決勝戦

2008年6月9日
春の大会は、北海道の永い冬からチームを目覚めさせて力試しをする大会であり、本番である夏の大会への試金石となり得る大会である。とは言え、選手達により多くのチャンスを与えようという目的で予選はリーグ戦で実施される。リーグ戦は最低の試合数が保証されることや日程がはっきりとしている事から、勝敗よりも内容を求める指導者は多い。つまり、多くの選手にチャンスを与えて本番での実力を試すのである。
冬季練習で地道に努力していた選手が、すんなりと花開く場合もあれば、なかなか結果が伴わずに結局は埋没してしまう場合もある。多くのチャンスは転がっているものの、選手一人一人にとっては決して多い機会とは言えない。早い段階でチャンスに実力を見せることができれば、出場機会はドンドン増えるが、逆の場合はジリ貧状態になってしまう。結果を欲しがるあまりにチョンボをしてしまう場合もあるであろう。多くの指導者は「結果よりも内容」を重視して選手の評価や起用方法を考えているようである。
「結果より内容」の理解度の違いが選手と指導者にはある。凡打を繰り返していてもタイミングやスイングの内容を見て「使える」と判断する場合や、たとえ三振の山を築いていても、試合展開を読まずに四球を出してしまう投手は「大事な場面では使えない」と判断したりするのであろう。
選手の視線では、三振の山を築けば評価は良いと考えているだろうし、出会い頭のヒットでも打率が良ければ高評価と考えるであろう。
選手にとって春の大会は、「球春を迎えた喜び」と「熾烈なレギュラー争いやベンチ入り争い」の狭間で揺れる試合が続くのである。
我々審判員にとっても春の大会は多くの確認事項がある。忘れかけたメカニクスの確認や、スキル面やメンタル面の修正作業の繰返しになる。これは程度の違いこそあれ、新人審判員もベテラン審判員も同様に不安との葛藤があるものである。ある意味、経験の浅い審判員よりも経験豊富なベテラン審判員の方が大変かもしれない。そこに、春先の講習会などでメカニクスの変更などが加わると思考回路がパニックになってくる。試合を重ねるたびに、一つずつ勘を取り戻しては行くが、漠然と試合に挑んでいては時間ばかりが経ってしまう。
選手や指導者、そして観客である父兄は、「審判員」に対して初めから万全を期待する。それが当然であるかのように考えているであろう。もちろん、審判員もそのつもりグラウンドに立つのだが、どうしても春先は多岐に亘り至らなかったり、やり過ぎたりという凸凹が出現する。
斯く言う私も例外ではない。審判員を職業としている訳ではないが、やはり初めから大過なく終えたいと考え春の大会を迎えた。もちろん自分自身のステップアップのために、今年の目標を定めて大会に挑んだが、理想像には程遠い「内容」であった。
最も反省しなくてはならないのが、説明能力の不足である。「審判員の裁定は最終」のものである。最終の裁定であるがゆえに、説明責任を果たせる裁定でなくてはならない。「何となくルール違反」とか、「何となくそのように感じた」などの曖昧さは許されないのである。あくまでもルールブックに基づいて、明確に説明できる裁定であるべきである。
春の大会は「内容」の悪さをおおいに反省し、次に挑もうと考えている。ある意味、問題点が露呈したことを善しとして、プラス思考で挑もうと思う。
一縷の明るさは、決勝戦での球審を務めるという名誉な「結果」を得られたことであろう。
これだけ内容の悪い人間に大役を預けていただいた、審判部諸氏や大会関係諸氏、そして選手諸君に感謝するばかりである。

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