攻撃側の投手が、ダッグアウト前で行うキャッチボール。
日本では当たり前の風景も、他の国では認められない。それはルールブックで認められていないからである。
ましてやダッグアウト前で代打要員が素振りをしたり、守備固めの選手がダッグアウト近辺でゴロ捕球の練習をしたりなどは、まったく認められない行為である。前回のWBCでは、ダルビッシュ投手がキャッチボールをしようとして止められたことが話題になった。
アメリカの球場はブルペンがグラウンドレベルにあることはない。
日本の野球のメッカでは、徐々に改善が進められているのであろう。
ちなみにグラウンドレベルに入れる選手は、守備側が9人、攻撃側は4~7人(打者、走者最大3名、次打者、一塁コーチャー、三塁コーチャー)。それに審判員4人を加えても17~20人である。
先日、昔の巨人軍黄金時代の写真を見た。長島茂雄や王貞治が中心となり不滅の9連覇を達成した時代である。
写真には次打者席で王貞治選手が一本足打法で素振りをしている。その後方のダッグアウト前で長嶋茂雄選手が魂の素振りを繰り返している。
その横で国松外野手がバットを持って戦況を見つめている。もちろん、ダッグアウトの外である。
今年の春に、神宮球場で東京六大学を観戦した。試合は接戦となり、後半戦を迎えた。両チームとも得点を取り合い、継投策となり総力戦の様相を呈してきた。ブルペンは慌しくなり、代打や代走の準備が始まっている。
両チームともボールインプレイ中にも関わらず、ダッグアウト前から外野フェンスのポール際までで様々の選手が準備をしている。ブルペンでは3人の投手が投球練習に熱が帯び、投手担当コーチが熱く指導している。その奥には、投球練習を待つ控え投手がベンチに2人いる。また本塁方向に背を向けているブルペン捕手を守る役割の選手が2名ほどいる。それより手前では、守備固めの選手が2組キャッチボールを始めた。ダッグアウト前では代打要員3名が帽子も被らずに素振りに余念がない。なんと、両チームとも15名以上の控え選手がグラウンドレベルで準備をしているのだ。
実際にプレイしている選手と合わせると、50名もの人間がウロウロとしている。まるで、草野球以下の節度の無さである。これが大学野球最高峰レベルのリーグ戦である。呆れるしかない。どうみても野球規則を知らないのか、審判員を含めた野球規則を舐めているとしか思えない。
日本では監督や選手が退場処分になると、それだけでニュースになる。それも監督や選手は「理不尽な判定に対して抗議をして退場処分になった」という論調のニュースで同情論が幅を効かせており、審判員に対する尊敬の念はまったく感じられない。
先日も「審判員の暴言」が話題になったが、その前に抗議が可能なジャッジだったのかを考えるべきである。「ルール適用の是非を確認」できるジャッジであれば良いが、「ハーフスイングの有無」などは是非もない。だから「グダグダ言うな」となるのである。その言葉の良し悪しはあるであろう。日本人が重んじる「人間としてどうなのか」という概念は理解できるが、「審判団に対する尊敬の念」が常日頃から無いことが根底にあることは間違いない。
ベースボールのルールを考えたアレクサンダー・カートライト(1820-1892)は、万能プレイヤーであったと同時に有能なアンパイヤーでもあった。カートライトは、自らがルールを作ったベースボールの史上最初の公式戦に、プレイヤーではなくアンパイヤーとして参加している。一番ルールを知っている人間がアンパイヤーを務めるということだ。だから、他のプレイヤーは彼を尊敬し、そのジャッジに従いベースボールを楽しんだ。
アンパイヤーが何故「プレイボール」を宣言し試合が始まり、何故「ゲームセット」を宣告して試合が終わるのか。
ベースボールを愛する者たちが、スポーツとして楽しむことをカートライトは願っていたのであろう。
日本では当たり前の風景も、他の国では認められない。それはルールブックで認められていないからである。
ましてやダッグアウト前で代打要員が素振りをしたり、守備固めの選手がダッグアウト近辺でゴロ捕球の練習をしたりなどは、まったく認められない行為である。前回のWBCでは、ダルビッシュ投手がキャッチボールをしようとして止められたことが話題になった。
アメリカの球場はブルペンがグラウンドレベルにあることはない。
日本の野球のメッカでは、徐々に改善が進められているのであろう。
ちなみにグラウンドレベルに入れる選手は、守備側が9人、攻撃側は4~7人(打者、走者最大3名、次打者、一塁コーチャー、三塁コーチャー)。それに審判員4人を加えても17~20人である。
先日、昔の巨人軍黄金時代の写真を見た。長島茂雄や王貞治が中心となり不滅の9連覇を達成した時代である。
写真には次打者席で王貞治選手が一本足打法で素振りをしている。その後方のダッグアウト前で長嶋茂雄選手が魂の素振りを繰り返している。
その横で国松外野手がバットを持って戦況を見つめている。もちろん、ダッグアウトの外である。
今年の春に、神宮球場で東京六大学を観戦した。試合は接戦となり、後半戦を迎えた。両チームとも得点を取り合い、継投策となり総力戦の様相を呈してきた。ブルペンは慌しくなり、代打や代走の準備が始まっている。
両チームともボールインプレイ中にも関わらず、ダッグアウト前から外野フェンスのポール際までで様々の選手が準備をしている。ブルペンでは3人の投手が投球練習に熱が帯び、投手担当コーチが熱く指導している。その奥には、投球練習を待つ控え投手がベンチに2人いる。また本塁方向に背を向けているブルペン捕手を守る役割の選手が2名ほどいる。それより手前では、守備固めの選手が2組キャッチボールを始めた。ダッグアウト前では代打要員3名が帽子も被らずに素振りに余念がない。なんと、両チームとも15名以上の控え選手がグラウンドレベルで準備をしているのだ。
実際にプレイしている選手と合わせると、50名もの人間がウロウロとしている。まるで、草野球以下の節度の無さである。これが大学野球最高峰レベルのリーグ戦である。呆れるしかない。どうみても野球規則を知らないのか、審判員を含めた野球規則を舐めているとしか思えない。
日本では監督や選手が退場処分になると、それだけでニュースになる。それも監督や選手は「理不尽な判定に対して抗議をして退場処分になった」という論調のニュースで同情論が幅を効かせており、審判員に対する尊敬の念はまったく感じられない。
先日も「審判員の暴言」が話題になったが、その前に抗議が可能なジャッジだったのかを考えるべきである。「ルール適用の是非を確認」できるジャッジであれば良いが、「ハーフスイングの有無」などは是非もない。だから「グダグダ言うな」となるのである。その言葉の良し悪しはあるであろう。日本人が重んじる「人間としてどうなのか」という概念は理解できるが、「審判団に対する尊敬の念」が常日頃から無いことが根底にあることは間違いない。
ベースボールのルールを考えたアレクサンダー・カートライト(1820-1892)は、万能プレイヤーであったと同時に有能なアンパイヤーでもあった。カートライトは、自らがルールを作ったベースボールの史上最初の公式戦に、プレイヤーではなくアンパイヤーとして参加している。一番ルールを知っている人間がアンパイヤーを務めるということだ。だから、他のプレイヤーは彼を尊敬し、そのジャッジに従いベースボールを楽しんだ。
アンパイヤーが何故「プレイボール」を宣言し試合が始まり、何故「ゲームセット」を宣告して試合が終わるのか。
ベースボールを愛する者たちが、スポーツとして楽しむことをカートライトは願っていたのであろう。
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