アマチュア野球にとって、一年で最も熱いシーズンを迎えている。大学野球の全国大会は終了したが、高校野球と中学硬式野球は全国大会に向けた予選が各地で繰り広げられている。高校野球は「甲子園」という大目標に向けて、球児たちが一投一打に一喜一憂している。我々、中学シニアでも全国につながる選手権大会が始まった。春季大会と大きく違うのは、トーナメント方式を採用していることである。
春季大会はリーグ戦であるため、6~7試合は確実に戦うことが出来る。選手たちにとっては、長く厳しい冬季トレーニングを乗り越え、力試しの絶好の機会となるのである。ただし、リーグ戦のため勝敗に関しての「こだわり」は小さい。「絶対に勝つ」という執着は、執念は感じない。どこか、淡白に感じることがある。一球の大切さを判っているはずなのだが、「負けても明日がある」という思いが見え隠れするのである。
そういう意味で、夏季大会は雰囲気がまったく違う。一球に対する集中力や、選手やベンチの執着心が全然違うのである。それゆえに、予想を覆すような好ゲームや大番狂わせが起こるのである。観戦する側にとっては、チーム名で勝敗を予想する。トーナメント表に、自らの予想を赤鉛筆で書き入れていたりするのであるが、意外な無名チームが勝ち進んだりすると、それはそれで楽しみの一つなのだろう。
ネット裏の観客は、判官贔屓の人が多い。春季大会で快進撃を続け、初優勝したチームに対して、夏の大会では王者として扱い、その王者に果敢に挑むチームを応援していたりするのである。なんとも、付き合い辛い観客たちである。私のように、一つのチームを徹底して応援する人種にとっては、先週まで一緒に応援してくれていた観客が、いきなり敵に回ってしまう現象に戸惑いを感じてしまうのである。
いつもはグラウンドレベルで審判員として選手のプレイに対するジャッジをしているが、たまにスタンドで野球観戦するのも勉強になる。スタンドでは、一つのジャッジに対してどのような思いで見ているのか。または、微妙な判定に対して、どのような反応を見せているのか。それらを観察するだけでも勉強になる。
また、審判員の動き全体を見るのは、非常に参考になる。ジャッジの「コール」のタイミング、ポジショニング、試合の進め方、トラブルへの対応などなど。
ネット裏の観客は、野球の目は肥えている。
一塁牽制球でタッグをしているのに「セーフ」のコールもゼスチャーもしないと「何故、コールしない」と文句をいうような人たちである。よく野球を見ている。
このような観客の目に、応えられるようなジャッジを心がけなくてはならない。それは、プロのような派手さではなく、地味でも堅実で正確なジャッジを求められているのであろう。
トーナメント方式が「負けたら終わり」であることは少年野球の選手でも知っている。ゆえに一投一打に掛ける思いは強い。
我々、審判員もフンドシを締め直して掛からなければ、選手たちに失礼である。
春季大会はリーグ戦であるため、6~7試合は確実に戦うことが出来る。選手たちにとっては、長く厳しい冬季トレーニングを乗り越え、力試しの絶好の機会となるのである。ただし、リーグ戦のため勝敗に関しての「こだわり」は小さい。「絶対に勝つ」という執着は、執念は感じない。どこか、淡白に感じることがある。一球の大切さを判っているはずなのだが、「負けても明日がある」という思いが見え隠れするのである。
そういう意味で、夏季大会は雰囲気がまったく違う。一球に対する集中力や、選手やベンチの執着心が全然違うのである。それゆえに、予想を覆すような好ゲームや大番狂わせが起こるのである。観戦する側にとっては、チーム名で勝敗を予想する。トーナメント表に、自らの予想を赤鉛筆で書き入れていたりするのであるが、意外な無名チームが勝ち進んだりすると、それはそれで楽しみの一つなのだろう。
ネット裏の観客は、判官贔屓の人が多い。春季大会で快進撃を続け、初優勝したチームに対して、夏の大会では王者として扱い、その王者に果敢に挑むチームを応援していたりするのである。なんとも、付き合い辛い観客たちである。私のように、一つのチームを徹底して応援する人種にとっては、先週まで一緒に応援してくれていた観客が、いきなり敵に回ってしまう現象に戸惑いを感じてしまうのである。
いつもはグラウンドレベルで審判員として選手のプレイに対するジャッジをしているが、たまにスタンドで野球観戦するのも勉強になる。スタンドでは、一つのジャッジに対してどのような思いで見ているのか。または、微妙な判定に対して、どのような反応を見せているのか。それらを観察するだけでも勉強になる。
また、審判員の動き全体を見るのは、非常に参考になる。ジャッジの「コール」のタイミング、ポジショニング、試合の進め方、トラブルへの対応などなど。
ネット裏の観客は、野球の目は肥えている。
一塁牽制球でタッグをしているのに「セーフ」のコールもゼスチャーもしないと「何故、コールしない」と文句をいうような人たちである。よく野球を見ている。
このような観客の目に、応えられるようなジャッジを心がけなくてはならない。それは、プロのような派手さではなく、地味でも堅実で正確なジャッジを求められているのであろう。
トーナメント方式が「負けたら終わり」であることは少年野球の選手でも知っている。ゆえに一投一打に掛ける思いは強い。
我々、審判員もフンドシを締め直して掛からなければ、選手たちに失礼である。
師匠に「スランプ」と言われた。
密かに考えていた事を、ズバリと指摘された。
自分の試合でトラブルやサプライズが多い事も気になっていたが、これもズバリと指摘された。
私がトラブルやサプライズの「メーカー」になっているわけではなく、そのような場面に巡り合っているのだという指摘であった。これも考えていたとおりの指摘である。トラブルやサプライズが発生する試合は必ずある。それは担当しているクルーに起因する場合もあるが、大抵のケースが別のところに原因がある。つまり、誰かがトラブルやサプライズが起きる試合を担当しなくてはならないのであり、私の場合は「その試合」を担当する確率が高いということなのであろう。これは正に「試練」であり、仰々しく言うと「宿命」なのであろう。いわゆる「そのような星の下に生れてきた」ということなのだろう。
トラブルやサプライズを正面から受け止められていたはずなのに、何かのキッカケで自信が揺らいでいるようである。それは「過信」からくる産物のように理解した上で自戒しようと考えていたが、そればかりが理由ではないように思われる。
試合後にはできるかぎり日記を書いている。回想録のようなものから事例集までさまざまであるが、いつの日にか役に立つ時がくると思いながら書いている。
これらを読み返していると、どうやらその原因が見え隠れしてくる。
原因の主なものは「基本のブレ」ように思える。
「ゴー・ストップ・コール」や「トラッキング」などの動作は、毎年シーズン初めの審判講習会で繰り返し実施されるとおり「審判員の基本」なのである。
この基本動作が、すべて甘くなっているように思える。それが自分のスタイルなどと考え、楽をしていたように感じてならない。知らず知らずに「ベテラン」と呼ばれる心地よい響きに騙されて、基本動作をないがしろにしていた。
その誘因となっているのが「慣れ」である。明らかに「慣れ」が「基本動作」にブレを生じさせている。
審判は頭で考え、ケーススタディを繰り返す事も必要ではあるが、実戦経験がもっとも重要なことはいうまでもない。これは選手達と同様であり、反復練習よりも試合の中で学ぶ事の方が断然多い。しかし、それは「基本動作」を忠実に実践した上で得られる経験であり、基本がブレた状態では本当の意味での経験にはならない。
スランプの時こそ「基本動作」の反復しかない。これが結論である。
「トラッキング」は球審が投球判定をするために、捕手のミットに納まるまで「目でボールを追う」という基本動作であるが、これは塁審にも共通する。つまり「ボールから目を切らない」という審判員の基本動作の特殊ケースが「トラッキング」なのであろう。
雑念も無用である。「自然体で目の前のプレイを判定する」という基本を忠実に行うためには、雑念や思い込みなどは一切無用なのである。
試合前に目標を持つようにしているが、それに囚われるあまり、「目標」が「雑念」になってしまっていたのであろう。
「試練」がもたらした「スランプ」を脱することは、審判員を続けている限り、無いかもしれない。
野球に対して感謝し、謙虚になって試合に臨むことから始めてみようと思う。
密かに考えていた事を、ズバリと指摘された。
自分の試合でトラブルやサプライズが多い事も気になっていたが、これもズバリと指摘された。
私がトラブルやサプライズの「メーカー」になっているわけではなく、そのような場面に巡り合っているのだという指摘であった。これも考えていたとおりの指摘である。トラブルやサプライズが発生する試合は必ずある。それは担当しているクルーに起因する場合もあるが、大抵のケースが別のところに原因がある。つまり、誰かがトラブルやサプライズが起きる試合を担当しなくてはならないのであり、私の場合は「その試合」を担当する確率が高いということなのであろう。これは正に「試練」であり、仰々しく言うと「宿命」なのであろう。いわゆる「そのような星の下に生れてきた」ということなのだろう。
トラブルやサプライズを正面から受け止められていたはずなのに、何かのキッカケで自信が揺らいでいるようである。それは「過信」からくる産物のように理解した上で自戒しようと考えていたが、そればかりが理由ではないように思われる。
試合後にはできるかぎり日記を書いている。回想録のようなものから事例集までさまざまであるが、いつの日にか役に立つ時がくると思いながら書いている。
これらを読み返していると、どうやらその原因が見え隠れしてくる。
原因の主なものは「基本のブレ」ように思える。
「ゴー・ストップ・コール」や「トラッキング」などの動作は、毎年シーズン初めの審判講習会で繰り返し実施されるとおり「審判員の基本」なのである。
この基本動作が、すべて甘くなっているように思える。それが自分のスタイルなどと考え、楽をしていたように感じてならない。知らず知らずに「ベテラン」と呼ばれる心地よい響きに騙されて、基本動作をないがしろにしていた。
その誘因となっているのが「慣れ」である。明らかに「慣れ」が「基本動作」にブレを生じさせている。
審判は頭で考え、ケーススタディを繰り返す事も必要ではあるが、実戦経験がもっとも重要なことはいうまでもない。これは選手達と同様であり、反復練習よりも試合の中で学ぶ事の方が断然多い。しかし、それは「基本動作」を忠実に実践した上で得られる経験であり、基本がブレた状態では本当の意味での経験にはならない。
スランプの時こそ「基本動作」の反復しかない。これが結論である。
「トラッキング」は球審が投球判定をするために、捕手のミットに納まるまで「目でボールを追う」という基本動作であるが、これは塁審にも共通する。つまり「ボールから目を切らない」という審判員の基本動作の特殊ケースが「トラッキング」なのであろう。
雑念も無用である。「自然体で目の前のプレイを判定する」という基本を忠実に行うためには、雑念や思い込みなどは一切無用なのである。
試合前に目標を持つようにしているが、それに囚われるあまり、「目標」が「雑念」になってしまっていたのであろう。
「試練」がもたらした「スランプ」を脱することは、審判員を続けている限り、無いかもしれない。
野球に対して感謝し、謙虚になって試合に臨むことから始めてみようと思う。
久し振りに嬉しい場面と遭遇した。教え子たちのチームが優勝を果たしたのである。何とも言えない高揚感に包まれた。練習試合などでもお世話になっているチームであり、関係者にも顔見知りが多い。近年は三季連続で負け試合を観戦していたため、自分自身で「貧乏神」のように感じ、今季はなかなか球場へ足を向けられなかったが、準決勝ともなると行かないわけにもいかなくなった。柱の陰から、こっそりと見ていようと考え球場へ出向いてみると、いきなり最も親しい父兄に発見されてしまった。悪いことではないが、隠し事はできないということか。
結局は、当たり前のように決勝戦も応援に行くこととなり、別の球場で行われていた試合の球審を務めてから、大急ぎで決勝戦の球場へと向かった。
駐車場になかなか入れず、球場内に到着したのは試合開始5分前。座る所も見つけられず、一番上の通路をウロウロしていると「プレイボール」となってしまった。
何とも言えない緊張感の中、試合速報を息子などにメールしながら、あれよあれよと試合は終盤へと流れていき、最後の打者を三振に斬って試合終了。息子への最後の試合速報は「優勝したぞ」になってしまった。
それにしても、歓喜の応援団の中でグラウンドに背を向けて、冷静にシャッターを切っている学校関係者の方には頭が下がった。学校通信やホームページなどに掲載されるのであろうが、その写真を見ているときには感じない「頭が下がる」思いを感じていた。
この年代の子供たちは、私にとって最初の教え子と言ってもいい世代であり、ルールのイロハを共に学んだ世代でもある。皆が同じチームとも行かず、公式戦などで対戦する姿を観ていると胸が熱くなり、苦しくなる。この試合が永遠に続いてくれとも願いたくなる。対戦が決まってからは、その日が来るのを楽しみにしているのであるが、いざその日になると直視できない自分がいるのである。
それでも互いに切磋琢磨して力を出し切れる状態であれば、勝負事の常はあるものの、「互いに良く頑張った」と言えるのが救いとなるが、そうともいかない事があるのも致し方ないことなのであろうか。
この大会で、あるチームの主将が試合後に不調を訴えた。その原因は、明らかに「あるプレイ」であることは明白のようである。私は、その場面を見ていないので見聞きした情報だけを伝える。
その選手は二塁手である。ある回の走者一塁の場面で、二塁ゴロが放たれた。二塁手がゴロを処理した瞬間に一塁走者が激突した。二塁手は卒倒し、一塁走者も倒れた。そのプレイに対して遊撃手が激昂し、一塁走者に掴みかかったようである。この一連のプレイで、一塁走者が負傷退場し救急車で搬送された。
野球は、守備側のチームが9人グラウンドにいるところへ、打者が一人で立ち向かう不公平なゲームである。攻撃側は最大でも4人までしたグラウンドの同時に立つことができない。それでも三つのアウトが獲られない限り、いつまでも攻撃を継続できるという特殊性もある。また、野球は相手チームより多くの得点を奪い合うゲームであるが、そのためには四つの塁を順番に踏む必要がある。それは、守備側チームの隙間を縫う様に走り抜けなくてはならない。だから試合の要所ではコンタクトプレイが多々観られるのである。
そのたびに、大リーグのように乱闘騒ぎばかりだと試合が進行しないため、どちらかにアドバンテージを与えている。それが、野球のルールの根幹なのであろう。
走者の進塁優先権などの考え方や、インターフェアやオブストラクションの基本理念もしかりである。また、ボークなどの考え方はシンプルであり「投手が走者の進塁を阻むため、走者を騙す行為」をしたと審判員が感じたら「ボーク」なのである。なんともシンプルである。
野球の根幹の一つとなっているのが「守備優先」の考え方である。走者は走路を走る権利があるが、走路は守備の範囲内にもある。丁度、走路部で内野手が打球を処理することは珍しいことではない。そして、そこに走者が走ってくることも珍しいことではない。私が大学生の時、クラスでソフトボールが流行した。教授に懇願して授業を休講にし、ソフトボールに明け暮れたものである。ある試合で、遊撃手をしていた私はゴロを華麗に捌こうとした瞬間、真横から衝撃を喰らった経験がある。二塁走者が体当たりをしてきたのである。確かに、走路で打球処理をしていたが、ゴロを捌くことに腐心していた為、走者との位置関係はまったく認識していなかった。
この経験から、野手は打球を裁きながら走者を避けることは出来ないが、走者は進塁しながら野手を避けることが出来る、という野球の根幹を知ることとなった。
あるチームの主将である二塁手は、後日手足の痺れを訴えて入院した。今も握力が戻らない。最後の夏を目前にして、涙を流しながら抽選会場で、握力の落ちた手で抽選をしていたようである。
何とも、切ない。本人が一番辛いであろう。それを思うと・・・・。
ラフプレイの怖さを審判員も認識し、そのようなプレイをした選手に対しては、毅然たる態度で臨むべきであることを心に刻みたい。
結局は、当たり前のように決勝戦も応援に行くこととなり、別の球場で行われていた試合の球審を務めてから、大急ぎで決勝戦の球場へと向かった。
駐車場になかなか入れず、球場内に到着したのは試合開始5分前。座る所も見つけられず、一番上の通路をウロウロしていると「プレイボール」となってしまった。
何とも言えない緊張感の中、試合速報を息子などにメールしながら、あれよあれよと試合は終盤へと流れていき、最後の打者を三振に斬って試合終了。息子への最後の試合速報は「優勝したぞ」になってしまった。
それにしても、歓喜の応援団の中でグラウンドに背を向けて、冷静にシャッターを切っている学校関係者の方には頭が下がった。学校通信やホームページなどに掲載されるのであろうが、その写真を見ているときには感じない「頭が下がる」思いを感じていた。
この年代の子供たちは、私にとって最初の教え子と言ってもいい世代であり、ルールのイロハを共に学んだ世代でもある。皆が同じチームとも行かず、公式戦などで対戦する姿を観ていると胸が熱くなり、苦しくなる。この試合が永遠に続いてくれとも願いたくなる。対戦が決まってからは、その日が来るのを楽しみにしているのであるが、いざその日になると直視できない自分がいるのである。
それでも互いに切磋琢磨して力を出し切れる状態であれば、勝負事の常はあるものの、「互いに良く頑張った」と言えるのが救いとなるが、そうともいかない事があるのも致し方ないことなのであろうか。
この大会で、あるチームの主将が試合後に不調を訴えた。その原因は、明らかに「あるプレイ」であることは明白のようである。私は、その場面を見ていないので見聞きした情報だけを伝える。
その選手は二塁手である。ある回の走者一塁の場面で、二塁ゴロが放たれた。二塁手がゴロを処理した瞬間に一塁走者が激突した。二塁手は卒倒し、一塁走者も倒れた。そのプレイに対して遊撃手が激昂し、一塁走者に掴みかかったようである。この一連のプレイで、一塁走者が負傷退場し救急車で搬送された。
野球は、守備側のチームが9人グラウンドにいるところへ、打者が一人で立ち向かう不公平なゲームである。攻撃側は最大でも4人までしたグラウンドの同時に立つことができない。それでも三つのアウトが獲られない限り、いつまでも攻撃を継続できるという特殊性もある。また、野球は相手チームより多くの得点を奪い合うゲームであるが、そのためには四つの塁を順番に踏む必要がある。それは、守備側チームの隙間を縫う様に走り抜けなくてはならない。だから試合の要所ではコンタクトプレイが多々観られるのである。
そのたびに、大リーグのように乱闘騒ぎばかりだと試合が進行しないため、どちらかにアドバンテージを与えている。それが、野球のルールの根幹なのであろう。
走者の進塁優先権などの考え方や、インターフェアやオブストラクションの基本理念もしかりである。また、ボークなどの考え方はシンプルであり「投手が走者の進塁を阻むため、走者を騙す行為」をしたと審判員が感じたら「ボーク」なのである。なんともシンプルである。
野球の根幹の一つとなっているのが「守備優先」の考え方である。走者は走路を走る権利があるが、走路は守備の範囲内にもある。丁度、走路部で内野手が打球を処理することは珍しいことではない。そして、そこに走者が走ってくることも珍しいことではない。私が大学生の時、クラスでソフトボールが流行した。教授に懇願して授業を休講にし、ソフトボールに明け暮れたものである。ある試合で、遊撃手をしていた私はゴロを華麗に捌こうとした瞬間、真横から衝撃を喰らった経験がある。二塁走者が体当たりをしてきたのである。確かに、走路で打球処理をしていたが、ゴロを捌くことに腐心していた為、走者との位置関係はまったく認識していなかった。
この経験から、野手は打球を裁きながら走者を避けることは出来ないが、走者は進塁しながら野手を避けることが出来る、という野球の根幹を知ることとなった。
あるチームの主将である二塁手は、後日手足の痺れを訴えて入院した。今も握力が戻らない。最後の夏を目前にして、涙を流しながら抽選会場で、握力の落ちた手で抽選をしていたようである。
何とも、切ない。本人が一番辛いであろう。それを思うと・・・・。
ラフプレイの怖さを審判員も認識し、そのようなプレイをした選手に対しては、毅然たる態度で臨むべきであることを心に刻みたい。
今年の春先に「審判は試合の進行のみを担当し、その他のことには口を出すべからず」のお達しがあった。つまり、余計な事には文句を言わず、試合進行だけをやっていろということである。
しかし私が所属する組織で、我々審判員が相手にしているのは中学生である。つい2年半前までは小学生だった「子供」である。ゆえに、結構我が儘な行為を悪気なくやってしまうことが多い。そのような行為があり、それを目にしても、大人として注意すらするなと言うことなのであろうか。まったくもって、アホくさい。
ヘルメットも被らずに、ネクストバッターズボックスでバッティンググローブを付けている選手に対し、注意する事が越権行為となるのであろうか。打球が頭部に当たる事故が起きた時に、誰が責任を取るのであろうか。私はそれを見過ごす事はできないし、口を出さずにはいられない。
ベンチ横には、ボールボーイが二人椅子に座っている。ほとんどのボールボーイがレギュラー以外の選手の場合が多く、1年生などが座っていることも珍しくはない。彼らは、試合進行によりボールを審判員に渡すのが仕事である。打者が投げ捨てたバットの処理をする場合もある。だから一生懸命、試合を観ていないといけないのだが、時折二人で話しこんでしまうのを見かける。これも、非常に危険である。ボールから目を切らないのは野球の基本である。こんなボールボーイを見掛けると、ついつい「試合を見ろ」を叫んでしまう。
イニング間の攻撃側のミーティングの輪に、ベースコーチと次打者は参加せずに準備をすることとなっているが、これもないがしろになっていることがある。時には、ベースコーチがいなくてプレイが掛けられないこともある。大会規約に記載されている事項が守られていないのである。
我々審判員は、時間短縮のために試合前や試合中に、選手や指導者に協力を仰いでいる部分が沢山ある。全力疾走すらできない中学生を煽り立て、少しでも時間を短縮しようと努力している。このようなことはスポーツマンとして最低限のマナーであり、しっかりと意識付けた上でグラウンドに立ってほしいと願っている。
そして、それを啓蒙するのは大会運営側の責務であろう。大会運営側は、各チームに伝達しているとの「オウム返し」を述べるだけで、実態に目を向けようとしない。大会規約に書かれていることすら守れないのであれば、球場でルールブックに従い野球をやる資格もないのである。そのことを、しっかりと伝達しなければ、大会規約も只の紙切れになってしまう。
一体、何人の選手達が大会規約を読んでいるのであろうか。それを運営側は把握しているのであろうか。試合中に、同じ注意をしなければならない事に辟易としている。
野球は9人の選手と代表者による2チームが、審判員の権限の下ルールブックに従い、囲いのあるグラウンドで行うスポーツである。そこには、運営側の必要性は謳われていない。多くのチームが所属するようになれば、おのずと舵取りをする運営サイドは派生するものであり、必要性は後から発生することなのである。運営サイドがあっても、そこに所属したいと考えるチームがなければ不要なのである。
ベースボール・ルールズは「囲いのあるグラウンド」の内側で効力を発する規則であるが、逆に言うと、グラウンドの内側では最もベーシックな決め事なのである。
それをグラウンドの内側で司るのが審判員であり、唯一無二の存在なのである。
1.01 野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する九人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、一人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行なわれる競技である。
グラウンド内では、「審判員は堂々とあれ」と思うこの頃である。
しかし私が所属する組織で、我々審判員が相手にしているのは中学生である。つい2年半前までは小学生だった「子供」である。ゆえに、結構我が儘な行為を悪気なくやってしまうことが多い。そのような行為があり、それを目にしても、大人として注意すらするなと言うことなのであろうか。まったくもって、アホくさい。
ヘルメットも被らずに、ネクストバッターズボックスでバッティンググローブを付けている選手に対し、注意する事が越権行為となるのであろうか。打球が頭部に当たる事故が起きた時に、誰が責任を取るのであろうか。私はそれを見過ごす事はできないし、口を出さずにはいられない。
ベンチ横には、ボールボーイが二人椅子に座っている。ほとんどのボールボーイがレギュラー以外の選手の場合が多く、1年生などが座っていることも珍しくはない。彼らは、試合進行によりボールを審判員に渡すのが仕事である。打者が投げ捨てたバットの処理をする場合もある。だから一生懸命、試合を観ていないといけないのだが、時折二人で話しこんでしまうのを見かける。これも、非常に危険である。ボールから目を切らないのは野球の基本である。こんなボールボーイを見掛けると、ついつい「試合を見ろ」を叫んでしまう。
イニング間の攻撃側のミーティングの輪に、ベースコーチと次打者は参加せずに準備をすることとなっているが、これもないがしろになっていることがある。時には、ベースコーチがいなくてプレイが掛けられないこともある。大会規約に記載されている事項が守られていないのである。
我々審判員は、時間短縮のために試合前や試合中に、選手や指導者に協力を仰いでいる部分が沢山ある。全力疾走すらできない中学生を煽り立て、少しでも時間を短縮しようと努力している。このようなことはスポーツマンとして最低限のマナーであり、しっかりと意識付けた上でグラウンドに立ってほしいと願っている。
そして、それを啓蒙するのは大会運営側の責務であろう。大会運営側は、各チームに伝達しているとの「オウム返し」を述べるだけで、実態に目を向けようとしない。大会規約に書かれていることすら守れないのであれば、球場でルールブックに従い野球をやる資格もないのである。そのことを、しっかりと伝達しなければ、大会規約も只の紙切れになってしまう。
一体、何人の選手達が大会規約を読んでいるのであろうか。それを運営側は把握しているのであろうか。試合中に、同じ注意をしなければならない事に辟易としている。
野球は9人の選手と代表者による2チームが、審判員の権限の下ルールブックに従い、囲いのあるグラウンドで行うスポーツである。そこには、運営側の必要性は謳われていない。多くのチームが所属するようになれば、おのずと舵取りをする運営サイドは派生するものであり、必要性は後から発生することなのである。運営サイドがあっても、そこに所属したいと考えるチームがなければ不要なのである。
ベースボール・ルールズは「囲いのあるグラウンド」の内側で効力を発する規則であるが、逆に言うと、グラウンドの内側では最もベーシックな決め事なのである。
それをグラウンドの内側で司るのが審判員であり、唯一無二の存在なのである。
1.01 野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する九人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、一人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行なわれる競技である。
グラウンド内では、「審判員は堂々とあれ」と思うこの頃である。
グラウンド整備と給水
2009年6月8日 スポーツ コメント (1)
春季大会もリーグ戦が終わり、決勝トーナメントが始まった。いよいよ大詰めである。高校野球も、先日の決勝戦で春季全道大会が終了した。今月下旬には、中学も高校も本番である夏季大会が始まる。
先日、楽天・野村監督が雨の中の敗戦の弁で「そもそも、こんな天候は野球をやる環境ではない」とボヤいていた。同じ条件とはいえ、雨中決戦に敗れたチームにとっては「天も恨めしく思える」ようである。確かに、降雨の中の試合は色々と面倒である。
今年のシーズン初めに、高校球児が練習試合で命を落としたことは記憶に新しい。誠に痛ましい事故であり、謹んで哀悼の意を表したい。
スポーツに怪我は付き物ではあるが、死に至る事故があってはならない。そのためにも、関係者は細心の注意を払うべきであろう。
中学シニアでは、この痛ましい事故を教訓として4回終了時にグラウンド整備を行う事となった。高校野球では数年前から5回終了時に実施されており、練習試合などでも実施しているようである。それでも事故は発生するのであるから、遅まきながら実行に移そうと中学シニアの運営側も決断したのであろう。
晴天の中でもグラウンドは荒れるのであるから、降雨時は想像に難くないであろう。荒れるという形容が相応しくないほど、酷い状態となる。
我が組織でも試合前の雨天決行の決定権は運営側にある。一方、試合開始後は審判員が決定できることはルールブックにも謳われているが、我が組織は違うようである。とにかく、試合が始まれば終わりまでやるのが考え方の基本となっている。
だから水田の中でボールを追いかけるような「新たな球技」が生まれるのである。春先や秋口の豪雨の中で「変な球技」を選手に強いるのである。屋根のある本部席にいて試合を観戦し、グラウンドに傘を差して状態を確認しているような人間に、2時間近く雨に晒される苦痛が理解できるとは思えない。
「雨の降る日は天気が悪い」は古い言い伝えであり、子供でも知っている事実なのである。
大会運営側は日程の消化を第一に考えているようにしか思えてならないことがある。
「子供達の健康が一番」などと言っているが、実の所は大会運営が一番なのであろう。そのためであれば、審判の都合などはまったくの「蚊帳の外」である。審判の都合は譲歩したとしても、日程消化に腐心するあまり、一番大事なことを棚上げにしている対応に思えてならない言動・行動をすることがある。
雨天決行は致し方ない部分はあるから理解したとしても、「荒れたグラウンドでプレイすることが、選手を死に至らしめるから試合中盤で整備をしよう」という教訓による初心はどこへ行ってしまったのであろうか。日程消化ばかりを気にして「4回終了時のグラウンド整備はやらないから、審判の給水も無し」とは屁理屈にもならない。
グラウンド整備をやらない事で雨が止むならば良い。または、選手のプレイに差し障りがないのであれば良しとしよう。しかし、実際にはワンプレイごとにグラウンドは荒れるのである。
長時間の試合になると、グラウンド状態が悪くなるのは皆が知っている。だから「水が浮く前に試合を消化してしまおう」などと考え、シートノックもボール回しも無し、ついでに4回終了時のグラウンド整備も無しで試合を強行する傲慢さには呆れ果てる。
「グラウンド整備もしないから、審判の給水もなし」を強要し、試合進行を最優先にプレイボールとしたはずなのに、「予想していたよりもグラウンドが荒れたから整備をしよう」とトンボを握るのである。この優柔不断さには開いた口が塞がらない。
審判の給水は一体どうなったのか。
試合中盤のインターバルは、選手はもちろん、審判員にとっても重要な休息である。雨にも当らず、直射日光にも当らない所で好き勝手を言っている人々には決して分からないことである。ゆえに審判員の休息とグラウンド整備は、まったく違うカテゴリーのものである。夏の神宮大会などは、2回ごとにインターバルをとり給水すると聞いている。そうしないと、脱水症状で倒れてしまうのである。
数年前、秋も深まった悪天候の中、試合を強行したことがあった。シーズンオフが近いこともあり、まったく日程に余裕のない状況であった。そこに立ち会っていた役員が、4回終了時の給水をしている審判員を見て「水なんか飲んでいないで、さっさと試合をやれば良いのに」と公然と言い放ったことがあった。
呆れてしまい、腹を立てるのもアホくさい。
先日、楽天・野村監督が雨の中の敗戦の弁で「そもそも、こんな天候は野球をやる環境ではない」とボヤいていた。同じ条件とはいえ、雨中決戦に敗れたチームにとっては「天も恨めしく思える」ようである。確かに、降雨の中の試合は色々と面倒である。
今年のシーズン初めに、高校球児が練習試合で命を落としたことは記憶に新しい。誠に痛ましい事故であり、謹んで哀悼の意を表したい。
スポーツに怪我は付き物ではあるが、死に至る事故があってはならない。そのためにも、関係者は細心の注意を払うべきであろう。
中学シニアでは、この痛ましい事故を教訓として4回終了時にグラウンド整備を行う事となった。高校野球では数年前から5回終了時に実施されており、練習試合などでも実施しているようである。それでも事故は発生するのであるから、遅まきながら実行に移そうと中学シニアの運営側も決断したのであろう。
晴天の中でもグラウンドは荒れるのであるから、降雨時は想像に難くないであろう。荒れるという形容が相応しくないほど、酷い状態となる。
我が組織でも試合前の雨天決行の決定権は運営側にある。一方、試合開始後は審判員が決定できることはルールブックにも謳われているが、我が組織は違うようである。とにかく、試合が始まれば終わりまでやるのが考え方の基本となっている。
だから水田の中でボールを追いかけるような「新たな球技」が生まれるのである。春先や秋口の豪雨の中で「変な球技」を選手に強いるのである。屋根のある本部席にいて試合を観戦し、グラウンドに傘を差して状態を確認しているような人間に、2時間近く雨に晒される苦痛が理解できるとは思えない。
「雨の降る日は天気が悪い」は古い言い伝えであり、子供でも知っている事実なのである。
大会運営側は日程の消化を第一に考えているようにしか思えてならないことがある。
「子供達の健康が一番」などと言っているが、実の所は大会運営が一番なのであろう。そのためであれば、審判の都合などはまったくの「蚊帳の外」である。審判の都合は譲歩したとしても、日程消化に腐心するあまり、一番大事なことを棚上げにしている対応に思えてならない言動・行動をすることがある。
雨天決行は致し方ない部分はあるから理解したとしても、「荒れたグラウンドでプレイすることが、選手を死に至らしめるから試合中盤で整備をしよう」という教訓による初心はどこへ行ってしまったのであろうか。日程消化ばかりを気にして「4回終了時のグラウンド整備はやらないから、審判の給水も無し」とは屁理屈にもならない。
グラウンド整備をやらない事で雨が止むならば良い。または、選手のプレイに差し障りがないのであれば良しとしよう。しかし、実際にはワンプレイごとにグラウンドは荒れるのである。
長時間の試合になると、グラウンド状態が悪くなるのは皆が知っている。だから「水が浮く前に試合を消化してしまおう」などと考え、シートノックもボール回しも無し、ついでに4回終了時のグラウンド整備も無しで試合を強行する傲慢さには呆れ果てる。
「グラウンド整備もしないから、審判の給水もなし」を強要し、試合進行を最優先にプレイボールとしたはずなのに、「予想していたよりもグラウンドが荒れたから整備をしよう」とトンボを握るのである。この優柔不断さには開いた口が塞がらない。
審判の給水は一体どうなったのか。
試合中盤のインターバルは、選手はもちろん、審判員にとっても重要な休息である。雨にも当らず、直射日光にも当らない所で好き勝手を言っている人々には決して分からないことである。ゆえに審判員の休息とグラウンド整備は、まったく違うカテゴリーのものである。夏の神宮大会などは、2回ごとにインターバルをとり給水すると聞いている。そうしないと、脱水症状で倒れてしまうのである。
数年前、秋も深まった悪天候の中、試合を強行したことがあった。シーズンオフが近いこともあり、まったく日程に余裕のない状況であった。そこに立ち会っていた役員が、4回終了時の給水をしている審判員を見て「水なんか飲んでいないで、さっさと試合をやれば良いのに」と公然と言い放ったことがあった。
呆れてしまい、腹を立てるのもアホくさい。
試合前のミーティングでベテラン審判員の方が、色々な事例を話してくれることがある。サプライズが発生した場合のルール適用などや、外野飛球に対するクルーの動き方など様々であり、聞き流すには勿体ない話が多い。その場でメモを取ることができなくても、帰宅してからルールブックやメカニクスブック片手に記録するようにしている。
先日も珍プレイのようなジャッジについて話題になった。そんなサプライズが発生したら、絶対にパニックになるだろうと話し合いながらグラウンドに立った。
グラウンドに立つ際の私の口癖は「何かあれば良いな」である。サプライズを望んでいるような言葉を口にすることで、何も無いことを願っているのである。
この日も、同じように「何かあれよ」と口走り、審判控え室を出た。試合は1点を争う好ゲームである。いわゆる「実力の噛み合った試合」である。走者は出るが、タイムリーが出ない。ここぞの場面で好プレイが出てピンチを逃れる。そんな試合である。
場面は一死1・3塁。1点を勝ち越して追加点を狙う場面である。スクイズやランエンドヒット、ダブルスチールなど、様々な作戦が考えられるケースであるが、打者は2ストライクと追い込まれた。次の投球で、1塁走者がスタートを切った。ややボール気味の外角のストレートを打者は強振したが、あえなく空振り。捕手は1塁走者の盗塁を阻止しようと2塁へ送球した。その時、打者が空振りの余勢で本塁ベースの前に立ってしまった。
「インターフェアランス!!」。
捕手の送球は2塁方向へ投じられたが、3塁走者をけん制して二塁手がカットしたため、1塁走者は2塁に達した。
捕手が盗塁を阻止しようとする送球をする際の打者による守備妨害の場合、走者の盗塁が失敗した場合は、守備妨害がなかったものとしてゲームは進められる。一方、走者の盗塁が成功した場合には、守備妨害を適用して、「打者は守備妨害でアウト、走者の進塁は認めない」となる。
野球規則6.06「打者の反則行為」(C)打者がバッタースボックスの外に出るか、あるいはなんらかの動作によって、本塁での捕手のプレイ及び捕手の守備または送球を妨害した場合。しかし例外として、進塁しようとしていた走者がアウトになった場合、及び得点しようとした走者が打者の妨害によってアウトの宣告を受けた場合は、打者はアウトにはならない。
【原注】打者が捕手を妨害したとき、球審は妨害を宣告しなければならない。打者はアウトになり、ボールデッドとなる。妨害があったとき、走者は進塁できず、妨害発生の瞬間に占有していたと審判員が判断した塁に帰らなければならない。しかし、妨害されながらも捕手がプレイをして、アウトにしようとした走者がアウトになった場合には、現実には妨害がなかったものと考えられるべきで、その走者がアウトとなり、打者はアウトにはならない。そのさい、他の走者は、走者がアウトにされたら妨害はなかったものとするという規則によって、進塁も可能である。このような場合、規則違反が宣告されなかったようにプレイは続けられる。
今回のケースは、ちょっと様相が違う。打者は既に空振り三振でアウトとなっているから、「アウトになった打者による守備妨害」が適用されるのである。この場合は、守備妨害により「アウトになった打者」を再びアウトにできないことから、守備の対象である走者がアウトとなる。その対象が不明確な場合は、本塁に最も近い走者をアウトにすることとなる【野球規則7.09(e)参照】。
では捕手からの送球をカットマンが捕球した場合は、守備の対象は誰になるのであろうか。今回は一死で発生した妨害であったため、ダブルプレイで三死となりチェンジであったが、無死1・3塁などの場合はどちらか一人の走者が残ることとなる。
サプライズの後に、トラブルとなりそうな事例であった。
先日も珍プレイのようなジャッジについて話題になった。そんなサプライズが発生したら、絶対にパニックになるだろうと話し合いながらグラウンドに立った。
グラウンドに立つ際の私の口癖は「何かあれば良いな」である。サプライズを望んでいるような言葉を口にすることで、何も無いことを願っているのである。
この日も、同じように「何かあれよ」と口走り、審判控え室を出た。試合は1点を争う好ゲームである。いわゆる「実力の噛み合った試合」である。走者は出るが、タイムリーが出ない。ここぞの場面で好プレイが出てピンチを逃れる。そんな試合である。
場面は一死1・3塁。1点を勝ち越して追加点を狙う場面である。スクイズやランエンドヒット、ダブルスチールなど、様々な作戦が考えられるケースであるが、打者は2ストライクと追い込まれた。次の投球で、1塁走者がスタートを切った。ややボール気味の外角のストレートを打者は強振したが、あえなく空振り。捕手は1塁走者の盗塁を阻止しようと2塁へ送球した。その時、打者が空振りの余勢で本塁ベースの前に立ってしまった。
「インターフェアランス!!」。
捕手の送球は2塁方向へ投じられたが、3塁走者をけん制して二塁手がカットしたため、1塁走者は2塁に達した。
捕手が盗塁を阻止しようとする送球をする際の打者による守備妨害の場合、走者の盗塁が失敗した場合は、守備妨害がなかったものとしてゲームは進められる。一方、走者の盗塁が成功した場合には、守備妨害を適用して、「打者は守備妨害でアウト、走者の進塁は認めない」となる。
野球規則6.06「打者の反則行為」(C)打者がバッタースボックスの外に出るか、あるいはなんらかの動作によって、本塁での捕手のプレイ及び捕手の守備または送球を妨害した場合。しかし例外として、進塁しようとしていた走者がアウトになった場合、及び得点しようとした走者が打者の妨害によってアウトの宣告を受けた場合は、打者はアウトにはならない。
【原注】打者が捕手を妨害したとき、球審は妨害を宣告しなければならない。打者はアウトになり、ボールデッドとなる。妨害があったとき、走者は進塁できず、妨害発生の瞬間に占有していたと審判員が判断した塁に帰らなければならない。しかし、妨害されながらも捕手がプレイをして、アウトにしようとした走者がアウトになった場合には、現実には妨害がなかったものと考えられるべきで、その走者がアウトとなり、打者はアウトにはならない。そのさい、他の走者は、走者がアウトにされたら妨害はなかったものとするという規則によって、進塁も可能である。このような場合、規則違反が宣告されなかったようにプレイは続けられる。
今回のケースは、ちょっと様相が違う。打者は既に空振り三振でアウトとなっているから、「アウトになった打者による守備妨害」が適用されるのである。この場合は、守備妨害により「アウトになった打者」を再びアウトにできないことから、守備の対象である走者がアウトとなる。その対象が不明確な場合は、本塁に最も近い走者をアウトにすることとなる【野球規則7.09(e)参照】。
では捕手からの送球をカットマンが捕球した場合は、守備の対象は誰になるのであろうか。今回は一死で発生した妨害であったため、ダブルプレイで三死となりチェンジであったが、無死1・3塁などの場合はどちらか一人の走者が残ることとなる。
サプライズの後に、トラブルとなりそうな事例であった。
GW 5日間10試合
2009年5月7日 スポーツ
ハードなゴールデンウィークであった。初日が雨天順延となった春季大会リーグ戦は、実質29日が開幕。ゴールデンウィークの5連休でリーグ戦の趨勢が見えてくるという、選手や指導者、そして補助する父兄にとってもハードな連休であったし、もちろん審判員も同様である。まさに、腑抜けの状態で連休明けを迎えておられる方も多いと思いわれる。
私もハードであった。開幕してから6日間の試合日で、12試合に携わることとなった。良くぞ身体が耐えてくれたと、我ながら驚いている。家族サービスもせずに、球場から球場を渡り歩く姿に、家族も呆れているとは思うが・・・。
中学シニアの審判活動も、今年で7年目を迎えた。その間に「師匠」にも出会え(と勝手に思っているのだが)、多くの仲間にも恵まれた。そんな仲間たちと再会することも楽しみである。また、毎年変わる選手たちとの新たな出会いも楽しみのひとつである。
春の大会はまだまだ、打球の勢いや飛距離も今ひとつである。投手の投球も「切れ」がイマイチであり、コントロールも甘い。これが3ヶ月後には、打球の飛距離も伸び、投球の勢いが増すのである。その成長カーブは素晴らしい。
今年の春の大会で気が付いたことが、「投手が投手板に付かずに捕手のサインを見る」行為である。ルールブックの投手の項で、一番最初に記載されていることが守られていないのである。どうやら選手も指導者も、それほど重要に思っていないようであるが、これは野球のルールの根幹といってもいい部分である。「プレイボール」は、投手がボールを持って投手板を踏んだ時点でコールされる。つまり、投手が投手板を踏むことが試合開始の第一条件になっているということである。これは、ボールデッドであろうとボールインプレイであろうと同じと考えてよいであろう。投手が投手板を踏んで打者と正対することが、プレイのスタートとなるのである。
この遠因になっているのが、「投手板を踏まなければ野手と同じであるから、ボークを犯す危険性を回避できる」ということではないかと思う。投球動作には色々と制限があるのは確かだが、それによって「投手が萎縮して、何も出来ない」と考えるのは間違いである。これには大きな誤解がある。
ボークルールの基本理念は「走者を騙す投球動作」である。つまり、投球姿勢や投球動作で走者のスタートを遅らせたり、走者の逆を突くなどの姑息な手段は使わずに「正々堂々と勝負をせよ」ということである。投手はボールを所持したら、投手板を踏み、捕手のサインを見て、投球動作に入り打者に投球する。ただ、これだけの繰り返しなのである。
一塁の塁審を担当しているときに、本塁へ投げると思った投手の動作で、一塁に牽制球が来た場合は「ボーク」と考えてよい。審判員が騙されるということは、投球動作のどこかに不正があるのである。それを「巧みな牽制球」だとか「野球センスに秀でた牽制球」などと持て囃すから、話がややこしくなるのである。
春の審判講習会では、毎年のように投手の基本動作を確認しているにも関わらず、このようなことが多く発生するのは、何か原因があるように思われる。
「捕手がミットを動かさないキャンペーン」の理解度もまだまだ低いようである。我々審判員も「子供である選手たち」の指導者と考えて、日々接していくべきなのであろう。
とにかく、今年も野球シーズンが始まった。
私もハードであった。開幕してから6日間の試合日で、12試合に携わることとなった。良くぞ身体が耐えてくれたと、我ながら驚いている。家族サービスもせずに、球場から球場を渡り歩く姿に、家族も呆れているとは思うが・・・。
中学シニアの審判活動も、今年で7年目を迎えた。その間に「師匠」にも出会え(と勝手に思っているのだが)、多くの仲間にも恵まれた。そんな仲間たちと再会することも楽しみである。また、毎年変わる選手たちとの新たな出会いも楽しみのひとつである。
春の大会はまだまだ、打球の勢いや飛距離も今ひとつである。投手の投球も「切れ」がイマイチであり、コントロールも甘い。これが3ヶ月後には、打球の飛距離も伸び、投球の勢いが増すのである。その成長カーブは素晴らしい。
今年の春の大会で気が付いたことが、「投手が投手板に付かずに捕手のサインを見る」行為である。ルールブックの投手の項で、一番最初に記載されていることが守られていないのである。どうやら選手も指導者も、それほど重要に思っていないようであるが、これは野球のルールの根幹といってもいい部分である。「プレイボール」は、投手がボールを持って投手板を踏んだ時点でコールされる。つまり、投手が投手板を踏むことが試合開始の第一条件になっているということである。これは、ボールデッドであろうとボールインプレイであろうと同じと考えてよいであろう。投手が投手板を踏んで打者と正対することが、プレイのスタートとなるのである。
この遠因になっているのが、「投手板を踏まなければ野手と同じであるから、ボークを犯す危険性を回避できる」ということではないかと思う。投球動作には色々と制限があるのは確かだが、それによって「投手が萎縮して、何も出来ない」と考えるのは間違いである。これには大きな誤解がある。
ボークルールの基本理念は「走者を騙す投球動作」である。つまり、投球姿勢や投球動作で走者のスタートを遅らせたり、走者の逆を突くなどの姑息な手段は使わずに「正々堂々と勝負をせよ」ということである。投手はボールを所持したら、投手板を踏み、捕手のサインを見て、投球動作に入り打者に投球する。ただ、これだけの繰り返しなのである。
一塁の塁審を担当しているときに、本塁へ投げると思った投手の動作で、一塁に牽制球が来た場合は「ボーク」と考えてよい。審判員が騙されるということは、投球動作のどこかに不正があるのである。それを「巧みな牽制球」だとか「野球センスに秀でた牽制球」などと持て囃すから、話がややこしくなるのである。
春の審判講習会では、毎年のように投手の基本動作を確認しているにも関わらず、このようなことが多く発生するのは、何か原因があるように思われる。
「捕手がミットを動かさないキャンペーン」の理解度もまだまだ低いようである。我々審判員も「子供である選手たち」の指導者と考えて、日々接していくべきなのであろう。
とにかく、今年も野球シーズンが始まった。
2009年の開幕試合は悪天候のため中止となってしまった。みぞれ混じりの雨が降る気温3度のコンディションでは、とても野球をやれる天候ではない。大会を運営するサイドとしては、今後の日程調整が苦しくなるために粘りたくなる気持ちも分からなくもないが、昨今の天気予報の精度と照らしても回復の見込みがないのであるから、素早い決断が望まれるところである。ここ数年、大会運営を間近で見ているが、「大会日程の消化」と「選手の健康管理」のアンバランスさが目に付いて仕方がない。中学シニアの選手たちは、高校野球を夢見ている子供たちが大勢を占めており、ここで故障する訳にはいかないのである。しかし目前に重要な試合があり、チームから連投を強いられたエース投手は投げるであろう。「肩は消耗品」ということを大会関係者も指導者も父兄も熟知しているはずなのに、盲目を決め込み、大会日程の消化に勤しむのである。チームは栄光を勝ち取ったとしても、エース投手の肩や肘は消耗して高校野球の道が閉ざされたり、故障のリハビリのために貴重な青春の日々を費やすこととなるのも決して珍しくない。
2009年は出鼻を挫かれた感はあるが、今後の健全なる日程調整を望むものである。
さて、本題に移ろう。一般的に審判のジャッジメントは、その審判員の経験とともに精度が増してくるものである。それに加えて、それまで見過ごしていたプレイに対する疑問が沸きあがってくるようでもある。
前年までは「見ているようで見えていなかった」微妙なプレイが、ある時から唐突に目に付くようになるのである。一度気になりだすと「審判員の性」からか、その真相について探求してしまうものである。実際にはベテラン審判員からのアドバイスや、同僚などとの会話の中でのヒントがきっかけになっているのであろう。
昨年の講習会で、社会人野球の審判員の方と席を並べる機会に恵まれた。私はいつもの悪い癖が頭をもたげて、講習会を公聴しながら独り言をつぶやいてしまうのである。たまたま「ボーク」についての事例が報告されていた時に、私が何かを呟いた言葉に対して、隣に座っておられた社会人審判員の方が応えてくれたのである。
私の独り言は「ボークを見つけた瞬間にコールしようとすると、なかなかコールできないよな」であったのであろう(無意識の自分は、よく覚えていない)。
それに社会人審判員の方は「多少、遅れてコールしても、全然問題ないよ」と応えてくれた。
「ボークの瞬間にコールしようとすると、視野が狭くなり、他のプレイへ対応できなくなる。だから、ボークが発生したのを、頭の中で反芻した後にコールした方がいいよ」とアドバイスを頂いた。このアドバイスで、喉につかえていた魚の骨が、スーッと無くなるかのごとく気分が楽になったのである。
昨年一年間は、これを実践してみた。最初は、なかなかタイミングがつかめずにいたが、徐々にコツが分かってきた。それと同時に、今まで経験できなかったことが起こったのである。
まず、ボークコールのタイミングが若干遅くなってから、投手が打者に投げ込むことが多くなった。「ボーク」の宣告があったのであるから、どのようなことがあっても攻撃側に不利な処理は出来ないのが基本である。ただし、安全進塁権を与えた塁以上に走者が危険と賭して走ることは、インプレイであれば走者の責任の下のプレイと判断してよい。
「ボークコール」があり、投手が投球した場合には、打者は迷うことなくフルスイングで打ちにいくべきである。たとえ、それが空振りでも「ストライク」にはカウントされないのであるが、安打になり打者走者を含めた走者が一つ以上塁を進めば、これが有効となる。攻撃側にはリスクがまったくない場面なのである。
では、実戦ではどうであろう。今年のオープン戦であった事例3件(ボークだけで、すでに3件もあった)を紹介しましょう。
【ケース1】一死走者1塁の場面で、投手のセットが止まらずに「ボークコール」。しかし、投手は打者に投球し、打者が痛打した。打球はセンター後方への大飛球となったが、センターが背走して好捕した。この時点でボールデッドとし、ボークにより1塁走者を2塁へ進めて、打者は打ち直しとした。もちろん、ノーカウントである。この打球により1塁走者と打者走者が最低1個の塁を得たのであれば、ボークは無かったこととして試合を再開することとなる。
【ケース2】無死走者2・3塁で、投手が「ボークコール」を受けながら投球したが、捕手が後逸したため、走者はそれぞれ進塁した。打者はこれによって1塁を得たわけではないので、ボークの処置を選択し、ボールカウントはノーカウントとして、「1得点、無死3塁」で再開した。
【ケース3】無死走者1塁で、打者はフルカウントの場面。投手は「ボークコール」受けながら投球したが、外角に外れて「ボール」。これにより、打者は四球で1塁が与えられ、走者は押し出されて進塁するため「四球」として、無死1・2塁で再開した。
それぞれ微妙に違いがあり、文面では理解できたとしても、その場に立ち合うとサプライズでパニック状態に陥りやすいケースである。
改めて、審判はグラウンドでの経験が技術を支えることを再確認させられた事例であった。
ボークに限らす、ジャッジメントの後処理は重要な技術なのである。
2009年は出鼻を挫かれた感はあるが、今後の健全なる日程調整を望むものである。
さて、本題に移ろう。一般的に審判のジャッジメントは、その審判員の経験とともに精度が増してくるものである。それに加えて、それまで見過ごしていたプレイに対する疑問が沸きあがってくるようでもある。
前年までは「見ているようで見えていなかった」微妙なプレイが、ある時から唐突に目に付くようになるのである。一度気になりだすと「審判員の性」からか、その真相について探求してしまうものである。実際にはベテラン審判員からのアドバイスや、同僚などとの会話の中でのヒントがきっかけになっているのであろう。
昨年の講習会で、社会人野球の審判員の方と席を並べる機会に恵まれた。私はいつもの悪い癖が頭をもたげて、講習会を公聴しながら独り言をつぶやいてしまうのである。たまたま「ボーク」についての事例が報告されていた時に、私が何かを呟いた言葉に対して、隣に座っておられた社会人審判員の方が応えてくれたのである。
私の独り言は「ボークを見つけた瞬間にコールしようとすると、なかなかコールできないよな」であったのであろう(無意識の自分は、よく覚えていない)。
それに社会人審判員の方は「多少、遅れてコールしても、全然問題ないよ」と応えてくれた。
「ボークの瞬間にコールしようとすると、視野が狭くなり、他のプレイへ対応できなくなる。だから、ボークが発生したのを、頭の中で反芻した後にコールした方がいいよ」とアドバイスを頂いた。このアドバイスで、喉につかえていた魚の骨が、スーッと無くなるかのごとく気分が楽になったのである。
昨年一年間は、これを実践してみた。最初は、なかなかタイミングがつかめずにいたが、徐々にコツが分かってきた。それと同時に、今まで経験できなかったことが起こったのである。
まず、ボークコールのタイミングが若干遅くなってから、投手が打者に投げ込むことが多くなった。「ボーク」の宣告があったのであるから、どのようなことがあっても攻撃側に不利な処理は出来ないのが基本である。ただし、安全進塁権を与えた塁以上に走者が危険と賭して走ることは、インプレイであれば走者の責任の下のプレイと判断してよい。
「ボークコール」があり、投手が投球した場合には、打者は迷うことなくフルスイングで打ちにいくべきである。たとえ、それが空振りでも「ストライク」にはカウントされないのであるが、安打になり打者走者を含めた走者が一つ以上塁を進めば、これが有効となる。攻撃側にはリスクがまったくない場面なのである。
では、実戦ではどうであろう。今年のオープン戦であった事例3件(ボークだけで、すでに3件もあった)を紹介しましょう。
【ケース1】一死走者1塁の場面で、投手のセットが止まらずに「ボークコール」。しかし、投手は打者に投球し、打者が痛打した。打球はセンター後方への大飛球となったが、センターが背走して好捕した。この時点でボールデッドとし、ボークにより1塁走者を2塁へ進めて、打者は打ち直しとした。もちろん、ノーカウントである。この打球により1塁走者と打者走者が最低1個の塁を得たのであれば、ボークは無かったこととして試合を再開することとなる。
【ケース2】無死走者2・3塁で、投手が「ボークコール」を受けながら投球したが、捕手が後逸したため、走者はそれぞれ進塁した。打者はこれによって1塁を得たわけではないので、ボークの処置を選択し、ボールカウントはノーカウントとして、「1得点、無死3塁」で再開した。
【ケース3】無死走者1塁で、打者はフルカウントの場面。投手は「ボークコール」受けながら投球したが、外角に外れて「ボール」。これにより、打者は四球で1塁が与えられ、走者は押し出されて進塁するため「四球」として、無死1・2塁で再開した。
それぞれ微妙に違いがあり、文面では理解できたとしても、その場に立ち合うとサプライズでパニック状態に陥りやすいケースである。
改めて、審判はグラウンドでの経験が技術を支えることを再確認させられた事例であった。
ボークに限らす、ジャッジメントの後処理は重要な技術なのである。
ボークコールのタイミング
2009年4月20日 スポーツ
審判の経験を数年積むと、通常のジャッジメントは安定してくる。塁審の基本的な動きなどもスムーズになってくる。よほどのサプライズがない限り、ゲームはほぼ問題なく終えることが出来るようになる。まさに「習うより慣れろ」という事なのであろう。
しかし、この辺りから「審判員の苦悩」が始まるのである。普通に「アウト・セーフ」や「フェア・ファール」の判定をすることに満足がいかなくなってくる。
ルールブックを読みふけっていると、疑問が沸くようになってくる。今まで、何気なく看過してきたプレイに疑問を抱くようになってくるのである。
それが、不正なプレイや妨害プレイである。幼き頃から繰り返してきた、「チームプレイ」や「野球センスに溢れたプレイ」などが、その代表格かもしれない。
投手の投球姿勢は、ワインドアップポジションとセットポジションがある。投手は冬季間、一生懸命ワインドアップの練習に勤しむが、実は一試合の中ではセットポジションで投球する方が多いように思われる。最近は、走者がいない場面でもセットポジションで投球する投手が増えてきたが、ある意味で効率的かもしれない。
投手は牽制球が大好きであるが、問題はその目的であろう。
「牽制球」は走者を捕殺するプレイではない。あくまで「牽制」のはずである。しかし、投手たちは技術を駆使して走者を捕殺しようと努力する。そこに「不正」が入り込むのである。不正な投球姿勢などで、走者を騙してピンチを逃れようとするのである。
何年かの経験を積んだ審判員のステップアップが、これらの不正や妨害プレイを指摘し処理することであろう。
試合をスムーズに進行させようとした場合には、多少の不正や妨害が大勢に影響が無ければ見過ごすことがあるかもしれない。しかし、それらは本当の意味でのゲームコントロールとは違う。審判員は演出家ではない。あくまでもジャッジメントの役割を遂行するべき中立者でなくてはならない。どのような試合展開になろうとも、選手たちが「ゲームセット」まで全力を振絞る限りは厳正にルールの適用を繰り返さなければならないと考えている。
「ボーク」のコールは勇気がいる。説明ができない場合は避けるべきであろう。しかし、実践されたボークの動作を同じように繰り替えることは出来ない。ゆえに、「ボーク行為」と認め「コール」してしまった場合は、「理由」さえ用意しておけば良いのである。
それにしても、「あっ」と思った瞬間に「ボーク」をコールすることは至難の業である。よく耳にするのが「ボークを狙う」という言葉であるが、実際の「ボークコール」は「狙って」採るのではなく、自然と口を突くというのが正解だと思われる。
狙っていなければ「ボークコール」が出来ない審判員は技量が不足している場合もあるが、コールのタイミングが違うのではないかと考えられる。
投手が不正投球や不正な牽制球を犯した瞬間に「ボークコール」をしようと考えていると、ついつい獲物を逃してしまう。そこまで集中して2時間以上のゲームをジャッジすることは不可能であろう。
では、どのタイミングなのであろうか。
4月に入り、北海道でもようやくオープン戦も始まってきた。まだ、数試合のジャッジメントで、すでに3度のボークコールがあった。春先にボークが多いのは毎年のことであるが、今年は趣が例年とはかなり違う。ボークコールをされた投手が、打者に投球するのである。ボークコールにより投手が投球を中断した場合は、ボールデッドでボークの処理をするだけであるから簡単であるが、不正ながらも投球を完了してしまった場合には、場面設定によりケース分けが発生する。
ボークコールのタイミングが遅くなってきたのであろう。これは、ストライク・ボールの判定の際にトラッキングにより捕手のミットまで見届け、フィードバックして判定をしてからコールするというタイミングに似ている。
つまり「ボーク行為」に気付いてすぐにコールではなく、一呼吸置いて頭の中で反芻作業を行い、ルールに照らして確信を得てから「ボークコール」を行うのである。
そうすると、投手の投球や牽制球が投じられてからコールするタイミングになるのである。
このタイミングを会得してから、一球一球のジャッジメントに余裕が生れたように感じている。
しかし、この辺りから「審判員の苦悩」が始まるのである。普通に「アウト・セーフ」や「フェア・ファール」の判定をすることに満足がいかなくなってくる。
ルールブックを読みふけっていると、疑問が沸くようになってくる。今まで、何気なく看過してきたプレイに疑問を抱くようになってくるのである。
それが、不正なプレイや妨害プレイである。幼き頃から繰り返してきた、「チームプレイ」や「野球センスに溢れたプレイ」などが、その代表格かもしれない。
投手の投球姿勢は、ワインドアップポジションとセットポジションがある。投手は冬季間、一生懸命ワインドアップの練習に勤しむが、実は一試合の中ではセットポジションで投球する方が多いように思われる。最近は、走者がいない場面でもセットポジションで投球する投手が増えてきたが、ある意味で効率的かもしれない。
投手は牽制球が大好きであるが、問題はその目的であろう。
「牽制球」は走者を捕殺するプレイではない。あくまで「牽制」のはずである。しかし、投手たちは技術を駆使して走者を捕殺しようと努力する。そこに「不正」が入り込むのである。不正な投球姿勢などで、走者を騙してピンチを逃れようとするのである。
何年かの経験を積んだ審判員のステップアップが、これらの不正や妨害プレイを指摘し処理することであろう。
試合をスムーズに進行させようとした場合には、多少の不正や妨害が大勢に影響が無ければ見過ごすことがあるかもしれない。しかし、それらは本当の意味でのゲームコントロールとは違う。審判員は演出家ではない。あくまでもジャッジメントの役割を遂行するべき中立者でなくてはならない。どのような試合展開になろうとも、選手たちが「ゲームセット」まで全力を振絞る限りは厳正にルールの適用を繰り返さなければならないと考えている。
「ボーク」のコールは勇気がいる。説明ができない場合は避けるべきであろう。しかし、実践されたボークの動作を同じように繰り替えることは出来ない。ゆえに、「ボーク行為」と認め「コール」してしまった場合は、「理由」さえ用意しておけば良いのである。
それにしても、「あっ」と思った瞬間に「ボーク」をコールすることは至難の業である。よく耳にするのが「ボークを狙う」という言葉であるが、実際の「ボークコール」は「狙って」採るのではなく、自然と口を突くというのが正解だと思われる。
狙っていなければ「ボークコール」が出来ない審判員は技量が不足している場合もあるが、コールのタイミングが違うのではないかと考えられる。
投手が不正投球や不正な牽制球を犯した瞬間に「ボークコール」をしようと考えていると、ついつい獲物を逃してしまう。そこまで集中して2時間以上のゲームをジャッジすることは不可能であろう。
では、どのタイミングなのであろうか。
4月に入り、北海道でもようやくオープン戦も始まってきた。まだ、数試合のジャッジメントで、すでに3度のボークコールがあった。春先にボークが多いのは毎年のことであるが、今年は趣が例年とはかなり違う。ボークコールをされた投手が、打者に投球するのである。ボークコールにより投手が投球を中断した場合は、ボールデッドでボークの処理をするだけであるから簡単であるが、不正ながらも投球を完了してしまった場合には、場面設定によりケース分けが発生する。
ボークコールのタイミングが遅くなってきたのであろう。これは、ストライク・ボールの判定の際にトラッキングにより捕手のミットまで見届け、フィードバックして判定をしてからコールするというタイミングに似ている。
つまり「ボーク行為」に気付いてすぐにコールではなく、一呼吸置いて頭の中で反芻作業を行い、ルールに照らして確信を得てから「ボークコール」を行うのである。
そうすると、投手の投球や牽制球が投じられてからコールするタイミングになるのである。
このタイミングを会得してから、一球一球のジャッジメントに余裕が生れたように感じている。
昨年のシーズン終盤に、何度か続けて塁審に立つ機会に恵まれた。それぞれのポジションで面白さを再確認することで、その重要性も認識させられた。特に2塁に立つ機会が多かったが、クロックワイズ・メカニクスやカウンタークロックワイズ・メカニクスの動きの意味を気付かされることが多かった。ようやく、それらを見える余裕が出てきたということかもしれない。
講習会などで、ケーススタディによりメカニクスの反復をやるが、ある程度打球方向や結果が想定された中での動きであるから、頭で考えながらでも十分に動くことができる。しかし、頭で考えながら動いていては、実戦にて起こる突発的な打球方向に対して「立ち遅れる」ことになってしまう。
審判員の動きは「審判メカニクスハンドブック」などで、走者の有無や外野への打球方向により紹介されている。その根底に流れるのが「MLB審判マニュアル」であり、永年の試行錯誤から体系化されたものが紹介されているのである。アメリカは合理主義の国であるから、無駄や無理を省き、確率の高い最良のポジショニングをするためにメカニクスを作り上げたことが容易に想像できる。
私を含めアマチュア審判員の多くは、このメカニクスを鵜呑みすることからグラウンドに立つのである。その動きの意味を考えることもなく、教えられることもなく。実情は教えられているのであろうが、理解できていないのが真実かもしれない。私の師匠を含めた先輩諸氏は、教本や自分たちの経験からベーシックな審判員の動きを伝授しようと試みてくれていたが、教え子の理解力が不足しているため、長い年月を要してしまったようである。
それでもグラウンドに立たなくては試合が始まらない。審判員がいなくては試合が始まらないのである。
審判メカニクスをメモ用紙に書き込み、胸に忍ばせてグラウンドに立つのである。いざという時は、そのアンチョコを見ようと思いながら出陣するのであるが、実際には見たことがない。見ている余裕がないのである。その顛末は、ドタバタ劇であるのは想像されるとおりである。グラウンドに審判員として立ち始めた当初は、皆この程度であるようである。
審判員の公式戦デビューは、ほとんど3塁塁審から始まる。3塁は「アウト・セーフ」よりも「フェア・ファール」のジャッジメントが多いポジションである。一試合のうちに一度も「アウト・セーフ」をコールしないこともある。緊張のあまり、球審のハーフスイングのリクエストにすら応えられない新人も多い。試合前に打合せをした「インフィールドフライ」のサインすら気付かない審判員も多い。それほどの緊張感の中で2時間あまりを過ごすのであるから、メカニクスが完璧にできることなど、期待する方が野暮である。
3塁は本塁に最も近いゆえに、得点の確率が高いのは周知のとおりである。ゆえに、トラブルが多いポジションでもある。この塁で起こるプレイによる「アウトか」「セーフか」は、勝敗の趨勢を左右しかねないからであろう。
こんな重要なポジションに、なぜ新人がと思われるであろう。理由は、ジャッジの少なさと審判メカニクスの単純さにある。外飛の判定は、無走者または単独3塁の場面ではライン際、その他の場面はセンターから3塁側を担えばよく、非常に分かりやすい。唯一、無走者の場面で二塁塁審が外飛を追った際に、2塁のカバーリングに走り込む事がメカニクス的な動きであろう。
これが出来れば100点が貰えるが、これが出来ないのが経験の浅い審判員である。
なぜ「審判4人制」で、このメカニクスが採用されているのかを理解できれば、自然と動きが身に付くのであろう。
昨年の終盤に塁審の奥深さを感じ、高いモチベーションを保ちつつ、新たなシーズンが目前に迫ってきた。今年も、大いに楽しもうと思っている。
講習会などで、ケーススタディによりメカニクスの反復をやるが、ある程度打球方向や結果が想定された中での動きであるから、頭で考えながらでも十分に動くことができる。しかし、頭で考えながら動いていては、実戦にて起こる突発的な打球方向に対して「立ち遅れる」ことになってしまう。
審判員の動きは「審判メカニクスハンドブック」などで、走者の有無や外野への打球方向により紹介されている。その根底に流れるのが「MLB審判マニュアル」であり、永年の試行錯誤から体系化されたものが紹介されているのである。アメリカは合理主義の国であるから、無駄や無理を省き、確率の高い最良のポジショニングをするためにメカニクスを作り上げたことが容易に想像できる。
私を含めアマチュア審判員の多くは、このメカニクスを鵜呑みすることからグラウンドに立つのである。その動きの意味を考えることもなく、教えられることもなく。実情は教えられているのであろうが、理解できていないのが真実かもしれない。私の師匠を含めた先輩諸氏は、教本や自分たちの経験からベーシックな審判員の動きを伝授しようと試みてくれていたが、教え子の理解力が不足しているため、長い年月を要してしまったようである。
それでもグラウンドに立たなくては試合が始まらない。審判員がいなくては試合が始まらないのである。
審判メカニクスをメモ用紙に書き込み、胸に忍ばせてグラウンドに立つのである。いざという時は、そのアンチョコを見ようと思いながら出陣するのであるが、実際には見たことがない。見ている余裕がないのである。その顛末は、ドタバタ劇であるのは想像されるとおりである。グラウンドに審判員として立ち始めた当初は、皆この程度であるようである。
審判員の公式戦デビューは、ほとんど3塁塁審から始まる。3塁は「アウト・セーフ」よりも「フェア・ファール」のジャッジメントが多いポジションである。一試合のうちに一度も「アウト・セーフ」をコールしないこともある。緊張のあまり、球審のハーフスイングのリクエストにすら応えられない新人も多い。試合前に打合せをした「インフィールドフライ」のサインすら気付かない審判員も多い。それほどの緊張感の中で2時間あまりを過ごすのであるから、メカニクスが完璧にできることなど、期待する方が野暮である。
3塁は本塁に最も近いゆえに、得点の確率が高いのは周知のとおりである。ゆえに、トラブルが多いポジションでもある。この塁で起こるプレイによる「アウトか」「セーフか」は、勝敗の趨勢を左右しかねないからであろう。
こんな重要なポジションに、なぜ新人がと思われるであろう。理由は、ジャッジの少なさと審判メカニクスの単純さにある。外飛の判定は、無走者または単独3塁の場面ではライン際、その他の場面はセンターから3塁側を担えばよく、非常に分かりやすい。唯一、無走者の場面で二塁塁審が外飛を追った際に、2塁のカバーリングに走り込む事がメカニクス的な動きであろう。
これが出来れば100点が貰えるが、これが出来ないのが経験の浅い審判員である。
なぜ「審判4人制」で、このメカニクスが採用されているのかを理解できれば、自然と動きが身に付くのであろう。
昨年の終盤に塁審の奥深さを感じ、高いモチベーションを保ちつつ、新たなシーズンが目前に迫ってきた。今年も、大いに楽しもうと思っている。
ようやく、年度末の繁忙期から開放された。
というよりも、球春が近づいて来たので、勝手に「一抜けた」のである。
練習試合に4試合立ったが、半年近いブランクを感じずにはいられない。オフシーズンも感性の鈍化を防ぐために、できる限り選手たちとボールを追っていたのだが、練習と実戦はまったく違うことを再確認した。ブルペンでは見えている際どいコースが、かなり不安定な状態である。毎年のことではあるが、この矯正には数試合を要するのは致し方ないのであろう。
今年は「ストライクゾーンの適正化」という大きな変革があったが、マスコミが大きく取り上げた割にはアマチュア球界の審判部の反応は冷めている。
高校野球の取り扱いも微妙であるが、詳細を述べると混乱を招くので控えることにする。
いずれにしても、「ストライクゾーンは従来とおり」という統一見解で推し進めることになるであろう。
問題はマスコミの情報を鵜呑みにしている指導者であろう。今年も、意味のない議論を戦わす場面に出くわしそうだ。
審判員の皆さん。くれぐれも、低目が広くなったという意識は持たないようにしましょう。
ワンバウンドで捕球したカーブを「ストライク」とコールしてしまわないようにしましょう。
さて、今年も「審判の目」をよろしくお願いします。
というよりも、球春が近づいて来たので、勝手に「一抜けた」のである。
練習試合に4試合立ったが、半年近いブランクを感じずにはいられない。オフシーズンも感性の鈍化を防ぐために、できる限り選手たちとボールを追っていたのだが、練習と実戦はまったく違うことを再確認した。ブルペンでは見えている際どいコースが、かなり不安定な状態である。毎年のことではあるが、この矯正には数試合を要するのは致し方ないのであろう。
今年は「ストライクゾーンの適正化」という大きな変革があったが、マスコミが大きく取り上げた割にはアマチュア球界の審判部の反応は冷めている。
高校野球の取り扱いも微妙であるが、詳細を述べると混乱を招くので控えることにする。
いずれにしても、「ストライクゾーンは従来とおり」という統一見解で推し進めることになるであろう。
問題はマスコミの情報を鵜呑みにしている指導者であろう。今年も、意味のない議論を戦わす場面に出くわしそうだ。
審判員の皆さん。くれぐれも、低目が広くなったという意識は持たないようにしましょう。
ワンバウンドで捕球したカーブを「ストライク」とコールしてしまわないようにしましょう。
さて、今年も「審判の目」をよろしくお願いします。
WBCで球数制限が話題になっている。これは、アメリカと日本の野球における考え方や背景の違いが如実に現れている事例であろう。
夏の高校野球などでは、エース投手の力投が話題になる。力投として記憶に新しいところでは、北京五輪・ソフトボールの上野投手の熱投などもある。高校野球に話を戻すと、駒大苫小牧の田中投手と早稲田実業のハンカチ王子の投げ合いも思い出させる。つまり、日本人の野球の思いでシーンには、投手の力投が欠かせないのである。悲壮感あふれる投球や、腕が千切れんばかりの熱投などは大好きなのである。
昨今、高校野球では投手の肩やヒジのメディカルチェックが義務付けられるようになった。よく考えれば当たり前の話であり、「教育の一環」などとウソぶいている高野連は、今まで黙認してきたことを猛省するべきである。今まで、何万という高校球児が、夏の大会で野球を離れていった事であろう。野球人口が多い時代は気にもしなかったのであろうが、野球人気が低迷しだし、競技人口が気になりだしたことが主要因であろうが、表向きは「選手の健康管理」であるようである。
野球世界一を競う大会であるWBCで、何とも軟弱と思われる「球数制限」が設けられたことに、日本の野球ファンは「消化不良」的な思いにあるように感じる。マスコミなどは、「球数制限が、野球本来の面白さを奪っている」などと本気で書き連ねている。何とも短絡的な発想であろうか。
なぜ、球数制限などを設けているのであろうか。そして、その変なルールを、何故質実剛健な大リーガーが受け入れているのであろうか。そのルーツは「リトルリーグ」にある。アメリカの少年野球といえばリトルリーグである。日本のように色々なローカルリーグや、嫌いなやつは排除する的な連盟などは存在しない。このリトルリーグには、少年の育成が第一目標として掲げられており、おのずと選手の健康管理に目が注がれている。そのひとつが、球数制限や連投禁止などである。このルールが、そのままWBCの変則ルールにつながっている。
実際にはナショナルチームと言っても、大リーグの各球団から主力選手を預かっているだけであるから、身を粉にしてプレイしろとは言えないのが現実なのであろう。契約社会であるアメリカにあったは、WBCで活躍すること以上に、160試合を超えるシーズンをコンスタントにプレイし活躍することを、自他共に求めているのである。だから、プレシーズンマッチであるWBCで、ナショナルチームの為に最大限貢献できる範囲が「球数制限」に表現されていると考えることもできる。
とはいえ、シーズン中も先発投手は100球程度の球数で交替することが、どのチームでも当たり前になっている大リーガーにとっては、順応しやすいルールであることは間違いない。
一方、日本人プレイヤーは不慣れであろう。「先発完投」が名誉のように感じているのが、日本のエースと呼ばれる投手である。時には明らかに球威が落ちていても、「エースと心中」などという名台詞で続投させて、敗戦の憂き目をみるチームもある。このようなチームの監督は、「親方」ではあるが「マネージャー」とは言えない。チームの目標を忘れているとしか思えない。がしかし、日本では日常茶飯事行われている。「エースで負けたら仕方が無い」というのは、勝利に向かい全力を挙げることが出来ない、能の無い指導者の台詞であろう。打つ手がたくさんあるにも関わらず、全力を出すことをせずして敗戦を迎えることは愚の骨頂であろう。たとえ、打つ手をすべて打っても、結果が同じこともあるかもしれないが、それを実践するのが「名」のつく指導者だと思う。
もともと、ベースボールは打撃のゲームである。ゆえに、投手に過酷な仕事をさせること自体がナンセンスなのであろう。
「球数制限」「連投禁止」などは、ベースボールのルーツを知る上で重要なキーワードなのかもしれない。
夏の高校野球などでは、エース投手の力投が話題になる。力投として記憶に新しいところでは、北京五輪・ソフトボールの上野投手の熱投などもある。高校野球に話を戻すと、駒大苫小牧の田中投手と早稲田実業のハンカチ王子の投げ合いも思い出させる。つまり、日本人の野球の思いでシーンには、投手の力投が欠かせないのである。悲壮感あふれる投球や、腕が千切れんばかりの熱投などは大好きなのである。
昨今、高校野球では投手の肩やヒジのメディカルチェックが義務付けられるようになった。よく考えれば当たり前の話であり、「教育の一環」などとウソぶいている高野連は、今まで黙認してきたことを猛省するべきである。今まで、何万という高校球児が、夏の大会で野球を離れていった事であろう。野球人口が多い時代は気にもしなかったのであろうが、野球人気が低迷しだし、競技人口が気になりだしたことが主要因であろうが、表向きは「選手の健康管理」であるようである。
野球世界一を競う大会であるWBCで、何とも軟弱と思われる「球数制限」が設けられたことに、日本の野球ファンは「消化不良」的な思いにあるように感じる。マスコミなどは、「球数制限が、野球本来の面白さを奪っている」などと本気で書き連ねている。何とも短絡的な発想であろうか。
なぜ、球数制限などを設けているのであろうか。そして、その変なルールを、何故質実剛健な大リーガーが受け入れているのであろうか。そのルーツは「リトルリーグ」にある。アメリカの少年野球といえばリトルリーグである。日本のように色々なローカルリーグや、嫌いなやつは排除する的な連盟などは存在しない。このリトルリーグには、少年の育成が第一目標として掲げられており、おのずと選手の健康管理に目が注がれている。そのひとつが、球数制限や連投禁止などである。このルールが、そのままWBCの変則ルールにつながっている。
実際にはナショナルチームと言っても、大リーグの各球団から主力選手を預かっているだけであるから、身を粉にしてプレイしろとは言えないのが現実なのであろう。契約社会であるアメリカにあったは、WBCで活躍すること以上に、160試合を超えるシーズンをコンスタントにプレイし活躍することを、自他共に求めているのである。だから、プレシーズンマッチであるWBCで、ナショナルチームの為に最大限貢献できる範囲が「球数制限」に表現されていると考えることもできる。
とはいえ、シーズン中も先発投手は100球程度の球数で交替することが、どのチームでも当たり前になっている大リーガーにとっては、順応しやすいルールであることは間違いない。
一方、日本人プレイヤーは不慣れであろう。「先発完投」が名誉のように感じているのが、日本のエースと呼ばれる投手である。時には明らかに球威が落ちていても、「エースと心中」などという名台詞で続投させて、敗戦の憂き目をみるチームもある。このようなチームの監督は、「親方」ではあるが「マネージャー」とは言えない。チームの目標を忘れているとしか思えない。がしかし、日本では日常茶飯事行われている。「エースで負けたら仕方が無い」というのは、勝利に向かい全力を挙げることが出来ない、能の無い指導者の台詞であろう。打つ手がたくさんあるにも関わらず、全力を出すことをせずして敗戦を迎えることは愚の骨頂であろう。たとえ、打つ手をすべて打っても、結果が同じこともあるかもしれないが、それを実践するのが「名」のつく指導者だと思う。
もともと、ベースボールは打撃のゲームである。ゆえに、投手に過酷な仕事をさせること自体がナンセンスなのであろう。
「球数制限」「連投禁止」などは、ベースボールのルーツを知る上で重要なキーワードなのかもしれない。
ストーブリーグの喧騒
2009年2月16日 スポーツ
野球シーズンが終わり、しばらくブログを留守にしている間に、プロ野球の新しいシーズンの蠢動が聞こえてきた。
春季キャンプが始まり二週間。WBCの合同合宿も始まり、野球界が久しぶりに賑やかである。大リーガーの松坂投手や岩村選手などを加えて豪華な顔ぶれである。北京五輪の時はシーズン半ばということもあり、代表選手には悲壮感と焦燥感と倦怠感しか感じられなかったが、今回はオフの間に心身ともにリフレッシュしたためか躍動感に溢れており、大きな期待を寄せてしまいたくなる。
そんな中で、紅白戦で話題になっていたのが「15秒ルール」である。奇しくもWBC代表候補選手のダルビッシュ投手(日本ハム)が最初の宣告を受け、審判団に物申したため新聞の一面を飾ってしまった。その後WBC代表候補の藤川投手(阪神)や田中投手(楽天)が続いたのも、何かの因果のように思えたし、審判団からWBC戦士たちへのエールのように見えた。「北京と同じ過ちはするなよ」という。
北京五輪で星野監督が世界の審判団に対して行った愚行は、日本野球の品位を貶めた行為であり、メダルにふさわしくないと自らが宣言した行為であった。少なくとも、五輪の女神にはそのように映ったであろう。野球は日本のスポーツではない。発祥はアメリカであり、中南米には優秀な選手がゴロゴロとしているのである。そんな世界の野球勢力図の中で、日本が北京で敗退したシーンは、まるで東京五輪で正式種目となった柔道が無差別級で惨敗した時の虚脱感を感じてしまった。世界を見ずに「井の中の蛙」となり、「お山の大将」となっていた「日本野球」が、痛烈なしっぺ返しを食らった感じすらした。
WBCでも苦戦は必至であろう。結果を追い求めすぎている。たとえ良い結果が出たとしても、その後に起こりえるだろう日本人トッププレイヤーが世界に認められ、海外流出に歯止めがかからなくなる現象が予想されるだけに、日本野球の将来は明るいとは言えない。結果を求めず日本のプレイヤーが伸び伸びとやれるなら、日本野球の将来も明るいのだが。イチロー選手などは大リーグに「楽しさ」を求めて活躍しているのに、胸に「日の丸」を付けた途端に勝負に拘っている。マリナーズの低迷はフロントの奇行によるところが大きいが、イチロー選手が「勝ち」に飢えているのは間違いない。また、モチベーションを大切にするイチロー選手にとって「日の丸」は、大きな「やる気」を引き出しているのは間違いない。
いずれにしても、WBCのおかげで今年のシーズンインは早い。
北海道も暖冬の影響で、ストーブリーグが早く店じまいになりそうである。
春季キャンプが始まり二週間。WBCの合同合宿も始まり、野球界が久しぶりに賑やかである。大リーガーの松坂投手や岩村選手などを加えて豪華な顔ぶれである。北京五輪の時はシーズン半ばということもあり、代表選手には悲壮感と焦燥感と倦怠感しか感じられなかったが、今回はオフの間に心身ともにリフレッシュしたためか躍動感に溢れており、大きな期待を寄せてしまいたくなる。
そんな中で、紅白戦で話題になっていたのが「15秒ルール」である。奇しくもWBC代表候補選手のダルビッシュ投手(日本ハム)が最初の宣告を受け、審判団に物申したため新聞の一面を飾ってしまった。その後WBC代表候補の藤川投手(阪神)や田中投手(楽天)が続いたのも、何かの因果のように思えたし、審判団からWBC戦士たちへのエールのように見えた。「北京と同じ過ちはするなよ」という。
北京五輪で星野監督が世界の審判団に対して行った愚行は、日本野球の品位を貶めた行為であり、メダルにふさわしくないと自らが宣言した行為であった。少なくとも、五輪の女神にはそのように映ったであろう。野球は日本のスポーツではない。発祥はアメリカであり、中南米には優秀な選手がゴロゴロとしているのである。そんな世界の野球勢力図の中で、日本が北京で敗退したシーンは、まるで東京五輪で正式種目となった柔道が無差別級で惨敗した時の虚脱感を感じてしまった。世界を見ずに「井の中の蛙」となり、「お山の大将」となっていた「日本野球」が、痛烈なしっぺ返しを食らった感じすらした。
WBCでも苦戦は必至であろう。結果を追い求めすぎている。たとえ良い結果が出たとしても、その後に起こりえるだろう日本人トッププレイヤーが世界に認められ、海外流出に歯止めがかからなくなる現象が予想されるだけに、日本野球の将来は明るいとは言えない。結果を求めず日本のプレイヤーが伸び伸びとやれるなら、日本野球の将来も明るいのだが。イチロー選手などは大リーグに「楽しさ」を求めて活躍しているのに、胸に「日の丸」を付けた途端に勝負に拘っている。マリナーズの低迷はフロントの奇行によるところが大きいが、イチロー選手が「勝ち」に飢えているのは間違いない。また、モチベーションを大切にするイチロー選手にとって「日の丸」は、大きな「やる気」を引き出しているのは間違いない。
いずれにしても、WBCのおかげで今年のシーズンインは早い。
北海道も暖冬の影響で、ストーブリーグが早く店じまいになりそうである。
ルールブックの巻頭には野球場のスケールが示されている。そこには、ベース間の距離が「90フィート」とされており、この距離が野球のエキサイティングの源となっているのである。これが5フィート短ければ攻撃側が圧倒的に有利となり、逆に5フィート長ければ守備側は楽にアウトを稼ぐことができるであろう。この距離が、野球の面白さの起源と言っても過言ではない。投手からの本塁までの距離は変更されているが、この90フィートだけは一度も変更されていない。リトルシニアクラスから大リーグまでが、同じフィールドで同じエキサイティングを味わうことができる、不思議な距離なのである。
1845年春。ニューヨークのウォール街の銀行員であった25歳の青年が、ひとつの発明をする。青年の名は「アレキサンダー・ジョーイ・カートライト」。
この当時ベースとボールを組み合わせた娯楽は多数あったが、どれもルールに統一性がなく、人と時と処が変われば、それに適した「ルール変更」は当たり前に行なわれていた。我々の少年時代に、色々な「鬼ごっこ」があったように、ローカルルールが当たり前であったのだ。
少年時代に「BASEBALL」の起源は英国のクリケットだと教わった気がしていたが、ボールゲームの様相は様々であったようである。ニューヨークやニューイングランドでは、英国の古いゲームである「ラウンダーズ」から派生した「タウンボール」なるものがポピュラーであったし、ニューイングランドのは「マサチューセッツ・ゲーム」とも呼ばれていた。いずれも、はっきりとした目的もない「遊び」であり、スポーツというよりもレクレーションという位置付けであったのだろう。
ニューヨーク郊外のマレーヒルの牧草地で、カートライト青年は一枚の図面を仲間に示した。そこには、それまでにないボールゲームが描かれていた。
・ベース間の距離は90フィートとした四角形の角にベースを置く。
・それぞれのベースにはプレイヤーを配置する。
・外野には3人のフィールドプレイヤーを配置する。
・二塁と三塁の間には、打球がよく飛ぶことから、もう一人プレイヤーを配置する。これを「ショートストップ」と呼ぶ。
・一チームは9人とし、ゲーム前に決めた打順で打つ。
・三つのアウトで攻守交替する。
現代の野球は、この起源がそのまま受け継がれているのである。マイナーチェンジはあったが、カートライトが発案したシンプルなルールは変わっていない。この時に発案されたルールは、その秋には「オフィシャル・ルール」として認められ、ニューヨークを中心に続々とベースボール・クラブが誕生し、現代の盛況へと続いているのである。
カートライトは、どのようにして90フィートに気付いたのであろうか。なぜ「100フィート」ではなかったのであろうか。本当に不思議である。そして、この不思議でエキサイティングな「90フィート」を予想していたかのように、ベースボールの最初のオフィシャル・ルールには「審判」の必要性が謳われているのである。そこには、このように書かれている。
【ゲームの裁定はアンパイヤーに一任され、その裁定に異議を申し立てることは出来ない】
1845年春。ニューヨークのウォール街の銀行員であった25歳の青年が、ひとつの発明をする。青年の名は「アレキサンダー・ジョーイ・カートライト」。
この当時ベースとボールを組み合わせた娯楽は多数あったが、どれもルールに統一性がなく、人と時と処が変われば、それに適した「ルール変更」は当たり前に行なわれていた。我々の少年時代に、色々な「鬼ごっこ」があったように、ローカルルールが当たり前であったのだ。
少年時代に「BASEBALL」の起源は英国のクリケットだと教わった気がしていたが、ボールゲームの様相は様々であったようである。ニューヨークやニューイングランドでは、英国の古いゲームである「ラウンダーズ」から派生した「タウンボール」なるものがポピュラーであったし、ニューイングランドのは「マサチューセッツ・ゲーム」とも呼ばれていた。いずれも、はっきりとした目的もない「遊び」であり、スポーツというよりもレクレーションという位置付けであったのだろう。
ニューヨーク郊外のマレーヒルの牧草地で、カートライト青年は一枚の図面を仲間に示した。そこには、それまでにないボールゲームが描かれていた。
・ベース間の距離は90フィートとした四角形の角にベースを置く。
・それぞれのベースにはプレイヤーを配置する。
・外野には3人のフィールドプレイヤーを配置する。
・二塁と三塁の間には、打球がよく飛ぶことから、もう一人プレイヤーを配置する。これを「ショートストップ」と呼ぶ。
・一チームは9人とし、ゲーム前に決めた打順で打つ。
・三つのアウトで攻守交替する。
現代の野球は、この起源がそのまま受け継がれているのである。マイナーチェンジはあったが、カートライトが発案したシンプルなルールは変わっていない。この時に発案されたルールは、その秋には「オフィシャル・ルール」として認められ、ニューヨークを中心に続々とベースボール・クラブが誕生し、現代の盛況へと続いているのである。
カートライトは、どのようにして90フィートに気付いたのであろうか。なぜ「100フィート」ではなかったのであろうか。本当に不思議である。そして、この不思議でエキサイティングな「90フィート」を予想していたかのように、ベースボールの最初のオフィシャル・ルールには「審判」の必要性が謳われているのである。そこには、このように書かれている。
【ゲームの裁定はアンパイヤーに一任され、その裁定に異議を申し立てることは出来ない】
日本人の審判員として単身アメリカで武者修行を続ける平林岳氏が、いよいよ来シーズンは3Aのステージに昇格する。大リーガーになるよりも競争率の高い大リーグの審判員。まさに名誉職であるが、3Aの審判員はその予備軍であり、ここでの成績次第ではメジャーへの道が拓ける。
先日引退を発表した野茂英雄氏の功績により多くの日本人が海を渡るようになり、大リーガーとマイナーリーガーの待遇の違いは周知のこととなっているが、審判員のそれも恵まれているとはいえない。連戦に継ぐ連戦に加えて移動距離の長さは半端ではない。シングルAは2人制で試合を行なうことから、パートナーの審判員と長距離ドライブで試合会場を転戦した上で、交替で球審を担当することとなるのである。もちろん高報酬が保証されていることは無い。
このような過酷な労働条件下で、かつ異国で孤独と闘いながらも頑張ることが出来るのは、大リーグに対する「夢」であろう。野茂が、イチローが、松井が、松坂が、多くの日本人プレイヤーたちが、安穏とした地位を捨ててまでも「挑戦しよう」という気持ちにさせる「夢」があるのであろう。青臭いかもしれないが、一流選手たちが高いモチベーションを維持し続けるためには、絶対的な「夢」が必要なのだ。多くの若い審判員が、審判学校の厳しいセレクションを通過し、その後過酷な大リーグの下部組織で切磋琢磨できるのは、大リーグへの「夢」が突き動かしているのである。
来季もイチローや松坂たちのエキサイティングなプレイに注目が集まるのだろうが、もう一人のサムライ審判員にも注目していただきたいものだ。
今年も、多くの日本人選手が大リーグに挑戦しようとしている。直接大リーグに挑戦するアマチュアNo1投手が出現し、日本のプロ野球機構は慌てふためいている。この行為に対して「ペナルティ」を加えるという大人気なさを露呈したために、「子供たちに夢を」と掲げているアドバルーンが「張りぼて」であったことを証明してしまった。日本プロ野球の経営理念が「売名目的と興行」の域を脱していないことを証明してしまったような感すらする。「夢」を売る商売が「夢」を語れなくなってしまっては、そこに所属する選手たちも白けてしまうであろう。来春の第二回WBCの選手選考も一波乱も二波乱もありそうである。すでに、出場辞退を明言している選手もいるようである。それほどまでに「JAPAN」のユニフォームは魅力のないものになってしまったのか。
どうして、一流選手たちが海を渡るのかということに気付き、日本プロ野球の建て直しをしなければ、「夢」を求めて大リーグを志向するプレイヤーは増加する一方であろう。
「自分のチームが強ければ、日本の景気が良くなる」などという妄想というか、独り善がりに浸ってしまい、強力なスタッフを揃え自己満足しているチームのオーナーは、自らが日本野球から「夢」を奪っていることに気付くべきであろう。
もう一人のサムライ・平林岳氏の健闘を祈りながら、何故日本プロ野球の魅力が失せてしまったのかを考えずにはいられなかった。
先日引退を発表した野茂英雄氏の功績により多くの日本人が海を渡るようになり、大リーガーとマイナーリーガーの待遇の違いは周知のこととなっているが、審判員のそれも恵まれているとはいえない。連戦に継ぐ連戦に加えて移動距離の長さは半端ではない。シングルAは2人制で試合を行なうことから、パートナーの審判員と長距離ドライブで試合会場を転戦した上で、交替で球審を担当することとなるのである。もちろん高報酬が保証されていることは無い。
このような過酷な労働条件下で、かつ異国で孤独と闘いながらも頑張ることが出来るのは、大リーグに対する「夢」であろう。野茂が、イチローが、松井が、松坂が、多くの日本人プレイヤーたちが、安穏とした地位を捨ててまでも「挑戦しよう」という気持ちにさせる「夢」があるのであろう。青臭いかもしれないが、一流選手たちが高いモチベーションを維持し続けるためには、絶対的な「夢」が必要なのだ。多くの若い審判員が、審判学校の厳しいセレクションを通過し、その後過酷な大リーグの下部組織で切磋琢磨できるのは、大リーグへの「夢」が突き動かしているのである。
来季もイチローや松坂たちのエキサイティングなプレイに注目が集まるのだろうが、もう一人のサムライ審判員にも注目していただきたいものだ。
今年も、多くの日本人選手が大リーグに挑戦しようとしている。直接大リーグに挑戦するアマチュアNo1投手が出現し、日本のプロ野球機構は慌てふためいている。この行為に対して「ペナルティ」を加えるという大人気なさを露呈したために、「子供たちに夢を」と掲げているアドバルーンが「張りぼて」であったことを証明してしまった。日本プロ野球の経営理念が「売名目的と興行」の域を脱していないことを証明してしまったような感すらする。「夢」を売る商売が「夢」を語れなくなってしまっては、そこに所属する選手たちも白けてしまうであろう。来春の第二回WBCの選手選考も一波乱も二波乱もありそうである。すでに、出場辞退を明言している選手もいるようである。それほどまでに「JAPAN」のユニフォームは魅力のないものになってしまったのか。
どうして、一流選手たちが海を渡るのかということに気付き、日本プロ野球の建て直しをしなければ、「夢」を求めて大リーグを志向するプレイヤーは増加する一方であろう。
「自分のチームが強ければ、日本の景気が良くなる」などという妄想というか、独り善がりに浸ってしまい、強力なスタッフを揃え自己満足しているチームのオーナーは、自らが日本野球から「夢」を奪っていることに気付くべきであろう。
もう一人のサムライ・平林岳氏の健闘を祈りながら、何故日本プロ野球の魅力が失せてしまったのかを考えずにはいられなかった。
インフィールドフライ宣告がもたらす結果
2008年11月8日 スポーツ
試合前のミーティングで、クルーが確認することのひとつが「インフィールドフライ」のサインを出すタイミングである。シニアでは胸に右手を当てるサインを用いており、捕手が座った時点で球審から発信され、塁審が応じるパターンが多い。自分の胸をインフィールドに見立てて「確認」するのである。
インフィールドフライは、無死または一死で走者一二塁または満塁の場面で適用されるルールであり、攻撃側の不利益を事前に取り除くための特別ルールである。ただし、内野内に打ち上がったフライすべてが対象というわけではない。また「インフィールド」の範囲は外野の芝の切れ目ではない。
ルールブックでは「内野手が普通の守備行為をすれば、捕球できるもの」と定義されている。つまり、飛球の高さや野手の守備位置および動きが目安ということであり、低いフライやライナー性の当たりなどは対象外となる。風の強い時などは「内野手が普通の守備行為」で捕球できない場合がある。打球の性質と野手の動きを把握した上で宣告することが肝要である。意外に判断までの時間はあるので、落ち着いて宣告することである。
インフィールドフライを宣告しない場合でも、内野手がフライを捕球してくれれば良いのだが、ボーンヘッドなどで落球すると、走者が「詰まった状態」のために混乱が起こる。特に攻撃側が圧倒的不利となる。落球した時点で、走者が次塁へ走らなければならないが、内野フライであるから大きなリードを取るわけには行かないため、下手をすると併殺が成立する可能性もある。守備側は慌てなければ、いずれかで一死は確実に獲れるからリスクは小さい。逆に、気の利く選手(狡猾な選手)は落球した振りを見せて併殺を狙いにくるかもしれない。
攻撃側の不利益を事前にとる事で、試合をフェアに進行させるためにも「インフィールドフライ」は宣告するべきであろう。
今年の試合で面白い事例があった。それも、ひとつの試合で両チームが同じようなことを繰り返したのである。
場面は一死満塁。最初のケースでは、内野手が定位置付近に守っており、比較的高いフライが二塁キャンバス後方へ飛んだ。遊撃手が回り込み捕球体勢となった時点で二塁塁審が「インフィールドフライ」を宣告した。ところが、遊撃手がグラブの土手に当てて落球した。これを見た三塁走者が本塁へスタートを切った。他の走者も慌てて次塁へ向かった。落球したボールを拾った遊撃手は、二塁カバーに入った二塁手へ送球したが、二塁手がフォースプレイの態勢で捕球し、走り込んで来た走者にタッグしなかったために「オールセーフ」となった。実は、この落球により打者走者も一塁にしばらく居た所から、インフィールドフライが宣告された時点で打者がアウトだということを知らないのではないかと思ってしまった。
審判メカニクスには、「インフィールドフライ・バッター・イズ・アウト」と宣告するように書かれている。つまり、インフィールドフライを宣告した時点で「打者アウト」も併せてコールするように書かれているのである。ただし、これがファールライン付近の飛球の場合はちょっと違う。このケースでは「インフィールドフライ・イフ・フェア」と宣告するべきであり、「フェアならばインフィールドフライが適用されて打者アウト」となることを周知する必要がある。「打者アウト」を続けてコールしないのは、ファウルエリアで落球した場合は「ファールボール」であり、打者アウトにはならないからである。
二つ目のケースも一死満塁。内野手は前進守備で、またまた二塁後方へ力の無い小飛球が飛んだ。前進守備の遊撃手が背走する格好で打球の落下位置に走っており、飛球もそれほど高くないためインフィールドフライが宣告されなかった。案の定、遊撃手は打球に追い付きはしたものの落球してしまった。このケースは打者に次塁へ走る義務が生じているため、走者は一斉にスタートした。落球したボールをカバーしたセンターが拾い本塁へ送球しようと前に出てきた際に、一塁走者より早く二塁キャンバスを踏むという偶然が起きた。これは先ほどと違い、フォースプレイとなり一塁走者は「アウト」となる。
いずれのケースも一得点が入り一死が増えたが、最初のケースが二死二三塁から、次のケースが二死一三塁からの再開となり、試合の流れ次第では大きなジャッジとなることも考えられる。
内野手の守備位置、飛球の角度・高さや勢いなどを的確に判断することは勿論、その後の処置も予め想定しながらいなければ、選手よりも審判員がパニックに成ってしまいかねない事例であった。
インフィールドフライは、無死または一死で走者一二塁または満塁の場面で適用されるルールであり、攻撃側の不利益を事前に取り除くための特別ルールである。ただし、内野内に打ち上がったフライすべてが対象というわけではない。また「インフィールド」の範囲は外野の芝の切れ目ではない。
ルールブックでは「内野手が普通の守備行為をすれば、捕球できるもの」と定義されている。つまり、飛球の高さや野手の守備位置および動きが目安ということであり、低いフライやライナー性の当たりなどは対象外となる。風の強い時などは「内野手が普通の守備行為」で捕球できない場合がある。打球の性質と野手の動きを把握した上で宣告することが肝要である。意外に判断までの時間はあるので、落ち着いて宣告することである。
インフィールドフライを宣告しない場合でも、内野手がフライを捕球してくれれば良いのだが、ボーンヘッドなどで落球すると、走者が「詰まった状態」のために混乱が起こる。特に攻撃側が圧倒的不利となる。落球した時点で、走者が次塁へ走らなければならないが、内野フライであるから大きなリードを取るわけには行かないため、下手をすると併殺が成立する可能性もある。守備側は慌てなければ、いずれかで一死は確実に獲れるからリスクは小さい。逆に、気の利く選手(狡猾な選手)は落球した振りを見せて併殺を狙いにくるかもしれない。
攻撃側の不利益を事前にとる事で、試合をフェアに進行させるためにも「インフィールドフライ」は宣告するべきであろう。
今年の試合で面白い事例があった。それも、ひとつの試合で両チームが同じようなことを繰り返したのである。
場面は一死満塁。最初のケースでは、内野手が定位置付近に守っており、比較的高いフライが二塁キャンバス後方へ飛んだ。遊撃手が回り込み捕球体勢となった時点で二塁塁審が「インフィールドフライ」を宣告した。ところが、遊撃手がグラブの土手に当てて落球した。これを見た三塁走者が本塁へスタートを切った。他の走者も慌てて次塁へ向かった。落球したボールを拾った遊撃手は、二塁カバーに入った二塁手へ送球したが、二塁手がフォースプレイの態勢で捕球し、走り込んで来た走者にタッグしなかったために「オールセーフ」となった。実は、この落球により打者走者も一塁にしばらく居た所から、インフィールドフライが宣告された時点で打者がアウトだということを知らないのではないかと思ってしまった。
審判メカニクスには、「インフィールドフライ・バッター・イズ・アウト」と宣告するように書かれている。つまり、インフィールドフライを宣告した時点で「打者アウト」も併せてコールするように書かれているのである。ただし、これがファールライン付近の飛球の場合はちょっと違う。このケースでは「インフィールドフライ・イフ・フェア」と宣告するべきであり、「フェアならばインフィールドフライが適用されて打者アウト」となることを周知する必要がある。「打者アウト」を続けてコールしないのは、ファウルエリアで落球した場合は「ファールボール」であり、打者アウトにはならないからである。
二つ目のケースも一死満塁。内野手は前進守備で、またまた二塁後方へ力の無い小飛球が飛んだ。前進守備の遊撃手が背走する格好で打球の落下位置に走っており、飛球もそれほど高くないためインフィールドフライが宣告されなかった。案の定、遊撃手は打球に追い付きはしたものの落球してしまった。このケースは打者に次塁へ走る義務が生じているため、走者は一斉にスタートした。落球したボールをカバーしたセンターが拾い本塁へ送球しようと前に出てきた際に、一塁走者より早く二塁キャンバスを踏むという偶然が起きた。これは先ほどと違い、フォースプレイとなり一塁走者は「アウト」となる。
いずれのケースも一得点が入り一死が増えたが、最初のケースが二死二三塁から、次のケースが二死一三塁からの再開となり、試合の流れ次第では大きなジャッジとなることも考えられる。
内野手の守備位置、飛球の角度・高さや勢いなどを的確に判断することは勿論、その後の処置も予め想定しながらいなければ、選手よりも審判員がパニックに成ってしまいかねない事例であった。
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打撃妨害、守備妨害は二度、そしてボーク。
一試合のうち一度あるかないかのレアプレイが、たった一試合で四度もあった。それも「立て続けに」である。そして、それをジャッジしたのはベテラン球審であった。
「凄み」さえ感じた圧倒的な存在感であった。クレーム好きの両監督も唖然呆然の電光石火のようなジャッジであった。
打撃妨害は「打者が打ちにいった際に、捕手のミットに触れた」状態であった。野球規則には次のようにある。
【6.08】打者は、次の場合走者となり、アウトにされるおそれなく、安全に一塁が与えられる。(c)捕手またはその他の野手が、打者を妨害(インターフェア)した場合。
今回の場合は、空振りした際にバットがミットに触れたため、その時点で「ボールデッド」として打者に一塁を与えた。これが妨害にも関わらず打ってしまった場合には、少し事情が違ってくる。プレイが一段落するまで見守り、打者および走者が少なくとも一個の進塁が確認された場合は、そのままボールインプレイで継続される。また、妨害にも関わらずプレイが続けられて、一段落した後に、攻撃側監督は「妨害行為によるペナルティ」の代わりに、その後のプレイを選択することができる。
例えば、無死走者二塁でバントをした際に、打者は捕手に妨害されながらも走者を三塁へ送り、一塁でアウトとなった。ここでボールデッドとなり、球審が「インターフェア」を宣告し、打者走者に打撃妨害で一塁を与え、無死一塁・二塁で再開しようとするが、攻撃側監督は「送りバントによるプレイ」を選択する権利があり、一死三塁での再開を球審に通告することができる。これは、攻撃側監督の唯一のアピールプレイかもしれない。
守備妨害は二度とも、捕手の盗塁に対する送球を打者が妨げるプレイであった。
一度目はバントの構えからバットを引いた状態で、捕手の送球に合わせて身体を本塁ベース上へ出していく行為である。文章にして書くと、如何にも「妨害」に感じるであろうが、実際には瞬時に起こる行為であり、打者が無意識でやっている(少年野球の頃からの習性なのであろう)ケースが多いため、捕手も妨害と感じていないことが多い。守備側が妨害と感じていないのであれば「インターフェア」を採択する必要がないのではないかと思われがちだが、世界基準では非常にアンフェアな行為として嫌われている。それよりも、「そんな事をして、何が楽しいのか」と不思議がられるようである。「日本人は、ずるい事をして楽しんでいる」とも思われている。
もう一つの守備妨害は、何とも難しい判断であった。
走者二塁で打者のカウントがB3―S2。次の投球で走者が三塁へスタートを切った。投手の投球は右打者の外角に逸れたため、打者は四球となり喜び勇んで一塁へ向かおうとした。捕手は右打者の外角に外れてボールを捕球し、三塁へ送球しようと打者の前方へステップした。ここで、捕手と打者が接触したため、球審は「インターフェア」を宣告した。
この裁定は難しい。翌日も話題になった事例である。
打者は四球になった時点で、安全進塁権を得た走者になっている。二塁走者の盗塁と四球は関係ないから、捕手は三塁へ送球しようとするが、この捕手の送球動作を打者走者が回避しなくてはならないのであろうか。例えば、捕手の送球が一塁へ走り出した打者走者に当たり、ファール地域を転々とし、三塁に盗塁した走者が一気にホームインする場合もあるであろう。これは守備側の不利益が大き過ぎる。しかし、打者走者は四球により安全進塁権を得ているから、ボールになった瞬間に一塁へ走り出し打者席から出るであろう。打者席から出て捕手の守備行為を妨害した場合は「守備妨害」とはなるが、この場合は打者席から出ることの意味が違う。捕手の捕球位置や送球動作、打者の一塁への動き出しなど色々なケースがあり、すべてを「インターフェア」とするには「四球を選んだ打者」が気の毒である。
こんなことを考えていると、打者は「四球」となったとしても、次のプレイが起こる可能性がある場合、「間を置いて」動いてくれるよう、選手達に指導しなくてはならないのかもしれない。
それにしても、ベテラン審判員の判断と処置の仕方には「凄み」を感じずにはいられなかった。あれも経験がなせる業なのであろう。
一試合のうち一度あるかないかのレアプレイが、たった一試合で四度もあった。それも「立て続けに」である。そして、それをジャッジしたのはベテラン球審であった。
「凄み」さえ感じた圧倒的な存在感であった。クレーム好きの両監督も唖然呆然の電光石火のようなジャッジであった。
打撃妨害は「打者が打ちにいった際に、捕手のミットに触れた」状態であった。野球規則には次のようにある。
【6.08】打者は、次の場合走者となり、アウトにされるおそれなく、安全に一塁が与えられる。(c)捕手またはその他の野手が、打者を妨害(インターフェア)した場合。
今回の場合は、空振りした際にバットがミットに触れたため、その時点で「ボールデッド」として打者に一塁を与えた。これが妨害にも関わらず打ってしまった場合には、少し事情が違ってくる。プレイが一段落するまで見守り、打者および走者が少なくとも一個の進塁が確認された場合は、そのままボールインプレイで継続される。また、妨害にも関わらずプレイが続けられて、一段落した後に、攻撃側監督は「妨害行為によるペナルティ」の代わりに、その後のプレイを選択することができる。
例えば、無死走者二塁でバントをした際に、打者は捕手に妨害されながらも走者を三塁へ送り、一塁でアウトとなった。ここでボールデッドとなり、球審が「インターフェア」を宣告し、打者走者に打撃妨害で一塁を与え、無死一塁・二塁で再開しようとするが、攻撃側監督は「送りバントによるプレイ」を選択する権利があり、一死三塁での再開を球審に通告することができる。これは、攻撃側監督の唯一のアピールプレイかもしれない。
守備妨害は二度とも、捕手の盗塁に対する送球を打者が妨げるプレイであった。
一度目はバントの構えからバットを引いた状態で、捕手の送球に合わせて身体を本塁ベース上へ出していく行為である。文章にして書くと、如何にも「妨害」に感じるであろうが、実際には瞬時に起こる行為であり、打者が無意識でやっている(少年野球の頃からの習性なのであろう)ケースが多いため、捕手も妨害と感じていないことが多い。守備側が妨害と感じていないのであれば「インターフェア」を採択する必要がないのではないかと思われがちだが、世界基準では非常にアンフェアな行為として嫌われている。それよりも、「そんな事をして、何が楽しいのか」と不思議がられるようである。「日本人は、ずるい事をして楽しんでいる」とも思われている。
もう一つの守備妨害は、何とも難しい判断であった。
走者二塁で打者のカウントがB3―S2。次の投球で走者が三塁へスタートを切った。投手の投球は右打者の外角に逸れたため、打者は四球となり喜び勇んで一塁へ向かおうとした。捕手は右打者の外角に外れてボールを捕球し、三塁へ送球しようと打者の前方へステップした。ここで、捕手と打者が接触したため、球審は「インターフェア」を宣告した。
この裁定は難しい。翌日も話題になった事例である。
打者は四球になった時点で、安全進塁権を得た走者になっている。二塁走者の盗塁と四球は関係ないから、捕手は三塁へ送球しようとするが、この捕手の送球動作を打者走者が回避しなくてはならないのであろうか。例えば、捕手の送球が一塁へ走り出した打者走者に当たり、ファール地域を転々とし、三塁に盗塁した走者が一気にホームインする場合もあるであろう。これは守備側の不利益が大き過ぎる。しかし、打者走者は四球により安全進塁権を得ているから、ボールになった瞬間に一塁へ走り出し打者席から出るであろう。打者席から出て捕手の守備行為を妨害した場合は「守備妨害」とはなるが、この場合は打者席から出ることの意味が違う。捕手の捕球位置や送球動作、打者の一塁への動き出しなど色々なケースがあり、すべてを「インターフェア」とするには「四球を選んだ打者」が気の毒である。
こんなことを考えていると、打者は「四球」となったとしても、次のプレイが起こる可能性がある場合、「間を置いて」動いてくれるよう、選手達に指導しなくてはならないのかもしれない。
それにしても、ベテラン審判員の判断と処置の仕方には「凄み」を感じずにはいられなかった。あれも経験がなせる業なのであろう。
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裁定に対する「訂正の要請」があった場合、【9.02】(c)では「最終の裁定を下すにあたって、他の審判員の意見を求めることができる」とある。つまり、四氏で協議をして最終裁定を下すという事である。
ただし、この協議には審判員同士で守るべきマナーがある。それは「裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりする事は許されない」と言うことである。
つまり、当初の裁定を下した当該審判員が、他の審判員に対して「意見」を求めなかった場合には、当該審判員が野球規則に照らして問題ないとした場合、裁定が変わることはない。自分がベストポジションで確認したプレイに対し下した裁定が、野球規則の適用も誤っていないと確信していれば、「訂正の要請」をしてきた監督に説明をできればよいのである。
しかし大半の監督は、当該審判員の裁定に疑義を申し立ててくるのであるから、他の審判員の意見を求めるのが常套手段であろう。ここで、しっかりと他の審判員からの意見を聞き、それらを参考に最終の裁定を下せば良いのである。
ここで肝に銘じなければならないのは、この裁定が「最終」であるということである。つまり、この協議により審判団としての「最終裁定」を下すのであるから、更なる事実が後から出てきたり、違う意見が出てくる事はないということである。必ず、この協議の中で結論を出し、それを以って「最終裁定」として要請のあった監督に伝えなくてはならない。
大リーグのアンパイヤマニュアルには「監督は二度目の意見を言う権利はない」ということが明記されている。このことを覚えておく必要がある。これは、最終裁定に対して、更なる「訂正の要請」はできないことを意味する。
これらのトラブルが長引くケースとしては、この「最終裁定」が「当初裁定」と違っていた場合である。いわゆるジャッジが覆った場合である。そうなった場合、対戦チームからの「抗議」が生じる可能性が高い。しかし、これに対しては「最終裁定」を伝える事しかできないし、それ以外をする必要もない。審判団としての毅然とした対応が望まれるのであろう。
審判員が裁定に対して誤りに気付いた場合は、どのようにしたら良いのであろうか。アピールがない限り「知らぬ狸」を貫き通すしかない。
【9.02】(b・注二)「審判員が規則に反した裁定を下したにもかかわらず、アピールもなく、定められた期間が過ぎてしまったあとでは、たとえ審判員が、その誤りに気付いても、その裁定を訂正することはできない」
つまりアピールがなければ、当初の裁定が「最終裁定」となりゲームは進行するということである。だからと言って、「誤審」が許される事ではない。しかし、裁定を下した自らが、あるいはクルーの他の審判員が、「裁定の訂正」を申し出る事は出来ないのである。
ただし限られたケースでは、裁定を下した当該審判員が知りえない重要な情報を他の審判員が持っている場合がある。たとえば、タッグプレイやフォースプレイで送球を落球したりジャッグルしている事にも関わらず、当該審判員の死界に入りミスジャッジをした場合などである。私も捕手の背中越しに本塁のタッグプレイを判定し、捕手の落球を見落として「アウト」を宣告した事があった。この時は、一塁審判員が即座に訂正していただき事なきを得たが、比較的身近に潜んでいるものである。ただし、あからさまに他の審判員が当該審判員に対して意見はできない事から、このようなケアレスミスを予防するため事前にサインを決めておくのが良いのかもしれない。これはベテランを交えている場合や熟知した仲間同士によるクルーの場合は容易であるが、私は今後の課題だと認識している。
なお、審判員としてルールブックを読む際は、【9.05】以降に記載されている『審判員に対する一般指示』を最初に目を通していただきたい。これは原文にも記載されている重要な指示事項であり、「審判員心得」として熟読していただきたい。
ただし、この協議には審判員同士で守るべきマナーがある。それは「裁定を下した審判員から相談を受けた場合を除いて、審判員は、他の審判員の裁定に対して、批評を加えたり、変更を求めたり、異議を唱えたりする事は許されない」と言うことである。
つまり、当初の裁定を下した当該審判員が、他の審判員に対して「意見」を求めなかった場合には、当該審判員が野球規則に照らして問題ないとした場合、裁定が変わることはない。自分がベストポジションで確認したプレイに対し下した裁定が、野球規則の適用も誤っていないと確信していれば、「訂正の要請」をしてきた監督に説明をできればよいのである。
しかし大半の監督は、当該審判員の裁定に疑義を申し立ててくるのであるから、他の審判員の意見を求めるのが常套手段であろう。ここで、しっかりと他の審判員からの意見を聞き、それらを参考に最終の裁定を下せば良いのである。
ここで肝に銘じなければならないのは、この裁定が「最終」であるということである。つまり、この協議により審判団としての「最終裁定」を下すのであるから、更なる事実が後から出てきたり、違う意見が出てくる事はないということである。必ず、この協議の中で結論を出し、それを以って「最終裁定」として要請のあった監督に伝えなくてはならない。
大リーグのアンパイヤマニュアルには「監督は二度目の意見を言う権利はない」ということが明記されている。このことを覚えておく必要がある。これは、最終裁定に対して、更なる「訂正の要請」はできないことを意味する。
これらのトラブルが長引くケースとしては、この「最終裁定」が「当初裁定」と違っていた場合である。いわゆるジャッジが覆った場合である。そうなった場合、対戦チームからの「抗議」が生じる可能性が高い。しかし、これに対しては「最終裁定」を伝える事しかできないし、それ以外をする必要もない。審判団としての毅然とした対応が望まれるのであろう。
審判員が裁定に対して誤りに気付いた場合は、どのようにしたら良いのであろうか。アピールがない限り「知らぬ狸」を貫き通すしかない。
【9.02】(b・注二)「審判員が規則に反した裁定を下したにもかかわらず、アピールもなく、定められた期間が過ぎてしまったあとでは、たとえ審判員が、その誤りに気付いても、その裁定を訂正することはできない」
つまりアピールがなければ、当初の裁定が「最終裁定」となりゲームは進行するということである。だからと言って、「誤審」が許される事ではない。しかし、裁定を下した自らが、あるいはクルーの他の審判員が、「裁定の訂正」を申し出る事は出来ないのである。
ただし限られたケースでは、裁定を下した当該審判員が知りえない重要な情報を他の審判員が持っている場合がある。たとえば、タッグプレイやフォースプレイで送球を落球したりジャッグルしている事にも関わらず、当該審判員の死界に入りミスジャッジをした場合などである。私も捕手の背中越しに本塁のタッグプレイを判定し、捕手の落球を見落として「アウト」を宣告した事があった。この時は、一塁審判員が即座に訂正していただき事なきを得たが、比較的身近に潜んでいるものである。ただし、あからさまに他の審判員が当該審判員に対して意見はできない事から、このようなケアレスミスを予防するため事前にサインを決めておくのが良いのかもしれない。これはベテランを交えている場合や熟知した仲間同士によるクルーの場合は容易であるが、私は今後の課題だと認識している。
なお、審判員としてルールブックを読む際は、【9.05】以降に記載されている『審判員に対する一般指示』を最初に目を通していただきたい。これは原文にも記載されている重要な指示事項であり、「審判員心得」として熟読していただきたい。
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先日、実際にこのようなプレイがあった。私が二塁塁審に立っていた際に、このプレイが発生した。二死走者二塁でショートへ痛烈なゴロが飛んだ。打球を追った私の目に映った光景は、遊撃手が打球を弾き、二塁走者が遊撃手の背中側に接触したように見えた状態であった。私は妨害のポイントを打つこともなく、遊撃手がボールを拾い送球するプレイを見てしまった。
一塁は「セーフ」。次の瞬間、遊撃手と二塁手が「当たった、当たった」と主張する。
私はタイムを宣告し、他の審判員との協議を行った。
協議の結果は「成り行き」である。つまり、遊撃手はボールを大きく弾いたため、最初の守備行為は一旦終了している。そこで走者と接触したが、遊撃手は次のプレイに移行しようとしているし、走者は次塁へ走ろうとしている。この行為は、お互い必要な行為であるから「妨害はない」との判断である。
実は私見は違っていた。私は「オブストラクション(b)項」を適用して、走者の不利益を取り除くことを考えていた。結果としては、走者一三塁となるから状況は変わらないのだが。
協議を終えてポジションに戻りかけると、「守備優先」を主張する守備側から説明を求められた。私は守備側監督が、どのような認識でいるのかを試してみたくなり、「遊撃手のオブストラクションで走者一三塁にて再開する」と説明した。
守備側監督の顔色が一変したのは言うまでもない。「守備優先だから、インターフェアだろう」と怒鳴りだした。このような考え方だと「説明不能」だなと感じていると、三塁のベテラン審判員が慌てて「成り行き」と説明して試合再開したが、結果は変わらずとも、「妨害」が介在したことの説明の難しさを痛感したプレイであった。
それにしても「成り行き」という裁定には、どうにも釈然としない。これを使いこなすには、まだまだ経験が不足しているのであろう。
一塁は「セーフ」。次の瞬間、遊撃手と二塁手が「当たった、当たった」と主張する。
私はタイムを宣告し、他の審判員との協議を行った。
協議の結果は「成り行き」である。つまり、遊撃手はボールを大きく弾いたため、最初の守備行為は一旦終了している。そこで走者と接触したが、遊撃手は次のプレイに移行しようとしているし、走者は次塁へ走ろうとしている。この行為は、お互い必要な行為であるから「妨害はない」との判断である。
実は私見は違っていた。私は「オブストラクション(b)項」を適用して、走者の不利益を取り除くことを考えていた。結果としては、走者一三塁となるから状況は変わらないのだが。
協議を終えてポジションに戻りかけると、「守備優先」を主張する守備側から説明を求められた。私は守備側監督が、どのような認識でいるのかを試してみたくなり、「遊撃手のオブストラクションで走者一三塁にて再開する」と説明した。
守備側監督の顔色が一変したのは言うまでもない。「守備優先だから、インターフェアだろう」と怒鳴りだした。このような考え方だと「説明不能」だなと感じていると、三塁のベテラン審判員が慌てて「成り行き」と説明して試合再開したが、結果は変わらずとも、「妨害」が介在したことの説明の難しさを痛感したプレイであった。
それにしても「成り行き」という裁定には、どうにも釈然としない。これを使いこなすには、まだまだ経験が不足しているのであろう。
北海道の野球シーズンも終わりが近付いてきた。少年野球は、6年生が最後の試合に歓声を上げていることであろう。
しかし、毎年この時期なると嫌な記憶が蘇ってくる。息子の同級生が所属していた少年野球チームの最後の卒団大会で、監督が審判の裁定に不満のあまりフォーフィッテッドゲーム(没収試合)となったのである。実に馬鹿げた愚行である。6年生の最後の試合が没収試合で終戦とは、なんとも馬鹿な指導者である。子供達に野球を通じて何を教え、何を伝えなくてはいけないのであろうか。自分が納得できない場合は、周りに迷惑を掛けてでも自分の意思を貫き通す事が、チームスポーツで伝える事なのであろうか。
私が審判員をやり始めた頃の事件であったが、それ以来「反面教師」としている。審判員や指導者として子供達と接する機会が多いが、このようなことだけは絶対に避けなければならないと自戒している。
野球のルールには、いわゆる「抗議権」は認められていない。もちろん「抗議権」の定義も項目もないのである。
これに近い言葉としては、強いて言えば【4.19】提訴試合(プロテスティングゲーム)であろうか。提訴試合とは「審判員が野球規則に違反している事に対して、監督が審議を請求する時は、リーグ会長に対して提訴の手続きをする」ことであり、「審判員の判断による裁定に対しては提訴できない」ことも併記されている。ご存知のとおり野球規則は、大リーグの「Official Baseball Rules」に準じて作成されているため、「訴訟好き」のアメリカ人向けの言葉が登場するのであろう。この規則は、日本のルールブックには「アマチュア野球では認めない」ことが明記されているから、プロ野球だけのルールであると考えていいであろう。
これに似た言葉に「アピール権」があるが、これは守備側のみに認められた権利である。アピールとは守備側チームが攻撃側チームの規則違反を指摘し、審判員に対してアウトを主張し、その承認を求める行為である【2.02参照】。よく見かけるケースとしては、走者がタッグアップした際に「走者の離塁が早い」と野手が主張する行為であろう。
アピール権を主張できる期間は、次のように示されている。
①投手が打者へ次の一球を投じるまで
②たとえ投じなくても、その前にプレイをしたり企てたりする前まで
③イニング終了の際は、守備側の投手を含む内野手がファールラインを超えるまで
この期間を過ぎた場合は「アピール権が消滅」するのである。ゆえに、次の打者のプレイが始まってから、監督さんが「タイム、さっきのプレイはちょっとおかしい」などと言っても取り合ってはくれないどころか、試合を遅延したということで警告が発せられ、なおも執拗な場合は「試合から除かれる」こととなるのである。
攻撃側にはアピール権がないのであれば、不可解な裁定があった場合は「泣き寝入り」するしかないかというと、唯一それらしい権利がある。【9.02】(b)項に「審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いのあるときは、監督のみが規則に基づく正しい裁定に訂正するよう要請できる」とある。「抗議」ではなく「訂正の要請」である。言葉面を見ただけでも、ソフトなイメージが容易に想像できるであろう。
しかしプロ野球の悪影響なのか、アマチュア野球でも勘違いをしている監督が多いのも確かである。大リーグで「口角泡を飛ばして抗議」した上で「Get Out」となるシーンをよく見かけるが、あれは監督が「退場」を覚悟の上で行っている行為である。大リーグの監督たちは「審判の裁定」が覆らない事を承知しており、それに抗議をした場合は「退場」となることも「百も承知」なのである。それでも、審判員に立ち向かうのは「チームを鼓舞するため」などという理由があるようである。実際、監督の退場をキッカケに試合展開が変わることなど茶飯事である。これも、チームディレクターとしての役割のひとつと考えているのであろう。
一方、日本のプロ野球の場合は「抗議」の趣旨がかなり違う。日本のプロ野球の審判員の生い立ちにも起因するのであるが、監督や選手達が審判員を尊敬していないように見え、またその技術に対して敬意を払っていない。ゆえに、存在もしない「抗議権」を選手が振りかざすなどという愚行が横行してくるのである。
「退場権」については後日述べるが、大リーグの「アンパイヤマニュアル」に照らした場合、日本野球の常識が、いかに世界基準とかけ離れた「非常識」となっているかがわかる。それもこれも、「Baseball」の起源を守り抜くアメリカと、猿真似で別の競技としての「野球」を特化させた日本との温度差なのかもしれない。
しかし、毎年この時期なると嫌な記憶が蘇ってくる。息子の同級生が所属していた少年野球チームの最後の卒団大会で、監督が審判の裁定に不満のあまりフォーフィッテッドゲーム(没収試合)となったのである。実に馬鹿げた愚行である。6年生の最後の試合が没収試合で終戦とは、なんとも馬鹿な指導者である。子供達に野球を通じて何を教え、何を伝えなくてはいけないのであろうか。自分が納得できない場合は、周りに迷惑を掛けてでも自分の意思を貫き通す事が、チームスポーツで伝える事なのであろうか。
私が審判員をやり始めた頃の事件であったが、それ以来「反面教師」としている。審判員や指導者として子供達と接する機会が多いが、このようなことだけは絶対に避けなければならないと自戒している。
野球のルールには、いわゆる「抗議権」は認められていない。もちろん「抗議権」の定義も項目もないのである。
これに近い言葉としては、強いて言えば【4.19】提訴試合(プロテスティングゲーム)であろうか。提訴試合とは「審判員が野球規則に違反している事に対して、監督が審議を請求する時は、リーグ会長に対して提訴の手続きをする」ことであり、「審判員の判断による裁定に対しては提訴できない」ことも併記されている。ご存知のとおり野球規則は、大リーグの「Official Baseball Rules」に準じて作成されているため、「訴訟好き」のアメリカ人向けの言葉が登場するのであろう。この規則は、日本のルールブックには「アマチュア野球では認めない」ことが明記されているから、プロ野球だけのルールであると考えていいであろう。
これに似た言葉に「アピール権」があるが、これは守備側のみに認められた権利である。アピールとは守備側チームが攻撃側チームの規則違反を指摘し、審判員に対してアウトを主張し、その承認を求める行為である【2.02参照】。よく見かけるケースとしては、走者がタッグアップした際に「走者の離塁が早い」と野手が主張する行為であろう。
アピール権を主張できる期間は、次のように示されている。
①投手が打者へ次の一球を投じるまで
②たとえ投じなくても、その前にプレイをしたり企てたりする前まで
③イニング終了の際は、守備側の投手を含む内野手がファールラインを超えるまで
この期間を過ぎた場合は「アピール権が消滅」するのである。ゆえに、次の打者のプレイが始まってから、監督さんが「タイム、さっきのプレイはちょっとおかしい」などと言っても取り合ってはくれないどころか、試合を遅延したということで警告が発せられ、なおも執拗な場合は「試合から除かれる」こととなるのである。
攻撃側にはアピール権がないのであれば、不可解な裁定があった場合は「泣き寝入り」するしかないかというと、唯一それらしい権利がある。【9.02】(b)項に「審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いのあるときは、監督のみが規則に基づく正しい裁定に訂正するよう要請できる」とある。「抗議」ではなく「訂正の要請」である。言葉面を見ただけでも、ソフトなイメージが容易に想像できるであろう。
しかしプロ野球の悪影響なのか、アマチュア野球でも勘違いをしている監督が多いのも確かである。大リーグで「口角泡を飛ばして抗議」した上で「Get Out」となるシーンをよく見かけるが、あれは監督が「退場」を覚悟の上で行っている行為である。大リーグの監督たちは「審判の裁定」が覆らない事を承知しており、それに抗議をした場合は「退場」となることも「百も承知」なのである。それでも、審判員に立ち向かうのは「チームを鼓舞するため」などという理由があるようである。実際、監督の退場をキッカケに試合展開が変わることなど茶飯事である。これも、チームディレクターとしての役割のひとつと考えているのであろう。
一方、日本のプロ野球の場合は「抗議」の趣旨がかなり違う。日本のプロ野球の審判員の生い立ちにも起因するのであるが、監督や選手達が審判員を尊敬していないように見え、またその技術に対して敬意を払っていない。ゆえに、存在もしない「抗議権」を選手が振りかざすなどという愚行が横行してくるのである。
「退場権」については後日述べるが、大リーグの「アンパイヤマニュアル」に照らした場合、日本野球の常識が、いかに世界基準とかけ離れた「非常識」となっているかがわかる。それもこれも、「Baseball」の起源を守り抜くアメリカと、猿真似で別の競技としての「野球」を特化させた日本との温度差なのかもしれない。