捻じ曲げられた解釈―投手板と軸足―
2007年6月21日今年のルール改正の中で、「プロ」と「アマチュア」で解釈の違う項目がある。そのひとつが、「投手板における軸足の位置」である。従来のルールは、「軸足は投手板の幅から出ないように位置する」であった。つまり、投手板の中につま先から踵までがスッポリは入ることが義務付けられていた。ところが今年の改正により、「プロ」は「軸足の一部が投手板の一部に触れていれば良い」という解釈で運用するのである。一方、「アマチュア野球」では従来とおりとするという分かりやすい運用をすることとなっている。
問題は「プロ」と「アマチュア」のルール解釈の温度差である。これは「2段モーション」の時もあった、馬鹿げた押し問答が始まるキッカケを作ってしまった。プロ側の解釈はマスコミで大々的に扱われる。まるで、日本中の野球のルールが変更となったように。アマチュア側は動揺する。あくまでも「プロ野球では」という注釈がついていながら動揺するのである。
そこで、審判講習会などで質問が出る。「投手板から、軸足はどの程度出て良いのですか?」。愚問である。ルールブックには「板の幅の中」に「軸足」を入れろと書いてあるにも拘らず、愚問が飛び出す。そこで、講師のベテラン審判員は「そんなに目くじら立てずに、多少はOKでしょう」と応える。それを聞いた指導者は「投手板から軸足が出ても良い」と勝手に拡大解釈してしまうのである。その先にあるのが、「じゃあ、どこまで出ても良くて、どこ以上は駄目なのか」という不毛な議論になる。正にナンセンスである。
投手の投球モーションや牽制モーションなどを科学の力を借りて分析したら、不正投球やボークの山が築けるであろう。がしかし、そんなことをしても仕方がないのである。それは、人間の目を持った「審判員の目」により判定を下し、ゲームを進めることが大原則になっているからであり、そこにはビデオ再生などが入り込む余地は全くない。だから「誤審はあり得ない」のである。
審判が下した判定が最終であり、それが「人間のプレイを人間がジャッジする」野球の醍醐味であるはずである。
「アマチュア野球」では、従来どおりルールブックに則り、「投手の軸足は投手板の幅の中に納める」ことに変わりない。ただし、「ちょっとでも出たら駄目」「勢いで出た場合はどうする」などという重箱の隅を突付いたような解釈をしないという「申し合わせ」があるということであって、決して「軸足が投手版を出て良い」という解釈をしてはならないと私は考えるが、読者諸氏は如何に考えられるだろうか。
要は「ルールブックは素直に読もう」ということである。決してルールの「裏や狭間」を狙ったプレイを「したりさせたり」しないことである。
こんなことを、学校の先生でもあるはずの高校野球の監督さんが、素人審判員に指摘されるようでは、一体何が「教育の一環」なのかと寒気がする。
「ルールの裏」を突くことが「教育」であるならば、そんな「指導」は一切ご勘弁願いたいものである。団体スポーツはモラルハザードが幅を効かす。大勢の人間が関わるから、ベーシックな部分の共通項が必要となるのである。その重要な部分で履き違えがあると、違うスポーツとなってしまうのである。「指導」は必ずしも正しい方向へコーチする(導く)ものでないが、せめて「学校」と名のつく場ではそうあって欲しいものである。
野球を楽しい「スポーツ」に進化させるには、まずはモラルとマナーを守り、ルールに従うことだと思うのだが。
問題は「プロ」と「アマチュア」のルール解釈の温度差である。これは「2段モーション」の時もあった、馬鹿げた押し問答が始まるキッカケを作ってしまった。プロ側の解釈はマスコミで大々的に扱われる。まるで、日本中の野球のルールが変更となったように。アマチュア側は動揺する。あくまでも「プロ野球では」という注釈がついていながら動揺するのである。
そこで、審判講習会などで質問が出る。「投手板から、軸足はどの程度出て良いのですか?」。愚問である。ルールブックには「板の幅の中」に「軸足」を入れろと書いてあるにも拘らず、愚問が飛び出す。そこで、講師のベテラン審判員は「そんなに目くじら立てずに、多少はOKでしょう」と応える。それを聞いた指導者は「投手板から軸足が出ても良い」と勝手に拡大解釈してしまうのである。その先にあるのが、「じゃあ、どこまで出ても良くて、どこ以上は駄目なのか」という不毛な議論になる。正にナンセンスである。
投手の投球モーションや牽制モーションなどを科学の力を借りて分析したら、不正投球やボークの山が築けるであろう。がしかし、そんなことをしても仕方がないのである。それは、人間の目を持った「審判員の目」により判定を下し、ゲームを進めることが大原則になっているからであり、そこにはビデオ再生などが入り込む余地は全くない。だから「誤審はあり得ない」のである。
審判が下した判定が最終であり、それが「人間のプレイを人間がジャッジする」野球の醍醐味であるはずである。
「アマチュア野球」では、従来どおりルールブックに則り、「投手の軸足は投手板の幅の中に納める」ことに変わりない。ただし、「ちょっとでも出たら駄目」「勢いで出た場合はどうする」などという重箱の隅を突付いたような解釈をしないという「申し合わせ」があるということであって、決して「軸足が投手版を出て良い」という解釈をしてはならないと私は考えるが、読者諸氏は如何に考えられるだろうか。
要は「ルールブックは素直に読もう」ということである。決してルールの「裏や狭間」を狙ったプレイを「したりさせたり」しないことである。
こんなことを、学校の先生でもあるはずの高校野球の監督さんが、素人審判員に指摘されるようでは、一体何が「教育の一環」なのかと寒気がする。
「ルールの裏」を突くことが「教育」であるならば、そんな「指導」は一切ご勘弁願いたいものである。団体スポーツはモラルハザードが幅を効かす。大勢の人間が関わるから、ベーシックな部分の共通項が必要となるのである。その重要な部分で履き違えがあると、違うスポーツとなってしまうのである。「指導」は必ずしも正しい方向へコーチする(導く)ものでないが、せめて「学校」と名のつく場ではそうあって欲しいものである。
野球を楽しい「スポーツ」に進化させるには、まずはモラルとマナーを守り、ルールに従うことだと思うのだが。
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