決勝戦

2008年6月9日
春の大会は、北海道の永い冬からチームを目覚めさせて力試しをする大会であり、本番である夏の大会への試金石となり得る大会である。とは言え、選手達により多くのチャンスを与えようという目的で予選はリーグ戦で実施される。リーグ戦は最低の試合数が保証されることや日程がはっきりとしている事から、勝敗よりも内容を求める指導者は多い。つまり、多くの選手にチャンスを与えて本番での実力を試すのである。
冬季練習で地道に努力していた選手が、すんなりと花開く場合もあれば、なかなか結果が伴わずに結局は埋没してしまう場合もある。多くのチャンスは転がっているものの、選手一人一人にとっては決して多い機会とは言えない。早い段階でチャンスに実力を見せることができれば、出場機会はドンドン増えるが、逆の場合はジリ貧状態になってしまう。結果を欲しがるあまりにチョンボをしてしまう場合もあるであろう。多くの指導者は「結果よりも内容」を重視して選手の評価や起用方法を考えているようである。
「結果より内容」の理解度の違いが選手と指導者にはある。凡打を繰り返していてもタイミングやスイングの内容を見て「使える」と判断する場合や、たとえ三振の山を築いていても、試合展開を読まずに四球を出してしまう投手は「大事な場面では使えない」と判断したりするのであろう。
選手の視線では、三振の山を築けば評価は良いと考えているだろうし、出会い頭のヒットでも打率が良ければ高評価と考えるであろう。
選手にとって春の大会は、「球春を迎えた喜び」と「熾烈なレギュラー争いやベンチ入り争い」の狭間で揺れる試合が続くのである。
我々審判員にとっても春の大会は多くの確認事項がある。忘れかけたメカニクスの確認や、スキル面やメンタル面の修正作業の繰返しになる。これは程度の違いこそあれ、新人審判員もベテラン審判員も同様に不安との葛藤があるものである。ある意味、経験の浅い審判員よりも経験豊富なベテラン審判員の方が大変かもしれない。そこに、春先の講習会などでメカニクスの変更などが加わると思考回路がパニックになってくる。試合を重ねるたびに、一つずつ勘を取り戻しては行くが、漠然と試合に挑んでいては時間ばかりが経ってしまう。
選手や指導者、そして観客である父兄は、「審判員」に対して初めから万全を期待する。それが当然であるかのように考えているであろう。もちろん、審判員もそのつもりグラウンドに立つのだが、どうしても春先は多岐に亘り至らなかったり、やり過ぎたりという凸凹が出現する。
斯く言う私も例外ではない。審判員を職業としている訳ではないが、やはり初めから大過なく終えたいと考え春の大会を迎えた。もちろん自分自身のステップアップのために、今年の目標を定めて大会に挑んだが、理想像には程遠い「内容」であった。
最も反省しなくてはならないのが、説明能力の不足である。「審判員の裁定は最終」のものである。最終の裁定であるがゆえに、説明責任を果たせる裁定でなくてはならない。「何となくルール違反」とか、「何となくそのように感じた」などの曖昧さは許されないのである。あくまでもルールブックに基づいて、明確に説明できる裁定であるべきである。
春の大会は「内容」の悪さをおおいに反省し、次に挑もうと考えている。ある意味、問題点が露呈したことを善しとして、プラス思考で挑もうと思う。
一縷の明るさは、決勝戦での球審を務めるという名誉な「結果」を得られたことであろう。
これだけ内容の悪い人間に大役を預けていただいた、審判部諸氏や大会関係諸氏、そして選手諸君に感謝するばかりである。

ご冥福

2008年6月4日
私がお世話になっているチームの功労者が亡くなった。非常に残念でならない。色々な面で協力を頂き、それに報いることが出来ずにいる間に他界されてしまった。
中学シニアなどのクラブチームは、色々な方たち「縁の下の力持ち」によって成り立っている。自分も微力ながら支えているという自負はあるが、感謝の思いを忘れたことはない。
選手、父兄、指導者はもちろん、表には出ないが支えてくれている方々は沢山おられるのである。
そのような事を思うと、子供達が野球をやれる悦びさえあれば勝ち負けを問うこと自体がナンセンスに感じてしまう。
子供達が嬉々として、楽しそうに野球ができる環境を造ってあげられれば良いのであろう。そこに「勝利」という付加価値が付けば、付いた時に喜べば良いのであり、「敗北」を悔やみ叱責する必要はまったくないのである。
そんなことを「縁の下の力持ち」の人達は望んでいないのであろう。もしも、それを望むのであれば、もっとトップダウンの物言いがあったり、行動が伴ったりするであろう。
それが無いという事は、野球少年たちの健やかな成長のみを望まれていたと理解するのが正しいように思う。

球団創設以来、多大なお力添えを頂き、心よりご冥福をお祈りいたします。天国にて、少年達の成長を見守っていただければと願っています。 -合掌-

塁審の目

2008年6月2日
球審を任される機会が多くなったせいで、時折巡って来る塁審の動きに異変が起きている。非常に違和感がある。集中しようとしているのに、大事なところを見ていない気がする。この違和感は、しばらく消えないであろう。
塁審には「塁審の視線」がある。一塁塁審と三塁塁審の視線・視点は180度違うように、それぞれのポジションで、それぞれの役割を果たしながら試合をコントロールしているのである。
例えば、右投手の投球フォームを注視していても、手の動きは一塁塁審には「はっきり」とは見えない。だから私は、視線は足の動きを中心に見ることにしている。しかし、牽制球を一塁に投げる際には「手の動き」は明確に見える。
先日小雨降る中での試合で、右投手が一塁へ牽制球を投げる「真似」をした。一塁塁審を任されていた私は、投手の足に集中していたため、投手板を外したことは確認した。ゆえに、一塁への「牽制球の真似」はボークの対象とはならない。ところが、その右投手が再び一塁へ背を向けて打者に正対した際に、「グラブの中のボールを、右手で掴んだ」ように見えたのである。つまり、それまで「右投手の右手にはボールが握られていなかった」ことになる。ということは、一塁への「牽制球の真似」をした際に、ボールはグラブの中にあったということなのだ。
これの解釈は「ボークルール」に明確には書かれていない。ゆえに、「ボーク」とせず「注意」で良いだろうというのが大勢の意見ではあるが、そのアクションに私も走者も完全に騙されたのは事実である。「走者を騙す」ことをボールルールは厳しく禁じている観点から考えると、「ボーク」を採用されても致し方ないプレイではある。
この行為を一体誰が気付くであろうか。球審や二塁塁審には角度的に難しいであろう。一塁への投げる真似が緩慢に行われたら気付くかもしれない程度だろう。
では三塁塁審はどうであろうか。右投手がセットポジションをとった場合、手の動きがすべて見えるのは三塁塁審ではある。しかし、両手を合わせた状態では、右手にボールが握られているかどうかの100%の確証はない。打者に投げることを前提に見ているから、ボールが握られているのは「当たり前」となっているだけである。この状態から1塁への牽制動作へ移行してからは、手の動きは確認できないだろう。
球審と3人の塁審の目があっても、このような常識外れのプレイを確認することは難しい。相当集中していたとしても、その現象を確認し、ルールに照らして適正か否かを裁定し、必要な場合はコールするまでを一瞬で行わなければならない。これをスムーズに処理するには、多くの経験が必要であることを強く感じている。

塁審の目は非常に重要である。球審の判断や裁量が及ばないプレイは意外に多い。また、球審の補助をしていながら、最終判断を任される局面さえもある。
その代表格が「ハーフスイングの裁定」であろう。基準が不明確なハーフスイングは、捕手のリクエストがあった場合のみ、一塁または三塁塁審にその全権を委譲する。球審からの全権委譲された塁審は、そのハーフスイングが塁審の目でどのように見えたかだけを判断基準に裁定する。つまり、右打者の場合は一塁塁審が、左打者の場合は三塁塁審が球審と同じような緊張感が必要ということである。
これは、自分の技術を磨くための、ひとつのヒントであると思う。
塁審も球審と同じように、一球・一球、ワンプレイ・ワンプレイをジャッジすることで、自分の感性を磨くことができるように思うのである。
塁審の視線でゲームに参加し、久し振りの異次元空間を感じた。
一塁塁審の見せ所に、「オフ・ザ・バッグ」がある。
講習会で必ずと言って良いくらい繰り返される、塁審の基本動作のひとつに「送球に対して直角の位置へポジショニング」することがある。
これは、?一塁手の捕球、?打者走者の触塁、?一塁手の触塁を同時に確認できるポジションとされている。内野ゴロとなった場合、できる限りこのポジションへ素早く移動し、身体は一塁方向へ正対させた上で、野手の動きを目で追うように確認する。要は首だけ野手の方向を見るのである。内野手の手を放たれた「送球の質(高低・コースが主になる)」を確認し、一度目を切り、一塁手および走者をファインダー(視界)に収める。
この際のポイントが一塁手の足がベースを踏んでいるかである。「送球に対して直角の位置」に入ることは、これが最も良く見える位置ということである。
どうしても一塁手が送球を捕球する瞬間と、走者の足がベースを踏む瞬間の「タイムレース」に目が行きがちであるが、意外にも一塁手の足が離れるケースは多い。特に、リトルシニアでは野手の送球が安定していないことや一塁手の技術が未熟なことにより、一塁手の触塁が非常に怪しくなるのである。
この「足の離れ」を確認できた時には「オフ・ザ・バッグ」を掛けなければ選手やダッグアウトや観客が納得しないばかりか、不信感を抱かせる原因となってしまう。
明らかに打者走者が速い場合でも、一塁手がジャンプした時などは「オフ・ザ・バッグ」を掛けると非常に判りやすい。まあ、これは極端な例であり、その程度にもよるのだが・・・。
タイミング的に際どい時は、「オフ・ザ・バッグ」は効果絶大である。打者走者の触塁が一塁手の捕球より速ければ、一塁手の足の触塁に関係なく「セーフ」なのだが、際どい場合は両ダッグアウトや観客席では違って見えるものである。攻撃側は「セーフ」に見えて、守備側が「アウト」に見えるのである。ここで、「オフ・ザ・バッグ」を確実に実行すると、守備側を含めた球場全体が納得してしまうのである。これは、魔法のように効果抜群である。
それほど、効果抜群なことを知っていながら、今年はなかなか「オフ・ザ・バッグ」をコールできずに苦しんでいる。結果としては問題ないのだが、周囲への説明責任としては必要不可欠なものであろう。それも瞬時に裁定を下し、結果を示すことが審判員の役割であるから、この効果絶大の魔法は「ひとつの武器」になるのである。その武器を使えずにいることが歯痒くて仕方がない。ある程度、意識してやらなければならないだろうと考えてしまう。

フォースプレイは一塁上が圧倒的に多いのは周知のことではあるが、他の塁でも当然発生するプレイである。いわゆる塁が詰まった場面では、その先の塁上でフォースプレイが発生する。走者1塁、1・2塁や満塁のケースである。ゆえに「オフ・ザ・バッグ」は一塁塁審の専売特許ではなく、すべての審判員が会得しておかなくてはならない技術である。
「オフ・ザ・バック:Off the Bag」は、キャンバスの形状が「バッグ:Bag」に似ていることから由来しているのであろう。では、ゴム板で出来ている本塁は・・・・。
先日、満塁の場面で前進守備の内野正面にゴロが飛んだ。当然のように、本塁併殺を狙ってバックホームされた。この際の球審は、タッグプレイではないから一塁塁審と同様に、内野手からの「送球の質」を確認してから、捕手の足と走者の足に集中していた。
タイミングは、まったくの「アウト」。捕手は、捕球してから一塁へ転送した。その瞬間、球審の手が水平に広がった。球審の目には、はっきりと見えてしまった。
捕手の足が本塁ベースの前にある状態のまま、走者の足が走り抜けていくのを。
本塁ベースを凝視したまま「セーーーフ」。
捕手は振り返り、守備側ダッグアウトや観客席からは激しいブーイングが聞こえてくる。
ここが魔法の使いどころであったのだろう。「オフ・ザ・バッグ:Off the Bag」ではなく「オフ・ザ・ベース:Off the Base」の魔法を。

罵声

2008年5月18日
観客席にいると相手チームの声は良く聞こえるが、自チームの声が小さく感じて「ベンチ声出せぇ〜」などと叫んだことが良くあった。しかしグラウンドレベルにいると、ダッグアウトからの声はよく木魂して大きく響くのである。おのずとダッグアウトから聞こえてくる罵声も良く聞こえる。時には作戦面が判ってしまう事さえある。指導者たちは、当然そのあたりは計算づくだとは思うが、罵声は聞き苦しい限りである。選手を鼓舞する声は良いとしても罵倒する声は睨み付けたくなる。ダッグアウトからはストライクゾーンが高さしかわからないはずなのに、「どうして、好球を見逃す!!」と叱責する。実は、アウトコース一杯一杯のベストピッチであったりするから、思わず「今のは打てないよな」と同情してしまう。選手と指導者の関係は、私が口を挟む余地はないのであろうが、罵声や叱責は聞き苦しい。時に、それが選手との「スキンシップ」だと勘違いしている指導者もいるようであるから困りものである。また、それが試合を活気付けると勘違いしている指導者もいるようである。
罵声の中には、審判員の判定や判断に対するものもある。自分達に不利な判定や判断が為されると、決まって異議を申立てる。ほとんどの指導者が、自チームのベストパフォーマンスを期待しているから、不慮の事態が発生した時に頭が整理つかないのであろう。
まずは、大声で異議を申立てるのが常である。
先日も「ボーク」を連呼する指導者がいたが、自分達の裁定に不安も何もないことから無視して試合を続行した。正式に監督が抗議に出てきた場合には丁寧に対処する必要がある。しかし、ダッグアウト内で馬鹿でかい声を張り上げている指導者に対し、闇雲に反応してしまう必要はまったくない。無視することにしている。
同じようなクロスプレイも、攻撃中は「セーフ」に見えて、守備中は「アウト」に見えるのが野球である。それも人情であろう。この二分の一を裁定していくのが審判であり、それに意義を申立てることは野球を否定することと同じである。
指導者達はスポーツマンらしくあれと言っていながら、自らが汚い素行を見せていることに気付くべきであろう。選手達に「正々堂々」を宣誓させていながら、試合では妨害プレイを励行しているチームや、野次を聞き流している指導者やチームがあるのも事実である。
過去に中学シニアで「退場」騒ぎがあったかどうか知らないが、公認野球規則には「審判員の権限」として明確に記載されている。
9.01    審判員の資格と権限 (d)審判員は、プレイヤー、コーチ、監督または控えのプレイヤーが裁定に異議を唱えたり、スポーツマンらしくない言動をとった場合には、その出場資格を奪って、試合から除く権限を持つ。
私自身、野球経験が皆無なことは何度も書いている。ゆえに、技術面や作戦面に関することは素人であろう。一野球ファンとしての知識しかない。しかし、「野球規則」に関しては、十分議論できると自負している。まだまだ未熟な面は多々有るが、野球規則に関する勉強を継続していることは明確に言える。
自分達に不利な判定をされたと感じて異議を申立てる指導者の方々は、是非とも「野球規則」に照らしてみてからお願いしたい。
私達審判員は、「野球規則」に則ってゲームを進めることしかできないのであるから。
良く言われるのが、「自分がやってきた野球には、そんなルールはない」という言葉であるが、それがどうしたと言うことであろうか。「自分がやってきた野球」が「絶対」だと思っていること自体がナンセンスなのであろう。特に、上のステージを経験してきた指導者に多いのには閉口する。上のステージでやってきた野球人ほど、野球規則に精通し、審判員の資格と権限を理解していなくてはならないのではないかと思う。
上のステージで野球をやってきた人間の影響力は強い。発言力も強い。素人たちは、霊感商法のようにすぐに騙されるであろう。だからこそ、野球の基本原則を理解して広めてもらいたいと強く思うのである。
野球人である前に、一人の人間として子供達を指導するためには、審判員も指導者も一社会人として襟を正すべきであろう。

札幌円山球場

2008年5月15日
円山球場に高校野球を観戦に行ってきた。久し振りの円山球場である。球場に足を踏み入れた瞬間から、ワクワク感と懐かしさを憶えるのは私だけだろうか。
まったく縁もゆかりも無い訳ではないが、比較的リラックスして試合観戦できるかと思いきや、白熱した高校球児のプレイについつい引き込まれてしまった。
それにしても、観客席で試合を見ていると、いかに観客が審判のジャッジに一喜一憂しているかを再確認できる。
「良い球!」が「ボール!!」となると、観客席がどよめくのである。と言っても、平日の高校野球であるから、観戦しているのは、学校関係者や父兄、それと「円山球場の主」の面々くらいなものである。つまり、札幌ドームのように何万人という観客数ではない。それでも、一球のジャッジに球場全体がどよめくのである。

私は、試合を楽しむ意味で、必ずどちらかの応援をすることにしている。なかなか中立の立場で観戦することは難しいし、面白くない。判官贔屓でもいいから、どちらかに肩入れするのである。そうすると、試合展開による作戦面や、選手達のメンタル面などを感じることができて、非常に面白いのである。やはり、スポーツはプレイヤーもファンも楽しまなくてはならないと思う。

ただし、最近は試合の見方が少し、いや大きく変わった。審判員に肩入れしてしまうのだ。どちらかのチームというよりも、審判のジャッジにイチイチ理由を付けたくなるのである。
「良い球!!ボール!」の時などは、「低い」だの「外が辛い」などとイチイチ解説してしまう。自分の判断と同じジャッジがなされると、私自身も納得の観戦となるが、その逆は・・・・となる。

そんな最近の私としては珍しく、今日の試合は「ファンの目」が大勢を占めていた。つまり、自分に不利なジャッジにはブーイングをかまし、有利なジャッジには「しめしめ」とほくそ笑むのである。肩入れしている贔屓のチームの試合であるから、それも善しとしよう。

それでも「審判の目」は忘れていない。
「ストライク・ボール」は高低しか見えないし、今日の球審は高低がしっかりしているので問題なし。
「アウト・セーフ」も近くの審判員のジャッジで問題ないであろう。
あとは、野球のルール上のレアケースである。これは、見逃しても試合は展開されるが、下手をすると規律のないゲームになってしまう。
「ボークのジャッジが甘い」だの「今の捕手の位置はオブストラクションだ!!」「今の走者のスライディングはインターフェアだ!」と心の中で叫んでいる。
いやはや、もっと楽しく野球を観たいものだと思いもするのだが、この道に足を踏み入れると、そうはいかないようである。

それにしても、今日の試合は興奮したな。
ありがとう、選手諸君。

謙虚に

2008年5月13日
シニアの春季リーグも中盤を終え、いよいよ後半戦へと突入する。私自身、公式戦を10試合ほど立ち会った。オープン戦を含めると20試合を超えたことになる。まだまだ、不安定さは否めないが、なんとか形にはなっていると思う。
前半戦では、勘を取り戻すことと癖の修正にポイントを置いてみた。
「在って七癖、無くて七癖」というが、私の審判スタイルにも癖がある。どうでも良いような癖から悪癖まで、その程度は様々であるが、先輩審判員から指摘された場合は、積極的に直すようにしている。自分で判っている癖でも許容範囲にあると思い込み、見逃しているものが多いが、それを他の審判員から指摘されるということは、次のステージへ上がるチャンスと思うようにしている。
時折、先輩審判員を煙たがる人を見かけるが、折角の忠告であるのだから謙虚に、素直に聞き耳を立てるのが良いと思う。ある意味、忠告や指摘をされなくなったら、成長が止まると考えるようにしている。
今年は、自分の立場の変化もあり、少し謙虚さが足りなかったことを反省している。そのような心の状態は、すぐにジャッジに表れ、大きな「しっぺ返し」を喰らう羽目になる。今一度、伸びた鼻っ柱をへし折り、地道に一つずつ歩んでいこうと思う。
昨年から気になっていた癖の一つに、外したマスクを被る時、右手に持ち換える癖があった。つまり左手で外したマスクを右手へ持ち替え、ハーネス(紐の部分)を左手で持ち被っていた。この動作だけを取り上げると、大勢に影響のあるものではない。球審を始めた頃は、右手でマスクを外していたことの名残のようなものである。しかし、マスクを外すのが左手という原則と同じで、再び被るのも左手が良いのではないかと思うようになった。そう考えるようになってから、先輩方のスタイルを見ていると、左手でマスクを持ち被ることが、理に適っており、かつスマートに見えた。右手はアウト・ストライクをコールする際に使用する重要なアイテムである。それをフリーにしておくためには、左手マスクが理に適っているのであろう。
「思い立ったが吉日」とばかり、オープン戦で挑戦してみた。もちろん、ジャッジが一番であるのは言うまでも無いが、マスクを外す度に意識的に右手をハーネスへ伸ばしてみた。この程度の癖であれば、一試合やってみると修正が容易に出来るものである。
大先輩から指摘された癖もある。捕手がパスボールをした際に、左側(三塁側)へ動く癖である。走者がいない場合は問題にならないが、走者がいる場合は捕手がボールを追い掛け、その後に送球することを考えると、左側(三塁側)へ動くことは「間違い」と言っても良い。つまり、捕手のパスボールが発生した際には、走者がセンターライン(本塁と二塁を結ぶライン)より右側にいるケースは、ほとんどないからである。まれに、後逸したボールが捕手の近くにあり走者が躊躇した時や、走者のボーンヘッドなどで進塁できないことはある。しかし、ほとんどのケースで捕手はセンターラインから左方向へ送球するのである。
このことから、球審の動きは右方向(一塁側)へ移動することがベストと言える。これは、自分自身でも気付いていたが、なかなか修正が出来ずにいた癖である。「癖だから、仕方がない」と見過ごそうとしていたのも事実である。しかし、大先輩から指摘を受け、指摘を謙虚に受け止めようと考えた。
右打者の場合、スロットポジションに位置すると、左足を前方に出し右足を引いた状態となることから、下半身は右に開いた状態となる。このため、捕手が後方へ動くことに対して素早く反応するには、左足を軸にして右足を引くのが速い。その後の動きは、自然と左側へ逃げるようにステップバックすることとなるが、これが問題の癖となるのである。ここで、捕手をやり過ごし、ボールと捕手の動きを確認しながら右側へ移動するのが基本的な動きなのであろう。これは、見過ごしてはいけない「癖」である。
 毎試合、謙虚になって、意識しながら修正していこうと考えている。

中学三年生

2008年5月12日
各カテゴリーによりレベルの差はある。学生野球の場合は、小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学と進学するに従い、スピードやパワーの違いを実感するだろう。その内で、フィジカル面の大きな差を感じるのが中学野球であろう。春先のシニアチームを見ていると、新一年生は小学生そのものであるのに対し、三年生は高校球児と間違いそうな選手もいる。それだけ三年間での成長量が大きいことを物語っている。打球のスピードも、「今にも停まりそうな」当りから、恐怖さえ感じるものまで、歴然とした差がある。
ゆえに、中学生の指導は難しいであろうと思われる。
同じ種類・強度の練習を全員にさせることは危険を伴う。どうしても、主力に合わせたトレーニングメニューとなるため、非力な選手や弱小の選手にとっては苦しいだけの鍛錬になってしまう。これは、トレーニングとは呼ばないのであろう。では、同じ学年が同じメニューをやれば良いかというと、これも違う。同じ学年でも、体重が倍半分違う選手がいるからである。
成長のバロメーターは「身長」だと思われている方は多いであろうが、スポーツ選手の場合、実は「体重」管理が重要である。新しい命が誕生した時に、「身長」と「体重」のどちらが多く語られるであろうか。当然のように「体重」であるが、これは人間の成長を表すバロメーターとして重要なファクターであるからである。つまり、「体重」が増えなければ「身長」も伸びないのである。
ということは、体重別を一つの要素として選手を区分し、トレーニングメニューを考えることが理に適っているのであろう。しかし、実態はそうはなっていないのであろう。平均的なトレーニングメニューを選択すると、大きな選手は「不足」を感じ、小さな選手は「辛さ」を感じるのである。
これは少年野球から始まっており、未だに「スポ根野球」が蔓延っているようである。
北海道の少年野球のシステムには異常さを感じる。何と言っても大会数が多過ぎる。強いチームなどは、毎週土日は公式戦であり、下手をすると大会を掛け持ち状態となっているようである。
こんなチームの主力選手はたまったものではないが、そこは小学生である。大好きな野球ができるのであるから、文句も言わず、それも笑顔で頑張ってしまうのである。
これらの代償は中学時代に払わなければならなくなる。
我がシニアチームにも、強いチームから来たセンス抜群の選手やパワー満点の選手などが、肘や肩・腰などの障害を訴えることが、後を絶たない。思わず、考えてしまう。
子供達の成長に合わせた試合スケジュールやトレーニングメニューを、小中高一環で考える時が来ているように思われる。
野球人口は一時の右肩下がりから、イチローや松井、そして松坂などの大リーグでの活躍もあり横ばい傾向へと回復しているのであろう。北海道では日本ハムのフランチャイズ化とその躍進ぶりで、老若男女を問わず野球熱が高まっている。
だからこそ、少年野球や中学シニア野球は、その先の高校・大学・社会人へと続く道筋を明確に示してあげる必要を感じてしまう。
野球経験のまったくない私が、野球の審判に惹き付けられる理由は明確である。選手達の笑顔と全力のプレイに惹き付けられているのである。その笑顔が苦悩の表情に変わらないよう、選手達の心身のケアを指導・管理していくことを強く感じる。

本日の日記は、肘の障害に苛まれながらも復活を目指している、ある中学三年生に贈るものである。
しっかりと前を見つめて、目標を定めて頑張ってもらいたいと切に願う次第である。
春先の審判員の悩みのひとつにストライクゾーンがある。オープン戦などの実戦経験が少ない状態で、大会が始まってしまう北海道では、その傾向は顕著であるように思う。早い段階で勘を取り戻すには「数を見る」しかないのであろう。アウトコースの見極め、高低の範囲、そして変化球の感覚などは「数を見る」しかないのである。
今年は冬季の室内練習から、早めにブルペンに足を運び、投手の球を見る機会に恵まれたお陰で、比較的スムーズにシーズンに入ることができた。それに加えて、オープン戦の実戦でもコンスタントに球審を務めるチャンスがあったり、高校生や社会人の球速にも触れる機会があったことも幸いしているようだ。
アウトコースの見極めが、早い時期から安定したのも気持ちの余裕を産んでいるように思う。球審の役割は非常に多いことから、ストライク・ボールのジャッジの安定が無ければ、良い動きも出来なくなってしまう。そのジャッジも、すべてが良くなることが重要ではあるが、シーズン浅いこの時期は、コースなり高低なり、いずれかが安定することが精神的な余裕につながってくる。
高低に関しては、まだまだアバウトである。もう少し安定しないとフラストレーションが溜まってくるし、選手たちに申し訳ない。それとダッグアウトから良く見えるのは、「高低」だけである。コースのアバウトさは、良く判らないのが現実である。コースは捕手のミットの動きを見て判断していることがほとんどであろう。その一例が、明らかに外角遠目に構えている捕手に対して、ミットがピクリとも動かない投球に対して「ボール」とコールした時のダッグアウトや観客から歓声や溜息が起こるのが証拠であろう。明らかなボール球だが、捕手が動かずに捕ると、「ナイスボール」に見えてしまうのである。コースに関しては、審判員よりもダッグアウトや観客の方がアバウトなのかもしれない。
毎年、審判講習会でストライクゾーンの確認をするが、高低に関しては毎年「新鮮さ」がある。おそらく、世の中の野球ファンはプロ野球のストライクゾーンが染み付いているため、ルールブックに書かれているゾーンに抵抗感を否めないと思う。斯く言う私自身も、そうであり、ゆえに「新鮮」なのである。
高目のストライクゾーンの限界は、一体どこであろうか。ルールブック上は「打者が打ちにいった姿勢で、選手の肩とベルトの上端の中間」と書かれている。これは、意外と高い。このラインに引っ掛かれば良いのであるから、実際にはこの上限よりボール一個分上までがストライクとなる。さて、「肩と腰の中間」とは一体どの辺りであろうか。私を含めた多くの審判員の目安となっているのが、ユニフォームの胸のマークである。このマークの下限が「そのライン」としている方々が多い。他には、打者の肘の高さを目安にしている審判員もいるようである。
実はこの高さに捕手のミットを合わせると、捕手の頭の上の位置に来るのである。
この高さを「高い」と感じるのは、私だけではないであろう。実戦で、この高さを「ストライク」とコールした場合、ダッグアウトから聞こえてくる声は「高目が広いよー」と言う言葉である。
テレビなどでプロ野球を観ていると、高目はかなり狭い。ベルト付近に高目の上限があるように観える。実際に捕手の顔の付近で捕球されていると、ことごとく「ボール」と判定されている。ボール2個から3個程度狭いのかもしれない。
一方、低目はというと、アマチュアはプロ野球よりもボール一個分高いのが限界ラインである。「打者が打ちにいった姿勢で、膝頭の下限ラインをボールが完全に通過した場合」がストライクである。プロ野球は、このラインに引っ掛かれば良いのである。
低目については、昨年から自分なりに基準を持てるようになった。今年は、まだ完全に出来てはいないが、徐々に修正していこうと思う。
その基準も自分だけの考えであったが、先日同僚との会話の中で、同じ基準を持ってジャッジしていることが判り、大きな間違いは犯していないと安堵した。
この時期にしか修正の出来ないことである。早目の手当てをしようと思う。

ノー・タッグ

2008年5月1日
私の声は大きい。これは自他共に認めるところである。最近、喉の調子が芳しくないのは、年齢によるものなのかもしれない。時折、声が裏返るのが気に掛かる。
球審をやっている場合、本塁付近でのコールが多いことから、ダッグアウトおよび観客席(ほとんどが内野席に観客はいる)および本部席には十分届いているようである。投手が投球練習をしている際の「ボールバック」の掛け声は捕手より大きくなってしまう。捕手の面目もあるので、今シーズンからは出来る限り叫ばないように心掛けているが、ついつい叫んでしまう。ある意味、それが試合を活気付かせる一因になっていると考えているから、「元気な球審」を演じてしまう自分を感じている。
早い話が、目立ちたがりなのであろう。「審判員は目立っては駄目だ」とベテラン審判員から、何度も注意を受けているが、性分ゆえになかなか直らない。今後も、毎試合注意をしようと肝に銘じるところである。

先日の試合で、二塁塁審に配置された。二塁塁審は、グラウンドの中央に位置することが多く、センターラインで試合を観る事ができる利点がある。ダイヤモンドの外と内での役割が明確になっていることから、一度身に付けると楽しいポジションである。ただし、どのポジションも楽しくはあれ「楽」なことは無いのは周知のとおりである。
走者がいるケースで、二塁塁審が内に入った場合、そのジャッジのコールは外向き(外野向き)となることが多い。二塁キャンバスより本塁側に位置することから、キャンバス上でのジャッジは外野向きに振り向いた状態となるのである。
一塁塁審や三塁塁審の場合、内側にポジショニングするケースは少ない。外野方向を向いてジャッジ&コールすることはほとんどない。このことからも、二塁塁審の特殊性がわかるであろう。
この特殊性が、ジャッジのコールの足を引っ張ることがある。外野に向かってコールすることから、野手には聞こえるが、ダッグアウトや観客席・本部席には聞こえないことがある。
そのためにジェスチャーがあるのであるが、アウトやセーフは良いとして、時として困ることがある。
先日の試合では、投手の二塁牽制球に二塁走者が完全に引っ掛かった。遊撃手が二塁走者の帰塁を待ってタッグし、高らかに「アウト!!」とグラブを突き上げた。
タイミングは完全にアウトである。二塁走者のヘッドスライディングは二塁キャンバスから50?手前の位置にあったのだ。
判定は・・・・「セーフ!!」
私の目は、遊撃手のグラブが二塁走者の腕の間の地面を力強くタッグするのを見てしまったのだ。それが、はっきり見えた以上は「タイミング・アウト」とはコールできなかった。
誰が見ても「アウトのタイミング」のプレイを、一番近くで見て判定するべき審判員が「セーフ」というには、衆人を納得させる理由を明らかにする必要があるのであろう。一塁でのフォースプレイにおける「オフ・ザ・バック」もそれである。
私は、ちょっと考えてから「ノー・タッグ!」と大声で叫んだ。ただし、二塁キャンバスを見たままの姿勢で、つまり外野方向を見たままで叫んだのである。
球場全体は、まだざわついている。
仕方がなく、守備側のダッグアウトに向かい、両手を叩いて「ノー・タッグ」と叫んだ。
情けないのは、この時「ノー・タッグ」のジェスチャーが思い浮かばなかったことである。「オフ・ザ・バック」のジェスチャーでも変だろうし、手の甲を叩くのも違うように思う。
同僚に聞いたところ、「セーフのジェスチャーをしながら、ノー・タッグと叫ぶしかないかな」と言われた。
それでは、外野向きにコールすることとなるから、やはりダッグアウトや衆人には判らないだろう。明確に判るジェスチャーがあれば良いように思う。
今度、ベテラン審判員に聞いてみようと思う。

遅延行為

2008年4月30日
春先は投手の不正行為が多い。これは投手が成長過程であるから致し方ない部分もあるが、そうでない部分もある。技術的に未熟であり、投球動作が安定しないことによるボークは、指導して矯正していくことが重要である。あまり、目くじらを立てて「ボーク」を宣告するのもどうかと思うが、その場で区別がつかないのも事実である。
「鉄は熱いうちに打て」の格言とおり、早いうちに不正を指摘してあげるのも審判員の努めであろうと考えるようにしている。「注意」よりも「ボーク」の宣告が一番効果の上がる方法であるのは間違いない。過激な発言としては、「このボーク宣告」で当該投手が投手としての自信を喪失しても致し方ないとまで考えている。この忠告を真摯に受け留め、矯正に努めることが出来る選手が「投手」として残ることが出来るのであろう。
技術面の稚拙さによるボークは、指摘する方も、される方も比較的気楽さがある。逆に、指導者が放置していたことへの憤りの方を感じるくらいである。
問題は、精神面の狡猾さによるボークである。時折、打者と勝負せずに走者と勝負する投手を見かける。しきりに走者を気にして牽制を繰り返す投手である。実は、正規の牽制球を投じた場合、それにより走者が「アウト」になるケースは、すべてが走者側に問題がある。つまり、「走者がうっかりしていた」か「走者のリードが大きい」か、または「走者が機敏さに欠けていた」かである。投手の牽制が上手かったために走者が「アウト」になることはありえないのである。
投手は、打者への投球も、走者への牽制球の送球も、踏み出して投げることを義務付けられている。この「踏み出し」の基準を明確に理解していない投手が「ボーク」を犯すのである。また、「投手板」を外した場合は、野手と同じ条件であるから、ターン送球もクイック送球も可能である。しかし、投手板を外した状態で打者に投げることは出来ないのであるから、走者側からは「牽制球」が来ることは明白であり、軸足が外れた段階で戻れば良いのである。それでも際どいプレイとなるのは、「投手板」の外し方に疑惑があるからであろう。「投手板」の外し方は規則書に明確に書かれている。「投手板の後縁、またはその延長線上より後ろへ外す」のが正解であるが、プロ野球の影響なのか「投手板の横」や「投手板の前」に外している投手がいる。そういう投手に限って、「素早く」動くのである。だから、走者も審判員も騙されるのである。ボークの考え方としては、「騙される」=「ボーク行為」としても構わないのであろう。審判員が騙されたと感じた瞬間に「ボーク」を宣告できるようになれば良いのだが、なかなか難しい。「どこがボークか」と聞かれた時に、明確に答を持たなければ「ボーク」を宣告することは出来ないであろう。
基準が不明確な行為の代表格が「遅延行為」であろう。何をして試合を「遅延」させたと考えるかであろう。日本人は数字の基準を欲しがるが、この「遅延」に関する明確な基準を規則書は示していない。明確に基準がないということは、審判員の感性任されていると考えて良いように思う。つまり、審判員が「遅い」「ダラダラしている」「早く、打者に投げろ」と感じたら「遅延行為」として扱ってよいのであろう。

8・05 塁に走者がいるときは、次の場合ボークとなる。
(h) 投手が不必要に試合を遅延させた場合。

例えば、グラブにボールを入れた状態で牽制球を投げる動作をした場合、ロージンバックを投げる動作をして走者を威嚇した場合、投げる気もないのに盛んに小さく腕を振る行為などは「遅延行為」と考えてよいであろう。また、山なりのキャッチボールのような牽制球も、これに該当すると考えて良い。
要は試合会場にいる選手・指導者・観客はもとより、審判員も含めてテンポの良いゲームを所望し、選手に「ハリーアップ」を鼓舞しているにも関わらず、それに水を差すようなワガママナ投手の行為は「不正投球」「不正投法」として扱って良いということである。
野球は打者が打つスポーツである。それには、投手が打者に向かって投げることが前提である。走者に牽制球を多投することは、野球をやることにはならないのである。
先日、ソフトバンクの新垣投手が「遅延行為」と思われる行為で「ボーク」を宣告された。一昔前なら、絶対に宣告することの無かったであろう。たまたま見ていたことにより、「遅延行為」の基準が出来た気がしている。
早速、二度も「ザッツ・ボーク・遅延行為」と叫んでしまった。
ボークを宣告された投手は「狐につままれた」ような表情を浮かべていたが、「無駄な動作は試合の進行を妨げる」ことを説明すると、笑顔で「ハイ」と応えていた。意外に図太いものだと感心させられもしたし、大事な夏の大会前に勉強したことは良かったのであろう。
選手諸君、駆け引きは戦術面でするべきであり、狡猾な手法だけは用いて欲しくないものである。

捕手の位置

2008年4月28日
今年はオープン戦も順調に消化しながら春季大会に突入したことから、色々なプレイを体験している。シニアの夏が終われば、選手も審判員もレベルが上がり、起こり得ないような珍プレイが起こるのである。毎年のことではあるが、ダッグアウトから守備位置への全力疾走や投球練習時のネクストバッターズボックスでの待機など、同じ注意をまた一からやらなければならないのは、毎年主力が変わる学生野球では致し方ないことなのだろう。当たり前のことを注意しなければならないのは、言う方も疲れるが、言われる方も嫌であろう。しかしすべての試合前に「攻守交替は全力疾走」と言い伝えて、今まで一試合最後まで出来たチームに出会ったことはない。高校野球では練習試合といえ全力疾走を怠らないチームはザラにあるが、中学シニアではお目にかかったことがない。
1月に東京で開催された審判員講習会でも話題になっていたが、今年のアマチュア野球界では「本塁周りの妨害行為」を厳しくしようという流れを感じている。本塁周りには、野球で行われるプレイの大半の要素が詰まっているように思われる。何と言っても、野球は得点を奪い合うゲームであり、それは本塁横の打席をスタート地点として、1塁・2累・3累と周り、また本塁に戻ってきて得点となるのである。野球を始めたばかりの小学生でも知っている、野球のルールの基礎の部分である。この周囲では色々なことが起こる。
ストライク・ボールやハーフスイングの判定から、ファウルボールやデッドボールの見極め、ワイルドピッチやパスボール、イリーガルバッティング(反則打球)やインターフェア(打撃妨害・守備妨害)、そして得点など、ここの場所で起こることは非常に多く、ジャッジの機会も断然多い。
その中でも、一番エキサイティングで注目度が高いのが「本塁上のクロスプレイ」であろう。今年は、既に4度の機会に恵まれた。これが起きるケースは色々あるが、今年のケースは?走者二塁からのセンター前安打(2度)、?走者三塁からのセンター犠牲フライ、?走者二塁からのレフト前安打である。?は同じ試合で続けて二度あったが、走者と打者が同じで打球の飛んだ方向までも同じという極めて珍しい事例であった。最初は「タッグアウト」、二度目は「セーフ」という相反する結果であった。また?はなかなかスリリングなクロスプレイであり、結果は「タッグアウト」であった。
これらの事例に共通することがひとつある。それは「捕手の位置」である。本塁上のクロスプレイで一番良く見なければならないところは、走者のベースタッチと捕手のタッグであるのは言うまでも無いが、実はその前段階がある。それが、「捕手の位置」である。野球規則7.06【オブストラクション】の項に、捕手の位置に関する記述がある。これをどのように読むかが問題である。
 7・06 オブストラクションが生じたときには、審判員は "オブストラクション" を宣告するか、またはそのシグナルをしなければならない。
 【付記】 捕手はボールを持たないで、得点しようとしている走者の進路をふさぐ権利はない。塁線(ベースライン)は走者の走路であるから、捕手は、まさに送球を捕ろうとしているか、送球が直接捕手に向かってきており、しかも充分近くにきていて、捕手がこれを受け止めるにふさわしい位置をしめなければならなくなったときか、すでにボールを持っているときだけしか、塁線上に位置することができない。この規定に違反したとみなされる捕手に対しては、審判員は必ずオブストラクションを宣告しなければならない。

以前、このブログ上で書いた記憶があるが、野球で四つあるベースの中で駆け抜けて良いのは、「一塁」と「本塁」である。二塁と三塁を駆け抜けた場合はオーバーラン・オーバースライドとしてタッグにより「アウト」となるが、一塁と本塁はそれが許されている。つまり、本塁は駆け抜けが許されているからスライディングをする必要はない。本塁と一塁の大きな違いは、一塁はフォースアウトであり、本塁にはフォースとタッグの二種類があるということである。この違いが、本塁上にボールを持った捕手がいる現象を引き起こしているのであろう。
先日、プロ野球でブロックにいった捕手が外人選手にタックルをされて突き飛ばされたシーンがあった。あのタックルを善しとは考えないが、あのような状態になっても止む無いのが本塁上のクロスプレイであり、それを阻止しようと「ブロック」すること止めない限り、あのような危険なプレイがなくなることはない。
野球規則の中に、捕手のブロックに関する記述はない。ましてや、「ボールを持った捕手が走者に対してブロックして良い」などと書かれた文面は一切無いのである。
日本の野球に根強くある、捕手のブロック行為。これは、明らかなオブストラクションであり、非常に危険なプレイである。同じタッグプレイで、三塁や二塁上で野手がブロックをすることを見た事がない。なぜであろうか。それは、捕手が防具を着けているからであろう。捕手は防具を着けて、生身の走者に体当たりを食らわすのである。これを「妨害」とせずして、何と考えるのであろうか。
今年、四度あった本塁上のクロスプレイで、ずっと気になっていた「捕手の位置」。四度目に「オブストラクション」を明確に確認し、宣告することができた。
私の今年のテーマである。

アンチョコ

2008年4月21日
毎年、この時期に行われる審判講習会では、新人審判員が多数参加する。冬期間に実施される座学には参加している方々が多いだろうと思うのだが、実際にグラウンドに立ち、審判のノウハウを教授されるのは初めてであろう。
私も数年前には「新人」と呼ばれ、講習会で訳の判らぬままに一日を過ごしたのを記憶している。
実際、たった一日で理解できるほど、審判員の動きは単純ではない。アウトカウントや走者の有無などによりケーススタディを行うが、打球方向や作戦面なども加味すると、そのケースが無限であることは想像に難くはない。つまり、そのケースごとのフォーメーションを憶えようとすることは無駄ではないものの、効率的とは言えない。
ということから、いくつかのパターンに分けて技術書には記載されており、それを簡素化したアンチョコも出回っている。セミプロである社会人の審判員の方々も、アンチョコの使用を勧めるぐらいであるから、フォーメーションの難しさは奥深いのである。
私も、数年前まではアンチョコをポケットに忍ばせてゲームに出ていたことがあったが、それを使用したことは一度もない。それは、すべてのケースを記憶していたからではない。私は、今でも動きを間違うくらいであるから、本当はアンチョコに頼るべきなのであろう。
しかし、その間違いで決定的な穴を開けたこともない。それは、同僚のクルーの審判員のカバーに助けられたことが大半である。その際に、いつも考えて感じていたことは、ベテラン審判員のカバーリングには「コツ」があるということである。
その「コツ」があることに気付くのに、4年掛かってしまった。
ベテラン審判員は、もちろんフォーメーションの基礎は習得している。その上で、「究極のコツ」も知っているのである。
私が気付いたのは、まだ「コツ」の部分であり、「究極のコツ」は、なかなか習得できないでいる。
今年のテーマは、これを習得する努力をすることであろう。
ただ、私の性格やジャッジメントスタイルを考慮すると、なかなか難しい感じはするが・・・・・。
先日も、オープン戦でクルーを組ませてもらったが、細かいところまでアドバイスを頂けるのは、本当に有難い。細かいことを言われるということは、それなりに成長していたことを認めてくれたのであろう、と勝手に解釈して悦に入っている。
まあ、超プラス思考であるから、どんな誹謗中傷も「アドバイス」と受け取ってしまえるのは、本当に得な性格であるなあ、と自分ながら感心している。
自分自身の癖や弱点を指摘されて、面白くない思いをする人は多いであろう。しかし、成長するには必要なことだと私は考えている。そうでもしないと、大ベテランの「経験」という武器には敵わないのである。
次の試合のテーマは、すでに決まっている。
ひとつは、マスクの被り方。もうひとつは、捕手のパスボールの際の動き方である。
結構、細かいことではあるが、それなりに必要不可欠なことなのである。

オープン戦

2008年4月15日
今年ぐらい、オープン戦を意識した年は初めてである。昨年までは、何となく練習試合をやっていたため、審判講習会が出発点になっていたように思う。
今年は、1月に東京の講習会に参加したことから、何かと始動が早い。それに輪を掛けて、雪融けが早く、練習試合の予定が次々と決まったこともある。昨年までは、道南方面への遠征も雪に祟られ、なかなか思うようにいかなかったが、今年はすでに練習試合も10試合に届きそうである。
チーム審判員の面々も、技術習得に前向きに取組んでくれていることから、オープン戦といえども緊張感のあるクルーが組めている。
春のオープン戦から、ボークやアピールプレイなどが続出しているし、審判員にしか解らない基本的なチョンボもちょくちょく見られる。
改めて、GO-STOP-CALLの重要性を再確認する場面が多々ある。
オープン戦ゆえに、球審よりも塁審を多く経験する機会に恵まれたのも有難い。
久し振りに三塁塁審に立ってみると、色々な事を思い出した。三塁走者の立ち位置によっては、塁審の立ち方を工夫する必要があることや、タッグプレイの位置取りの難しさである。ついつい外へ出てしまい、三塁手の背中越しにタッグプレイを見てしまう。また、痛烈なファウルボールに驚いたりもした。
実際には起こらなかったが、ファウルボールでもタッグアップがあることも思い出した。一塁塁審をしていて、捕手側に上がったファウルボールに反応し、遠目ではあるがフェンス際まで追って球審の補佐をしようとボールを追っていった。結局、フェンスを越えたファールとなったが、一塁ベースへ戻りながら一塁走者を見て、「はっ」となった。「ファウルボールによるタッグアップ」の可能性である。
シニアで使用するようなローカル球場であれば、なかなかないだろうが、円山球場なら十分にありえる。ましてや、札幌ドームなどは、プロでもありえそうである。
色々と起きてくれて有難いことだ。
公式戦前に、十分なトレーニングが積めそうである。
オープン戦も残り数試合。楽しんで行こうと思う。
週末、今年の初仕事を終えた。今年は春の訪れが早いことから、例年より5日から10日も早いシーズンインである。とは言え、前日の夜半にはミゾレ混じりの雪が降ったようで、朝早くからグラウンド整備をして頂いた、対戦相手チームの関係者および選手の皆様方には感謝以外に言葉がない。北海道の人々は、このシーズンを心待ちにして、寒く苦しい越冬に耐え忍ぶ。昨今では、北海道の家の中の方が東京などより数段暖かいなどと揶揄されて久しいが、北海道の厳寒を経験すると、それがたわ言だと解るであろう。それほどまでに待ち焦がれた球春である。陽が蔭ったり、風が吹いたりすると野球をやるには結構寒く、ドラム缶ストーブで暖を採りながらではあるが、「物好き」には付ける薬がないと言うことか、寒い寒いと言いながらも笑顔が絶えない二日間であった。
最初の大会の開幕までは、もう1ヶ月を切った。それまで、何試合実戦に立てるであろうか。せいぜい5〜6試合であろう。年々歳々、目力が衰えていく中で、いきなり動体視力を試すようなことは結構苦痛ではあるし、精一杯のプレイを繰り返す選手たちに申し訳ないようにも思う。冬期間、シニアの練習に参加しながら、出来る限り投球練習やシート打撃で目の動きを慣らしてはきたが、やはり実戦は違う。
捕手との距離や頭の高さ、打者との間隔、左右の足の位置取り、首の角度や腕の構えなど、基本姿勢だけでもチェックポイントが多々ある。しっかりトラッキングが出来ているのかや、コールのタイミングは早すぎないかなども重要なポイントである。
これらのチェックポイントを、それなりに格好良くすることが、元々アバウトなストライクゾーンに対するジャッジメントを、それらしく見せてくれる。
球審の位置はベンチの声が良く聞こえる。ベンチから、「今の投球がストライクか?」とか「低くないか?」とか「あの高さは、今日はストライクだぞ」とか「今のハーフスイングが空振り採られたの?」などの判定に対する疑問符は、ほとんど聞こえてくる。これにイチイチ反応していると、いかにも言い訳臭くなるし、実際には腹も立つ。特にストライクゾーンの一部しか見えていないのに、判定に疑問を差し挟むのは、気分を害することはあっても、気持ちの良いものでは決してない。つまり、審判員を敵に回すということである。
我々審判員は、誰とも闘っている訳ではないし誰の味方でもない。これが、審判員の最低条件なのであろう。がしかし、微妙な心の動きが働いたように見えるのも、「人間が人間をジャッジする」からなのであろう。

今日は「プレイボール」の重要性を改めて実感した。数年前に、あるベテラン審判員から「ファウルボールの後には、必ずプレイを掛けろ」と言われたことがある。今となっては当たり前のことなのだが、これをおろそかにすると、試合が「野球」になっても「ゲーム」にならない状態になる。つまり、インプレイかボールデッドかの区切りを明確にしないとゲームにならなくなってしまう。
よくあるケースが、走者がいる状態でファウルボールがあり、球審からボールを受け取った投手が走者を牽制で威嚇する行為である。この状態は、投手が投手板に立っていないため「プレイ」を掛けられない。にも関わらず、投手が牽制球を投げてしまい、野手のタッグで塁審が「アウト」または「セーフ」を宣告してしまうケースがある。
また、投球姿勢があいまいな投手に有り勝ちな行為として、セットポジションがいい加減でボークを採られる場合がある。このような投手は、おそらく肩が強いだけの野手であり、マウンド経験が浅い選手に多いように思われる。投手の重要な要素の一つが「マウンド捌き」であろう。「肩の強い野手」と「投手」の大きな違いが「マウンド捌き」であるように思う。つまり「投手としてのセンス」なのであろう。これは、経験が大半を占めるが、最初から備わっている投手もいるから不思議である。出来ない選手は、かなり苦労するようであり、こんような選手は「投手が不向き」なのであろう。
そんな不向きな投手がマウンドにいると、インプレイとデッドのメリハリは重要となってくる。経験の浅い審判員がオープン戦で球審を務めたりすると、ファウルボールの後のプレイを掛け忘れることが見受けられるが、そこに投手が不向きな選手が絡むと、投球姿勢の開始などがあいまいとなり、「ボーク」などが判りづらくなる。
このようなことを考えると、ボークの基準なども逆の面から理解できるような気がする。
折角、球春を迎えたのである。高らかに「プレイボール」をコールしたいものである。

桑田真澄

2008年4月1日
今年の北海道は雪融けも早く、4月になった暦とともに、本格的にシーズンインとなりそうだ。今度の週末には少年野球から大学野球まで、多くの学生チームがオープン戦に突入するだろう。我々審判員も、待ちに待った球春が、いよいよ始まる。大いに意気込んでいこうと思う。
海の向こうでは、大リーグも本格的に開幕したようだ。日本人選手が大挙して在籍するようになった昨今では、「パ・リーグ」と「セ・リーグ」と「大リーグ」という風に並列で報じられることが多いため、日本のどこかでやっているのではと勘違いしてしまうほど身近になった。日本野球の一流どころが名を連ねているのであるから、是非とも頑張ってもらいたい。
しかし、寂しいニュースもあった。日本を、巨人を追われる様に去り、苦境を乗り越えて見事に見返すように花開いた中年の星「桑田真澄」投手が引退を表明してしまったのだ。
一時代を築き上げた投手の最後としては、寂しすぎる巨人の非礼な扱いに対して、媚びる訳でもなく、中傷する訳でもなく、ただ純粋に野球に向き合った結果が、「大リーグ挑戦」であったのであろう。他人の揚げ足をとって皮肉を言っている自分が恥ずかしくなるような純粋さである。
そんな桑田投手に対して、野球の神様は冷たかった。まるで、桑田投手の純粋な「野球への思い」を試すかのように試練を与え続けた。昨年はオープン戦で靱帯損傷の大怪我をし、年齢的なことから引退も囁く周囲の雑音にも迷わされることもなく、夏に大リーグのマウンドに立っていた。ヤンキースタジアムでの勇姿は眩しいほどであった。背番号18を貰い涙する姿などは、思わずもらい泣きをしてしまった。同年代としては、自分のことのように嬉しい限りである。
しかし喜びも長くは続かず、結局はシーズン途中でマイナーに戻り、そのままシーズンオフとなった。春先の足首の怪我が完治しておらず、それが彼のパフォーマンスを低下させていたようである。アメリカでの夢を一応達成した桑田投手は、恩師であるジョーブ博士に挨拶に行き、そのまま引退かと思われていた。
しかし、彼のモチベーションは継続していた。夢の途中であったのだ。それが、恩師の「手術をすれば、未だやれる」の一言で、消えかけた炎を再燃させたようだ。
今年、大リーグのキャンプで活躍する桑田投手のニュースに触れるたび、きっと彼はずっと野球を続けるのだろうと感じていた。桑田投手が野球を辞める理由が見つけられなかったのだ。野球小僧で泥んこになって夢を追うのだろうと思い込んでいた。
今思えば、桑田投手は「死に場所」を探しにアメリカに渡ったのかもしれない。
まるで、矢吹丈のように燃え尽きてしまったのだろう。
お疲れ様でした。

さてさて

2008年3月23日
3月も終わりが近付き、北海道でもあちらこちらから球音の情報が聞かれるようになって来ました。今年のシニアでは、練習試合でも審判部所属の審判員が積極的に立とうとの申し合わせがあり、お誘いの電話が鳴り出しました。ありがたいことです。
息子がシニアを巣立ってから、早いもので丸三年が過ぎました。お世話になった球団に、恩返しの意味も込めて所属しておりますが、徐々にシニア全体の子供たちの成長が楽しみになってきました。
中学シニアといえど、所詮は子供たちの野球です。珍プレーは随所にあり、審判員泣かせのプレーも日常茶飯事です。しかし、これが審判員の技量を高めてくれるエネルギーになっているのは、間違いありません。大人の野球になればなるほど、スピード感は上がりますが、ジャッジメント自体は淡白になってきます。つまりは、白黒がはっきりしてくるのです。
シニアや高校野球の選手たちは、全力疾走を怠りません。これが出来ない選手は出場機会が激減しますので、選手たちも必死です。その必死さが、ジャッジを難しくしてくれます。何でもない内野ゴロでも、一塁でクロスプレイが生まれてしまったりします。大人の野球になると、諦めが早いのか、結果を勝手に決めてしまうのか、そういうプレイでの微妙な判定は激減します。
そういう意味では、シニアといえど集中力を切らすと大変な事態を招いてしまうのです。
今年も、子供たちの歓声と精一杯のプレイに応えられるよう、集中力を持って、真剣に立ち向かっていきたいと思います。
4月が待ち遠しい、今日この頃です。

春間近

2008年3月18日
仕事の忙しさのため、暫く日記を書かずにいたが、あっという間に春の匂いが漂いだした。これも、温暖化の影響なのか。半月ほど早い雪解けモードである。されど春の嵐は、毎年恒例であるから、このままシーズンインとはならないのであろうが、プロ野球も、高校野球も開幕が近付いてきた。
今年のルール改正は記録に関するものが多い。
ご存知のとおり、ルールブックの約半分は、「記録」に関する解説である。
野球は記録のゲームとも呼ばれるほど、古い記録が多々残されている。ボールゲームの中でも複雑なルールを誇るがゆえに、記録も多岐に亘っている。ある意味、記録マニア(オタク!?)には格好の競技なのかもしれない。
昨年のルール改正では、33項目ものプレイに関する改正ヶ所があったため、記録に関する改正は先送りされたのが現実のようである。
特徴的なのが、「Ordinary Effort(オーディナリー・エフォート)」。これを「普通の守備行為」と訳すようであるが、はてさて「普通」の守備行為とは、どのような行為であろうか。
実は、この語句は今まで頻繁に出てきた語句です。インフィールドフライでは、野手が普通の守備行為をすれば捕球できると判断した場合に「インフィールドフライを宣告」することとしています。この際の普通の守備とは、平均的な守備と考えて良いのでしょう。小学6年生の平均的なレベルなら、この飛球は捕球できるであろうと判断した場合は、「インフィールドフライ」を宣告すれば良いのでしょう。一般には、野手が捕球体勢に入ってからといわれていますが、このタイミングは少し遅いように感じています。「捕球体勢」に対する解釈の違いが、タイミングを遅らせてしまっているのかも知れません。つまり、「捕球体勢に入る」が「落下地点に入る」という勘違いです。この場合の「捕球体勢」は、野手の動きなどから予測して、「平均的な守備能力」に照らせば捕球できると判断を下し、早めに宣告することが良いのでしょう。「インフィールドフライ」は攻撃側の不利益を予防するためのルールであり、試合進行上も有効な判断であると思います。
今年のルール改正で、まったく逆の解釈になった重要事項があります。それも「得点」に関することですから、これは見逃すわけにはいきません。しっかりと、理解したいところです。ましてや、良くありそうなケースですから、今までの常識をしっかりと方向修正する必要がありそうです。
頭を整理して、次回紹介します。
今年のオフシーズンは、MLBのミッチェルレポートによる薬物疑惑やパウエル問題、巨大軍団の情けなく無策なFA戦略など暗いニュースが多かった。高校生の不祥事による対外試合禁止などもあり、その都度コメントを書こうか否か迷っている。私も聖人君子ではないので、汚いこともするずるい人間であるにも関わらず、このような事件に対するコメントを書けば、辛辣になることは明らかである。自分自身、それがわかっているがゆえに書かずにきたのである。
大リーガーにとっての筋肉増強剤も高校生にとってのタバコや酒も、根っこは同じなのであろう。選手の関与しないところで、ファンや保護者などが「自分たちだけは大丈夫」「自分たちだけが強ければ良いんだ」「みんな、それなりにやっているんだ」という風に考え違いをしていたり、贔屓の引き倒し的な溺愛感情から真実が見えなくなっていたりしたのであろう。そこには自制心も自尊心も働かず、大きな流れに身を任せる状態となる。
米ソが冷戦状態であった時代に東欧諸国では、国勢を世界へ示すために「スポーツ」が使われた。オリンピックや世界選手権などに照準を合わせて、選手を育成したのである。長期ビジョンに立って選手の卵を発掘し、スポーツ科学の粋を集結して選手を育て上げ、「金メダル」を奪取しにいったのである。日本でも今盛んに叫ばれるようになった「メンタルトレーニング」を、東欧諸国では30年以上も前から実施されていたのである。
感情をコントロールした選手の表情を、当時の日本のアナウンサーは「ロボットのように冷たい目でプレイする選手」と紹介していた。感情をコントロールすることは、冷静になることであり、心が冷めることであるがゆえに「人間が冷たくなる」となると考えるのであろう。実に短絡的な考え方である。そんな認識しかないから、日本のメンタルトレーニングは遅れに遅れた。元々、日本人は「根性」とか「魂」などのメンタル面の強さを求める国民であったはずである。だから、闘う武器がなくなっても戦争を最後まで止め様としなかったのである。竹槍で戦闘機を突き落とそうと考えるのであるから、何とも悲しくなってしまう。
そんな東欧諸国では、心の鍛錬と併せて身体の増強も図られていた。それが、筋肉増強剤の原点だと言われている。科学技術を駆使して、人間をサイボーグ化して行くが如く「冷静沈着で筋肉隆々」のスペシャリストを作っていったのである。これはもう、代理戦争であったのであろう。実際に全面戦争を起こせなくなったがために、「オリンピックに勝つ」ことが「祖国の勝利」と考えたのである。
しかし、これもドーピングという厚い壁により「悪の代表選手」にされてしまった。前回のオリンピックに使用可能であった薬物が、ある時から突然「違反薬物」になってしまうのである。下手をすると、風邪薬が興奮剤とされるなど、本当に必要な薬が「違反薬物と同じ効果」を保有していることで、「違反薬物と同じ裁き」を突きつけられる理不尽が、幾度と無く選手を悩ませてきた。
ドーピング撲滅の旗頭になっているのは、「スポーツマンシップに則り正々堂々と戦う」というスポーツの根源と、違反薬物摂取による後遺症から選手を守ることなのだろうが、本当に薬物を摂取した選手を裁くことが撲滅につながるのであろうか。実際に、中国や東欧諸国では、今なお薬物の研究はされており、ドーピング検査で陽性とならない薬物の研究がなされているとも言われている。
スポーツから「勝ち負け」を無くしてしまえば、ただのレクレーションとなってしまうが、勝負にこだわるがゆえに、選手寿命や名声を失い、命までも削るというリスクを背負っているのも確かであろう。そこには、スポーツとレクレーションに共通の「楽しむ・エンジョイ」ことが失われているのである。スポーツマンシップとは、何であろうか。それはスポーツを楽しむ心ではないかと考えてみると、スポーツを楽しむためには「不正なしでやろう」とする姿勢が現れてくるのである。
戦争にも紳士協定のようなルールはある。人間の尊厳に関わるマナーがあるのだろう。
今のスポーツは、このルールやマナーすら欠落してしまっているのであろう。
先日、サッカーのある試合で審判員のレフリングが問われて、選手や観客が騒ぎを起こした事件があったようだ。その試合のダイジェストだけを観たが、あの判定で何故観客までもが興奮するのかがわからないし、協会側がその審判を何故裁くのかも解らなかった。
伏線は色々とあるのであろう。サッカーというスポーツにも「ルール適用の常識」があるのであろうが、その辺りは知らないから多くは語れない。しかし、あの荒れた試合で、あの最後のペナルティキックに関する判定を下した審判員には敬意を表したい。競技は違えども、レベルも違えども、同じ審判員としてエールを送りたい。あの荒れた試合の責任は、すべて選手にあるのである。協会も監督もコーチも観客も、勿論審判員も関係ない。試合を楽しむはずの選手たちが、勝負に拘ったがゆえに犯した小さなマナー違反から始まったことなのであろう。そんなことに、審判員は絡まれたのである。
早期の復帰を期待している。
昨今の野球では、試合時間の短縮が大命題のようになってきている。ベースボールの起源となっているゲームは、一日中球遊びを楽しんでいたのだが、それがスポーツとなり興行へと変化することでお金が動くようになったため、イベントとしての魅力が問題となるのであろう。比較論もある。アメリカの四大スポーツのうち、時間無制限はMLBだけである。NBA・バスケットボールもNFL・アメリカンフットボールもNHL・アイスホッケーも時間制限がある。野球のルールに時間の概念が加わったのは、いつからなのだろう。おそらく、MLBが全米ネットワークで放映されるようになってからではないだろうか。
昨日、大リーグで時間短縮に向けた、新たなルール改正があった。当面は、マイナーリーグでの試行期間を設けるようだ。幾つかある改正点のうち、二つを紹介しよう。
昨年の大改正で、8.04の俗称「20秒ルール」が「12秒」へと大きく変わったことは記憶に新しい。昨シーズンは、12秒を体感するためにブルペンにてストップウォッチで計測した記憶がある。この12秒の開始時期があいまいで、「投手がボールを受け取って、打者が打席に入り、投手に面した時」をスタートとしているから、投手のすべて動作よりも打者の動作に左右されることが多いように思われる。今年の改正は、「12秒」を「15秒」とするようである。えっ!時間短縮に逆行していると思われるだろうが、「15秒」の開始時間を「打者の準備に関わらず、投手がボールを受け取ってから」としたのである。これは、以外に大きな変更である。「3秒」プラスしてまでも変更するということは、打者の準備に時間が掛かるという裏付けを得たからなのであろう。これに対する罰則は、投手の責任であれば「ボール」、打者の責任であれば「ストライク」を宣告するのであろう(仔細未確認)。では共同責任の場合は、どうするのであろうか。一体誰が計測し、どのタイミングで、どのようにして球審に伝えるのであろうか。大相撲の場合は時間係りの審判が手を挙げて、呼び出しが立ち上がったら「いよいよ時間です」となるのだが、本部席を背にして球審が立つ野球で、どのようにやるのか甚だ疑問である。その度に、確認作業や場内説明、挙句の果てには猛抗議などがあった場合、時間短縮どころではなくなる。一試合で両投手が150球ずつ投げるとして、15分の時間延長をしてまでも、全体として時間短縮につながると考えた改正であるが、果たして上手く行くのやら。昨年までは投手側にのみ「責任と罰則」があったものが、時間短縮に打者側が寄与していないことが明らかとなったために、「責任と罰則」が打者側にも科されることとなるのである。その折衷案が問題となるように思われてならない。
二点目は、監督・コーチや内野手がマウンドに行く回数制限が厳しくなった。「1イニング中に同一投手に対して二度行った場合、投手は自動的に交替」と言うのが現行ルールであるが、これが大幅に厳しくなった。「1試合でマウンドに行く回数が4度目からは、自動的に投手交替」となったのである。これは、投手の分業制が明確になってきた現代野球では、あまり問題とならないかもしれない。よほどの打撃戦でもない限り、4度目にマウンドへ向かう時は、どのチームも確立している「継投策」のパターンに入っているからだ。アマチュア野球で、どのように適用するかは各団体で検討されるであろうが、これも時間短縮の一翼を担っているのであろう。日本のプロ野球では、投手交替時には投手コーチがマウンドへ行き、ある程度の時間を稼いでから、監督が重い腰を上げて交替を宣告することが、当たり前のようにやられてきた。テレビなどを観ていても、解説者が「リリーフ投手の肩を作るための時間稼ぎ」と笑いながら揶揄していたものである。最近は、小学生でもわかる「勝利の方程式」が確立されつつあるため、そのような茶番劇は少なくなった。しかし、昭和世代の我々にとっては、あの時間稼ぎの後に「一体、誰が出てくるのだろう」というスリルはなくなった。あの時代は、エースが勝ち試合となればリリーフに上がったものである。ダブルヘッダーで連投などは、当たり前のように行われていた時代である。あのドキドキ感を味わうための「時間稼ぎ」も、今や無用の長物となってしまったのであろう。
マイナーリーグで試される、ルールのマイナーチェンジであるが、意外な波紋を広げるようにも思われる。来年のルール改正は、どのようになるのやら。

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