魔物もいる
2007年8月24日「野球の神様」を感じることができるのは、勝者やその応援団や、第三者の観客であろう。敗者やその関係者にとっては、神様が悪魔に見えるのであろう。俗に言う「グラウンドには魔物が棲む」という感覚である。
野球は、いろいろなレベルの人間がチームを組み、同じことの無いグラウンドコンディションの中で、風に吹かれ太陽に蒸されながら、そして時には雨と闘いながらゲームを楽しむ。ゆえに、テレビゲームや野球盤などでは、到底表現しきれないプレイが平気で起こる。それも、レベルが下がれば下がるほど珍プレイが続出する。たまに、少年野球の試合などを観戦していると、その微笑ましいばかりの珍プレイに和まされることが多いし、「我愚息も昔はこうだったなぁ」などと思い出に耽っていたりしてしまう。
こんなレベルの試合にも、「野球の神様」と「グラウンドの魔物」は顔を出すのである。一方では喜びを与え、他方では悔しさに引きずり込むのである。誠にややこしい連中である。
その魔物が、審判に災いを及ぼすこともある。ジャッジの迷宮へ引きずり込もうとするのである。特に一試合で100回以上のジャッジをする球審に襲い掛かることがある。
厄介なのは、球審が自分自身に疑念を抱くよう差し向けることである。「さっきの投球は、低いかもしれない」や「あのコースは少し遠いかも」などなど。映画でも見るように、耳元で神様の化身である「白い自分」と悪魔の化身である「黒い自分」が囁くのである。一度疑念を抱きだすとなかなか払拭できずに、淡々と試合は進むのだが、試合自体は非常に長い感じるものである。
巷では、ある試合のジャッジを巡り不毛な論議が交わされている。それは敗軍の将である監督が、敗戦の要因を球審のジャッジに向けるという暴言を吐いたことに始まるのだが、私はよく「驕らない勝者と潔い敗者」という言葉を口にする。私は多少なりともラグビーの経験があるが、肉弾戦のラグビーの素晴らしさは「ノーサイド」の精神にあると思っている。試合が終われば、敵味方なく讃えあう精神こそがスポーツの原点であるように思う。まして、野球は「プレイボール」で始まる「ゲーム」である。勝ったことで鼻高々となったり、負けたことを誰かのせいにしたりなどは、最も恥ずべきことであろう。
何より、問題となったジャッジは「ストライク・ボール」の話である。こんなことにイチャモンを付けていたら、小学生に笑われるであろう。小学生は自分の目の前を通過した投球を「ストライク」と言われ、半ベソを掻きながらでも審判に文句は言わない(泣くことが抗議なのであろうが)。
あの投球は、確かに「ストライク」臭かったが、それを「ボール」と言われるべく理由があった。第一に、試合当初より低目は採っていたが、あれが「低目ギリギリ」だったのだろう。第二に、あの回好投を続けていた投手は連続安打とストレートの四球で明らかに動揺し、あの投球前後は「腕の振りが鈍かった」。
勝ちを意識した瞬間に「魔物」が好投手を襲ったのであろう。俗に言う「置きにいった投球」は伸びを欠き、「低目ギリギリ」からお辞儀して見えたのであろう。恐らく、「これはストライクとは言えない」という想いが頭を巡り、頭を小さく振りながらの「ボール」のコールであったのだと思う。
あのジャッジは、いろいろなレベルの試合で良くあることであり、取り立てて議論する事象ではない。何と言っても、「審判員の判定」であるのであるから。
野球は、いろいろなレベルの人間がチームを組み、同じことの無いグラウンドコンディションの中で、風に吹かれ太陽に蒸されながら、そして時には雨と闘いながらゲームを楽しむ。ゆえに、テレビゲームや野球盤などでは、到底表現しきれないプレイが平気で起こる。それも、レベルが下がれば下がるほど珍プレイが続出する。たまに、少年野球の試合などを観戦していると、その微笑ましいばかりの珍プレイに和まされることが多いし、「我愚息も昔はこうだったなぁ」などと思い出に耽っていたりしてしまう。
こんなレベルの試合にも、「野球の神様」と「グラウンドの魔物」は顔を出すのである。一方では喜びを与え、他方では悔しさに引きずり込むのである。誠にややこしい連中である。
その魔物が、審判に災いを及ぼすこともある。ジャッジの迷宮へ引きずり込もうとするのである。特に一試合で100回以上のジャッジをする球審に襲い掛かることがある。
厄介なのは、球審が自分自身に疑念を抱くよう差し向けることである。「さっきの投球は、低いかもしれない」や「あのコースは少し遠いかも」などなど。映画でも見るように、耳元で神様の化身である「白い自分」と悪魔の化身である「黒い自分」が囁くのである。一度疑念を抱きだすとなかなか払拭できずに、淡々と試合は進むのだが、試合自体は非常に長い感じるものである。
巷では、ある試合のジャッジを巡り不毛な論議が交わされている。それは敗軍の将である監督が、敗戦の要因を球審のジャッジに向けるという暴言を吐いたことに始まるのだが、私はよく「驕らない勝者と潔い敗者」という言葉を口にする。私は多少なりともラグビーの経験があるが、肉弾戦のラグビーの素晴らしさは「ノーサイド」の精神にあると思っている。試合が終われば、敵味方なく讃えあう精神こそがスポーツの原点であるように思う。まして、野球は「プレイボール」で始まる「ゲーム」である。勝ったことで鼻高々となったり、負けたことを誰かのせいにしたりなどは、最も恥ずべきことであろう。
何より、問題となったジャッジは「ストライク・ボール」の話である。こんなことにイチャモンを付けていたら、小学生に笑われるであろう。小学生は自分の目の前を通過した投球を「ストライク」と言われ、半ベソを掻きながらでも審判に文句は言わない(泣くことが抗議なのであろうが)。
あの投球は、確かに「ストライク」臭かったが、それを「ボール」と言われるべく理由があった。第一に、試合当初より低目は採っていたが、あれが「低目ギリギリ」だったのだろう。第二に、あの回好投を続けていた投手は連続安打とストレートの四球で明らかに動揺し、あの投球前後は「腕の振りが鈍かった」。
勝ちを意識した瞬間に「魔物」が好投手を襲ったのであろう。俗に言う「置きにいった投球」は伸びを欠き、「低目ギリギリ」からお辞儀して見えたのであろう。恐らく、「これはストライクとは言えない」という想いが頭を巡り、頭を小さく振りながらの「ボール」のコールであったのだと思う。
あのジャッジは、いろいろなレベルの試合で良くあることであり、取り立てて議論する事象ではない。何と言っても、「審判員の判定」であるのであるから。
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