その他の役割
2007年10月5日試合の中での審判の役割は、それぞれのプレイのジャッジをすることと、ルールの適切な運用をすることである。その他に、用具の点検やグラウンド状態の確認、試合をスムーズに進行することなどがある。
中学シニアでは、メンバー交換の際や両チーム挨拶の際に、選手たちにいくつかのお願い事をしている。
まずは、必ず申し伝えることとして、試合中の「全力疾走」がある。攻守交替時はもちろん、凡退して一塁からダッグアウトまで帰る際などであるが、この行為は試合をスムーズに進行するためであり、強いては試合展開を活気あるものにするためでもある。中学シニアと高校野球の大きな違いは「技術・体力・精神力」は勿論ではあるが、野球への取組姿勢だと感じている。それが、メリハリのある「テキパキ」とした動きが出来るか否かであり、数年先には高校球児となる中学シニアの選手たちにとっては「予行演習」と考えてもらいたいものである。
野球の原点を見つめ直すと、その発祥のスタイルはのんびりとしたものであった。何も無い、広々とした空き地で、一日を費やしてボールゲームに興じていたのである。投手役の選手は、打者が要求したコースへ「打ち易い球」を投げ、そのコース以外に来た時を「ボール」としていた。なかなか打者の求めに応じられない場合は、「9ボール」で一塁が与えられるというルールであったようである。ファウルの定義もなく、バットに当たれば一塁へ走っていた。この「遊戯(ゲーム)」がスポーツへと変化していく際に、色々なルールが整理されていった。その根幹が「時間無制限」を残したままの「時間短縮」であったと思われる。それが「ストライクゾーン」や「ファウルゾーン」などになっていった。野球の試合をする目的は「相手より多くの得点を挙げ勝利すること」であり、それが「最後の打者を打ち取るまでは試合は終わらない」という魅力的なスリリングな場面を産み出すのである。しかし、それもテンポの良いメリハリのある試合内容の場合に感じることであり、最後の場面だけが楽しくても仕方の無いことであろう。
日本のプロ野球では、凡打を打った際に一塁へ全力疾走しないことが当たり前のようになっていた時代があった。下手に全力で走ろうものなら、文句を言われることもあったようである。巨人の長嶋前監督より「曲者」と称された元木大介選手がライト前に痛烈な安打を打った際に、右翼手が「ライトゴロ」を狙って一塁へ好返球をしたことがあった。それにプレイに対し元木選手は憤慨し、大声で怒鳴ったシーンがテレビ中継されたのを記憶している。その時は「なんて無礼な奴だ」と私も思ったが、今思えばその要因を作っていたのは全力疾走を怠った元木選手の走塁にあったのであり、日本のプロ野球における「悪しき不文律」が、そのような態度に表れたのだと思う。大リーグに多くの日本人選手が輩出されるようになり、多くの日本人が本場アメリカ野球に触れる機会が増えた現在では、全力疾走の「当たり前さ」が再認識され、ようやく世界基準に近付きつつある様に感じている。
走者が、打者のシングルヒットで一個の進塁しか許さないルールであった場合、野球はつまらないスポーツになるであろう。「野球盤」でも、もう少し気の効いたルールにできる。
「打者は走者になるために全力を尽くし、走者は得点をするために全力を尽くす」
これは古くから大リーグで引用されており、BASEBALLの戦術のルーツのような言葉である。
最近、日本ではこの言葉が攻撃側の基本となりつつあり、戦術の主流のひとつとなっている。
要は、基本中の基本が大事ということであろう。
攻守交替の際に、私が掛ける「さあ、行きましょう!」という号令に呼応してくれるチームや選手が増えたように感じている。嬉しいことである。
中学シニアでは、メンバー交換の際や両チーム挨拶の際に、選手たちにいくつかのお願い事をしている。
まずは、必ず申し伝えることとして、試合中の「全力疾走」がある。攻守交替時はもちろん、凡退して一塁からダッグアウトまで帰る際などであるが、この行為は試合をスムーズに進行するためであり、強いては試合展開を活気あるものにするためでもある。中学シニアと高校野球の大きな違いは「技術・体力・精神力」は勿論ではあるが、野球への取組姿勢だと感じている。それが、メリハリのある「テキパキ」とした動きが出来るか否かであり、数年先には高校球児となる中学シニアの選手たちにとっては「予行演習」と考えてもらいたいものである。
野球の原点を見つめ直すと、その発祥のスタイルはのんびりとしたものであった。何も無い、広々とした空き地で、一日を費やしてボールゲームに興じていたのである。投手役の選手は、打者が要求したコースへ「打ち易い球」を投げ、そのコース以外に来た時を「ボール」としていた。なかなか打者の求めに応じられない場合は、「9ボール」で一塁が与えられるというルールであったようである。ファウルの定義もなく、バットに当たれば一塁へ走っていた。この「遊戯(ゲーム)」がスポーツへと変化していく際に、色々なルールが整理されていった。その根幹が「時間無制限」を残したままの「時間短縮」であったと思われる。それが「ストライクゾーン」や「ファウルゾーン」などになっていった。野球の試合をする目的は「相手より多くの得点を挙げ勝利すること」であり、それが「最後の打者を打ち取るまでは試合は終わらない」という魅力的なスリリングな場面を産み出すのである。しかし、それもテンポの良いメリハリのある試合内容の場合に感じることであり、最後の場面だけが楽しくても仕方の無いことであろう。
日本のプロ野球では、凡打を打った際に一塁へ全力疾走しないことが当たり前のようになっていた時代があった。下手に全力で走ろうものなら、文句を言われることもあったようである。巨人の長嶋前監督より「曲者」と称された元木大介選手がライト前に痛烈な安打を打った際に、右翼手が「ライトゴロ」を狙って一塁へ好返球をしたことがあった。それにプレイに対し元木選手は憤慨し、大声で怒鳴ったシーンがテレビ中継されたのを記憶している。その時は「なんて無礼な奴だ」と私も思ったが、今思えばその要因を作っていたのは全力疾走を怠った元木選手の走塁にあったのであり、日本のプロ野球における「悪しき不文律」が、そのような態度に表れたのだと思う。大リーグに多くの日本人選手が輩出されるようになり、多くの日本人が本場アメリカ野球に触れる機会が増えた現在では、全力疾走の「当たり前さ」が再認識され、ようやく世界基準に近付きつつある様に感じている。
走者が、打者のシングルヒットで一個の進塁しか許さないルールであった場合、野球はつまらないスポーツになるであろう。「野球盤」でも、もう少し気の効いたルールにできる。
「打者は走者になるために全力を尽くし、走者は得点をするために全力を尽くす」
これは古くから大リーグで引用されており、BASEBALLの戦術のルーツのような言葉である。
最近、日本ではこの言葉が攻撃側の基本となりつつあり、戦術の主流のひとつとなっている。
要は、基本中の基本が大事ということであろう。
攻守交替の際に、私が掛ける「さあ、行きましょう!」という号令に呼応してくれるチームや選手が増えたように感じている。嬉しいことである。
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