々あるのに、自分の動きだけで精一杯であったように思う。
そんな中で、昨年から試みていることがひとつある。走者が1塁にいて、盗塁の可能性がある場合。単独1塁や1・3塁の場面では、遊撃手の右斜め前方にポジショニングすると、全体が良く見える。しかし、シニアの審判員の取決め事項では、どのケースも2塁手の左斜め前方となっているため、その日のクルーの顔ぶれにより動くことにしている。
昨年から、動けるようになった要因のひとつに、カバーリングの意識が芽生えたことが大きい。それまでは、自分のジャッジで精一杯であったのが、周りの審判員の動きを確認しながらカバーリングが出来るようになってきた。まだまだ十分とはいえないが、コツを掴みつつあるように感じている。
次回は、一塁審判について・・・
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塁審
2007年3月22日昨年、シニアの公式戦および練習試合で、延べ66回審判としての機会に恵まれた。この機会を与えてくれたチーム、監督、選手に改めて感謝したい。このうちの半数以上の39回が球審であり、他は1塁10回、2塁12回、3塁5回である。審判見習いの時点から、チーム事情もあり、球審の経験は沢山踏ませてもらっているが、逆に塁審の経験は公式戦のみという状態が2年ほど続いた。お陰様?で、クロックワイズメカニクスは机上でしか分からない状態であった。特に2塁塁審の動きは、さっぱり分からなかった。ゆえに、公式戦の日には、毎回「クロックワイズメカニクス」の教本に目を通し、間違わないように緊張したものである。この感覚は、今年も変わらないであろうが、違う点が一つある。それは、昨年の日本選手権決勝で2塁塁審をやり、自分なりに納得できる動きが出来たことにある。その試合で、自信と言うよりも、「楽しさ」が実感できたのである。
私は、それまで「球審は一球、一球、集中して気が抜けないポジション」「塁審は打球が飛んでからのポジション」と位置づけていた。同じ気持ちで決勝戦に挑んだが、決勝戦の緊張感から、「一球、一球」集中して試合に入り込んでいったのである。その結果が「塁審は楽しい」という感覚に至った。
ようやく、クルーとして一員になれたのであろう。
審判員は縁の下の力持ちである。裏方である。審判が目立つ試合はろくな事がない。それでも「楽しさ」を実感しながら、子供達の成長を見届けたいと思う。
私は、それまで「球審は一球、一球、集中して気が抜けないポジション」「塁審は打球が飛んでからのポジション」と位置づけていた。同じ気持ちで決勝戦に挑んだが、決勝戦の緊張感から、「一球、一球」集中して試合に入り込んでいったのである。その結果が「塁審は楽しい」という感覚に至った。
ようやく、クルーとして一員になれたのであろう。
審判員は縁の下の力持ちである。裏方である。審判が目立つ試合はろくな事がない。それでも「楽しさ」を実感しながら、子供達の成長を見届けたいと思う。
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He’s OUT
2007年3月20日今年から、アウトのジャッジは「He is OUT(He’s OUT)」となる。これも国際化の波なのだろう。実は昨年の春の審判講習会で、社会人の審判員が「He’s OUT」とコールしているのを見て、思わず「カッコイ〜イ」と感じ、春の公式戦では「He’s OUT」とコールしていた。ところがベテランの審判員の方より、「一人だけ違うことをやるな」と注意を受け、結局春の珍事をなってしまった。
しかし、審判の世界におけるアマ野球の最高峰である「社会人」でやっていることは、結局影響力が大きく、今年からのアマ野球の試合では「He’s OUT」が標準となった。私自身は大歓迎であるが、果たしてシニア連盟で秋まで統一できるかどうかは???である。
没個性の時代に一人だけが違う事をやると、浮いてしまうものであり、目立つ事が許されない審判の世界では尚の事である。
しかしこのコールには、それなりに意味があり、永年の積み重ねの上に取捨選択された結果であるのだと思われる。ただ、私のように「カッコイイ」という理由だけで、「He’s OUT」となったのではないのであろう。
審判講習では、基本の重要性を徹底的に説かれる。ルールの重要性はもちろん、基本中の基本的な動きである「GO-STOP-CALLIT」を徹底的に叩き込まれる。それほどに基本を重視する審判員の教育の中で、「カッコイイ」という理由だけではないのは自明の事であろう。
例えば、塁上に二人の走者が重なってしまう場面がある。そう珍しいことではなく、シニアでは頻繁に起こるプレイである。
その際に野手は二人にタッグをするが、塁の占有権のある走者はアウトにはならない。どっちがアウト??と走者も野手もベンチも観客も思って見ている時に、「He’s OUT」と占有権のない走者を指差しコールする。これにより、審判員の曖昧な行動による攻撃側の不利益を取り除く事ができる。審判員は公正であるのはもちろん、ゲームのキーパーソンとなってはいけないのであるから、審判員の中途半端なコールにより試合が中断することは避けなければならない。
「He’s OUT」。今年何度コールすることになるのであろうか。
しかし、審判の世界におけるアマ野球の最高峰である「社会人」でやっていることは、結局影響力が大きく、今年からのアマ野球の試合では「He’s OUT」が標準となった。私自身は大歓迎であるが、果たしてシニア連盟で秋まで統一できるかどうかは???である。
没個性の時代に一人だけが違う事をやると、浮いてしまうものであり、目立つ事が許されない審判の世界では尚の事である。
しかしこのコールには、それなりに意味があり、永年の積み重ねの上に取捨選択された結果であるのだと思われる。ただ、私のように「カッコイイ」という理由だけで、「He’s OUT」となったのではないのであろう。
審判講習では、基本の重要性を徹底的に説かれる。ルールの重要性はもちろん、基本中の基本的な動きである「GO-STOP-CALLIT」を徹底的に叩き込まれる。それほどに基本を重視する審判員の教育の中で、「カッコイイ」という理由だけではないのは自明の事であろう。
例えば、塁上に二人の走者が重なってしまう場面がある。そう珍しいことではなく、シニアでは頻繁に起こるプレイである。
その際に野手は二人にタッグをするが、塁の占有権のある走者はアウトにはならない。どっちがアウト??と走者も野手もベンチも観客も思って見ている時に、「He’s OUT」と占有権のない走者を指差しコールする。これにより、審判員の曖昧な行動による攻撃側の不利益を取り除く事ができる。審判員は公正であるのはもちろん、ゲームのキーパーソンとなってはいけないのであるから、審判員の中途半端なコールにより試合が中断することは避けなければならない。
「He’s OUT」。今年何度コールすることになるのであろうか。
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二段モーション
2007年3月18日二段モーションという言葉も今や風化したように思うが、それはプロ野球の世界であり、実はアマ野球では根強く残っている。良く耳にする言葉で「軸足に体重を乗せる」や「間を作る」などがある。もっとひどいものには「打者の間(タイミング)をはずす」などと言う指導がまかり通っている。その為には投手が一度始めた投球モーションを「止めてしまう」ことをさせている。これもプロ野球が残した悪しき技術の一つであろう。昨年の今頃は二段モーションの修正を、各チームのエース級が必死に取り組んでいた。特に足の動きが「止まったり」「ぶらぶらさせたり」させていた投手は大変であったのだろう。しかし、そこはエースと呼ばれる投手達である。実力はあるのだから、ほとんどの投手が対応できた。ソフトバンクや横浜のエースは前年よりも安定した投球をしていたようにさえ映った。これらの騒動の中で、あまり注目されていなかった事象がある。それは「腕の動き」である。ルールブック8.01(b)項【注1】には二段モーションの禁止が記載されており、「手足をぶらぶらさせて投球すること」は禁止と書かれている。昨年の騒動の中でプロ野球の審判団は、この項目を一気に解消しようと「足の動き」とあわせて「手・腕の動き」も制約しようとして、各チーム首脳陣や投手陣から総スカンを食った。つい先日まで「OK」だった事が、いきなり「NG」になったのであるから、感情的にはわかる気がする。ある首脳陣は「違うスポーツになる」と噛み付いていたが、それは違うであろう。一昨年までのプロ野球自体が投球モーションについては「違うスポーツ」であったのであり、ようやく昨年から投球モーションについては正規に、ルールブック通りになったのである。
さてアマ野球はどうであろう。プロが散々見せてきた「不正投球動作」がすっかり染み付いてしまって、なかなか修正できていないのが現実である。
今年のプロアマ合同規則委員会では、プロ側から強い要請があった。「アマ側の二段モーションを厳しく指導してほしい」との要請である。特に「手・腕の動き」を厳しくしろとの要請である。
主従逆転になってしまった感はあるが、正規の方向へ移行しようとしていることは歓迎である。
今年は「手を胸の前で止める」「手を頭の上で止める」「手を頭の上でブラブラさせる」「一度放した手を、再びグラブにつける」などの行為が、すべて不正投球となる。走者がいない時は不正投球で「ボール」となり、投球モーションを正す事を警告され、それでも修正されない場合は「その投手を試合から除く」、つまり「退場」となる。走者がいる時は、もちろん「ボーク」となり、警告が与えられる。
早い話が、投手は投球モーションを起こしたら、よどみなく、スムーズに打者に向かい投球するしかないことが確認されたのである。
さてリトルシニアではどこまで指導できるか、試される一年になる。まずは「注意」からになるであろうが、審判によっては「ボーク」なり「不正投球」となるかもしれない。
オープン戦で、どの程度までジャッジしてあげられるかがポイントになるであろう。
私個人としては、春は厳しく挑もうと思っているが、はてさてどこまでやれるかは疑問ではあるのだが。
さてアマ野球はどうであろう。プロが散々見せてきた「不正投球動作」がすっかり染み付いてしまって、なかなか修正できていないのが現実である。
今年のプロアマ合同規則委員会では、プロ側から強い要請があった。「アマ側の二段モーションを厳しく指導してほしい」との要請である。特に「手・腕の動き」を厳しくしろとの要請である。
主従逆転になってしまった感はあるが、正規の方向へ移行しようとしていることは歓迎である。
今年は「手を胸の前で止める」「手を頭の上で止める」「手を頭の上でブラブラさせる」「一度放した手を、再びグラブにつける」などの行為が、すべて不正投球となる。走者がいない時は不正投球で「ボール」となり、投球モーションを正す事を警告され、それでも修正されない場合は「その投手を試合から除く」、つまり「退場」となる。走者がいる時は、もちろん「ボーク」となり、警告が与えられる。
早い話が、投手は投球モーションを起こしたら、よどみなく、スムーズに打者に向かい投球するしかないことが確認されたのである。
さてリトルシニアではどこまで指導できるか、試される一年になる。まずは「注意」からになるであろうが、審判によっては「ボーク」なり「不正投球」となるかもしれない。
オープン戦で、どの程度までジャッジしてあげられるかがポイントになるであろう。
私個人としては、春は厳しく挑もうと思っているが、はてさてどこまでやれるかは疑問ではあるのだが。
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伸び代
2007年3月17日本日の審判講習会は、ルール改正の確認作業であった。そこで感じた事は、基本ルールの再確認が必要な事。審判員になった当時は、何度も読み返したルールブックだが、最近は必要なときにしか開かなくなった。年齢的に、成長よりも退化の速度の方が凌駕しているため、記憶をとどめておく事がなかなか難しく、忘却が著しい。それと、ルールの文面を丸暗記しているため、その本質が分からない。そうすると、事例以外の事態が発生すると対応できない状態となる。ルールの条文は忘れがちだが、その本質が少しずつ頭にも身体にも染み付いてきた今こそ、ルールブックを再確認する必要性を強く感じた講習会であった。そう言う意味では有意義であったのだろう。
それにしても、この先成長を望む事は無理なだけに、成長盛りの子供達がうらやましい限りである。今、あの伸び代が自分にあるのならと思うのは詮無き事ではある。選手諸君は、この先の知れた中年審判員を踏み台にして、大きくジャンプアップしてもらいたいものである。彼らが、大きな伸び代を持ち合わしていることを自覚できたとき、爆発的な伸びをするのであろうが、その日は何時来るのか。
ちょっと冬に逆戻りしたようだが、春季大会の日程は変わらない。だからと言って、そこに調整するのではなく、伸び代が沢山ある選手諸君は、もっともっと先を見て、日々鍛錬してもらいたい。
先の短い中年は、春季大会に向けて体調を整えよう。
この心構えの差が、伸び代の差なのかもしれない。
それにしても、この先成長を望む事は無理なだけに、成長盛りの子供達がうらやましい限りである。今、あの伸び代が自分にあるのならと思うのは詮無き事ではある。選手諸君は、この先の知れた中年審判員を踏み台にして、大きくジャンプアップしてもらいたいものである。彼らが、大きな伸び代を持ち合わしていることを自覚できたとき、爆発的な伸びをするのであろうが、その日は何時来るのか。
ちょっと冬に逆戻りしたようだが、春季大会の日程は変わらない。だからと言って、そこに調整するのではなく、伸び代が沢山ある選手諸君は、もっともっと先を見て、日々鍛錬してもらいたい。
先の短い中年は、春季大会に向けて体調を整えよう。
この心構えの差が、伸び代の差なのかもしれない。
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開幕前から
2007年3月16日前回の続きを書かざるを得ない。これで終わりにしたものだ。マスコミの報道を見聞きしていると、「アマ選手が西武球団から金銭をもらっていた問題」と扱っている。はてさて、「金銭をもらっていた問題」とはもらっていた側が「犯人」であるかのような物言いである。今回の問題の根は、明らかにプロ側にある。百歩譲って、たとえプロ側が金銭の授与を求められても、支払わなければ問題とはならない。西武球団は、松坂を高額で売り飛ばし、返す刀で、有望なアマ選手にエサを播き、食いつく魚を安価で手に入れるという商売をしてしまった。この際、球団を売却しては如何か。
金銭授受を受けていたアマ選手は、名前を公表し、退部届けを出し、社会的な制裁を受け入れようとしている。身から出た錆であるから、それを可哀相とは思わない。若気の至りと許す気もあるが、別の世界で頑張りなさいという感じである。また、それに関わったアマ側の関係者も制裁を甘んじて受けようとしている。高校教授は野球界から追放され、学校側も公式戦の出場に対して連盟などに下駄を預けた。潔きというより、当たり前である。
さて、これを受けてプロはどうするのであろう。特に西武はどうするのであろうか。サッカーのように無観客試合でもやるのであろうか。スカウト個人の問題にすり替えるのであろうか。いっそのこと、30敗ぐらいのハンデをつけて開幕を迎えれば良いのではないか。スカウトのポケットマネーですむような金額ではないから、球団が、会社組織が関わっていることは子供でもわかる。こんなことを言うと、「選手が可哀相」とか「選手には関係ない」との声が上がるが、本当にそうであろうか。
プロ野球の関係者は、誰の上にアグラをかいて野球ができているのかを、再認識するべきであろう。少年野球・リトルリーグ、シニアリーグ・ポニーリーグ・サンリーグ・中学軟式、そして高校野球。これらに所属する何万という野球小僧たちの上に、アグラをかいていることを、再認識するべきである。かれらが愛想を尽かしたら、「野球大好き」などと恥ずかしくて言えなくなってしまうのである。
開幕前から、不愉快な気分にさせてしまった、西武球団を含むプロ野球機構の責任は重い。得意の玉虫色の結末だけは許せない。
真剣に、真摯に、取り組まなくては、野球小僧たちに愛想をつかされる。
追伸:なお、この話題は最後にします。個人的な感情で、投稿したことをお詫びいたします。ただし、野球ルールを司る審判の目を通すと、今回の問題は「GET OUT」だと強く思います。
金銭授受を受けていたアマ選手は、名前を公表し、退部届けを出し、社会的な制裁を受け入れようとしている。身から出た錆であるから、それを可哀相とは思わない。若気の至りと許す気もあるが、別の世界で頑張りなさいという感じである。また、それに関わったアマ側の関係者も制裁を甘んじて受けようとしている。高校教授は野球界から追放され、学校側も公式戦の出場に対して連盟などに下駄を預けた。潔きというより、当たり前である。
さて、これを受けてプロはどうするのであろう。特に西武はどうするのであろうか。サッカーのように無観客試合でもやるのであろうか。スカウト個人の問題にすり替えるのであろうか。いっそのこと、30敗ぐらいのハンデをつけて開幕を迎えれば良いのではないか。スカウトのポケットマネーですむような金額ではないから、球団が、会社組織が関わっていることは子供でもわかる。こんなことを言うと、「選手が可哀相」とか「選手には関係ない」との声が上がるが、本当にそうであろうか。
プロ野球の関係者は、誰の上にアグラをかいて野球ができているのかを、再認識するべきであろう。少年野球・リトルリーグ、シニアリーグ・ポニーリーグ・サンリーグ・中学軟式、そして高校野球。これらに所属する何万という野球小僧たちの上に、アグラをかいていることを、再認識するべきである。かれらが愛想を尽かしたら、「野球大好き」などと恥ずかしくて言えなくなってしまうのである。
開幕前から、不愉快な気分にさせてしまった、西武球団を含むプロ野球機構の責任は重い。得意の玉虫色の結末だけは許せない。
真剣に、真摯に、取り組まなくては、野球小僧たちに愛想をつかされる。
追伸:なお、この話題は最後にします。個人的な感情で、投稿したことをお詫びいたします。ただし、野球ルールを司る審判の目を通すと、今回の問題は「GET OUT」だと強く思います。
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馬鹿馬鹿しいニュースに触れて
2007年3月14日西武の問題は、アホ臭くてコメントする気にもなれない。誰が悪いかという犯人探しになっているが、野球関係者全員の甘さから来るものだと思う。これが、他のスポーツ選手ならどうであったのか。高校野球の春の選抜の抽選会を明日に控えて、また変な事件が起きなければいいと思うのは、私だけではないだろう。最近のマスコミの犯人探し報道には、吐き気がする。自分たちが絶対に正しい、という視線から、だから土足で踏み込んでも構わないという風潮である。自分たちの「やらせ記事」や「ガセネタ報道」などの反省は、一体いつするのであろうか。
今回の問題の根は深い。野球界全体の問題であり、その道のOBなどは、公然と批判しているが、そういうことは大衆受けしないので、なかなかニュースにならないのが現実である。せいぜい、専門雑誌のコラム欄で思いの丈を書き連ねる程度で、それも辛口ゆえに、どの程度の読者が読み、理解しているかは怪しい。しかしこれらのコラムでは、相当前から、今回の事件を予言していたかのような諸説が掲載されていた。つまり、根は深いのである。またぞろ、他球団も枕を並べて討ち死にならねば良いが。
野球部やその周囲にいる人たちは聖人君子ばかりではないが、「ルールを守り、正々堂々と最後まで戦うことを誓います」と宣誓をさせておいて、ルールブックに書いていないからという理由で、平気でインターフェアもどきのプレイを指導する、そのプレイを「野球を知っている」とか「野球通がうなるようなプレイをする選手だ」などと賛辞を送るマスコミやファン。そして、それで野球が上手くなったと勘違いする選手。「どこからがボークなのか」とか「ハーフスイングは、どこまでOKか」とか「この程度ならインターフェアは取らないよね」などと質問をしてくる自体が、本当にスポーツをやる気があるのかと言いたい。それとも野球自体が、そういう競技(サーカスと同様、興行と言った方がいいかもしれない)になってしまったのか。情けない限りである。こんなことでは、日本の野球だけが世界基準から置いてけぼりを喰ってしまいかねない。
そう言う私自身も聖人君子ではない。だから嘘も付くし、下世話なことも好きである。ただし、野球の審判をやるからには、中学生という多感な時期の子供たちと接している限りは、モラルとマナーを重視し、ルール適用の正しい考え方を伝えて行きたいと、強く思う「馬鹿馬鹿しいニュース」であった。
そんな固い事を言うなと思われても、頑固親父と思われても、融通の利かない面白くない男と思われても構わない。こんなバカな男が審判をやっていても、世間を揺るがすような「馬鹿馬鹿しいニュース」にはならないだろう。
今回の問題の根は深い。野球界全体の問題であり、その道のOBなどは、公然と批判しているが、そういうことは大衆受けしないので、なかなかニュースにならないのが現実である。せいぜい、専門雑誌のコラム欄で思いの丈を書き連ねる程度で、それも辛口ゆえに、どの程度の読者が読み、理解しているかは怪しい。しかしこれらのコラムでは、相当前から、今回の事件を予言していたかのような諸説が掲載されていた。つまり、根は深いのである。またぞろ、他球団も枕を並べて討ち死にならねば良いが。
野球部やその周囲にいる人たちは聖人君子ばかりではないが、「ルールを守り、正々堂々と最後まで戦うことを誓います」と宣誓をさせておいて、ルールブックに書いていないからという理由で、平気でインターフェアもどきのプレイを指導する、そのプレイを「野球を知っている」とか「野球通がうなるようなプレイをする選手だ」などと賛辞を送るマスコミやファン。そして、それで野球が上手くなったと勘違いする選手。「どこからがボークなのか」とか「ハーフスイングは、どこまでOKか」とか「この程度ならインターフェアは取らないよね」などと質問をしてくる自体が、本当にスポーツをやる気があるのかと言いたい。それとも野球自体が、そういう競技(サーカスと同様、興行と言った方がいいかもしれない)になってしまったのか。情けない限りである。こんなことでは、日本の野球だけが世界基準から置いてけぼりを喰ってしまいかねない。
そう言う私自身も聖人君子ではない。だから嘘も付くし、下世話なことも好きである。ただし、野球の審判をやるからには、中学生という多感な時期の子供たちと接している限りは、モラルとマナーを重視し、ルール適用の正しい考え方を伝えて行きたいと、強く思う「馬鹿馬鹿しいニュース」であった。
そんな固い事を言うなと思われても、頑固親父と思われても、融通の利かない面白くない男と思われても構わない。こんなバカな男が審判をやっていても、世間を揺るがすような「馬鹿馬鹿しいニュース」にはならないだろう。
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持病
2007年3月14日私は持病もちである。その病気が発覚してから、干支が一回りした。発覚した当時は、落ち込んだ。今の私からは想像できほど、排他的になり、悲観的になり、投げやりな日々を過ごしていた。どんどん、弱気になり、腫れ物に触るように病気と接していた。しかし、ある時から開き直った。きっかけが何であったかは覚えていないが、「病気と仲良くしよう」と思うようになった。落ち込んでいても楽しくない、そう考えると意外と気楽なものである。体調には敏感になったくせに、多少の無理を以前よりもいとわなくなった様に思う。子供が野球をやりだしてからは顕著である。少年野球では父母会で走り回り、リトルでは男親が少ないことから、球場作りや選手の世話からコーチまがいのことまでやった。そして、審判稼業に出会った。きっかけは、妻の気楽な一言である。リトルのコーチから「大会では審判をやったり、色々と手伝ってもらわないといけない」と言われ、簡単に「審判なら出来ます」と私の顔を覗き込みながら言い放ってしまった。もちろん、それまで審判などはやったことは無いし、ルールも良く知らない。昔のやった三角ベースのローカルルールの方が覚えているくらいである。それと、審判が重責なことは判っていたが、肉体的にもそれなりにキツイことは知らなかった。主審などは、1試合でシニアクラスで150回以上スクワットをやらなくてはならない。それも、緊張と集中力と戦いながら。そんなキツイ事も、何気なくやっている姿を見せているため、初めて会う人は、持病もちだと言うと信じてくれない。自分自身も、しばらく持病を忘れてやっているように振舞っているが、実はいつも気にしている。
それだから、持病なのであろう。
数年前には、新たな持病が発症した。一体、いつまで頑張れるのやら。ただ、それまでは楽しむつもりでいる。
それだから、持病なのであろう。
数年前には、新たな持病が発症した。一体、いつまで頑張れるのやら。ただ、それまでは楽しむつもりでいる。
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スクランブル
2007年3月11日審判員の基本的な動きである「クロックワイズメカニクス」については、以前に書いたとおりであるが、実際のゲームの中では、この動きだけかと言うと、必ずしもそうではない。どちらかと言えば、違う動きの方が多いかもしれない。この動きの考え方は、カバーリングの精神に基づくものであり、メカニクスを覚えることよりも、周囲に気を配り、ゲームの流れに逆らうことなくジャッジする意識があればいいのである。ただし、実際のゲームは野球盤とは違い、時として予測できない動きがある。その際に、驚かずに、冷静に対処できるかどうかであろう。特にシニアレベルの試合であれば、技量や力量もさることながら、ゲームの中での思考が、プロ野球レベルを見慣れた大人からすると、常識はずれな動きをすることがままある。審判員は、いかなる場面に対しても、正確なジャッジを求められるが、一瞬の判断ミスが大きな「疑念」を抱かせることになりかねない。今年は、早くも雪解けが進み、球春の足音がはっきりと聞こえだした。そろそろ気持ちの準備をして、スクランブル発進に備えようと思う。
それにしても、ボークやインターフェア、イリーガルなどの稚拙なミスが多すぎるように思う。また、アンフェアな考え方が根底にあるうちは、本当の強さは身につかないように思うのだが。
それらを、あっさりと見逃してしまわぬよう、スクランブル態勢で挑まねばならない。
それにしても、ボークやインターフェア、イリーガルなどの稚拙なミスが多すぎるように思う。また、アンフェアな考え方が根底にあるうちは、本当の強さは身につかないように思うのだが。
それらを、あっさりと見逃してしまわぬよう、スクランブル態勢で挑まねばならない。
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苦言からの解放
2007年3月10日2週間ぶりに練習に参加し、今年の新チームには、ずいぶんと酷い接し方をしてきたように思う。特に新3年生には、ずいぶんと苦言を呈してきたように思う。子供達の成長のスピードは、大人たちの期待と想像を、時には遥かに超え、時には大きく裏切るものである。大人たちは、毎年同じようなイメージでチーム作りに励むが、なかなか思い通りにはならない。自分達が同年代だった頃の記憶を封印して、大きな期待を子供達に課す。それが、苦言となり、子供達を苦しめることとなっているのであろう。仕事の都合もあり、ちょっとチームを離れたことで、今まで見えていたようで、見えていなかった発見が多々あることに気付いた。子供達一人一人の成長カーブは、勿論違うが、それが急激に上昇カーブを描きつつあることに、この年代の子供達のたくましさと可能性に、改めて気付かされたように感じる一日であった。チームプレイを説いているが、その答え(スタイル)は誰にも分からない。それは色々な形があるからであり、個人個人の集まりが集合体(チーム)であるからなのだろう。何かの縁があって集まったチームが、ひとつのキーワードの基に方向性を見つけることが出来れば、チーム力となって闘う事が出来る。
我チームにも、ようやく方向性が見えてきたように感じる一日であった。そのキーワードとは・・・・・。
きっと子供達(選手達)が、その答えに気付いてくれる事を期待しよう。
ようやく、苦言を言い放つ立場から解放されそうである。
また、「君達の応援団」に戻ることにする。
我チームにも、ようやく方向性が見えてきたように感じる一日であった。そのキーワードとは・・・・・。
きっと子供達(選手達)が、その答えに気付いてくれる事を期待しよう。
ようやく、苦言を言い放つ立場から解放されそうである。
また、「君達の応援団」に戻ることにする。
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ピーク
2007年3月9日何度も書くが、忙しい。サラリーマンがこんなに忙しくていいのだろうかと思うぐらい忙しい。忙しくても、給料は同じである。残業手当てもなし。世の中は、ワークシェアリングなる言葉が独り歩きをしているようだが、そんな耳障りの良い言葉で片付けられるほど、世の中は甘くは無いように思う。仕事があるうちは華と思うべきなのだろうが、寝る間も無く多忙を極めると、金より健康、金より睡眠と思うのは、間違いであろうか。とは言え、多忙のピークは、今日でヤマを超えた。「後は下るのみ」と思うとネガティブになるので、どん底状態から脱して「後は上昇するのみ」と思うことにしている。我ながら「超前向き」である。仕事をしながらでも、リフレッシュする術を身につけたおかげで、多少の事には動じなくなった。この感覚で、試合に臨めれば良いのだが、審判はまた別の世界である。野球はミスのゲームであるのに、審判員がミスをすると、やんやの喝采ならず、やいのやいの言われる。どうして、「ミスジャッジも野球のうち」と前向きに思えないのであろうか。特に、シニアでは「子供のために」という言葉が錦の御旗になっており、ミスジャッジをすると「子供が可哀相」となる。ベンチワークのミスに対して「子供が可哀相」とならないのに、第三者である審判員には厳しい。私は、そんな父兄の思いも「シニア野球のうち」と思うようにしている。
さて、さて、今年のシニアのピーク時の試合は、どのようなパフォーマンスを見せてくれるやら、春の足音と共に、ワクワクしてきた。
さて、さて、今年のシニアのピーク時の試合は、どのようなパフォーマンスを見せてくれるやら、春の足音と共に、ワクワクしてきた。
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クロックワイズ
2007年3月6日3月のこの時期に雨が降り、春一番が吹くのは、ちょっと記憶にない。1ヶ月暦が早く流れているようである。もう少し気温が上がれば、グラウンドに飛び出したくなるような気候である。温暖化の影響か?野球人にとっては、ウキウキ・ワクワクであり、喜ばしいことではある。しかし、明日試合をやると言われると、準備不足は否めない。気持ちの準備もそうだが、基本動作の反復も終わっていない。こればかりは、何年やっても練習が必要である。頭の中では判っていても、身体が反応しない。年齢を重ねると、覚えは悪いが、忘れるのは速くなる。GO−STOP−LOOK−CALLは基本中の基本であるが、反復練習で徐々に戻ってくる。しかし、クロックワイズの動きは実戦練習が欠かせない。つまり、ケーススタディが必要である。しかし、春季大会までの期間が短い北海道では、毎年ぶっつけ本番に近い状態である。
クロックワイズとは、審判員のフォーメーションの基本であり、時計回りに動く連携である。走者なしや走者1塁の場面で、この動きが登場するので、観客の皆様は、時々気にして見てもらいたい。例えば、先頭打者が右中間に長打性のライナーを打った場合、2塁塁審が打球を追うことになる。そうすと、二塁ベースが空くため、そのカバーに3塁塁審が走る。打者走者が二塁ベースを蹴って、三塁へ向かった場合、3塁塁審がいないので、球審が三塁へ走る。そこで、終わればいいが、中継が乱れて、走者が本塁へ向かった場合、球審がいない。そこで、一塁塁審が本塁カバーに走るということである。時々、三塁ベース上のクロスプレイを球審が判定している場面を見かけると思うが、それがクロックワイズの基本的な動きである。
このフォーメーションにはオプションが多々あり、基本を判っていないで、フォーメーションばかりを丸暗記しようとすると、有事の際に役に立たないことが多い。クルーの中で一人でも動きを間違うと、他の審判員が大変なことになってしまうが、基本的な「カバーリング」つまり「空いた塁をカバーする」を理解していれば、対処できるものである。しかし、これがなかなか出来ない。特に春先はチョンボが多い。
春の足音は「時計回り」で確実に近づいている。まずは、クロックワイズの頭のトレーニングとイメージトレーニングを開始しようかと思う。
クロックワイズとは、審判員のフォーメーションの基本であり、時計回りに動く連携である。走者なしや走者1塁の場面で、この動きが登場するので、観客の皆様は、時々気にして見てもらいたい。例えば、先頭打者が右中間に長打性のライナーを打った場合、2塁塁審が打球を追うことになる。そうすと、二塁ベースが空くため、そのカバーに3塁塁審が走る。打者走者が二塁ベースを蹴って、三塁へ向かった場合、3塁塁審がいないので、球審が三塁へ走る。そこで、終わればいいが、中継が乱れて、走者が本塁へ向かった場合、球審がいない。そこで、一塁塁審が本塁カバーに走るということである。時々、三塁ベース上のクロスプレイを球審が判定している場面を見かけると思うが、それがクロックワイズの基本的な動きである。
このフォーメーションにはオプションが多々あり、基本を判っていないで、フォーメーションばかりを丸暗記しようとすると、有事の際に役に立たないことが多い。クルーの中で一人でも動きを間違うと、他の審判員が大変なことになってしまうが、基本的な「カバーリング」つまり「空いた塁をカバーする」を理解していれば、対処できるものである。しかし、これがなかなか出来ない。特に春先はチョンボが多い。
春の足音は「時計回り」で確実に近づいている。まずは、クロックワイズの頭のトレーニングとイメージトレーニングを開始しようかと思う。
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