星となった鉄腕
2007年11月13日朝から信じたくはないニュースが耳に入った。稲尾和久氏が逝去された。享年70歳。
長年病床に臥せっていたのであれば、それなりに心の準備もあるが、ニュースによれば10月末から検査入院をしており、病名も判らないまま病状が激変して急死したとの事である。医学の進歩は日進月歩であるはずなのに、人間の生命をコントロールすることは叶わないのであろう。まして、稲尾氏は神様や仏様と同格までに見られた人物である。
稲尾氏は1956年(昭和31年)、西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に入団し、1年目から21勝6敗・防御率1.06(未だにパリーグ記録)の好成績を挙げ、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得する活躍をした。
※余談ではあるが、実はこの年もう1人の新人が大活躍していた。全試合に出場し、なんと新人で180安打も打った佐々木信也である。佐々木信也といえば、現在フジテレビ系で放送されている「スポルト」の前身番組である「プロ野球ニュース」でキャスターを務めて活躍していた。
稲尾氏はデビューから8年連続20勝以上・2年目からは3年連続30勝以上を挙げ(未だに破られていないし、今後破られることはないであろう)、1961年(昭和36年)にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶ42勝(これも日本記録、絶対に破られない)という途轍もない記録を打ち立てている。現代野球では、先発投手の登板数ですらこの勝ち星を上回ることは絶対にないであろう。日本ハムファイターズのダルビッシュでさえ26登板である。今年の日本プロ野球の先発ピッチャーの最多登板数は30試合前後であろう。この年、稲尾氏は78試合に登板し、25完投(7完封)している。一昨年、阪神タイガースの藤川球児投手が80試合に登板し、稲尾氏の偉大な記録を破ったと話題になったが、その時の投球回数は中継ぎ投手であったため92回1/3であったのに対し、先発・中継ぎ・抑えとフル回転していた稲尾氏は404回も投げぬいたのである。ダルビッシュ投手が投球回数200回を突破して話題になる時代にあって、この数字は天文学的な感じさえする。この年は稲尾氏のキャリアハイであり、最多登板78試合、最多勝利数42勝、最優秀勝率0.750、最多投球回数404回、最多奪三振353個(今年のダルビッシュは210個)、最優秀防御率1.69(今年のダルビッシュは1.82)を記録している。この先破られることがないであろう最多勝利数の日本記録はスタルヒンと分け合った形となっているが、これにも有名な逸話がある。プロ野球の記録は、当時は今ほど重要視されておらず、あいまいなことが多かった。稲尾氏が42勝を挙げた時点での、それまでのスタルヒンの記録は「40勝」と言われていたため、稲尾氏はシーズンの残り数試合を欠場している。後日、記録の整理が成された際に「スタルヒンの勝利数」が40から42に変更されたために「タイ記録」で終わったのである。
何と言っても、この時代の西鉄ライオンズは強かったらしい(私は幼少ゆえに記憶にない)。中西太、豊田泰光、仰木彬、大下弘などの強力な野手陣に加え、鉄腕・稲尾がいたのである。1958年(昭和33年)の巨人との日本シリーズにおける3連敗後の4連勝は有名な話であり、稲尾氏は7試合中6試合に登板(5試合に先発し、4試合を完投)し、3戦以降は5連投して獅子奮迅の活躍を見せ、「神様・仏様・稲尾様」となったのである。
そんな鉄腕・稲尾も、1964年(昭和39年)には肩を故障し、リリーフへと転向して1969年限りで現役引退している。なんと32歳の若さである。現在大リーグに挑戦しようとしている黒田博樹投手と同じ年齢である。この時代に、桑田投手の主治医であるジョーブ博士のような医師がいれば、一体どこまで勝ち星を挙げたのであろう。稲尾氏は実働14年間のうち最初の8年間で234勝を挙げ、残りの6年間はリリーフで42勝を挙げている。
稲尾氏の得意な球種は「スライダー」というのが定説になっていたが、これは情報戦略であり、実は「スライダー」は見せ球であり、最も得意な「シュート」を活かすための吹聴であったのも有名な話である。そして、それを見抜いたのが野村克也(南海・現ソフトバンク)であったのも有名な話。また、対戦成績が悪かった榎本喜八(大毎・現ロッテ)を打ち取るためだけにフォークボールを覚え、榎本以外には投げなかった逸話もある。
現役を引退した後は、西鉄ライオンズの監督に就任したが、「黒い霧事件」や球団の身売りなどの荒波に晒された。ロッテの監督時代の教え子には落合博光もいる。
荒波といえば、稲尾氏の父親は猟師であり、幼い頃から父と一緒に漁に出ていた。この時、小舟で櫓を漕いでいたことが強靭な足腰を作ったとも言われており、「小舟で荒波に出ること」で物事に動じない精神力も鍛えられたと言われている。
テレビの解説者としても活躍していたが、その判りやすく理論立てた論調はファンも多かったであろう。斯く言う私もファンであった。現役時代をほとんど知らない私にとっては「伝説の偉人」であり、まさに「神様・仏様」であった。
長嶋茂雄が脳梗塞で倒れ、王貞治が胃癌に苦しみ、昭和30年代のプロ野球全盛期を支えた偉人たちが、次々と去っていってしまう。寂しい限りである。
稲尾氏のご冥福を祈ると共に、最後に素晴らしいエピソードをひとつ。
稲尾氏は、イニングが終わりマウンドを相手投手に譲る際に、ロージンバックを所定の位置に置き、踏込み足で掘れてしまったマウンドを均していた。このマナーの良さに感銘を受けたライバル・南海ホークスのエース杉浦忠(立教大学で長嶋茂雄と同期)も、以後マネをするようになったのである。
「正々堂々」や「スポーツマンシップ」は当たり前のことであり、人間として自然と出来ることであるはずである。少なくとも、当たり前のことを目の辺りにした際に、気付き自らを改めるのが「スポーツ」であろう。
「相手の嫌がることをやる」ことが全盛の現代野球を、鉄腕・稲尾は空の上からどのように見つめているのであろうか。
合掌。
長年病床に臥せっていたのであれば、それなりに心の準備もあるが、ニュースによれば10月末から検査入院をしており、病名も判らないまま病状が激変して急死したとの事である。医学の進歩は日進月歩であるはずなのに、人間の生命をコントロールすることは叶わないのであろう。まして、稲尾氏は神様や仏様と同格までに見られた人物である。
稲尾氏は1956年(昭和31年)、西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に入団し、1年目から21勝6敗・防御率1.06(未だにパリーグ記録)の好成績を挙げ、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得する活躍をした。
※余談ではあるが、実はこの年もう1人の新人が大活躍していた。全試合に出場し、なんと新人で180安打も打った佐々木信也である。佐々木信也といえば、現在フジテレビ系で放送されている「スポルト」の前身番組である「プロ野球ニュース」でキャスターを務めて活躍していた。
稲尾氏はデビューから8年連続20勝以上・2年目からは3年連続30勝以上を挙げ(未だに破られていないし、今後破られることはないであろう)、1961年(昭和36年)にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶ42勝(これも日本記録、絶対に破られない)という途轍もない記録を打ち立てている。現代野球では、先発投手の登板数ですらこの勝ち星を上回ることは絶対にないであろう。日本ハムファイターズのダルビッシュでさえ26登板である。今年の日本プロ野球の先発ピッチャーの最多登板数は30試合前後であろう。この年、稲尾氏は78試合に登板し、25完投(7完封)している。一昨年、阪神タイガースの藤川球児投手が80試合に登板し、稲尾氏の偉大な記録を破ったと話題になったが、その時の投球回数は中継ぎ投手であったため92回1/3であったのに対し、先発・中継ぎ・抑えとフル回転していた稲尾氏は404回も投げぬいたのである。ダルビッシュ投手が投球回数200回を突破して話題になる時代にあって、この数字は天文学的な感じさえする。この年は稲尾氏のキャリアハイであり、最多登板78試合、最多勝利数42勝、最優秀勝率0.750、最多投球回数404回、最多奪三振353個(今年のダルビッシュは210個)、最優秀防御率1.69(今年のダルビッシュは1.82)を記録している。この先破られることがないであろう最多勝利数の日本記録はスタルヒンと分け合った形となっているが、これにも有名な逸話がある。プロ野球の記録は、当時は今ほど重要視されておらず、あいまいなことが多かった。稲尾氏が42勝を挙げた時点での、それまでのスタルヒンの記録は「40勝」と言われていたため、稲尾氏はシーズンの残り数試合を欠場している。後日、記録の整理が成された際に「スタルヒンの勝利数」が40から42に変更されたために「タイ記録」で終わったのである。
何と言っても、この時代の西鉄ライオンズは強かったらしい(私は幼少ゆえに記憶にない)。中西太、豊田泰光、仰木彬、大下弘などの強力な野手陣に加え、鉄腕・稲尾がいたのである。1958年(昭和33年)の巨人との日本シリーズにおける3連敗後の4連勝は有名な話であり、稲尾氏は7試合中6試合に登板(5試合に先発し、4試合を完投)し、3戦以降は5連投して獅子奮迅の活躍を見せ、「神様・仏様・稲尾様」となったのである。
そんな鉄腕・稲尾も、1964年(昭和39年)には肩を故障し、リリーフへと転向して1969年限りで現役引退している。なんと32歳の若さである。現在大リーグに挑戦しようとしている黒田博樹投手と同じ年齢である。この時代に、桑田投手の主治医であるジョーブ博士のような医師がいれば、一体どこまで勝ち星を挙げたのであろう。稲尾氏は実働14年間のうち最初の8年間で234勝を挙げ、残りの6年間はリリーフで42勝を挙げている。
稲尾氏の得意な球種は「スライダー」というのが定説になっていたが、これは情報戦略であり、実は「スライダー」は見せ球であり、最も得意な「シュート」を活かすための吹聴であったのも有名な話である。そして、それを見抜いたのが野村克也(南海・現ソフトバンク)であったのも有名な話。また、対戦成績が悪かった榎本喜八(大毎・現ロッテ)を打ち取るためだけにフォークボールを覚え、榎本以外には投げなかった逸話もある。
現役を引退した後は、西鉄ライオンズの監督に就任したが、「黒い霧事件」や球団の身売りなどの荒波に晒された。ロッテの監督時代の教え子には落合博光もいる。
荒波といえば、稲尾氏の父親は猟師であり、幼い頃から父と一緒に漁に出ていた。この時、小舟で櫓を漕いでいたことが強靭な足腰を作ったとも言われており、「小舟で荒波に出ること」で物事に動じない精神力も鍛えられたと言われている。
テレビの解説者としても活躍していたが、その判りやすく理論立てた論調はファンも多かったであろう。斯く言う私もファンであった。現役時代をほとんど知らない私にとっては「伝説の偉人」であり、まさに「神様・仏様」であった。
長嶋茂雄が脳梗塞で倒れ、王貞治が胃癌に苦しみ、昭和30年代のプロ野球全盛期を支えた偉人たちが、次々と去っていってしまう。寂しい限りである。
稲尾氏のご冥福を祈ると共に、最後に素晴らしいエピソードをひとつ。
稲尾氏は、イニングが終わりマウンドを相手投手に譲る際に、ロージンバックを所定の位置に置き、踏込み足で掘れてしまったマウンドを均していた。このマナーの良さに感銘を受けたライバル・南海ホークスのエース杉浦忠(立教大学で長嶋茂雄と同期)も、以後マネをするようになったのである。
「正々堂々」や「スポーツマンシップ」は当たり前のことであり、人間として自然と出来ることであるはずである。少なくとも、当たり前のことを目の辺りにした際に、気付き自らを改めるのが「スポーツ」であろう。
「相手の嫌がることをやる」ことが全盛の現代野球を、鉄腕・稲尾は空の上からどのように見つめているのであろうか。
合掌。
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