「審判のせい」か「審判のおかげ」か
2008年8月26日北京五輪の総集編を観ていて気になるコメントがあった。
「日本の野球は、審判のストライクゾーンが一定しないことなどによりアメリカにも敗れ、4位となりました」。このコメントを聞いた際に、こんな馬鹿なことを考えてしまった。
「日本の投手が投げる時と、アメリカの投手が投げる時で球審が替わったのか?」と。
こんな非常識なことを考えざるを得ないほど、突拍子も無いコメントであった。マスメディアの認識の低さが、大変な不始末を導き出している。アメリカやキューバなどの他チームから、同様な意見があったのであろうか。彼らは「それもBASEBALLの一部」という答えであろう。
そもそも、アマチュア規定に則って行うのであれば、ストライクゾーンの低目はボール一個分高くなる。国際審判員とはいえ、基本的にはアマチュアである。中南米などは職業としている人もいるようであるが、五輪精神から考えてもアマチュア規定が優先するのであろう。
元々が大雑把でアバウトなルールの上にある「野球」というスポーツに、日本人の杓子定規な考え方は同調しないのかもしれない。「ストライク」の意味は「打て」である。つまり、審判員が投球を見て「これは打てる」と感じ裁定するのが「ストライク」である。つまり、どう感じるかでストライクゾーンが変わるのであるから、個人差が出て当然であろう。投手や打者に個性があるように、球審にも個性があって何が悪いのであろうか。また、人間の目が裁定を下すのである。一試合に200〜300球の投球を見るのである。一試合を同じ観点・視点で見切ることの難しさは、やった者でなければ判らない。
このコメントは、星野監督が発信源のようである。それにマスコミも同調している。日本では、五輪における「誤審」に対する積年の恨みがある。
日本は五輪や世界選手権の柔道やレスリングなどで、「疑惑の判定」により被害を被っているように思われている。それほど日本は世界から嫌われているのであろうか。それほど日本は世界から恐れられるようなスポーツ大国なのであろうか。
日本人は海外のスポーツ選手に比べて、骨格や肉体的に優っているわけではなく、メダルを漁る様に奪っている過去もないことから、決して総スカンを食っているわけではないであろうと考えられる。
「審判のせい」で負けたとか、「誤審」で負けたなどが言い分けの一つになっている。確かに、ルール適用の誤りがあり、涙を呑んだ競技や選手がいたのは確かである。しかし、総スカンを食っていないなら、一方的に「誤審」の犠牲になっていると考えるのは偏見に思われる。
逆に「審判のおかげ」が勝利の一因になっている試合もあったであろう。しかし、これはニュースにならない。精一杯努力し、力を100%出し切った選手を讃えるためには、「審判のおかげ」は邪魔な存在でしかない。それが勝敗の趨勢を決したとしても、決してニュースになることはない。確かに、そんなニュースは聞きたくもない。
マスコミやファンは、勝った時は選手達の実力で、負けた時は実力以外の部分に敗因を押し付ける。選手本人達は、決してこのようなことを言わないであろうが、マスコミやファンは違う。負けた時は、どうしようもない不運に敗因を求めたがるのである。野球の場合、その標的となるのがグラウンド状態や天候、そして審判のジャッジなのである。特に、感情や恣意的なことで裁定が左右すると思われがちな「審判のジャッジ」には疑惑の目が向けられる。
メンタルトレーニングの基本に「セルフコントロール」という言葉がある。
自分自身にコントロール出来ないものについて、あれやこれやと考えても仕方がなく、それよりも自らがコントロールできるものを100%活用することが重要であるという考え方である。
つまり、天候が優れないからと悩んだところで、自分でコントロールすることは叶わない。グラウンド状況や相手チームのコンディションなども同様である。それらを考えるより、自分のコンディションを最高の状態に持っていき、最大限に実力が発揮できるよう自らの環境を整えることに腐心するべきである。
審判のジャッジも、自分ではコントロールできない部分の一つである。
グラウンドに風が吹くように、太陽が照りつけるように、審判のジャッジを受け留めなければスポーツは成り立たない。
「日本の野球は、審判のストライクゾーンが一定しないことなどによりアメリカにも敗れ、4位となりました」。このコメントを聞いた際に、こんな馬鹿なことを考えてしまった。
「日本の投手が投げる時と、アメリカの投手が投げる時で球審が替わったのか?」と。
こんな非常識なことを考えざるを得ないほど、突拍子も無いコメントであった。マスメディアの認識の低さが、大変な不始末を導き出している。アメリカやキューバなどの他チームから、同様な意見があったのであろうか。彼らは「それもBASEBALLの一部」という答えであろう。
そもそも、アマチュア規定に則って行うのであれば、ストライクゾーンの低目はボール一個分高くなる。国際審判員とはいえ、基本的にはアマチュアである。中南米などは職業としている人もいるようであるが、五輪精神から考えてもアマチュア規定が優先するのであろう。
元々が大雑把でアバウトなルールの上にある「野球」というスポーツに、日本人の杓子定規な考え方は同調しないのかもしれない。「ストライク」の意味は「打て」である。つまり、審判員が投球を見て「これは打てる」と感じ裁定するのが「ストライク」である。つまり、どう感じるかでストライクゾーンが変わるのであるから、個人差が出て当然であろう。投手や打者に個性があるように、球審にも個性があって何が悪いのであろうか。また、人間の目が裁定を下すのである。一試合に200〜300球の投球を見るのである。一試合を同じ観点・視点で見切ることの難しさは、やった者でなければ判らない。
このコメントは、星野監督が発信源のようである。それにマスコミも同調している。日本では、五輪における「誤審」に対する積年の恨みがある。
日本は五輪や世界選手権の柔道やレスリングなどで、「疑惑の判定」により被害を被っているように思われている。それほど日本は世界から嫌われているのであろうか。それほど日本は世界から恐れられるようなスポーツ大国なのであろうか。
日本人は海外のスポーツ選手に比べて、骨格や肉体的に優っているわけではなく、メダルを漁る様に奪っている過去もないことから、決して総スカンを食っているわけではないであろうと考えられる。
「審判のせい」で負けたとか、「誤審」で負けたなどが言い分けの一つになっている。確かに、ルール適用の誤りがあり、涙を呑んだ競技や選手がいたのは確かである。しかし、総スカンを食っていないなら、一方的に「誤審」の犠牲になっていると考えるのは偏見に思われる。
逆に「審判のおかげ」が勝利の一因になっている試合もあったであろう。しかし、これはニュースにならない。精一杯努力し、力を100%出し切った選手を讃えるためには、「審判のおかげ」は邪魔な存在でしかない。それが勝敗の趨勢を決したとしても、決してニュースになることはない。確かに、そんなニュースは聞きたくもない。
マスコミやファンは、勝った時は選手達の実力で、負けた時は実力以外の部分に敗因を押し付ける。選手本人達は、決してこのようなことを言わないであろうが、マスコミやファンは違う。負けた時は、どうしようもない不運に敗因を求めたがるのである。野球の場合、その標的となるのがグラウンド状態や天候、そして審判のジャッジなのである。特に、感情や恣意的なことで裁定が左右すると思われがちな「審判のジャッジ」には疑惑の目が向けられる。
メンタルトレーニングの基本に「セルフコントロール」という言葉がある。
自分自身にコントロール出来ないものについて、あれやこれやと考えても仕方がなく、それよりも自らがコントロールできるものを100%活用することが重要であるという考え方である。
つまり、天候が優れないからと悩んだところで、自分でコントロールすることは叶わない。グラウンド状況や相手チームのコンディションなども同様である。それらを考えるより、自分のコンディションを最高の状態に持っていき、最大限に実力が発揮できるよう自らの環境を整えることに腐心するべきである。
審判のジャッジも、自分ではコントロールできない部分の一つである。
グラウンドに風が吹くように、太陽が照りつけるように、審判のジャッジを受け留めなければスポーツは成り立たない。
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