迷いの一球

2008年7月2日
私が勝手に『師匠』と崇めているベテラン審判員の球審姿を久し振りに見ることができた。流石に色々と勉強になることが多い。
久し振りの球審を無事勤め上げ、審判室に戻って来たベテラン審判員が一言「一球、高かったな」と呟いた。私は「あの一球ですね。あれはちょっと高かったかもしれませんね」と応えてしまった。後から思い返すと、大変失礼なことを言ってしまったものであるが、ベテラン審判員は「やはり高いか。あるんだよなぁー。一試合に一球は」と返された。
次の日は逆の立場になった。私が球審を勤め、控えにベテラン審判員である。このケースは試合後のミーティングが楽しみである。細かいところから、大きな動きまで、色々とアドバイスを戴けるのが楽しみなのである。当然、叱責されることもある。それも覚悟して聞かなくてはならないが、アドバイスがされなくなった時は、成長も停まる時だと思って聞いている。
この日の試合後のミーティングでは、メカニクスの確認が主であった。自分の裁定に関する指摘事項は無かったが、それはそれで寂しいものである。防具を外しながら、心に引っ掛かることを感じながら、それが何なのか解らずにいた。
次の試合の準備をしているグラウンドを眺めていると、横にいたベテラン審判員が呟いた。
「あの一球がなぁ〜。高かったかなぁ〜」。
昨日の試合の「あの一球」を、まだ悔やんでいるのである。ゲームの流れには、一切関係のないように思われる一球でも、審判員の心の中では葛藤がある。それを、まだ気にされている姿に接し、我を振り返ってみると心に引っ掛かっていたものの正体が解った。
「あの一球」があったのである。「外角に外れていたかもしれない」と思われる「あの一球」があったのである。これを反省しなければ、また同じことを繰り返すことになるし、成長もない。あの時の心理状況やゲーム展開、ボールカウントなどを思い浮かべ、自分の心の中で反芻することとした。
審判員は目の前で起こる事象に関して、ありのままをジャッジしたらいいのであることは重々分かっているつもりでいる。これから起きるであろうプレイの予測を立てることは重要なことであるが、それが野球の展開や作戦面まで及ぶのは、ジャッジの精度を落とす原因に十分なり得る。プレイの予測を立てるとは、次に起こるプレイに対して、自分がどのように対処するかの予測を何ケースか考えておくのであって、ゲームの流れを予測することではない。例えば、コントロールが安定していた投手が、突然ボールが三球も続くような場面で「次はど真ん中でストライクを獲りにくる」と予測してしまうと、どうしても判定がぶれてしまう。また、ストライクが二球先行した場合、「次は一球遊んでくるな」などと考え、捕手が中腰にでもなったものなら、頭の中は「ボール」のコールが木魂してしまう。思考の中にこんな雑念が入るようでは、まだまだ修行が足りない。

私は、ベテラン審判員に「あれは高かったと思います」と応えていた。

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