スポーツの祭典、最高峰のロンドンオリンピックが真っ盛りである。期待通りの結果を出す選手や期待以上の結果を出す選手がいる一方、「オリンピックの魔物」に魅入られたように調子を崩している選手もいる。そんな中、日本選手の健闘が光る。個人の力比べのイメージが強いオリンピックであるが、ロンドンでは色々な競技シーンにおいて日本チームの「団体」としての大活躍が目に付く。
いずれにしても、4年に一度の「きらめく時間」を満喫してほしいものである。
高校野球の夏代表が出揃い、甲子園大会の組み合わせが決まった。ロンドンオリンピックと重ね合わせて「暑い暑い夏」となりそうである。

中学野球も各カテゴリーで全国大会が各地で開催されている。全国大会ともなれば、審判員も各地区を代表して集結して来ることが考えられる。当然、質の高いジャッジメントが期待できる。
最高峰の舞台での審判員の動きは、良きに付け悪しきにつけ勉強になるはずである。

初日は試合数が多く、たくさんの審判員が必要となるため、色々な審判員が集まっている。高齢の方も多く、夏場のゲームを裁くこと自体、疑問が残りそうな感じである。
それでもベテランには経験値という大きな武器があり、集中力や力加減のメリハリの付け方が多少勉強になる。
ベテランの球審のジャッジを見ていると、つくづく感じることがあった。球審はダッグアウトやその上のスタンドから「何が見えるのか」を考えるべきである。

ストライクゾーンを横から見ると、高さしか見えない。ストライクの半分は、横からジャッジが可能である。このジャッジが適当だと「ダッグアウトの信頼」は得られない。
ジャッジの不安定さは、間違ったポジショニングや癖が原因となることが多い。近くに師匠や信頼できる忠告者がいるとクリニックもできるが、ある程度以上のベテラン審判員には忠告はしにくいし、本人も聞く耳を持たないことが常である。私自身も、なかなか自分を否定するような忠告には耳を傾けづらいのは確かである。

たとえば、「間違ったスロットポジション」である。
 スロットポジションの基本的な足の位置は「ヒール・トゥ・ヒール」、つまり捕手のかかとに球審のつま先を合わせ、その足のかかとに、もう片側の脚のつま先を合わせることとなる。こうなると、身体の向きは「斜 -ハス-」になり、そのまま立つと胸が投手の方向に向かない。わずかだが、身体をねじり投手に正対するように立つことの「意識」が大切である。わざわざ、このような面倒な姿勢を取るには、もちろん理由がある。投球判定は、所定の高さでホームプレート上を通過する投球を「ストライク」とし、その他を「ボール」と判定する。判り切ったことだが、平面的なホームプレートと空間の高さを同時に確認する作業を行わなければならない。それには、基準となるホームプレートが「すべて見えること」が必須となる。そのために、面倒な姿勢になりながら、打者と捕手の隙間(スロット)にポジショニングするのである。「審判メカニクスハンドブック第3版」には、以上のことが「1.球審の構え方」に書かれている。右打者のケースで、図解入りで解説されている。
この基本的な事柄を、今更解説するのは理由がある。何故か、右打者の時に完璧にできている姿勢を、左打者の時にできないのか。一見すると違和感なく見えるのだが、よくよく見ると、右打者の時の構えを、そのままスライドさせているだけである。
これでは左足が捕手の背中に当たるため、後ろに下がらなければならない。これにより、肝心要の「ホームプレートを見る」際に死角が発生する可能性が高くなる。
何故そのような「癖」のある構えになってしまったのか。
色々な構えやジェスチャーには、目的と理由、基本、そして歴史がある。

「人の振り見て我振り直す」。
最高峰の舞台で学んだことは、基本の見直しであった。

先日、高校野球の地方大会で珍しいサヨナラゲームがあった。ニュースにも流れたようでもありご存じの方も多いであろう。
同点で迎えた9回裏、一死満塁の大ピンチで次打者の打球は力無く三遊間への小フライ。球審および塁審はタイミングよく「インフィールドフライ」を宣告し、三塁手と交錯しながらも遊撃手が捕球した。
まずはサヨナラ負けの第一関門突破。野手は喜びを分かち合うように投手の近くで声を掛け合った。投手もこれに応えるように振り返り言葉を交わす。
次の瞬間、本塁付近で歓声が上がる。
三塁走者がタッグアップして本塁へ生還したのである。
捕手は、何気なく本塁ベースの前に佇んでいる。
そこで、ゆっくりと球審の両手が水平に開いた。
「セーフ」
サヨナラである。
攻撃側はダッグアウトから全選手が小躍りして飛び出し抱き合っている。
守備側は、すぐに球審に向かって「タイムが掛かっている」とアピールする。
球審は、選手を落ち着くように促しながら、各塁審に対し確認作業を行う。
おそらく、「タイムを掛けていたか」どうかの確認であろう。
返答は「インプレイである」だったのであろう。

高校野球の場合は、監督が抗議には出てこられない(昨年、有名高校の某監督が甲子園で失態を演じていたが)ため、控え選手が球審の説明を聞き、監督に伝えている。伝言ゲームであるから、細かいニュアンスまでは伝わり難い。

守備側は、どこかで誰かが「タイム」を要請はしたのであろう。野手なのか、もしかするとダッグアウトからかもしれない。
いずれにしても、タイムが有効となるのは「審判員」がタイムを宣告したときである。
「タイムを要請したとき」からボールデッドだと思っているプレーヤーや指導者が実に多いのも事実である。

【5.02ボールインプレイ】球審が「プレイ」を宣告すればボールインプレイとなり、規定によってボールデッドとなるか、または審判員が「タイム」を宣告して試合を停止しない限り、ボールインプレイの状態は続く。

事例として非常に多いのが、投手のコントロールがままならなくて四球を出した時など、「ボール」を宣告された時点で「タイムお願いします」と言って、スタコラサッサと投手の元へ走って行こうする捕手がいる。三塁に走者がいる時でも、平気で本塁を空き家にしてしまう捕手がいる。
今回のサヨナラゲームも、同じカテゴリーかもしれない。

プロ野球の悪い習慣が蔓延っているのが、ボール交換である。投手や捕手が「ボール交換」を要請して、球審がボール交換を認めて「タイム」宣告する前に、ボールボーイの方向にボールを投げてしまう行為である。その隙を突いて走者が走った場合、容易にタイムを宣告できず、そのままボールインプレイにされてしまっても文句は言えない。大抵の場合は、慌てて「タイム」を宣告するか、何事も無かったかのようにボール交換するかであろうが。

この辺りのルールの隙間を突いたのが、今回の何とも哀しい「サヨナラゲーム」につながったのであろう。
当該審判員は、何事も無かったかのように振る舞うわけにはいかなかったのであろう。

梅雨のシーズンは、例え小さなローカル大会でも日程が不安定となり、1回戦から決勝戦までに3週間を要することもある。雨天順延、雨天中断、雨天コールドなど予定が立たない。試合日が延び過ぎて、次の大会と予定が重なることも考えられる。慣れない気候とはいえ、早く梅雨が明けてもらいと思っている。その後には、暑い暑い本格的な夏がくるのだろうか。

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強豪を自負するチームにありがちな雑なプレイである「アンフェアなプレイ」。
どこまで許容するかは、当該審判員の裁量の範囲なのだろう。


一死走者満塁。次打者の打球は前進守備の二塁手正面のゴロ。二塁手は捕球しバックホーム。送球を余裕で捕球した捕手が、一塁へ転送しようとした。
その時、三塁走者が本塁へ滑り込んできた。右足は本塁ベースに向けているが、左足は一塁へ送球するために踏み出した捕手に向けられた。
左足は、捕手には触れていない。しかし、捕手の送球は一塁への悪送球となり、打者走者はセーフ。この悪送球の間に二塁走者が一気にホームイン。
これが決勝点。

三塁走者のスライディングが、どの程度捕手の送球に影響を与えたのかは判らない。しかし、三塁走者の左足は明らかに捕手に向けられていた。

「接触があれば妨害-インターフェアランス-」で「接触がなければ成り行き」。これが、よくある意見である。

しかし、「接触が無くても妨害になる」こともあるであろうと考える。
それは、このプレイの質による。このプレイは、明らかに併殺潰しが目的である。
ルールブックでは「アンフェアなプレイ」として厳しい措置を求められている。
「なかなかインターフェアランスをコールできない」では済まされない。

【6.05打者アウト】(m)野手が、あるプレイを成し遂げるために、送球を捕えようとしているか、または送球しようとしているのを前位の走者が故意に妨害したと審判員が認めた場合。【原注】この規則は攻撃側プレーヤーによる許しがたい非スポーツマン的な行為に対するペナルティとして定められたものであって、走者が塁を得ようとしないで、併殺プレイのピポッドマンを妨害する目的で、明らかにベースラインからはずれて走るような場合は適用されるものである。



同じ大会の違うカード。
走者一塁でショートゴロ。併殺を狙いに行って、ボールは二塁ベースに入った二塁手へ。二塁手は捕球し、軽快にベースタッチして一塁へ転送、とその瞬間、一塁走者が滑り込んできた。左手は二塁ベースに届く範囲で、両足が二塁手方向へ滑り込んできた。一塁へは悪送球で併殺ならず。

これらの併殺崩しは、チーム全体で練習または指導されているプレイと考えて良いだろう。何とも情けない。
以前いた地区でも、平気で妨害を指導している名監督がいた。日頃とても良い付き合いをしてくれていたのだが、その時だけは気色張って言い争いになった。

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併殺崩しへのペナルティの歴史を紐解くと、何とも面白い。MLBのキャンプでは、いにしえの時代に「走者が打球を捕球する」練習をしていた。もちろん、メジャーリーグのキャンプで、である。走者一塁二塁でショートゴロ。二塁走者が野手の前で素手にて捕球し、そのボールを遊撃手にポーンと投げ返し、自分自身は「守備妨害でアウト」としてダッグアウトへ戻って行く。そんな練習を真面目にやっていた。
本当は併殺だったかもしれない打球を、汚い真似をして「守備妨害」だけしか適用ルールがなかった事から、アウトカウントが一個増えただけで、チャンスは残る。
何とも、守備側に不利益の残る裁定であることから、7.09(f)項が生まれた。

【7.09打者または走者の妨害】(f)走者が、明らかに併殺を行わせまいとして故意に打球を妨げるか、または打球を処理している野手を妨害したと審判員が判断したとき、審判員は、その妨害をした走者にアウトを宣告するとともに、味方のプレーヤーが相手の守備を妨害したものとして打者走者に対してもアウトを宣告する。この場合、ボールデッドとなって他の走者は進塁することも得点することもできない。

今では当たり前の「BASEBALL RULES」の歴史は、不正、妨害、不平等、不利益などとの闘いの歴史でもある。

大変ご無沙汰してしまいました。
色々と事例が出てきましたので、ボチボチ再開しようと思います。

先日NPBで、4-6-3のダブルプレイの際にピポッドマンの送球が一塁走者の頭部を直撃し、数針縫う怪我を負った事例があった。
この選手は、日頃から所謂「併殺崩し」として、ピポッドマンに対してローリングスライディング紛いを繰り返していた。
私は、この選手のファンであるが、このプレイだけには眉を顰めてきた。
ファイタータイプの選手であるが、「闘志あるプレイ」であれば「アンフェア」を許されるという事は絶対にない。
今回は自分が怪我をしたため自業自得ということだが、相手の野手に怪我をさせてしまった時には謝ってすむこととはならないだろう。

このプレイは、プロで学んだ技術ではなく、おそらくアマチュア時代から続けられてきているプレイなのだと思われる。
MLBで、このようなプレイが行われた場合、すぐに報復が行われる。
私自身、報復措置を良しとはしないが、悪しきプレイや習慣に対して「目には目を」で報復するのがMLBらしい。
日本では、ピポッドマンへの併殺崩しは平気で行われるのに、本塁クロスプレイで元大リーガーが捕手に体当たりしようものなら、厳しい非難を受ける。
二塁のピポッドマンは生身だか、捕手は防具を付けている。
にも拘わらず、二塁では接触プレイも厭わずに突っ込む行為を「併殺崩し」として称賛され、駆け抜けていい本塁での接触プレイは非難の的となる。

何とも、おかしな話である。

日本の野球には、大リーグと違う規則が存在するかのようである。

久しぶりにダッグアウトに入り、公式戦を観戦した。昨年の8月以来であるから、約1年ぶりである。ダッグアウトに入っていると、何がどのように見えるのか、本当に勉強になる。また、ダッグアウトにいる監督やコーチ、選手などが何を感じているのかが良く分かる。一球・一球に集中し、横からしか見えない投球判定に一喜一憂しているのである。これはストライクゾーン、特に「高低の矯正」には打って付けである。球種(実際には直球と変化球の区別しかつかない)と捕手の捕球位置により、少なくとも高低だけの判定はできる。ダッグアウト内の反応を確かめながら、高低を判定するのは、なかなか楽しい。

いつも、グラウンドに立ち選手の身近なポジションで野球に接しているが、近過ぎるがゆえに見えないことも多々ある。
たとえば、フォースプレイの判定は、ベースタッチ(野手と走者)、野手の捕球、そしてタイミング(捕球と触塁)が主なチェック要素だが、タイミングだけを観ようとすると「遠いポジショニング」の方が良く分かる。目の前で物が動くのを確認するのと、1m先で物が動くのを確認するのは、どちらが見やすいかを考えると分り易い。
二塁塁審をやっている時もよく体験されるであろう。走者ありで、インフィールド内にポジショニングしているとき、外野に打球が飛び一塁または三塁塁審が打球を追った場合、二塁塁審は出来るだけマウンド方向へ退く動きとなると思う。これは、まさに視野を広げようとする動きであり、ボールの位置や複数の走者、野手の動きなどを一つの大きなフレームに納めようとする行為である。視線が左右に大きく振れると、どうしても正しいジャッジが出来ないため、出来る限り離れた位置を取ろうとするのである。この動きを理解し、出来るようになると、二塁塁審は俄然面白くなる。

本塁のクロスプレイも、ステップバックして俯瞰できると安定したジャッジにつながる。「アウト・セーフ」の判定は、証拠のすべて(捕手のタッグ、走者のベースタッチ、捕手の捕球、オブストラクションなど)を確認した上でコールできる。近過ぎると、コールが早くなったり、大切なシーンを見逃したりする。捕手の落球に気付かずに「アウト!」などのボーンヘッドや早とちりが発生する。

審判員としてグラウンドに立たないときは、出来るだけスコアブックを付けている。最低でも審判日報とルールブックを片手に観戦する。試合を客観的に観るため、出来るだけバックネット裏に陣取ることとしている。この場所は、どちらのチームの「応援をしない」ことがエチケットである。最低限のマナーと言った方が良いかもしれない。故に、自分の所属するチームの試合なども、「選手への思い入れ」を抑えて観戦することができる。
この場所での観戦の目的は、審判員の動きの確認と試合の流れを楽しむことにある。審判員の全体の動きを観ることで、非常に参考となることが多い。フォーメーションや位置取り、トラブルとなったときの処置、アクシデントやサプライズが発生したときのために広い視野で観ることなど、非常に有意義である。


決勝戦

2012年6月4日 スポーツ
久方ぶりに、戻って参りました。
自分の時間が沢山あるのに、何かと忙し過ぎて、アップできずにいました。
御心配頂いた方々に、感謝いたします。
ちなみに、健康状態含めて、至って元気です。
久し振りに書く時間があったので、最近の心情を吐露しようと思います。

決勝戦でクルーとしてグラウンドに立つことは名誉なことである。
経験と力量が認められた者がグラウンドに立つことを許されるのだと思う。
まして球審が割り当たることは、本当に名誉であり、その緊張感は並ではない。
緊張感とは裏腹に、素晴らしい仲間とクルーを組める喜びもある。日頃、なかなか組めない仲間と、クルーを組めることが楽しみでもある。
それらが相まって、グラウンドに立つ前はドキドキワクワク感となる。何とも、微妙な心理状態であるが、これが堪らなく快感でもある。
たとえ地区予選の決勝であろうと、ローカル大会の決勝戦であろうと、同じである。

四国では全国大会の予選が開催された。試合数こそ少ないが、全国大会への切符が懸かっているだけに、明らかに雰囲気が違った大会となった。
名誉なことに、決勝戦の球審を任された。四国に来て、まだ一年に満たないのにも関わらず、有難い話である。試合前までは、ドキドキワクワク感で自分自身をコントロールできていたが、プレイボールを告げてからは事態が一変した。
その理由のひとつが、帯同しているチームの試合の審判をやらなければならないことである。練習試合などでは当然のように球審を務めているが、公式戦では初めてである。
公式戦の決勝戦では、その後リハビリが必要なほど乱れた。本人しか判らないことだが、それゆえに自分に嘘はつけない。「ジャッジのタイミングの悪さ」「ジャッジの不安定さ」「ひとつひとつのプレイに集中できず、試合を観戦してしまった」などなど、まるで初心者のような乱れ振りであった。
原因は明確であるから、対策も立てた。詳しくは書けない事情があるが、暫くはリハビリである。


何事も経験とは言うが、「経験」とは「失敗」を意味する。一方「成功」は「実績」となる。審判員は「経験」ではなく「実績」となるような実体験を多く積み、キャリアとしていくことであろう。そのキャリアが自信を産み、余裕となるのである。
それらに基づき、重要な試合を任されるようになっていくはずである。
ところが、人手不足は審判員の世界も同様であり、止む無く重要な試合に立たなければならないことも多い。これによるトラブルの責任は、勿論自分にもあるが、配置を決定したチーフらに大きな責任があると言える。

私が、元所属していた組織内でも、決勝戦で色々とあったようである。所詮「アウト・セーフ」の話に枝葉が付いて、どんどん大げさになっていくのであるから、あまり信憑性を感じないようにしている。その審判員の経験や技量・力量が不足していた結果であって、決勝戦にグラウンドに立つ資格が無い話であろうが、一番の問題の根は、そのような審判員を配置した側にあり、それを認識していない審判団チーフに問題がある。相変わらず進歩の無い話である。

年に一回の審判講習会では、絶対に審判技術や野球規則の基礎の習得はできない。

如何にして、審判員としての実績や経験を積み上げるか。

それを、まじめに考えている審判員は希少価値である。

今年も野球シーズンが到来した。
ここ数年は膝の怪我や、下らないトラブルで、心躍るような開幕を迎えることが出来ていなかったが、今年は実に楽しくワクワクしている。
昨年夏以降に大きな環境の変化があったが、それにも負けず、新たな土地で再スタートを切ることができた。
まずは、めでたし。

新たな土地は「野球のメッカ」と言われているが、様々なカテゴリーで種々のベースボールなどのボールゲームが存在するため、適材適所のアンパイアが必要となる。
半年間、オープン戦などに参加しつつ、この土地の風土を確認してきたが、「歴史」は感じるものの「真新しさ」を感じることは出来ない。それは「閉鎖的」ということとは違うように思う。
昔ながらの口伝えの「ルール」が、当たり前の顔をして闊歩している、という感じであろうか。ノスタルジックでもあり、「ちょっと遅れた」感も否めない。


WBCなどにより、ベースボールルールにもグローバル化の波が押し寄せていることは、昨今のルール改正やキャンペーンなどを見れば明らかである。
ここは日本だから「ベースボール」ではなく「野球」だろう、と開き直ったところで適用されるルールは同じである。日本で公開されている「公認野球規則」は「MLB Official Baseball Rules」の日本語版である。未だに慣習に従い、日本のルール改正はアメリカのそれの一年後に行われている。それが歴史などであろう。


ルールの成り立ちや変遷を知るためには、ベースボールの歴史を紐解くことが手っ取り早い。最近、それらの書物が、まったくなくなってしまったことは、実に残念でならない。
野球のルールが日本国民に浸透したためだろうか。
それとも面倒なルールは審判員に任せておいて、戦術や戦略を楽しもう、ということであろうか。
その割にはサプライズや珍プレイなどの時には、マスコミ各誌はルールブックをひっくり返して右往左往しているようにも思う。
ひとたび、審判員の判定・裁定によるトラブルの場合は、その中身をまったく斟酌せずに「誤審」や「ミスジャッジ」を高らかに叫びだす。


今年の春の選抜で、ちょっとした話題になったプレイがあった。
あるチームの三塁走者生還した際に、ベースを空過したとしてアピールにより「アウト」が宣告された。それに対して攻撃側から抗議があった。ネット上では「ベースを踏んだ」「踏まない」で熱を帯びていたが、事の本質は、そのような所には無い。
このような事件が起こるたびに「ビデオ判定」の話が出るが、まったくナンセンスなので、それに対するコメントはしない(依然、持論を展開したように記憶しているが、まったく変わっていないので、割愛します)。

「ベースの空過」は近くにいる野手が走者の触塁を確認して審判員にアピールをし、それを審判員が認めたときに成立する。つまり、一番近くにいる二人の人間が確認した事実である。一人は利益を得るが、少なくとも審判員は何の損得の無いジャッジである。どちらかというと、レアなケースを判定するため「損」が圧倒的なようにも思われるが、気苦労はあっても「損失」はまったく無い。


今回のプレイの顛末で最も問題の点は、高校野球において決められている「抗議の仕方」を、「甲子園」において「有名監督」が無視をしたことにある。

「高校野球で、直接的に監督が抗議できない」というルールは、何年も前から変わっていないルールである。ちょっと気の利いた小学生でも知っているルールであり、大ベテランの監督が忘れるとは信じ難い話である。
色々と紐解けば、この大ベテラン監督は地方球場でも同様の事(直接抗議)をやられているようなので、根本的に「審判を信用していない」ということであろうか。「性格」どうこうで許容される話ではない。


今年のプロ野球のキャンプ中に、ある新米監督が「今年の目標は、5回退場すること」などという呆れた戯言を述べていたが、自分の存在や地位を何だと思っているのであろうか。
このような馬鹿げた発言を聞いて、心穏やかでいられる審判員は多くはないであろう。
私自身、チームと監督は別物と考えることにした。


ベースボールは、所詮は人間がプレイして、人間がジャッジするゲームである。精巧な機械の判断ではなく、人間の目がジャッジするのである。
オリンピックの100m走はデジタル計測により1/100秒を競っているが、野球は人間の目により空中の「ストライクゾーン」を想像して裁定しているのである。
これはベースボール草創期から一切変わらぬルール適用方法であり、今後も変わってはいけない部分であろう。

これが機械化されれば、「ベースボール」は違う競技になってしまう。

一足早く

2012年3月24日 スポーツ
先日の遅い初雪が寒さの底で、その後は三寒四温で春に向かっている感がある。
既に、梅を通り越して桜が咲いているのを見かけた。
私の人生の中で、最も早い春を迎えようとしている。

そんな季節であるから、そこかしこで、審判講習会やオープン戦が始まり出した。
当然のように、私も審判生活で最も早い始動となっている。
こちらの組織にお世話になってから、初めての審判講習会も開催された。例年より二ヶ月も早い開催である。さすがに天候が心配されたが、「日頃の行いか」、小春日和であった。
審判講習会の内容は、いずれの組織も似たり寄ったりであるが、唯一例年と違うのは、講習受講者から講師になってしまったことぐらいである。私の講釈を聞く側の身になると、何とも複雑な心境ではある。
ここ数年の「私塾活動」で、仲間達と築き上げたノウハウを出来る限り判りやすく伝えることに注力したが、果たして、どの程度伝達できたかは分からない。
結果は公式戦が始まれば、少しずつ表れる出あろう。大きな齟齬がなければいいのだが。

北海道の座学の資料が届いた。この時期の座学としては、非常に良質で勉強になることが多い。この座学がキッカケで、私の審判スタイルの方向性が明確になっていったと言っても良いかもしれない。
もちろん、人との関わりが最も大きな影響を与えているのであるが、「座学」のような「静の活動」も、自らを律する機会を与えくれるので、この時期にはピッタリであろう。
全国的にも、このような座学が拡がって頂くのを期待している。


アマチュア審判員は、ボランティアの側面や野球好きの側面、またはライフワークの側面など、人それぞれで位置付けが違う。ゆえに、審判技術や知識に対する思い入れの違いがあることは否めない。自分の周囲にいる人たちが、皆同じ思いでいるとは考えにくい。
それでも、試合になればクルーを組んで2時間余りの時間を共有しなければならない。嫌々やっていては誰の得にもならないし、時間の無駄である。ある程度の共通点を見出して、選手達のためにジャッジしなければならない。
それをスムーズにするためにも、講習会によるブラッシュアップ(錆び落とし)は必須であろう。
私の師匠曰く、「講習会はクリニックである」。

それぞれのカテゴリーで、構えやアクション、フォーメーションの違いなどがあるようである。いずれかの組織で何気なくやられていることが、必ずしもスタンダードとは限らない。独り善がりにならず、「審判員は何のためにいるのか」を再認識しながら、グラウンドに立てるよう、頭のブラッシュアップが必要であろう。

オフシーズンは話題が少ないため更新できずにいましたが、各地区から審判講習会の話題が聞こえるようになってきました。

すでにご存じの方は多いかと思いますが、日本野球規則委員会は1月25日に2012年度の野球規則改正を公表しました。
詳しくは「日本野球連盟」のWEBサイトにて確認して下さい。
http://www.jaba.or.jp/

ちなみに、今年は目新しいルール改正はなく、解釈上や運用について詳細に書かれた部分がある程度です。


昨年までであれば、この時期は選手たちと共にトレーニングを積んでいるシーズン。ブルペンに入り投球練習の球を見る練習や、室内サブグラウンドにてGO-STOP-CALLを繰り返す基本練習などを行っていました。

またアマチュア野球の地区審判部が中心となって、屋内における勉強会「座学」も盛んに行われており、規則委員会の動向や実例によるルールの勉強、フォーメーションの確認などが行われています。
これは、審判技術を高めるために必要な行事であり、ブラッシュアップの色合いが非常に強い勉強会です。

審判員は、なかなか自分の立ち振る舞いが見えないため、一挙手一投足をチェックしながらジャッジすることができません。それが「深い思い込み」や「強い錯覚」を産み出し、技術を錆びつかせる原因となっています。
この錆を落とすために「座学」を利用することは、非常に有意義であり効果的です。
一方、その勉強会には色々なカテゴリーの審判員がいるため、名前や顔の売り込みには最適な場所でもあります。

昨年までは座学の重要性を認識し、夏の大会の合間にも「サマーキャンプ」と銘打って仲間内で審判講習会を行っていました。シーズン前半戦の事例集を基に、グラウンドレベルで実地講習を行うことは、シーズン後半に向けて非常に好評でした。皆、シーズン中ですから体験談を含めて、活発な意見交換会となります。これも、お勧めの座学です。

昨年秋より雪の降らない地にいるため、明確なオフシーズンというメリハリがなく、何とも間延びした感じが否めない状態です。
例年のようにグラウンドに出て軽いステップワークや発声練習、ブルペンでの投球判定などは行っていますが、すべてが中途半端な感じがしています。


そんな中途半端な感覚の中で、早くも屋外での審判講習会が開催されました。
朝方は冷え込みが厳しく霜も降りましたが、日中は晴天に恵まれ、風もないため絶好のコンディションでした。

講習会の内容は、新年度の1回目ということもあり、また新しい父兄審判員も多かったことから、ほとんどが基本の反復となりました。
午前中はコールとゼスチャーの基本動作を行い、その後GO-STOP-CALLを繰り返し行いました。
GO-STOP-CALLはすべての動作の基本なのですが、それを口頭で伝えても難しいものです。
また、聞く側の意識が「技術を習得しよう」という思いがなければ、形だけの反復練習に終わってしまいます。

昔は「審判メカニクス」のコピーを、お尻のポケットに忍ばせてグラウンドに立っていましたが、実際には「アンチョコ」を見るチャンスは皆無です。ボールインプレイ中は、ボールの在り処から目を切るわけにもいかず、結局はタイム中に「さっきのプレイの反省」をするのが関の山です。それが正解なのかも判らずに、次のプレイが始まる始末。

それらの経験から、講習会ではお勧めはしません。
「審判メカニクス」は、ケースごとの4人の審判員の動きが記載されていますが、ゲームでは各審判員がひとつのポジションを担います。ゆえに、ポジションごとの動きの整理が必要となります。

次回からは、それを紹介します。

皆様、あけましておめでとうございます。
ご挨拶が、大変遅くなりましたが、本年も「審判の目」をよろしくお願いいたします。

年末年始は、二週間以上帰省していたため、すっかり里心がついてしまいました。
しばらくは、お世話になっているチームの選手たちと、冬季トレーニングで汗を流しながら、シーズンに向けた準備をしようと思っています。

来月には審判講習会が開催されますので、身体の準備をしておかなければなりません。年齢のせいか、なかなかエンジンが始動が遅く、されど疲れも早く来るため、少しずつ馴らしていかなければと思います。

オフシーズンは、ルールやフォーメーションの練習をするには最適です。こちらでは、グラウンドで確認作業ができるので、本当に助かっています。
選手たちも、基本練習を繰り返し行っていますが、私もGO-STOP-CALLの基本練習を、そろそろ始めようと思います。

投手陣の仕上がりが早そうなのも助かります。ブルペンでトラッキングの練習ができます。
目の衰えも、寄る年波に勝てず。メガネの調整もする必要があるので、早めにブルペンに入ろうと思います。

さてさて、今年もいよいよ始まりました。
ここ二年ばかり、怪我やトラブルで満足にアンパイヤ活動が出来ていませんでしたので、今年はしっかりと目標を立てて、前進したいと思います。

皆様方は、今年の目標は立てられましたか。
今年も、プレイヤーでは絶対に味わえない野球の醍醐味を満喫しながら、審判活動を楽しみましょう。


続・シーズンオフ突入
第二試合は:球審、
メカニクスのケアレスミスが4度。
ダブルジャッジである。すべて同じジャッジであったため事無きを得たが、トラブルの可能性が高いジャッジである。
フェア・ファウル判定で2度、一塁線のゴロを処理した一塁手が打者走者にタッグをしたジャッジが2度。
「出しゃばり」の性格が出てしまった。まだまだ、勘が戻っていない。
まだまだ、落ち着きがない。
もっと周りを見る余裕が必要である。まだまだである。

ボークもあった。
点差が離れた中での「ボーク」宣告には賛否両論あるだろうが、中学生以下のカテゴリーでは選手育成の面から宣告するべきと考えている。
「ボーク」には反則投球や走者を騙す行為などの「イリーガルなプレイ」の側面と、投手の技術不足による「稚拙なプレイ」の側面がある。
高校野球から上のカテゴリーでは前者によるボークが大半であるが、中学生以下では半数以上が後者であると考えて良い。
まずは「投手」としての立ち振る舞い、プレート捌きを身に着けることが第一である。そういう意味でも、試合の流れよりも大切ではあるが、一人の投手を育てるという観点でジャッジすることを心掛けたい。

また点差が離れると、交代により色々な投手が登板する。それらの投手にしてみると、点差に関係なく実力をアピールするチャンスであり、アピールの場である。憧れのマウンドに立つことができるのであり、晴れ舞台でもあるがゆえに、必死にプレイしている。
ならば我々審判員も、審判の目で見えたプレイを判定することに専念することが、選手の必死さに報いる方法と考えている。
そこには、大人の打算的な考えが入り込む余地はない。試合の進行を早めるために、ジャッジの精度をコントロールすることは、決してあってはならないことだと考えている。
だから中学生以下のジャッジは難しく、楽しいということか。

第三試合:三塁塁審
際どい三塁線の痛烈なゴロ。私にしか見えない打球。攻撃側選手も、守備側の選手も、もちろんダッグアウトも球審も観客も判断できない打球。ベースの右側をわずかに外れ、私の右側を痛烈に通り抜けた。
「ファウルボール」。
そこに恣意的な感情は無い。打算的な思惑が入り込む余地はない。
見たままの状態に反応するだけ。それしかできない。
それをすることが審判のジャッジである。
冷静に、素早く、そして大きくコールできた。

一日三試合。
久々のトリプルヘッダーで、久々に右足フクラハギが痙攣した。

夏の終わりに、こちらに来てから四か月。
公式戦6試合と練習試合9試合。
審判仲間として受け入れて頂いた方々には、本当に感謝している。

今日でシーズンオフに突入するが、新たなスタートラインに立てたように感じている。

クリスマスイブを来週に控えた「この時期」に、公式戦でグラウンドに立っているとは思ってもいなかった。

「審判・命」「審判バカ」「審判好き」、どのような敬称で呼ばれようとも、「この時期」に審判をさせて頂けることが「ありがたい話」であることに変わりは無い。

メンバーは、私を含めて4名。このメンバーで3試合を担う。
1名は二度目、他の2名は初対面である。
自己紹介もそこそこに、各自グラウンドに散った。
素晴らしい球場で、今年一年最後のジャッジメントをやれることに感謝しながらグラウンドに散った。

激動の一年の締めは、一塁塁審から球審、そして三塁塁審の配置である。一日三試合に立つのは何年振りであろうか。ジャッジ一つずつを噛みしめながら、楽しみながらを意識してグラウンドに立った。

寒さは気になるほどでもないが、さすがに12月中旬である。
セーターを着込み、ネックウォーマーとグラコン、手袋をして万全の構えである。

ほぼ初めて組むメンバーだが、私が一番の「若手」となるベテラン軍団である。「いつもの通りで行きましょう」という呪文のようなメッセージだけで、何となく通じてしまう。

一年最後に素晴らしいメンバーに巡り合えた。


決定的な大きなミスは無いものの、自己反省が必要なジャッジは結構あった。

第一試合は一塁塁審。

走者一塁で一塁ベース後方へのフライ。ベースに付いていた一塁手が後退して来たため、一塁手と入れ替わるように一塁ベースよりも本塁側へ動き、本塁を背にして一塁手の捕球を確認した。
「キャッチアウト」のコールまでは良かったが、次の瞬間「はっ」とした。
打者走者が、横を走り抜けたのである。
捕球位置がファウルライン沿いであったらならば、打者走者との接触もあった可能性を考えると「冷や汗」ものであった。

一方、好事例もある。
走者無しで、右中間への長打。
打者走者の一塁触塁を確認した後、クロックワイズで本塁方向へ走りながら、「二塁へ向かった走者」を見て慌てた。

「三塁塁審が来ていない」。

スクランブルで二塁方向へ向かった。既に二塁を回っていたが、ランダウンプレイの可能性もあるためマウンド付近で走者の状況を把握し、本塁方向を確認。
三塁塁審が動いていなかったため、球審が行き場を失い、本塁へ戻って行った。
明らかに「スクランブル・カウンタークロックワイズ」となってしまったが、カバーリングとしては「自己満足」である。

シーズン最後の一日は続く。
イリーガルバッティングへの準備
試合の序盤で出やすいのが、バントの際の反則打球(イリーガルバッティング)である。特に左打者の左足(捕手側の足)が打者席から出ることが多い。
右打者の場合は、バントの動作とその後の進行方向が同じである為、右打席の中でフライングスタートを切るように、走りながらのバントが行える。
一方左打者の場合、バント後に一塁へ走る為には、打席内で投手と正対するのに右足(投手側の足)を大きく開くしかないが、それでは本塁ベースから遠ざかることとなり、バントのポイントから離れてしまうこととなる。これでは、確実性が非常に低い。犠牲バントはアウトを献上してまでも走者を進めるというハイリスクの戦術であるため、確実性が求められる。そこで、左打者は左足(捕手側の足、軸足)を動かして、より身体に近いポイントでバントを確実に行うことを狙う。
しかし、この動作では物理的に左足が打者席を出る可能性が高まるはずである。

球審はイリーガルバッティングを確認しルール適用するために、打者の足に注意を払っていれば良いかというと、これはこれで至難の業である。
球審は、投手の投球判定が第一の仕事である為、打撃後の裁定は後回しに成らざるを得ない。
投球判定は「投球を捕手のミットに納まるまでトラッキングにより目でしっかりと追って、その軌道を確かめてから判定する」ことが基本とされている。これを出来るだけ着実に実行することをやらなければ、ジャッジが早くなる傾向があり、いずれはミスジャッジへと誘われる。
落とし穴のような単純ミスである。

このような投球判定を行うための準備から動作を繰り返す中で、打者の脚の動きまでを確実に見ることは非常に難しい。
何度も「怪しい」と疑うことはあっても、そのプレイを「反則打球(イリーガルバッティング)」をコールするだけの確証を得ることは稀である。

私自身は、比較的「反則打球」をコールすることが多いかもしれない。
良く「狙っていたのか」とか「良く見えたな」と言われる。皮肉もあるのかもしれないが、あくまでも賛辞として受け止めている。

実際に「反則打球」をコールすることが出来る時は、明確に打者席から選手の脚が出ていることを確認できた時だけである。
試合の中で初めて「疑い」を抱くようなプレイがあった時は、「疑い」だけであり、やはり見えていないことが圧倒的に多い。何となく怪しいが確証が無いということである。
つまり、見えていないのである。何となくの理由で裁定を下すわけにはいかない。

試合の中で、一度疑わしきプレイがあった場合は、当然その後は注意を払う。
そのプレイを頭の片隅には置くようにしている。
「狙っているわけではないが、注意はしている」という状態である。
そうしていると、明瞭に見える時がある。
そんな時は、思い切って「イリーガルバッティング」をコールすることである。
「さっきまでも疑わしきプレイがあったが、コールできていない」という負い目は捨てて、しっかりとコールすることが一歩前に進むことにつながると思う。

ただし、あくまでも「しっかりと見えた時」である。
トラッキングによりボールの軌跡を追いかけていると、「しっかりと見える時」が来る。

【6.06 打者の反則行為によるアウト】(a)打者が片足または両足を完全にバッタースボックスの外に置いて打った場合。(原注)本項は、打者が打者席の外に出てバットをボールに当てた(フェアかファウルを問わない)とき、アウトを宣告されることを述べている。球審は、故意四球が企てられているとき、投球を打とうとする打者の足の位置に特に注意を払わなければならない。打者は打者席から跳び出したり、踏み出して投球を打つことは許されない。

<注意1>バッタースボックスのライン上に少しでも足が掛かっていたら反則打球とはならない。
<注意2>足がバッタースボックスの外側でも「空中」にある時に、投球がバットに当たった場合は反則打球とはならない。

≪処置≫①打者の足が打者席から出ているのを確認。②バットにボールが当たった瞬間に「タイム」のジェスチャーでボールデッドとする。③打者に対して「イリーガルバッティング」または「反則打球」とコールして、「バッターアウト」を宣告する。④必要であれば、本塁ベース付近を踏みしめて「イリーガルバッティング」をコールしてもよい。

アピール権の消滅の時期
マツダズームズームスタジアムの「砂かぶり席」にて交流戦の開会式と開幕戦を観戦した。大相撲のような命名は、さすがの臨場感である。まるで野球少年に戻ったように、スタジアムの中でワクワクしていた。

開幕戦を終えて、交流戦の球場へ移動する。その昔、ソフトバンクホークスの前身である南海ホークスがキャンプを行っていた歴史ある球場にて他リーグとの交流戦である。
私の「審判員としての立場」も変わっているので、それはそれで楽しみである。

「郷に入りては郷に従え」のとおり、流されるままに審判配置を受ける。
球審は高校野球の審判員の方が務めるらしい。一塁はヤングリーグ、二塁はリトルシニア、三塁はボーイズリーグと所属はバラバラであるが、それにも関わらずミーティングも無しでグラウンドへ入っていくのである。何ともいい加減な感じである。新参者の私は、口を挟むことも無く、されど不安と不満を抱えたままグラウンドへ立った。他のクルーの素性も、名前さえも判らぬままである。このような状況ではプレイのジャッジはできても、まともにローテーションやカバーリングなど「審判クルー」としての総合的な役割が務まる訳は無い。
せいぜい迷惑を掛けまいと、自分の出来る限りのジャッジやカバーリング、確認作業を行うことのみ意識することとした。

試合が進むにつれ、それぞれの動きの癖や力量が見えてきた。
球審は高校野球における特別規則を含めた指導を繰り返す。投手の投球動作、捕手の捕球動作、野手の投手への声掛け方法などなど。
一塁塁審はフォースプレイがぎこちない。ルック姿勢時の視線の移動が遅れ気味で、プレイ全体を鳥瞰しているようである。本塁一塁間の打球に対する「フェアファウルの判定」では、球審の動きが間に合わないと感じ、「ファウルボール」を球審に先んじてコール。危うく「ダブルコール」となるところであった。
外野フライの判定、ライトゴロへの対応などは基本とおりであった。
二塁塁審は、走者なしの時のポジションが深い。高校野球ではよく見掛ける位置ではあるが、中学硬式クラスでは深い。ましてや新チーム(2年生以下)の試合である。通常は芝の切れ目だが、二塁手の守備位置の斜め後方2~3m程度で良いだろう。案の定、ライトゴロの際の一塁カバーが間に合わない。自分の役割と思っていなかったようではあるが。
三塁塁審は、クロックワイズの対応が出来ていない。タッグアップの確認も不十分の様である。タッグアップのアピールプレイは、何が起きたのかさえ気付いていないようではある。
お互いが違う組織から来ているため、要らない「プライド」が邪魔をしてしまい、なかなかカバーリングの意識までは回らないようである。
同じルールブックで、同じメカニクスで技術を磨いているはずなのに。

【アピールプレイの消滅の時期】
一死走者二塁三塁の場面。ライト線への浅いフライ。右翼手が前進して好捕、それを見て三塁走者と二塁走者がタッグアップしたため、右翼手はバックホーム。本塁クロスプレイは間一髪で「セーフ」の判定。本塁ベースが滑り込みで隠れた為、球審はタイムを宣告した。
守備側は「タッグアップが早い」と三塁へ送球するように指示したが、球審が「ボールデッド」と遮った。
試合再開後、投手は両手を身体の前で合わせてセットポジションをとった後、投手板を正規に外し、アピールのために三塁へ送球した。1年生の三塁手は、アピールの仕方が判らないのか、そのまま投手にボールを返球してしまった。投手は再度三塁へ送球しようとしたが、球審が「投手がセットポジションで、両手を身体の前で合せた時点でアピール権は消滅する」と説明した。
これは、高校野球の特別ルールにも無い解釈である。

アピール権は「プレイやプレイの企て」があった時点で消滅する。
では「プレイやプレイの企て」とは何か。
打者や走者をアウトとするための行為であり、ボールを持って走者にタッグをしたり、打者に対して投球したり、走者をアウトにするために別の野手に送球したりである。
偽投は含まれないが、ボークは含まれる。前者は「アウト」を獲る行為でないが、後者は「アウト」を奪う行為であり、たとえボールを投げずに「ボーク」となった場合でも適用される。

【7.10】アピールアウト
本条規定のアピールは、投手が打者への次の一球を当投じるまで、または、たとえ投球しなくてもその前にプレイやプレイの企てるまでみ行わなければならない。

師匠曰く「正しいことをアドバイスできる人がいないのは悲しい」。
私には、師匠も諸先輩も仲間もいる。感謝である。

神戸三宮。
去年の八月、この街で我がチームは燃えていた。
熱い熱い三日間だった。
初日は雨上がりの中での練習試合。泥んこになり17名の選手達は闘った。
残り少ない、チームとしての時間を惜しむように。

二日目からは、経験したことのない猛暑の中、熱戦の三試合。
忘れられない夏である。
思い出に耽りながら、この季節のやるべきことに思いを移そう。
オフシーズンにやらなければならない事は、「反省」と「リセット」、そして「準備」であろう。

今年一年の数々のシーンにおけるジャッジメントを事例を通して反省し、それを経験値として共有し、次へ繋げていかなければならない。
その上で、一年間で染み着いた無駄な動きや癖をリセットする。
やはり基本が第一ということである。
今年の春先から、先輩諸氏から言われ続けた「スリーストライク」目のメリハリ。
この強弱を身に付けようと取り組んだ「パンチアウト」は、しばらく封印である。
再び基本動作に戻し、よりよきメリハリを模索しようと考えている。

「パンチアウト」のメリットは、スリーストライクの強調にある。
一方、そのデメリットは「ライブボール」から目を切るということである。
これはタイミングが少しズレただけで、致命的なミスにつながる可能性を秘めているだけに、怖さが拭えない。
このように思えることは、リスク管理の観点からは審判員としてはベターな選択なのであろう。

準備は、テクニックやメカニクス、ジャッジメントの見直しである。
もちろんGO-STOP-CALLが基本中の基本となる。

そして、忘れてならないのが選手達へのルールの徹底であろう。
これは重要な啓蒙活動である。
途方もない作業量であることは周知の事であるが、それが「やらない」理由にはならない。
そもそも、ルールを知らずにゲームをやること自体、本当の面白さ知る機会を放棄していることと同意である。
地道な努力も一歩目からである。

野球の伝導師として渡り歩く旅は続く。

多少、大袈裟かもしれないが。
空白期間の終焉
かの地の遠征は、早朝3時に起床。
まだ暗い4時にグラウンドを出発し、瀬戸大橋で海を渡り広島へ。

すべてが初めて見る風景の連続である。
瀬戸内の海。浮かぶ島々。赤い瓦屋根。

野球の審判をするための遠征でなければ、ゆっくりと観光で回りたいところである。

10月の最終週から、三年生の最後の大会が始まった。
7時に開会式が行われる球場に到着。周辺を散策しているうちに8時となり開会式が始まった。
来賓挨拶もそこそこに、再び試合会場へ移動である。何とも慌ただしい。

かの地に降り立って二か月。
知人が全くいない異国のような街で、まさか公式戦で審判としてグラウンドに立てるとは思ってもみなかった。
それも、実に1年5ヶ月振りの公式戦である。

縁とは不思議なもので、もしかしたら「この地に来たのは偶然ではなく必然であった」ようにさえ思える。人のつながりがまったくない土地での再出発。孤独との戦いを覚悟していただけに、嬉しい誤算であった。この幸運に感謝しよう。


第一試合は二塁塁審を務めた。球審の方は数年の経験者のようであるが、一塁と三塁は父兄審判員である。試合前のミーティングは、責任審判員であるベテランが幾つか注意事項を述べていたい。これは、どこに行っても見かける試合前の風景である。
あまりしゃしゃり出たくは無いが、経験の浅い父兄審判員などには補足説明をしてしまう。一球ごとの構えや外野飛球のテリトリーなど。もちろん、理由もつけて説明してあげる。理由を説明することで、本人の記憶に深く刻まれることとなり、次回迷ったときに思い出しやすい。これは、自分の経験からである。

試合では、サプライズプレイが一つと、ボークが一つあった。
サプライズは、走者三塁でスクイズを敢行。ところが、投手の投球はインサイド高めに抜け気味。打者は投球を避けながらスクイズバントをしたが空振り。ところが、この投球を捕手が逸らしバックネットへ。スタートを切っていた三塁走者は本塁を駆け抜けた。球審は右手を高々と挙げてストライクを宣告していたが、守備側から「デッドボール」ではないかとアピールがあり、塁審を集めて四氏協議。
球審「デッドボールではないかとアピールがありました」
二塁塁審(私)「球審は、どのように見えたのですか」
球審「打者にもバットにも当たっていないと思います」
三塁塁審「球筋は変化していないので、当たっていないと思います」
二塁塁審「音はしませんでしたか」
球審「していません」
二塁塁審「打者はバントを敢行しているので、球審が空振りを確認しているのであれば問題ありません」
球審「スイングはしています。空振りストライクとします」

この間、2分程度であろうか。球審の動きは、投球を避ける動作が若干早かったように思えたが、その後はなかなか素早い対応であった。

四氏協議は、協議すべきポイントを絞り、四人が明確に意見を述べた上で結論を導き出すのがよい。
時として、意見が分かれる場合がある。その時は、最も判定に相応しい審判員の意見を重視することが望ましい。

第二試合は球審を務めた。
久々の公式戦。さすがにコールが早い。
何度も何度も確認作業を繰り返すが、なかなか修正できない。
二試合連続であったが、幸い足は止まらない。最後まで、しっかり動いてくれた。
低めの投球判定には神経を集中させて、頑固なまでに辛目の判定に徹した。それぐらいやらなければ、簡単に崩れてしまいそうなぐらい、公式戦の重圧はある。

先日の練習試合でも感じたが、捕手のミットは止まらない。
また、捕手の足は「キャッチャーズボックス」から、しきりに出て構える。
ついでに、オブストラクションまがいの「ブロック」。
また、一からの啓蒙活動をしなくてはならないようである。
走者二塁三塁の場面。選手もダッグアウトも審判員も集中し、緊張する場面である。
投手は、このピンチを脱しようとセットポジションから投球モーションに移行した。足が挙がり、打者に向かって投球しようとした瞬間、突然投球モーションを中断した。そして、右手でバックネット方向を指差す。球審が振り返り、バックネット前にボールを確認した瞬間、二塁方向から「ボーク」の声が聞こえた。
バックネット前のボールは、投球練習場からのボールであった。投手は投球モーションに入り打者方向を見た瞬間、視界にこのボールを確認してモーションを中断してしまったようだ。
機転を効かした球審は、守備側監督が出てくるのを制して四氏協議へ。
誰かが、バックネットのボールに気付いて「タイム」を掛けてくれていることに期待して協議したが、結果は誰もバックネット前のルーズボールに気付いていない。ゆえに、誰も「タイム」を掛けていない。
インプレイ状態で、投手が投球モーションを中断。立派なボークである。
がしかし、「中断」の理由が問題である。

バックネット前にあったボールは、投手が投球モーションに入ってから「いずこより飛んできたボール」である。投手が気付いたのであれば、本塁方向を見ていたはずの塁審三人は気付くはずである。本来であれば、塁審が気付きどのような状況でも「タイム」を掛け「ボールデッド」の状態にするべきである。少なくとも、投手と同じ視界の二塁塁審は気付かなければならない。その二塁塁審が「ボーク」を掛けては、何とも皮肉なジャッジになってしまった。

このような事例は、二度と経験することはないであろう。正にサプライズである。
同じ審判員が同じプレイに出会うことは無いであろうが、このようにルールブックの適用が困難なプレイの処理をしなくてはならない局面には出会うであろう。その時に、どのように処理できるかが審判員としての器量が試されるのであろう。そして、それを磨くことが「審判員」としてのレベルアップがなされることにつながる。

このようなサプライズプレイでは、まずは適用ルールを考えることが入口です。
今回の場合は、①ルールブックとおり審判員が「タイム」を宣告していないので「ボーク」を適用する、②守備側の不利益を取り除き、投球当時にリセットする、が考えられます。

<①の適用規則>
【2.79 タイム】正規にプレイを停止させるための審判員の宣告であり、その宣告によってボールデッドとなる。
【5.02 ボールインプレイ】球審がプレイを宣告すればボールインプレイとなり、規定によってボールデッドとなるか、または審判員が「タイム」を宣告して試合を停止しない限り、ボールインプレイの状態は続く。
【5.10 ボールデッド】(d)(注)後段 「タイム」が発効するのは、「タイム」が要求されたときではなく、審判員が「タイム」を宣告した瞬間からである。
【5.10 ボールデッド】(h)審判員はプレイの進行中に、「タイム」を宣告してはならない。

<②の適用規則(参考)>
【4.06 競技中のプレイヤーの禁止事項】(a)(3)ボールインプレイのときに「タイム」と叫ぶか、他の言葉または動作で明らかに投手にボークを行わせようと企てること。

今回の事例は、規則上は①を適用して処理することが正解である。②については規則上無理がある。しかし、残念ながら審判員もいくつかの間違いを犯している。「ブルペンの練習球がバックネット前に入った」が「タイム」コール無し。「投手が投球モーションを中断した」が、その時点で「ボーク」コール無し。

守備側からは、その点についての抗議があるであろう。プレイが中断されず投球され、ワイルドピッチやパスボールとなった場合、バックネット前にボールが2個ある状況が考えられる。そのような状況を避けるために、投手が「気を利かして」投球動作を中断したのであろう。

このようなアクシデント的な状況をルールブックだけで説明すると、感情論となり処理が難しい。特に少年野球や中学レベルのカテゴリーは、選手がルールを知らない場合が多く、純粋なだけに説明が難しい。そういうレベルだからこそ、起こるプレイではあるのだが。

野球では、どちらのプレイを優先したらよいのか判断しようにも、ルール上の解釈が難しい事例が多い。
だから、事例を一つずつ検証して経験値を積むしかない。

残り少ない自分の審判人生で、経験することも見ることも無い可能性の方が高いであろう数々の事例を、整理し公開していくことが、少なからず多方面の同志・審判員の技術向上の一助になればと思う。
また、大層に大風呂敷を広げると大変なことになるので、本題に入ろう。

<問>
無死走者二塁三塁。ボールカウントは2b1s。次の投球を打者は空振りしたが、捕手のミットが打者の振ったバットに当たり、投球を捕球できず、ボールはバックネット方向へ。球審は「インターフェアランス(打撃妨害)」を宣告した。捕手は完全にボールを見失い、その間に三塁走者と二塁走者がホームインした。この間、ボールインプレイであった。

守備側監督は「打撃妨害の発生時点でボールデッドとなり、得点は入らず走者満塁で再開ではないか」と、9.02(b)により野球規則の適用に関する疑義を申し立て訂正するよう要請した。

一方攻撃側監督は6.08(c)により、「一連のプレイを生かし、2得点無死走者なし、ボールカウント2b2sで再開」を選択する旨を申し出た。
適用規則と解釈、ゲーム再開の状態を述べよ。

<適用規則>
【6.08(c)打者が安全に進塁できる場合】捕手またはその他の野手が、打者を妨害(インターフェアランス)した場合。
しかし、妨害にもかかわらずプレイが続けられたときには、攻撃側チームの監督は、そのプレイが終わってからただちに、妨害行為に対するペナルティの代わりに、そのプレイを生かす旨を球審に通告することができる。

<私の解釈>
日本語の悪い習慣である。主語が無いから、話が面倒になる。日本の「公認野球規則」はアメリカの「Official Baseball Rules」の翻訳版である。直訳すると、日本語として読み辛いため、日本語の文法に合わせて読み易くしている。それが仇になることもある。
この規則の主文の後にある「しかし」以降に主語を入れると、以下のようになり一気に解釈が明確になってくる。

「(捕手の)妨害にもかかわらず、(打者の)プレイが続けられたとき」

これを事例のプレイと比較してみる。
「捕手のミットが打者のスイングしたバットに当たり、捕手は打撃妨害をした。そして捕球が出来なかった」
「捕手が捕球できなかった」ことは「打者のプレイの継続」にはならないと解釈できる。
以上から、この事例の私の回答は「打者のバットにミットが当たった時点でインターフェアランス、その後捕手が逸球した時点でボールデッド、打撃妨害により打者に一塁を与え無死走者満塁で再開」

<規則委員の回答と師匠の助言>
捕手または野手により打撃妨害があった場合、投球がバットに触れたか否かに関わりなく「インターフェアランス:打撃妨害」となるのが大原則。
この妨害は、守備側のプレイの意図は無関係であり、発生した事象のみが優先される。
そして、妨害というミスを犯した守備側への救済措置はない。
妨害があったにも関わらずプレイが継続された場合、プレイが一段落した時点で「打撃妨害」をコールして措置を取る。
この際に、攻撃側監督のみがプレイの結果に対する選択権が発生する。
一連の流れは、攻撃側にアドバンテージを与えてプレイを流すこととなる。
この事例の場合は、難しく考える必要はない。
打者が振り出したバットに捕手のミットが当たったため投球を捕球できずボールを見失ったが、これは捕手のミスであり、打者に対する打撃妨害である。
ボールを見失ったとしても、ボールインプレイは継続する。
このため、走者は進塁が可能である。

この事例の結論は「打者のバットにミットが当たった時点でインターフェアランス、その後捕手が逸球したがボールインプレイ、二人の走者が本塁に達した時点でボールデッド。
打撃妨害によるペナルティとして打者に一塁を与え、二走者を戻し無死走者満塁の処置を取り、攻撃側のプレイの選択権を行使するかを待つ」

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ルールブックの言葉の合間にある疑念。些細な事例でも、条件を変えると難問になることがある。
現場では、短時間でジャッジを下さなければならない。一生審判員をやっていても出会わないような事例もある。
であれば、考える必要はないのか。それは違う。

一度経験すると、二度目は落ち着いてジャッジできる。サプライズばかりではない。アウト・セーフのジャッジでさえ、「最初」はある。
数を重ねるごとに落ち着いてくる。
いつか出会うであろう、珍プレイに対するジャッジを事例で経験すること。これが、事例検証の目的である。

今回も考え過ぎて間違ってしまったが、これだけ考え過ぎると、なかなか忘れないものだ。

攻撃側の投手が、ダッグアウト前で行うキャッチボール。
日本では当たり前の風景も、他の国では認められない。それはルールブックで認められていないからである。
ましてやダッグアウト前で代打要員が素振りをしたり、守備固めの選手がダッグアウト近辺でゴロ捕球の練習をしたりなどは、まったく認められない行為である。前回のWBCでは、ダルビッシュ投手がキャッチボールをしようとして止められたことが話題になった。

アメリカの球場はブルペンがグラウンドレベルにあることはない。
日本の野球のメッカでは、徐々に改善が進められているのであろう。

ちなみにグラウンドレベルに入れる選手は、守備側が9人、攻撃側は4~7人(打者、走者最大3名、次打者、一塁コーチャー、三塁コーチャー)。それに審判員4人を加えても17~20人である。

先日、昔の巨人軍黄金時代の写真を見た。長島茂雄や王貞治が中心となり不滅の9連覇を達成した時代である。
写真には次打者席で王貞治選手が一本足打法で素振りをしている。その後方のダッグアウト前で長嶋茂雄選手が魂の素振りを繰り返している。
その横で国松外野手がバットを持って戦況を見つめている。もちろん、ダッグアウトの外である。

今年の春に、神宮球場で東京六大学を観戦した。試合は接戦となり、後半戦を迎えた。両チームとも得点を取り合い、継投策となり総力戦の様相を呈してきた。ブルペンは慌しくなり、代打や代走の準備が始まっている。
両チームともボールインプレイ中にも関わらず、ダッグアウト前から外野フェンスのポール際までで様々の選手が準備をしている。ブルペンでは3人の投手が投球練習に熱が帯び、投手担当コーチが熱く指導している。その奥には、投球練習を待つ控え投手がベンチに2人いる。また本塁方向に背を向けているブルペン捕手を守る役割の選手が2名ほどいる。それより手前では、守備固めの選手が2組キャッチボールを始めた。ダッグアウト前では代打要員3名が帽子も被らずに素振りに余念がない。なんと、両チームとも15名以上の控え選手がグラウンドレベルで準備をしているのだ。
実際にプレイしている選手と合わせると、50名もの人間がウロウロとしている。まるで、草野球以下の節度の無さである。これが大学野球最高峰レベルのリーグ戦である。呆れるしかない。どうみても野球規則を知らないのか、審判員を含めた野球規則を舐めているとしか思えない。

日本では監督や選手が退場処分になると、それだけでニュースになる。それも監督や選手は「理不尽な判定に対して抗議をして退場処分になった」という論調のニュースで同情論が幅を効かせており、審判員に対する尊敬の念はまったく感じられない。

先日も「審判員の暴言」が話題になったが、その前に抗議が可能なジャッジだったのかを考えるべきである。「ルール適用の是非を確認」できるジャッジであれば良いが、「ハーフスイングの有無」などは是非もない。だから「グダグダ言うな」となるのである。その言葉の良し悪しはあるであろう。日本人が重んじる「人間としてどうなのか」という概念は理解できるが、「審判団に対する尊敬の念」が常日頃から無いことが根底にあることは間違いない。

ベースボールのルールを考えたアレクサンダー・カートライト(1820-1892)は、万能プレイヤーであったと同時に有能なアンパイヤーでもあった。カートライトは、自らがルールを作ったベースボールの史上最初の公式戦に、プレイヤーではなくアンパイヤーとして参加している。一番ルールを知っている人間がアンパイヤーを務めるということだ。だから、他のプレイヤーは彼を尊敬し、そのジャッジに従いベースボールを楽しんだ。

アンパイヤーが何故「プレイボール」を宣言し試合が始まり、何故「ゲームセット」を宣告して試合が終わるのか。
ベースボールを愛する者たちが、スポーツとして楽しむことをカートライトは願っていたのであろう。

巡礼の旅
国道11号から旧街道を東に向かい峠を越えた。
旧街道では白装束でひたすら歩く旅人を追い越し、そしてすれ違う。
自走式二輪の愛車は、軽快に旧街道の山間を東へ走る。

秋祭りの準備なのか、各地区の集会場や寺社では神輿の飾り付けが行われている。
「太鼓祭り」「喧嘩祭り」「神輿のかきくらべ」など、地域により呼び名は違えども、いずれも威勢良く神輿を担ぎ、力強さと絢爛さを競う。
歴史の深さを感じさせる「日本の祭り」である。

愛車は港湾沿いの県道を走り、まずは最初の目的地のスポーツ公園エリアへ。
結局、目的地は野球場になってしまう。
他に行く所は無いのだろうか。笑ってしまう。

この街も市町村合併により、人口だけは県内5位。合併前の名残で球場がそこかしこにあるのも「野球王国」と言われる由縁なのかもしれない。
この市営球場もなかなかである。
そして球場では、いつ行っても色々なカテゴリーの試合が行われている。
これも「野球王国」の面目なのか。
最初の目的地で、草野球を観戦しながら手作り弁当を開き腹ごしらえ。

草野球は得点ボードが機能していないため、途中から見ると進行状況が全く分からないが、審判員の立場で見ると、一球・一球、ワンプレイ・ワンプレイの判定などを確認するため試合経過は関係ない。
草野球ではあるが、ここは野球王国である。プレーヤーの立ち姿などは「元高校球児」を匂わせる選手が多い。走るスピードは落ちても、ここぞのプレイは流石である。

試合が終わった。
次の目的地へ向かい再スタートした愛車は、旧街道と国道を走り継ぎながら「紙の街」に入る。パルプの臭いがかすかにするが、気になるほどではない。
港湾沿いに見覚えのある「テッシュペーパー」や「トイレットペーパー」のブランド名を掲げた大きな工場が立ち並ぶ。

製紙工場群を抜けると「城は左」の看板。
城の無い環境で育ったせいか、どうにも好奇心を掻き立てられる。
案内板に沿って左へ折れ、道を進むと前方の小高い丘の上に「山城」が見えてきた。
思わず写真を撮るが、やはり近くで見たい。
ここまで30km近くを走り、結構足に負担が来ているが、好奇心には勝てない。
いやはや気持ちだけは若いから困る。

城へ続く山道を愛車は悲鳴を上げながら進む。途中、眺望の良い場所で一休み。歩いても急な坂道では、流石に愛車を押して上がる。
本丸まで、あと少し。10月なのに汗が噴出す。
小さな山城ではあるが、歴史を感じながら本丸に入り深呼吸。
山の澄んだ空気を堪能する。

山城からは、次の目的地が見えた。すでに歓声も聞こえてくる。
九十九折の山道を悪戦苦闘しながら駆け下り、一路球場を目指す。

独立リーグが行われている球場、多少スケールは小さめだがスタンドは立派である。
こちらの球場はブルペンがグラウンドレベルに設置されておらず、ダッグアウトの裏やフェンス外にあるケースが多い。スタジアムから離れた場所にある球場は、後から増設したのであろう。

この辺りは、流石に「野球のメッカ」と感心してしまう。

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