死球

2007年5月29日
球審をやっていると、ボールが吾身を直撃することが時折ある。『非常に痛い』が格好悪いので、何とか我慢しようとする。攻守交替のインターバルまで我慢して、こっそりと冷却スプレーを噴いてもらったりする。
日曜日の試合では、ファウルボールがワンバウンドして右手の甲を直撃した。今も腫れていて『痛い』。年を重ねると治りが遅く、痛いまま翌週を迎えることもある。
土曜日の試合では、3度の死球があり、なんとすべて同じ選手が被災した。そのうち、腰の辺りへの死球はカーブのすっぽ抜けであったが、頭部への2度の死球はストレートがヘルメットをかすめた。先日も、試合開始の第一球が頭部への死球であった。
投手はインサイドを攻めなければ、打者の駆け引きには勝てないことは理解できる。投手の配球パターンの基本は『インハイ〜アウトロー』である。決め球はリスクの少ない『アウトロー』が多くなるため、『インハイ』は見せ球となることが多い。『打者を起こしてから、アウトローで勝負』がオーソドックスな配球である。しかし、シニアクラスの技術で『インハイ』を攻めるのは、非常に危険である。それは投手の技術もさることながら、打者の技術も未熟なためである。投手は「投球のコントロール」が未熟であり、打者は「身のこなしのコントロール」が未熟である。つまり、打者が「避ける技術」を身につけていないということである。人間は危険を予知すると、身を守るために反射的に危険から避けようとする動作をするはずである。にも拘らず、打者が死球を避けようとする動きが非常に鈍い。
頭部への死球は、まさに『死のボール』である。絶対に避けなければならない。投手はコントロールに絶対的な自信を持ってから『インハイ』に投げるべきであり、そうでない場合はベース板の半分より外側で勝負せざる得ないであろう。そうやっても、抜けたり、引っ掛けたりでインコースに散らばってくるはずである。そのような不確定な投手のコントロールから身を守るのが、打者の身のこなしである。
昔、長嶋茂雄は投手と相対する時に「二つの球筋をイメージした」という話は有名である。ひとつはベース板上に来る「絶好球」であり、もうひとつは頭部を直撃する「死球」である。あの「卓越した動物的勘」の長嶋茂雄でさえも、準備万端でバッタースボックスに入り、投手と相対していたのである。
日本の野球には「ぶつかってでも出塁しろ」という、訳の分からない指導が横行している。こんな教えを有難く拝聴していた純真な少年たちは、「死球により、喜んで一塁へ走る」のである。だから、インコースに投じられたボールに対して、反射的に避けるのではなく、反射的に当りに来る打者さえいる始末である。
硬式野球を決してなめてはいけない。死球により選手生命を短くした選手も多く、正に「死のボール」となることも十分に考えられるのである。避けられる危険は絶対に避けるべきであり、そんなことをするためにバッタースボックスに入るわけではないであろう。変に根性のある選手が、このような危険な状態を回避せずに「甘んじて受ける」という過ちに陥っている。
今、私の教え子が頭部に投球を受けて入院している。頭蓋骨陥没である。幸い大事には至っていないが、一報を受けた時は全身の血の気が引いた。スポーツをやっている以上は怪我を恐れるわけにはいかないが、「避けられる危険を甘んじて受ける行為」がいかに愚かなことかを理解してほしいものだ。
それにしても頭部に死球を受けた後、選手をベンチへ一旦下がるように促すと、決まって「大丈夫」ですという応えが返ってくる。また、ベンチに「臨時代走をお願いします」と伝えると、「大丈夫だろう?」という驚くべき応えが帰ってくる時もある。
いやはや、これでは「死球を避ける技術」の伝承が、いつかは途絶えるように感じてしまうのは私だけであろうか。

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