頃合い
2007年6月27日ルールブックを読み漁り、隅々まで勉強をしようなどと考えていると、どうしても頭が固くなってくる。ある意味で、意固地になってくる。野球のルールは、ゲームを公平にスムーズに進行させるために考えられまとめられたものであり、ルールが初めにあってベースボールというゲームができた訳ではない。初めは、色々なローカルルールが存在していたのであろうが、それをある程度の共通項を取捨選択して整理されてきたのであろう。創成期は合法であったプレイも、ある時からイリーガルなプレイとして扱われるようになったことを繰り返し、積み上げて、現在のオフィシャル・ベースボール・ルールとなったのである。
昔は、スピッドボールという変化球があった。投手自身も、その変化には驚きながら投げていた変化球である。この変化球は、現在のルールブックでは「反則投球」として、はっきりと名指しで記載されている。この変化球の正体は、ボールに唾液をつける行為により変化させる投球であり、今では立派なイリーガル投球として「退場処分」の対象となる行為である。
シニアでも、口元に手が行く選手を多く見かける。大リーグの松坂投手や岡島投手が、手を舐めているシーンがテレビに映し出されているため、真似をする投手が多いのであろう。ルール上は、投手が口元に手をやった場合、まずは警告を与え、ボールを交換する。それでも行為を止めない場合は、当該投手を試合から除くこととなっている。つまり「退場処分」である。今では、選手としての資格を失うほどの行為が、創成期には合法であったのである。野球のルールは、時代により大きく様変わりをしながら変化を続けている。それは進歩でもなければ、後退でもないのであろう。その時代のニーズに合致したルールであれば、その時代で一番面白い野球を堪能できるのである。
そういう意味では、我々審判員もルールブックにがんじがらめに拘束されるのではなく、良い意味での「適当さ」を持って、各プレイに当るべきであろう。
実際に、同じプレイをやっても、10人が10人同じ判定を下すとは限らない。ストライクゾーンが良い例である。ど真ん中の投球でも、見る角度やその日の体調、その日の気分によっては真ん中に見えないものである。ましてや、打者によって範囲が変化する高低などは厳密に見ようとする方が無茶であろう。あくまで、ルールの大枠の中で、ゲームを楽しむような「余裕」が審判員にも必要であるように感じている。
私も年間何試合かは、ジャッジをしていて「楽しい」と感じる試合がある。このような試合は、内容も充実している場合がほとんどである。それは結果的にでも、スコア的にでもなく、単に一つ一つのプレイに「楽しさ」を感じるのである。
そんな試合は、ジャッジも良い意味で「適当」な状態である。決してそれは、ルールブックにがんじがらめに縛られたものではなく、ある「頃合い」でジャッジしているのであろう。
中学シニアでは、ルールの前段階のマナーやモラルを指導していくのも審判員の役割のように思えてきた。
何度言っても直らないことを、毎試合・毎試合、その理由も添えてクドクドと選手に諭している。初めは、「どうしてこんな事も知らないのか」と憤慨していたが、最近は免疫ができてきた。
こんな事にも「頃合い」を見つけたように思う。
本音は「あまり丸くはなりたくない」ではあるのだが・・・・。
昔は、スピッドボールという変化球があった。投手自身も、その変化には驚きながら投げていた変化球である。この変化球は、現在のルールブックでは「反則投球」として、はっきりと名指しで記載されている。この変化球の正体は、ボールに唾液をつける行為により変化させる投球であり、今では立派なイリーガル投球として「退場処分」の対象となる行為である。
シニアでも、口元に手が行く選手を多く見かける。大リーグの松坂投手や岡島投手が、手を舐めているシーンがテレビに映し出されているため、真似をする投手が多いのであろう。ルール上は、投手が口元に手をやった場合、まずは警告を与え、ボールを交換する。それでも行為を止めない場合は、当該投手を試合から除くこととなっている。つまり「退場処分」である。今では、選手としての資格を失うほどの行為が、創成期には合法であったのである。野球のルールは、時代により大きく様変わりをしながら変化を続けている。それは進歩でもなければ、後退でもないのであろう。その時代のニーズに合致したルールであれば、その時代で一番面白い野球を堪能できるのである。
そういう意味では、我々審判員もルールブックにがんじがらめに拘束されるのではなく、良い意味での「適当さ」を持って、各プレイに当るべきであろう。
実際に、同じプレイをやっても、10人が10人同じ判定を下すとは限らない。ストライクゾーンが良い例である。ど真ん中の投球でも、見る角度やその日の体調、その日の気分によっては真ん中に見えないものである。ましてや、打者によって範囲が変化する高低などは厳密に見ようとする方が無茶であろう。あくまで、ルールの大枠の中で、ゲームを楽しむような「余裕」が審判員にも必要であるように感じている。
私も年間何試合かは、ジャッジをしていて「楽しい」と感じる試合がある。このような試合は、内容も充実している場合がほとんどである。それは結果的にでも、スコア的にでもなく、単に一つ一つのプレイに「楽しさ」を感じるのである。
そんな試合は、ジャッジも良い意味で「適当」な状態である。決してそれは、ルールブックにがんじがらめに縛られたものではなく、ある「頃合い」でジャッジしているのであろう。
中学シニアでは、ルールの前段階のマナーやモラルを指導していくのも審判員の役割のように思えてきた。
何度言っても直らないことを、毎試合・毎試合、その理由も添えてクドクドと選手に諭している。初めは、「どうしてこんな事も知らないのか」と憤慨していたが、最近は免疫ができてきた。
こんな事にも「頃合い」を見つけたように思う。
本音は「あまり丸くはなりたくない」ではあるのだが・・・・。
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