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WBCで球数制限が話題になっている。これは、アメリカと日本の野球における考え方や背景の違いが如実に現れている事例であろう。
夏の高校野球などでは、エース投手の力投が話題になる。力投として記憶に新しいところでは、北京五輪・ソフトボールの上野投手の熱投などもある。高校野球に話を戻すと、駒大苫小牧の田中投手と早稲田実業のハンカチ王子の投げ合いも思い出させる。つまり、日本人の野球の思いでシーンには、投手の力投が欠かせないのである。悲壮感あふれる投球や、腕が千切れんばかりの熱投などは大好きなのである。
昨今、高校野球では投手の肩やヒジのメディカルチェックが義務付けられるようになった。よく考えれば当たり前の話であり、「教育の一環」などとウソぶいている高野連は、今まで黙認してきたことを猛省するべきである。今まで、何万という高校球児が、夏の大会で野球を離れていった事であろう。野球人口が多い時代は気にもしなかったのであろうが、野球人気が低迷しだし、競技人口が気になりだしたことが主要因であろうが、表向きは「選手の健康管理」であるようである。
野球世界一を競う大会であるWBCで、何とも軟弱と思われる「球数制限」が設けられたことに、日本の野球ファンは「消化不良」的な思いにあるように感じる。マスコミなどは、「球数制限が、野球本来の面白さを奪っている」などと本気で書き連ねている。何とも短絡的な発想であろうか。
なぜ、球数制限などを設けているのであろうか。そして、その変なルールを、何故質実剛健な大リーガーが受け入れているのであろうか。そのルーツは「リトルリーグ」にある。アメリカの少年野球といえばリトルリーグである。日本のように色々なローカルリーグや、嫌いなやつは排除する的な連盟などは存在しない。このリトルリーグには、少年の育成が第一目標として掲げられており、おのずと選手の健康管理に目が注がれている。そのひとつが、球数制限や連投禁止などである。このルールが、そのままWBCの変則ルールにつながっている。
実際にはナショナルチームと言っても、大リーグの各球団から主力選手を預かっているだけであるから、身を粉にしてプレイしろとは言えないのが現実なのであろう。契約社会であるアメリカにあったは、WBCで活躍すること以上に、160試合を超えるシーズンをコンスタントにプレイし活躍することを、自他共に求めているのである。だから、プレシーズンマッチであるWBCで、ナショナルチームの為に最大限貢献できる範囲が「球数制限」に表現されていると考えることもできる。
とはいえ、シーズン中も先発投手は100球程度の球数で交替することが、どのチームでも当たり前になっている大リーガーにとっては、順応しやすいルールであることは間違いない。
一方、日本人プレイヤーは不慣れであろう。「先発完投」が名誉のように感じているのが、日本のエースと呼ばれる投手である。時には明らかに球威が落ちていても、「エースと心中」などという名台詞で続投させて、敗戦の憂き目をみるチームもある。このようなチームの監督は、「親方」ではあるが「マネージャー」とは言えない。チームの目標を忘れているとしか思えない。がしかし、日本では日常茶飯事行われている。「エースで負けたら仕方が無い」というのは、勝利に向かい全力を挙げることが出来ない、能の無い指導者の台詞であろう。打つ手がたくさんあるにも関わらず、全力を出すことをせずして敗戦を迎えることは愚の骨頂であろう。たとえ、打つ手をすべて打っても、結果が同じこともあるかもしれないが、それを実践するのが「名」のつく指導者だと思う。
もともと、ベースボールは打撃のゲームである。ゆえに、投手に過酷な仕事をさせること自体がナンセンスなのであろう。
「球数制限」「連投禁止」などは、ベースボールのルーツを知る上で重要なキーワードなのかもしれない。
夏の高校野球などでは、エース投手の力投が話題になる。力投として記憶に新しいところでは、北京五輪・ソフトボールの上野投手の熱投などもある。高校野球に話を戻すと、駒大苫小牧の田中投手と早稲田実業のハンカチ王子の投げ合いも思い出させる。つまり、日本人の野球の思いでシーンには、投手の力投が欠かせないのである。悲壮感あふれる投球や、腕が千切れんばかりの熱投などは大好きなのである。
昨今、高校野球では投手の肩やヒジのメディカルチェックが義務付けられるようになった。よく考えれば当たり前の話であり、「教育の一環」などとウソぶいている高野連は、今まで黙認してきたことを猛省するべきである。今まで、何万という高校球児が、夏の大会で野球を離れていった事であろう。野球人口が多い時代は気にもしなかったのであろうが、野球人気が低迷しだし、競技人口が気になりだしたことが主要因であろうが、表向きは「選手の健康管理」であるようである。
野球世界一を競う大会であるWBCで、何とも軟弱と思われる「球数制限」が設けられたことに、日本の野球ファンは「消化不良」的な思いにあるように感じる。マスコミなどは、「球数制限が、野球本来の面白さを奪っている」などと本気で書き連ねている。何とも短絡的な発想であろうか。
なぜ、球数制限などを設けているのであろうか。そして、その変なルールを、何故質実剛健な大リーガーが受け入れているのであろうか。そのルーツは「リトルリーグ」にある。アメリカの少年野球といえばリトルリーグである。日本のように色々なローカルリーグや、嫌いなやつは排除する的な連盟などは存在しない。このリトルリーグには、少年の育成が第一目標として掲げられており、おのずと選手の健康管理に目が注がれている。そのひとつが、球数制限や連投禁止などである。このルールが、そのままWBCの変則ルールにつながっている。
実際にはナショナルチームと言っても、大リーグの各球団から主力選手を預かっているだけであるから、身を粉にしてプレイしろとは言えないのが現実なのであろう。契約社会であるアメリカにあったは、WBCで活躍すること以上に、160試合を超えるシーズンをコンスタントにプレイし活躍することを、自他共に求めているのである。だから、プレシーズンマッチであるWBCで、ナショナルチームの為に最大限貢献できる範囲が「球数制限」に表現されていると考えることもできる。
とはいえ、シーズン中も先発投手は100球程度の球数で交替することが、どのチームでも当たり前になっている大リーガーにとっては、順応しやすいルールであることは間違いない。
一方、日本人プレイヤーは不慣れであろう。「先発完投」が名誉のように感じているのが、日本のエースと呼ばれる投手である。時には明らかに球威が落ちていても、「エースと心中」などという名台詞で続投させて、敗戦の憂き目をみるチームもある。このようなチームの監督は、「親方」ではあるが「マネージャー」とは言えない。チームの目標を忘れているとしか思えない。がしかし、日本では日常茶飯事行われている。「エースで負けたら仕方が無い」というのは、勝利に向かい全力を挙げることが出来ない、能の無い指導者の台詞であろう。打つ手がたくさんあるにも関わらず、全力を出すことをせずして敗戦を迎えることは愚の骨頂であろう。たとえ、打つ手をすべて打っても、結果が同じこともあるかもしれないが、それを実践するのが「名」のつく指導者だと思う。
もともと、ベースボールは打撃のゲームである。ゆえに、投手に過酷な仕事をさせること自体がナンセンスなのであろう。
「球数制限」「連投禁止」などは、ベースボールのルーツを知る上で重要なキーワードなのかもしれない。
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コメント
今シーズンも色々勉強させて頂きますので、宜しくお願い致します。
こちらもシーズンとなり、また子供と同一フィールドでの共有となりそうです。 いつも「審判の目」BLOGがスタートとなっております。
ところで昨日耳にしたのですが二塁塁審の位置がランナー二塁の時もショートストップ近くの方にと統一されたとか? 今まではセカンド側、ショート側とランナー及びバッターによりより見やすく妨害にならない位置どりをしていたと思うのですが今年から統一されたというのは本当でしょうか?
ようやく、再開の目途が立ちました。また、皆さんとご一緒に審判家業を楽しみたいと思います。よろしくお願いいたします。
さて、二塁塁審の立ち位置ですが、日本野球連盟の規則委員会では、「無走者または単独三塁以外のケースではセカンド側を基本とする」で統一されました。
昨年までは、二塁に走者がいるケースではセカンド側、その他のケースはショート側が判定に有利とされてきました。これは、二塁への盗塁判定に対して、走者の進行方向に対して直角に観ることがベターと考えられてきたからです。実際、私も昨年試してみましたが、盗塁のジャッジに対するプレッシャーから開放されました。第一に一塁走者の動きが良く見えることが利点であると感じていました。
しかし、昨今の二塁でのタッグプレイは、走者が外野側へ回り込むケースが多いことから、ショート側からだと野手によりブラインドになることが指摘され、それがもっとも良く見えるセカンド側に統一となったようです。
プロは、各審判員に一任されているようです。
どちらの位置も一長一短があると思いますが、できるだけ所属する連盟などで統一されることが混乱を避けることになると思います。
打者の打撃に邪魔にならないように配慮した場合、逆に守備側の邪魔になっていることがあります。
審判員は、できる限り黒子に徹するように努力していきたいものです。