野球の神様
2007年8月23日今年の高校野球は、春先から特待問題で揺れたが、結局は夏の甲子園大会を制したのは、「特待制度」とは無縁の県立高校の佐賀北高等学校であったのは象徴的というよりも、究極の皮肉と感じた。
佐賀北高のあまりにも劇的な勝利に酔いしれて、高校野球の根幹を揺るがした問題、それのきっかけとなった西武ライオンズの裏金問題などは風化しているように思われるが、野球に関係する老若男女は「臭いものには蓋をしろ」や「他人の噂も七十五日」などの感覚を捨て、スポーツとしての「野球」を模索してほしいものである。
佐賀北高を見ていると、北海道にも同じようなプレイスタイルの高校がありそうであり、「身近さ」を感じる感覚としては、駒大苫小牧の全国制覇よりもインパクトが強く、正に希望を感じさせるチームであった。
決勝戦では観ていて鳥肌が立ち感涙しそうになったが、それにしても今大会は「ミラクル」や「奇跡」などの言葉が新聞紙上を賑わすに相応しい大会であり、それを具現化していたのが佐賀北高校であった。こんな試合展開は、漫画でも見たことがないと思われるゲーム進行が随所にあり、野球の多面的な可能性を強く認識させられた大会であった。
決勝戦などは「ドカベン」の山田太郎か岩鬼にしかなし得ないような、逆転満塁本塁打が出てしまうのであるから、「野球の神様」が書き下ろす脚本はあまりにも漫画チックであり、あまりにも劇的であり、そしてあまりにも純粋である。あの満塁本塁打を打った「打者」と打たれた「投手」の明暗、その心の浮き沈みの大きさに対する責任までも、十分に計算ずくのストーリーであるように思う。
いつも思うのだが、「野球の神様」はあのような大舞台にのみ降臨してくるのであろうか。実は、野球が行われている球場やグラウンドには必ずいると感じている。いつも、選手たちの一挙手一投足を観ては満足したり、怒ったりしながら、何かの指標を持って選手に点数を付けているように思う。その指標は、個人個人の技術であったり、精神的な強さであったり、声の大きさであったり・・・・。そして、最も重視しているのが「野球への真摯な取り組み姿勢と懸命さ」ではないだろうか。
私が所属する中学シニアの試合に立ち会う度に、最近強くそれを感じる。技術的に優れ、体力的にも圧倒しているチームが勝つのは当たり前に思われるが、それでも試合では少なからず波乱がある。勝敗は予想通りでも、それに至る試合経過で「ドキッ」とさせられたり、「アレレ」と思わせられたりすることが非常に多い。
試合に立ち会う審判員は公正でなくてはならないが、そこは人間、ある程度の腹づもりをして球場へ向かう。試合展開や試合時間などを想定してしまうのは、まだまだ甘いと言われるかもしれないが、そこは修行中ということで勘弁願いたい。
ところが、その予想を大きく覆すようなゲーム展開が少なくない。というよりも、予想どおりいく方がレアケースであると言える。つまり、単純な戦力比較などは、試合をやる上ではほとんど役に立たないということであろう。例えば、どんなに防御率の良い投手でも、大量失点をすることも当然ある。打者の打率にしても、自分の得意なタイプの投手ばかりと対戦していれば高打率になるのは当たり前である。そこに見たこともない投球フォームの投手が現れると、慣れる前に試合が終わってしまう。
そこに「野球の神様」のスパイスの効いたストーリーが加わるのであるから、予想するのがアホらしくなるような展開が頻繁に現れるのは無理のないことかもしれない。
だから審判は、「野球の神様」のなせる業を堪能しつつ、それを傍観するようにジャッジに集中することが良いのであろう。審判のジャッジの善し悪しも、すべて「野球の神様」はお見通しなのであるから、「自分の精一杯のジャッジさえしていれば良い」と達観している。
佐賀北高のあまりにも劇的な勝利に酔いしれて、高校野球の根幹を揺るがした問題、それのきっかけとなった西武ライオンズの裏金問題などは風化しているように思われるが、野球に関係する老若男女は「臭いものには蓋をしろ」や「他人の噂も七十五日」などの感覚を捨て、スポーツとしての「野球」を模索してほしいものである。
佐賀北高を見ていると、北海道にも同じようなプレイスタイルの高校がありそうであり、「身近さ」を感じる感覚としては、駒大苫小牧の全国制覇よりもインパクトが強く、正に希望を感じさせるチームであった。
決勝戦では観ていて鳥肌が立ち感涙しそうになったが、それにしても今大会は「ミラクル」や「奇跡」などの言葉が新聞紙上を賑わすに相応しい大会であり、それを具現化していたのが佐賀北高校であった。こんな試合展開は、漫画でも見たことがないと思われるゲーム進行が随所にあり、野球の多面的な可能性を強く認識させられた大会であった。
決勝戦などは「ドカベン」の山田太郎か岩鬼にしかなし得ないような、逆転満塁本塁打が出てしまうのであるから、「野球の神様」が書き下ろす脚本はあまりにも漫画チックであり、あまりにも劇的であり、そしてあまりにも純粋である。あの満塁本塁打を打った「打者」と打たれた「投手」の明暗、その心の浮き沈みの大きさに対する責任までも、十分に計算ずくのストーリーであるように思う。
いつも思うのだが、「野球の神様」はあのような大舞台にのみ降臨してくるのであろうか。実は、野球が行われている球場やグラウンドには必ずいると感じている。いつも、選手たちの一挙手一投足を観ては満足したり、怒ったりしながら、何かの指標を持って選手に点数を付けているように思う。その指標は、個人個人の技術であったり、精神的な強さであったり、声の大きさであったり・・・・。そして、最も重視しているのが「野球への真摯な取り組み姿勢と懸命さ」ではないだろうか。
私が所属する中学シニアの試合に立ち会う度に、最近強くそれを感じる。技術的に優れ、体力的にも圧倒しているチームが勝つのは当たり前に思われるが、それでも試合では少なからず波乱がある。勝敗は予想通りでも、それに至る試合経過で「ドキッ」とさせられたり、「アレレ」と思わせられたりすることが非常に多い。
試合に立ち会う審判員は公正でなくてはならないが、そこは人間、ある程度の腹づもりをして球場へ向かう。試合展開や試合時間などを想定してしまうのは、まだまだ甘いと言われるかもしれないが、そこは修行中ということで勘弁願いたい。
ところが、その予想を大きく覆すようなゲーム展開が少なくない。というよりも、予想どおりいく方がレアケースであると言える。つまり、単純な戦力比較などは、試合をやる上ではほとんど役に立たないということであろう。例えば、どんなに防御率の良い投手でも、大量失点をすることも当然ある。打者の打率にしても、自分の得意なタイプの投手ばかりと対戦していれば高打率になるのは当たり前である。そこに見たこともない投球フォームの投手が現れると、慣れる前に試合が終わってしまう。
そこに「野球の神様」のスパイスの効いたストーリーが加わるのであるから、予想するのがアホらしくなるような展開が頻繁に現れるのは無理のないことかもしれない。
だから審判は、「野球の神様」のなせる業を堪能しつつ、それを傍観するようにジャッジに集中することが良いのであろう。審判のジャッジの善し悪しも、すべて「野球の神様」はお見通しなのであるから、「自分の精一杯のジャッジさえしていれば良い」と達観している。
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