塁審の目
2008年6月2日球審を任される機会が多くなったせいで、時折巡って来る塁審の動きに異変が起きている。非常に違和感がある。集中しようとしているのに、大事なところを見ていない気がする。この違和感は、しばらく消えないであろう。
塁審には「塁審の視線」がある。一塁塁審と三塁塁審の視線・視点は180度違うように、それぞれのポジションで、それぞれの役割を果たしながら試合をコントロールしているのである。
例えば、右投手の投球フォームを注視していても、手の動きは一塁塁審には「はっきり」とは見えない。だから私は、視線は足の動きを中心に見ることにしている。しかし、牽制球を一塁に投げる際には「手の動き」は明確に見える。
先日小雨降る中での試合で、右投手が一塁へ牽制球を投げる「真似」をした。一塁塁審を任されていた私は、投手の足に集中していたため、投手板を外したことは確認した。ゆえに、一塁への「牽制球の真似」はボークの対象とはならない。ところが、その右投手が再び一塁へ背を向けて打者に正対した際に、「グラブの中のボールを、右手で掴んだ」ように見えたのである。つまり、それまで「右投手の右手にはボールが握られていなかった」ことになる。ということは、一塁への「牽制球の真似」をした際に、ボールはグラブの中にあったということなのだ。
これの解釈は「ボークルール」に明確には書かれていない。ゆえに、「ボーク」とせず「注意」で良いだろうというのが大勢の意見ではあるが、そのアクションに私も走者も完全に騙されたのは事実である。「走者を騙す」ことをボールルールは厳しく禁じている観点から考えると、「ボーク」を採用されても致し方ないプレイではある。
この行為を一体誰が気付くであろうか。球審や二塁塁審には角度的に難しいであろう。一塁への投げる真似が緩慢に行われたら気付くかもしれない程度だろう。
では三塁塁審はどうであろうか。右投手がセットポジションをとった場合、手の動きがすべて見えるのは三塁塁審ではある。しかし、両手を合わせた状態では、右手にボールが握られているかどうかの100%の確証はない。打者に投げることを前提に見ているから、ボールが握られているのは「当たり前」となっているだけである。この状態から1塁への牽制動作へ移行してからは、手の動きは確認できないだろう。
球審と3人の塁審の目があっても、このような常識外れのプレイを確認することは難しい。相当集中していたとしても、その現象を確認し、ルールに照らして適正か否かを裁定し、必要な場合はコールするまでを一瞬で行わなければならない。これをスムーズに処理するには、多くの経験が必要であることを強く感じている。
塁審の目は非常に重要である。球審の判断や裁量が及ばないプレイは意外に多い。また、球審の補助をしていながら、最終判断を任される局面さえもある。
その代表格が「ハーフスイングの裁定」であろう。基準が不明確なハーフスイングは、捕手のリクエストがあった場合のみ、一塁または三塁塁審にその全権を委譲する。球審からの全権委譲された塁審は、そのハーフスイングが塁審の目でどのように見えたかだけを判断基準に裁定する。つまり、右打者の場合は一塁塁審が、左打者の場合は三塁塁審が球審と同じような緊張感が必要ということである。
これは、自分の技術を磨くための、ひとつのヒントであると思う。
塁審も球審と同じように、一球・一球、ワンプレイ・ワンプレイをジャッジすることで、自分の感性を磨くことができるように思うのである。
塁審の視線でゲームに参加し、久し振りの異次元空間を感じた。
塁審には「塁審の視線」がある。一塁塁審と三塁塁審の視線・視点は180度違うように、それぞれのポジションで、それぞれの役割を果たしながら試合をコントロールしているのである。
例えば、右投手の投球フォームを注視していても、手の動きは一塁塁審には「はっきり」とは見えない。だから私は、視線は足の動きを中心に見ることにしている。しかし、牽制球を一塁に投げる際には「手の動き」は明確に見える。
先日小雨降る中での試合で、右投手が一塁へ牽制球を投げる「真似」をした。一塁塁審を任されていた私は、投手の足に集中していたため、投手板を外したことは確認した。ゆえに、一塁への「牽制球の真似」はボークの対象とはならない。ところが、その右投手が再び一塁へ背を向けて打者に正対した際に、「グラブの中のボールを、右手で掴んだ」ように見えたのである。つまり、それまで「右投手の右手にはボールが握られていなかった」ことになる。ということは、一塁への「牽制球の真似」をした際に、ボールはグラブの中にあったということなのだ。
これの解釈は「ボークルール」に明確には書かれていない。ゆえに、「ボーク」とせず「注意」で良いだろうというのが大勢の意見ではあるが、そのアクションに私も走者も完全に騙されたのは事実である。「走者を騙す」ことをボールルールは厳しく禁じている観点から考えると、「ボーク」を採用されても致し方ないプレイではある。
この行為を一体誰が気付くであろうか。球審や二塁塁審には角度的に難しいであろう。一塁への投げる真似が緩慢に行われたら気付くかもしれない程度だろう。
では三塁塁審はどうであろうか。右投手がセットポジションをとった場合、手の動きがすべて見えるのは三塁塁審ではある。しかし、両手を合わせた状態では、右手にボールが握られているかどうかの100%の確証はない。打者に投げることを前提に見ているから、ボールが握られているのは「当たり前」となっているだけである。この状態から1塁への牽制動作へ移行してからは、手の動きは確認できないだろう。
球審と3人の塁審の目があっても、このような常識外れのプレイを確認することは難しい。相当集中していたとしても、その現象を確認し、ルールに照らして適正か否かを裁定し、必要な場合はコールするまでを一瞬で行わなければならない。これをスムーズに処理するには、多くの経験が必要であることを強く感じている。
塁審の目は非常に重要である。球審の判断や裁量が及ばないプレイは意外に多い。また、球審の補助をしていながら、最終判断を任される局面さえもある。
その代表格が「ハーフスイングの裁定」であろう。基準が不明確なハーフスイングは、捕手のリクエストがあった場合のみ、一塁または三塁塁審にその全権を委譲する。球審からの全権委譲された塁審は、そのハーフスイングが塁審の目でどのように見えたかだけを判断基準に裁定する。つまり、右打者の場合は一塁塁審が、左打者の場合は三塁塁審が球審と同じような緊張感が必要ということである。
これは、自分の技術を磨くための、ひとつのヒントであると思う。
塁審も球審と同じように、一球・一球、ワンプレイ・ワンプレイをジャッジすることで、自分の感性を磨くことができるように思うのである。
塁審の視線でゲームに参加し、久し振りの異次元空間を感じた。
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