一般に監督には抗議権が与えられていると思われているが、ルールブック上のニュアンスは若干違う。監督のみが「ルール適用の是非について問いただすことができる」という事であり、いわゆる「抗議権」とは違うのである。ルールブックに「抗議権」という言葉すらないことは周知のとおりである。
【9.02 審判員の裁定】(b)審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いがあるときには、監督だけがその裁定を規則に基づく正しい裁定に訂正するように要請することができる。しかし、監督はこのような裁定を下した審判員に対してだけアピールする(規則適用の訂正を申し出る)ことが許される。
先日起きたプロ野球での一件は、投球判定(ハーフスイング)に関する異議であり、かつ試合終了後であることから、審判団からすると「アピールの対象とならないジャッジメント」であり、「終わったジャッジメント」ということになり、対応する必要がないことではある。ただし、対応した三塁塁審の言動は頂けない。2,000試合近くの経験を持つ、ベテランのクルーチーフの言葉としては配慮に欠けていたと言わざるを得ない。
三塁塁審の頂けない言葉があったにせよ、監督がとったパフォーマンスは、日頃の鬱憤を晴らそうとしているようにしか見えなかった。試合が終了しているため、いくら抗議(文句)を並べ立てても「退場処分」にはならないから、いつも以上にハッスルしているようにも見えたが、そもそもハーフスイングの判定に対する確認は認められていない。どのような言葉が返ってこようと納得はできるはずがないのであるから、そのような行動を取ること自体が、チームにとっても、監督にとっても今後有利に働くとは思えない。
ペナントレースも終盤になり、チーム全体がピリピリしているのは判るが、「命を賭けて闘っている」のは審判員も同じであり、今更の感が強い。審判員は、開幕してからペナント終了まで「命を賭けてジャッジしている」はずである。
野球はミスのスポーツである。選手を含めた「ダッグアウトのミス」は、年間で枚挙に暇がないであろう。ところが、審判員のミスは職を失うことに繋がる。それでいて、裏方の域を出ることはない。責は重く功は少ない、割に合わない立場である。それでも、野球の試合の中で、審判員が最も重要なポジションを占めているというプライドが、審判員を支えていると思われる。
マスコミは「審判員の暴言」と読者を煽り、購買意欲を掻き立てる見出しを付けるが、その前に何に対する「抗議(文句)」なのか、それはルールのある競技の中で許されることなのかを開示した上で批判なり、批評なりを繰り広げるべきであろう。公平感の欠いた大見出しに思える。
言葉は難しい。
言葉が活字になると伝えたいニュアンスは、まったく読み手側の立場や感性などに委ねられるため、正確に本意が伝わらないことが多い。今ここに書いていることも同様で、読み手にとっては「審判擁護、監督・マスコミ批判」と受け取られるかもしれない。
「言葉」が発生した時の環境や発した側および受け取る側の心理状態や相手への思いなどが噛み合わない時に、「言葉」は「暴言」になってしまう。
どのような世界でも、中立的役割の人間が暴君になっては秩序を保つことはできない。それはスポーツの審判員にも言えることであり、「中立公平の目」を保てなくなったときが退く時となる。その「中立公平の目」を保つ為に、野球にはルールブックがある。
常に自分自身を律するためにルールブックを活用することに有効性を強く感じている。
【9.02 審判員の裁定】(b)審判員の裁定が規則の適用を誤って下された疑いがあるときには、監督だけがその裁定を規則に基づく正しい裁定に訂正するように要請することができる。しかし、監督はこのような裁定を下した審判員に対してだけアピールする(規則適用の訂正を申し出る)ことが許される。
先日起きたプロ野球での一件は、投球判定(ハーフスイング)に関する異議であり、かつ試合終了後であることから、審判団からすると「アピールの対象とならないジャッジメント」であり、「終わったジャッジメント」ということになり、対応する必要がないことではある。ただし、対応した三塁塁審の言動は頂けない。2,000試合近くの経験を持つ、ベテランのクルーチーフの言葉としては配慮に欠けていたと言わざるを得ない。
三塁塁審の頂けない言葉があったにせよ、監督がとったパフォーマンスは、日頃の鬱憤を晴らそうとしているようにしか見えなかった。試合が終了しているため、いくら抗議(文句)を並べ立てても「退場処分」にはならないから、いつも以上にハッスルしているようにも見えたが、そもそもハーフスイングの判定に対する確認は認められていない。どのような言葉が返ってこようと納得はできるはずがないのであるから、そのような行動を取ること自体が、チームにとっても、監督にとっても今後有利に働くとは思えない。
ペナントレースも終盤になり、チーム全体がピリピリしているのは判るが、「命を賭けて闘っている」のは審判員も同じであり、今更の感が強い。審判員は、開幕してからペナント終了まで「命を賭けてジャッジしている」はずである。
野球はミスのスポーツである。選手を含めた「ダッグアウトのミス」は、年間で枚挙に暇がないであろう。ところが、審判員のミスは職を失うことに繋がる。それでいて、裏方の域を出ることはない。責は重く功は少ない、割に合わない立場である。それでも、野球の試合の中で、審判員が最も重要なポジションを占めているというプライドが、審判員を支えていると思われる。
マスコミは「審判員の暴言」と読者を煽り、購買意欲を掻き立てる見出しを付けるが、その前に何に対する「抗議(文句)」なのか、それはルールのある競技の中で許されることなのかを開示した上で批判なり、批評なりを繰り広げるべきであろう。公平感の欠いた大見出しに思える。
言葉は難しい。
言葉が活字になると伝えたいニュアンスは、まったく読み手側の立場や感性などに委ねられるため、正確に本意が伝わらないことが多い。今ここに書いていることも同様で、読み手にとっては「審判擁護、監督・マスコミ批判」と受け取られるかもしれない。
「言葉」が発生した時の環境や発した側および受け取る側の心理状態や相手への思いなどが噛み合わない時に、「言葉」は「暴言」になってしまう。
どのような世界でも、中立的役割の人間が暴君になっては秩序を保つことはできない。それはスポーツの審判員にも言えることであり、「中立公平の目」を保てなくなったときが退く時となる。その「中立公平の目」を保つ為に、野球にはルールブックがある。
常に自分自身を律するためにルールブックを活用することに有効性を強く感じている。
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